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北塩原村、裏磐梯の歴史と文化 2006.10.07開設 文責 会津古城研究会 会長 石田明夫
戦国時代の東北南部
戦国時代は、全国的に戦乱が続いた時代で、東北地方においても同じでした。とくに、東北南部では、会津と中通り
中南部を支配した葦名(あしな)氏と、福島県中通り北部と山形県米沢地方を支配した伊達氏の2代勢力に集約されて いきます。
葦名氏16代の盛氏(もりうじ)は、上杉謙信、武田信玄と同時代の人物で、東北一の勢力を誇っていました。葦名盛
氏は、福島県南会津郡の金山町や昭和村一帯を支配していた山内氏や南会津町田島の長沼氏を支配下に置き、中 通り地方を武力征服し、一方では、白河の結城氏へ弘治元年(1555)に娘を嫁がせたり、自分は伊達晴宗の妹を娶り、 永禄元年(1558)に子の盛興に伊達氏から嫁を娶る約束をするなど、政略結婚などで伊達氏や結城氏との同盟関係を 強化していました。
中通り南部では、茨城県常陸太田の佐竹氏が侵攻を狙っており、盛氏は永禄3年(1560)以降たびたび佐竹氏と合
戦を繰り返していいます。また盛氏は、信玄と呼応して永禄7年(1564)越後に進攻し上杉氏を攻め、また小田原の北条 氏政との同盟関係を結び、関東へもたびたび出兵していました。
盛氏と伊達晴宗は、一方安達郡などの領地をめぐり対立し、永禄7年に、晴宗は二本松城の畠山氏を攻めていま
す。そのような中で、晴宗は、永禄7年4月12日に陽動策戦を取り、桧原へ進攻するものの、桧原峠で待ち構えていた 穴沢俊恒らの働きで散々な目に遭い退却しています。そのようなことがあり、葦名氏は、穴沢氏に命じ桧原の北西の 戸山に戸山城を築きます。永禄8年(1565)には、伊達晴宗から家督を継いだ輝宗も、同年7月17日に再び桧原に進攻 し、戸山城を北側背後の堀切方面から攻めますが、穴沢氏が大防戦し落城することは無かったとされています。
葦名氏・穴澤氏・伊達氏系図
葦名氏 16代盛氏−盛興−盛隆−亀王丸−義広
穴沢氏 3代俊直−俊恒―――俊光―――俊次
伊達氏 15代晴宗――輝宗―政宗―――――忠宗
桧原峠の戦い
伊達方との合戦のようすは『檜原戦物語』に次のよう書かれています。永禄7年4月12日(この日は、葦名盛氏の山
城、向羽黒山城が完成した日であり、その日に合わせて伊達勢が侵攻しています)伊達の進攻を察知した桧原の穴澤 俊恒は、桧原峠に空掘を掘り、その下の斜面に大木を切り倒して枝を下に向けた逆茂木(さかもぎ)を並べ、物見を置 き、騎馬17人、総勢480余人で待ち構えていました。それとは知らずに、伊達勢は、騎馬200人、総勢1,4〜500人で攻め て来ましたが、峠から一斉に大木や弓で攻撃され、多くが谷に落ちています。伊達勢は173人が亡くなり、穴沢氏の大 勝利となりました。
戸山城築城
伊達勢の侵攻を受けて穴沢俊恒は、伊達勢のの再攻撃に備え、桧原村の北西にある戸山に城を築くことになったの
です。戸山城の西と南の山裾は、桧原川が流れる岩場で険しいことから南東を正面の追(大)手にし、一族の者を女性 も含め常時交替で詰めることにしたのです。
戸山城は、桧原の山神社裏から、北西の尾根を登ること約40分、標高1,037mの外山山頂にあります。湖底にあった
桧原村の館とは比高差が約230mある要害の地です。北側の尾根には、尾根をV字状に深く切り落した「堀切」(ほりき り)3ヶ所で防御し、南側の斜面は、長さ約70mの横堀(横に掘られた空堀)と、土塁が二重に造られ、南東に大手口の 土塁を設け、斜面途中に水ノ手(水場)を確保していました。中心部の曲輪(くるわ)は、三日月状に幅約5mに削平され た平場(ひらば)が馬蹄形に8段造られています。平場や土塁には柵が巡らされ、中心の曲輪には2階建て以上の櫓が 置かれていました。
