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最後に

 斎王とは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神を祭るために選ばれた未婚の皇族女性で、
天皇に代わって伊勢神宮の天照大神を祭るために遣わされたといわれます。
 また、”斎宮”の規模は天皇の住居京都御苑の約半分の面積という広大な敷地で
そしてそこに働く役人は500人以上で、造りも調度品も食事もほとんど都と変わらない様子だと思われます。
 それ程までにしていったのは、いったいどんな目的があったんだろうかと?

斎王を決めるのに占いをもって決めていた。まだまだ国家の重要事項を決めるのに神官?の影響力が強かったのか?
または、伊勢神宮を尊ばせ天皇制の権威の高揚にあったのか? はたまた純粋な信仰のためなのか?

 古くは、伊勢神宮起源伝承で広く知られる倭姫命(やまとひめのみこと)などの斎王もいますが
制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、
制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続いています。
 やはり天皇制の栄枯盛衰を映しているようにも見えます。


  再現された伊勢神宮の正殿です。
スイッチを押すと斎王の儀式で行う様子が再現されました。
斎王が伊勢神宮の祭りに参加するのは9月の神嘗祭と6月と12月の月次祭(つきなみのまつり)で、
宮司から大玉串と呼ばれる榊の枝に麻の繊維をつけたものを受け取り、
瑞垣御門の前の西側に立てるのが主な役目で直接神に奉げることは別な人の役目でした。

途中、物忌とか命婦(みょうぶ)とかが登場しましたが定かではありません。
  使用された輿で屋根の上に葱坊主の形をした飾りがついています。皇族の限られた人に許された輿だそうです。 名称はは記した通りですが何と読むのかチェックしてきませんでした。
葱華輦
 写真は順に三進、四進、五進の高杯です。
一進で酒・塩・醤・酢、二進でご飯、三進で鯛、鱸(ススキ)、鯉の膾(なます:さしみ)、鰒熱汁(あわびあつじる)、
寒汁鯉味噌、サザエの焼き物、鯛の平焼、零余子焼(ぬかごやき:切り身を竹串に刺して焼いたもの・鮭など)、
四進では焼烏賊(イカの焼き物)、楚割(すはやり:魚肉を細長く切って干したもの)、蒸鰒、干鳥(キジなどの干し物)、
五進ではマガリ(唐菓子)、ブド(唐菓子)、蓮の実、桃、小柑子(みかん)、栗、まくわうり、すもも、
六進では塩辛や和え物、七進で酒杯、八進では水椀だったそうです。

斎宮の最盛期には東は常陸の国、西は近江の国から必要なものを集めていたといわれているそうです。
 斎宮に献納された食材はほとんどが保存食ですが、
魚介類、果物、揚げ菓子などもと想像されています。
この展示は祝宴のときのもで一進から八進まであります。
斎王は箸をつける程度で、下げくだしたようです。
次は食事についてです
左の写真は左から唐櫃、唐櫛笥、ゆする杯というそうです。
 唐櫃は脚が4本または6本のかぶせぶたのついた方形で大形の箱、衣服や、図書・甲冑などを入れたそうです。
端午の節句の兜を入れているものに見られますよね。
 唐櫛笥は大小二つの箱を二段重ねにして鷺脚の台の上に載せています。
男性貴族が使ったものと言われ、小さな箱に櫛、大きな箱に冠を入れていたとされます。
 ゆずる杯はゆずる(米のとぎ汁)を入れるもので、髪を梳くときに使われました。
髪を伸ばす効果があると信じられていたそうです。

 右の写真は餌袋(えぶくろ)。
もともとは、鷹狩りに際して携行した鷹のえさや獲物を収める竹かごなどの容器をさしましたが、 後には弁当などを入れて携行したそうで、えふごともいわれるそうです。
調度品も紹介されていました。いずれも実際に使われていたものではなく復元されたもの。
 根こじ鏡台と檜扇です。
根こじ鏡台は茎の柱の上に鏡が懸けられています。
根こじとは根が付いたまま引き抜いた草木のことをいうそうで形が似ているからでしょうね。
 
