松 浦 武 四 郎


普通の民家に見えますね。
ところが史跡にしていされています。





郵便受けも取り付けられ生活の匂いがします。
しかし、格子窓には木の看板が取り付けられています。
「松浦武四郎誕生地」と記されています。
ご存知でしょうか?

幕末の人で北海道の名付け親として知られ、
三重県では偉人と言われております。
看板の名前の上にも「北海道の名付け親」とひとまわり小さく記されています。

国道23号線を松坂を津に向かって走ると案内板も表示されています。
所在地は松阪市小野江町。





碑も建てられ「三雲村指定史跡、松浦武四郎誕生地」と記されています。
三雲村は現在では松阪市と合併し、市の一部となっています。

建物は旧伊勢街道に面し、伊勢特有の妻入りつくり、
格子窓がつき、軒には目隠しをかねた「がんぎ」と呼ばれるひさしが付いています。
言い伝えでは築170年以上と言われるそうです。





誕生地から徒歩で10分のところには記念館が建てられています。
重要文化財1503点、三重県有形文化財223点、いずれも歴史資料が収蔵されています。
催し物に応じて展示が変えられるようです。

館内展示場はすべて撮影禁止になっています。
どんなものが収蔵されているのかパンフレットから拾いました。
勝手に掲載していいのかな?

パンフレットは松浦武四郎記念館発行の「松浦武四郎記念館所蔵 松浦武四郎 関係資料」




松浦家は紀州藩の郷士として代々仕え、苗字、帯刀が許された裕福な家で、
この家の四男として武四郎は生まれています。
七歳から近くのお寺で学び、十三歳のとき文政のおかげ参りが起こり、
旅人が家の前の街道を行き交いました。
当時の日本の人口は3000万人といわれますが、文政13年には500万人の人がおかげ参りをしたそうです。
近くに雲出川が流れており川止めになることもあり近くの旅籠に多くの旅人が宿泊し、
色々な話も聞き刺激も受けたと思われます。
十六歳で江戸への旅、以後四国、九州、対馬へ。そして朝鮮へ渡ろうとしたそうです。
二十九歳で蝦夷地へ旅立ちます。
旅では克明な記録を残しています。


当時はロシアの南下があり蝦夷への関心がありました。
三度の蝦夷調査の記録を残しています。
江戸で評判になり、水戸藩を通じて幕府へも献上されました。





蝦夷地の調査から幕末の志士と呼ばれる吉田松陰、頼山陽の息子・三樹三郎、水戸藩の儒学者藤田東湖とも交流。
攘夷の勅令を求める密書と志士たちの海防に関わる献策を携え朝廷に届けていますが、
この時の松蔭筆の紹介状が残っています。
三樹三郎とは、一日のうちに武四郎が百の印、三樹三郎は百の詩を作り「一日百印百詩」を残しています。
東湖からは蝦夷調査の江戸出発時に餞別として和歌が贈られています。





外国船来航時には下田に出かけここでも記録を残しています。





開国後幕府は武四郎に蝦夷地の調査を命じています。
六回に渡り調査を行いその記録は152巻にももぼっています。
アイヌ民族の人口が激減している実態も調べ、幕府への調査報告書の中で、
第一にやるべきことは、アイヌ民族の命と文化を守ることであることを訴えています。

調査にあたり武四郎が残した調査メモです。

詳細な地図も残しています。
東西蝦夷山川地理取調図です。
縦が2m40cm、横が3m60cmになるそうです。





また、蝦夷地の地理のみならず、動植物、アイヌ民族の文化を細かく紹介することにも努めています。
そして江戸時代からの商人たちによるアイヌの人びとが酷使される実態も訴えています。





明治に入り蝦夷地に代わる新しい名称を考えることになった武四郎は6案を提出。
「北加伊道」が採用され字は「北海道」に改められました。
このため北海道の名付け親と言われるようになりました。

また、大久保利通の推挙で政府に登用されています。
しかし、開拓史が置かれ長官、次官に次ぐ開拓判官に任ぜられますが、
北海道の開発をめぐり反発し半年で辞職しています。
アイヌの人々が安心して暮らすことが出来るよう、
松前藩役人たちの支配、悪徳商人の排除を訴えましたが聞き入れられなかったそうです。

大久保利通や木戸孝允などからの書簡が残っています。

晩年は趣味に生きたそうです。
七十一歳でなくなっています。

旅行家、探検家、作家、出版者、学者色々な才能を持った武四郎・六十五歳(明治15年)の写真です。




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