(熊の冬眠した穴が戸山城の入口付近にあります。十分注意してください。熊に遭ったら騒がず、ゆっくりと下がってくだ
さい。)
戸山城防戦
永禄8年(1565)7月17日の明け方、戸山城の北側尾根、堀切から伊達勢約800人で不意に攻められます。『檜原戦物
語』によると、城内には、盆にあたることから、わずかに20人と女房どもが合わせて約30人が居ただけでしたが、大防 戦し、桧原からの応援部隊も加わり、敵味方入り乱れ、双方それぞれ約70人が討ち死しましたが、落城はしませんでし た。
岩山城築城
戸山城合戦後、城の背後、尾根から攻められると弱いことが分かったので、永禄8年(1565)戸山城は破却され、新た
に桧原の南側の堂場山(湖上の半島)に、籠城戦用の詰め城として岩山城を築城しました。岩山城は『檜原戦物語』 に、北を敵国に向けて追(大)手に定め、道を乾(いぬい、北西)より廻し、弓手(搦手・からめて、裏口)は会津盆地の 大塩方面への道。妻手(つまて、退却路)は猪苗代道としたとあります。城跡は、大きく3ヶ所に分かれ、現在堂場山ハ イキングコースとなり遊歩道が、土塁を通り、堀跡、平場が残されています。つまり、戸山城は、永禄7〜8年という極め て短期間に使用された山城で、年代を特定できる大規模な城として貴重な存在なのです。
(ここにはカモシカが生息しています。カモシカは、おとなしい牛科の動物です。)
一ノ渡合戦
永禄9年(1566)1月『檜原戦物語』に、伊達勢は負け続きであったことから、不意の攻撃を考え、通常合戦をしない雪
深い時期に攻めてきます。村人が集まる二十三夜信仰の日を狙い、翌日の未明、約千人で桧原の町はずれの家に火 をつけ襲ってきます。一族は、一時岩山城へ逃げます。穴沢俊恒、俊光らが大活躍し、敵の側面を襲い、伊達勢は一 ノ渡で約300人が極寒の川に落ち、合計約530人を討取ったとしています。(このときの一ノ渡の場所は金山付近)
葦名氏の混迷と柏木城築城
永禄9年(1566)、葦名盛氏と伊達輝宗は和睦をし、葦名氏と伊達氏との戦いはしばらく無く、盛氏は東北一強大な力
を誇示し、福島県の半分以上を支配下に治めます。
天正3年(1575)に盛氏の子、盛興(もりおき)が死去すると、隠居していた盛氏は、伊達晴宗の娘を養女とし、須賀川二
階堂氏から人質にとっていた盛隆(もりたか)を婿にして葦名家を継がせます。しかし、天正8年(1580)に盛氏が死去。天 正12年(1584)10月6日、盛隆が、家来の大庭三左衛門に黒川城中の御殿縁側で殺されます。その後、盛隆の子亀王 (若)丸が2歳で葦名家を継ぎますが葦名家中は混乱を続けていました。
天正12年(1584)葦名氏は、伊達氏と対立するようになり、佐竹氏との接近を図るようになります。葦名氏は、桧原方
面の要であった北塩原村役場裏にある綱取城を大改修するだけでなく、新たに、大塩に巨大な守りの城として柏木城 を築城します。柏木城は、大塩温泉の南側に位置し、大塩集落との比高差は約110mの山城。城跡は、東西約1,100m 南北約500m、面積約50haという東西方向に長く築かれた守りの城です。城跡は、中心の主郭部分と、それを取巻くい くつかの曲輪(くるわ)群、石積の石垣、土塁、堀跡など武田氏の残党を会津に呼び寄せ、甲州流の技術を取り入れ、 当時の最新技術で、葦名氏が総力を挙げて築いた巨大な山城なのです。
葦名氏は、本拠地の黒川(現若松)に、政治の場として黒川城(現若松城)があり、最後の砦となる山城は向羽黒山