 扇はうちわを改良したもので、10世紀ころに作られました。
平安時代にはヒノキの薄皮を重ねて綴り合わせた冬用の檜扇と、
紙を貼った夏用の蝙蝠(かわほり)扇があったそうです。
 斎王の御殿の原寸大模型です。
正面上には御簾見えます。斎王は畳に座り、後ろに屏風、そして周りには燭台、脇息、二階棚が置かれています。
 面白いのは御帳台の前の入口に、右に獅子、左に狛犬が置かれています。
色んな平安時代の物語の中でも描かれていますが、やはり鬼魅よけみたいです。

 屋根は檜皮葺だったのでは推定されています。
発掘調査を始めてから瓦の出土はまだ百数十点でしかも破片ばかり。で瓦葺ではなかったのではと。
 また、屋根に瓦を葺くというのは仏教とともに伝わった外来文化で、
日本の神に仕える斎王の住まいには使いたくない、伊勢神宮にも使われていない、ことからもうかがえるそうです。
建物には檜皮葺、萱葺、板葺が使われていたと推測しているそうです。

 もう一つ、礎石がないことも特徴だそうです。
礎石がない掘立柱建物で柱が腐りやすそうです。
これも伊勢神宮をまねたものか、恒久的な建物である必要がなかったからか、と。
 斎王御殿復元模型です。
斎王の座と御帳台だそうです。御帳台の内部は斎王の寝所で斎王は白ずくめの室礼の中で寝ていたとか。
室礼とは平安時代の寝殿造では母屋・廂に御簾・壁代・屏風・几帳・障子などの調度品をもって間仕切として、
多くの部屋をつくって用いた。このように各種の調度品で間仕切をすることを室礼というそうです。

 いずれにいても現代のような壁もなくよく過ごせたものだと感心する。
風も吹くだろうし、台風だって、冬の寒さも。

 
 
別れのお櫛
 斎王制度は分かっているだけでも飛鳥時代から南北朝時代にかけての660年の間に、
五十人超える斎王たちが平城京や平安京から旅立ちました。
 斎宮まで5泊六日の旅で、途中は頓宮という仮説の宮を作って宿泊し、
500人を超える人々が付き従ったといわれます。
この華麗な一行を人々は「群行(ぐんこう)」と呼んだそうです。
 しかしながら、決して楽な旅ではなかったようです。

 伊勢に入る道は近江の国の勢多、甲賀、垂水、伊勢の国の鈴鹿、一志で泊まったそうです。
逆に、天皇の譲位により任を解かれ都に帰るときは往路を同じ道を帰りましたが、
 天皇が亡くなったり、斎王の肉親に不幸があったときは伊勢、伊賀、大和、山城の国、
そして木津川から淀川を下り難波津(大阪)へ。そこで禊を行なった後京へ入ったそうです。

 斎王は、天皇が即位すると占いにより決められ、世間から切り離された生活を送り、
お籠りをし、禊を行いました。旅立ちまで足掛け3年間におよんだそうです。
旅立ちにあたっては天皇が「都の方におもむきたもうな」と声をかけ斎王の額髪に櫛をさします。
これが「別れのお櫛」とよばれる儀式だそうです。

  建物正面から振り返ると、「歴史の道」と呼ばれる通りがあります。
今の時期だけなのか分かりませんがあまりぱっとした風景でもありませんでした。

 何があるかというと、ご覧のような歌碑が24本設けられています。
歌をまとめて表示している立て看板がありました。
やはり、ずぼらな人のためなのですかねえ〜 それとも時間のない人のためかな?


 最初の二つの歌を下記に紹介します。
  斎宮歴史博物館の様子です。
晴れ間も見えましたが雲が流れ寒い日でした。

 一年でも最も寒い時期なのでやむをえませんね。
とはいっても雪が降ったり積もったりしませんから暖かいところと言わなければなりませんね。

斎 王 歴 史 博 物 館