大 垣 散 策
大垣市は岐阜県第二の都市です。
西に伊吹山を望み、冬には伊吹おろしが吹き雪も積もることがあります。
麓には関ヶ原があり、大垣も関ヶ原の戦いに関係しています。
東には鵜飼で有名な岐阜市があり、南下すると名古屋に至ります。
また私にとっては思い出深い地でもあり、
中学校の同窓会があり始めて出席いたしました。
というわけで大垣を散策する機会を得ました。

通りは駅前通りで奥に大垣駅が見えます
私たいたころとは違い、全く新しい建屋に変わっていました。

駅前のロータリーです。
ベンチも設けられ休息している人も見受けられました。
古くからここには金蝶園やつちやといった大垣名物を売る店がありましたが、
現在も健在でした。
金蝶園では水まんじゅう、つちやは竹の容器に入れられた柿羊羹が有名です。
大垣は「水の都」と呼ばれ地下水が湧き、柿の産地としても知られていました。

駅前通りの様子です。
駅前はよくシャッター街と呼ばれるところもありますが、まだまだ元気でした。
百貨店の「たまこし」はずいぶん大きくなっていました。
小さい頃から眼鏡をかけていましたので当時利用した「宝月堂」も。

駅から少し歩くと水門川、いこ井の泉に出くわします。
昔と比べると格段に整備されています。

八幡さんと呼ばれる八幡神社。
毎年、5月に八幡神社の祭礼の大垣祭りが行われます。
江戸時代初期にはじまったとされます。
駅前通り、そして駅前通りから八幡さんに至る道には露店がいっぱい並んでいたことを思い出します。
学校もいつもより早く終わったように記憶しています。
山車が何台だったか忘れましたが各町内から引き出され、市内を廻ったものです。
宵宮も行われ提灯をつけた山車が川沿いに並んだものです。
たぶん今でも変わっていないと思っていますが、?です。
もうい一度見たいものだと思っています。

神社の本殿。
大垣は中世には大井荘と呼ばれ、東大寺領。その東大寺の鎮守を勧請して建てられたのが最初とか。

石碑には「大垣の湧水」と表示されています。
境内にある自噴の井戸です。
水まんじゅうでも紹介しましたし、街中でもみられた通りです。
私の住んでいたころは一般家庭でもこの様な井戸がありました。
また、水を多く使用したのでしょうか多くの紡績会社が存在しました。
もう、ないようですが。

これも境内にある「さざれ石」。
以前、猿田彦神社でも見られたものです。
これも岐阜県揖斐郡春日村産のものだそうです。
地名は変わっているのではと思います。平成の合併が行われていますから。
君が代にも歌われているあの石で、縁起がいい石と云われるそうです。

境内社の天満宮と大福稲荷神社。

石碑には廣瀬神社と龍田神社と併記されています。
広瀬大神は、水神であると言われ、風神である龍田大神とは深い関係にあると言われている事から合祀。
境内社にはほかにも出雲大社、竜神社がありました。
これらの境内社の記憶は定かではありません。

八幡神社から駅前通りに向かう道沿いの水門川。

駅から、そして八幡さんからも5分とかからないところにあります。
この門は初めて見るもので、昔はありませんでした。
隅櫓も再現されています。

天守閣。
明治に生き残り国宝となっていましたが、昭和20年の空襲で焼失、再建されたお城です。
外観はかわっていませんが、内部はすっかりきれいになり、展示も新しくなっていました。
関ヶ原の戦いのときには石田三成が当初本陣を置いていますし、東軍による攻撃も受けています。
また、市内で「杭瀬川の戦い」も起きています。
島左近の作戦により行われ、小競り合い程度だったのかもしれませんが西軍が勝利しています。

入った門とは反対側の広場から眺めています。
天守手前の櫓は以前はありませんでした。
私のいたころから相当整備されていました。
昔は天守の石垣が直截見え、登った? ような記憶もあります。

戸田氏鉄の騎馬像と金森吉次郎の像。
氏鉄の像は新しく作られたもので初めて見ました。
氏鉄は徳川家の譜代家臣で、これまで大垣城城主は安定しませんでしたが、
氏鉄以降、戸田家が明治維新まで続きました。
大垣発展の基礎を築いたのかな?
吉次郎の像は昔から存在しました。
明治29年、1896年大洪水となり天守の石垣まで浸かったそうで、
さらなる被害を防ぐため、大垣輪中の水を抜くため下流で揖斐川堤防を切り、
水を本流に戻したそうです。

天守閣から眺めた西の様子です。
山並みの中央より少し右寄りの窪んだあたりが関ヶ原で、
左の少し小高い所が南宮山で動かなかった毛利軍が陣を置いたところです。
窪みから右になだらかなところから高くなっているところに小さく伊吹山。
関ヶ原の戦いの舞台です。

市内の西にある工場です。
左の写真の左の建物は「イビデン」、右が「日本合成化学」。
イビデンは昔揖斐川電工と言っていたと思います。
合成化学は昔とほとんど変わっていないと思いますが、イビデンは様変わりしていました。
イビデンは電子機器関連製品を手掛けるようになり大きく発展し、
株価も3000円に達したようにも記憶しています。
同じような会社でしたが今では大分差があるように感じました。

船町と呼ばれる街にやってきました。
その名の通り港がありました。港と言っても河港です。
江戸時代から明治にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ重要な交通手段となっていたそうで、
大正時代には蒸気船も桑名まで就航したそうです。
その後、鉄道などの発達で衰退していったそうです。
写真は四季の広場と呼ばれるところです。

通路の横にはこのような水の流れも。

川は水門川で、両岸は桜の木が植えられています。
きっと素晴らしい眺めを見せることだと思います。
サクラの季節にはたらい舟も出され、川から桜を見ることもできるとか。

歩道も整備されています。

ここはまた奥の細道むすびの地でもあり、芭蕉の像が設けられています。
芭蕉もここから船で桑名に下りました。

すぐそばに句碑もありましたが読み取れませんでした。
また、投句することが出来るようにもなっていました。
この前に奥の細道むすびの地記念館がありましたが省略してしまいました。

船町港にあった住吉燈台。
最初は江戸の元禄の時に作られたそうです。

燈台のの下には川船が係留されていました。

左は道標です。
左側には「右 京みち」、右側には「左 江戸道」と刻まれています。
その上には梵字で旅人の安全を願う文字が刻まれています。
右の写真は道路わきに設けられた小さな水の流れ。

ここからは私事で訪れたところです。
いずれもわが母校です。
道路側の小学校の校舎とその正面。
大垣市立東小学校の文字が見えます。
正面の入口はあったと思いますがこれだけの長さはなかったように思います。
この前に紡績がありましたが今は大型ショッピングセンターに変わっていました。
当時は学校に講堂がなかったため紡績の講堂を借りて学校行事が行われました。

運動場側の校舎です。耐震工事が施されているようです。
この校舎ではなく当時は木造の2階建て校舎だったと思います。
今では考えられませんがこの校舎の前に競輪場が後から造られました。
授業中、競輪場から最終周回を告げる鐘の音が聞こえ、
時には選手が加速するため高い所に上がると走っている姿が見えたものです。
今でも競輪場は残っていました。どうなんでしょうか?
運動場には立派な土俵がありました。
ちょとした驚きです。

大垣市立東中学校の正面です。
左側の校舎は当時と変わっていないと思います。
当時、東海一のモデルスクールと呼ばれていたように記憶します。
建物のことで、残念ながら内容ではありません。

運動場側にも回ってみました。
中央の校舎は増築されていますし、講堂も建てられ立派になっていました。
全体として色々整備され川も、観光施設も、町全体がきれいになったと思いました。
今は停滞したような世の中になっていますが、高度成長期もありましたので、
よくなっているところもあって当然とも思います。
一方で、取り残されているように見える町や市もあり残念でなりません。