城(会津美里町本郷)を持っていました。その向羽黒山城と同規模で、鉄砲に備えた石積石垣が随所に取り入れられ、 武田信玄の技法である丸馬出しなどもあり、若松城以前に築かれた戦国時代の城では、東北一の石垣の城となりまし た。
城は、大塩郵便局の南側斜面が正面の大手口で、中心部の曲輪は土塁と石積石垣で囲まれています。内側には、
さらに石塁で囲まれている部分もあります。東側土塁上には、櫓台があります。北東部分には、一部石積された内桝 形の虎口があります。また、横矢掛りも見られ、曲輪間は、空堀で区画され、木の橋が西側と東側に架けられ、埋門が 設けられていました。城の南側は、自然地形を利用した幅20mから50mの水堀跡があります。『会津旧事雑考』には、 天正12年(1584)に築き、周辺の武士150騎と、三瓶大蔵が守備に当たらせたとあります。(総勢約3500人が常駐して いたと考えられます)東側には、中曲輪群があり、3段から4段の平場が北に面し、南に水堀があります。北には土塁 の外構(そとがまえ)が約500mと、石積石垣の外構が約200m続いています。さらに東側には、自然地形を利用した高 さ5m前後の石張りの土塁が約120mあり、石積石垣と平場があり、高さ約4mの虎口があります。東端は国道459号 線近くまで連続し、やや大きめの平場群で構成されています。
この城は、伊達輝宗や政宗に対抗するための防衛拠点の守りの城で、石垣や桝形など関東や信州、遠くは安土城
の技法を取入れ、当時の先端技術を駆使して築かれた城なのです。
天正13年(1585)5月には政宗が檜原城を築き、会津侵攻の前線基地としたため、ますます柏木城の重要性が増し、
天正17年(1589)6月の摺上原の戦いまで改修は続いていました。天正17年に、伊達家臣原田氏がこの城に入ったとき は空であったとされ、焼けた痕跡があることから、火を付けて退却したと考えられます。以後、改修の手が入らず、文禄 4年(1595)の豊臣秀吉よる諸城の破却令によって完全に消滅したとみられます。
桧原の風呂屋襲撃と岩山城落城
柏木城が築かれた天正12年(1584)10月には、伊達輝宗が隠居し、家督を政宗に譲っています。政宗は、血縁関係
の深い葦名氏が、佐竹氏に取られたくないと思っていたことや、会津の金(とくに最も近い金山は「桧原金山」でした)や 豊かな産物を目当てに、会津侵攻を決意します。そして、桧原方面と中通りから南下政策をとります。また、武力だけ でなく、家臣を内部から抱込む政策も取ります。桧原方面の合戦では、穴沢俊光にはかなわないという米沢領綱木の 遠藤一族の意見を取り入れた政宗は、俊光の従弟四郎兵衛を抱き込むことに成功します。『檜原戦物語』によると天 正12年11月26日、風呂屋が桧原に来て、穴沢一族が遊興することを四郎兵衛から聞いた正宗は、約1,500人で奇襲を します。当時の風呂は、一般化しない特別なもので、サウナのような臨時的なものでした。そのため、芝居もあり料理も 出された一大娯楽であり、一族は、酒を交わし、なかには裸の者もいて、無防備に近く、そこを政宗は襲ったのです。 風呂屋は、猪苗代道に小屋が建てられていたことから、すぐに岩山城からの応援部隊が下ったものの、政宗は鉄砲や 弓で待ち構え、穴沢一族の多くが討ち死しました。穴沢一族は、退路の大塩方面の道も塞がれ、行き場を失い、一族 は、館に立て籠もり、女と子どもまで奮戦したものの雨のように鉄砲と弓、火が放され、一族は力尽き、堀の近くに枕を 並べて討ち死にとう悲惨なありさまでした。穴沢俊光と父俊恒も自害。武士は、斉藤と横見の二人だけが生き残ったと いうありさまでした。一族の穴沢俊光の子俊次は、北条氏の居城、小田原へ視察に行っていたため助かり、12月2日に 戻ったものの惨劇さにただ涙するばかりであったという。残った穴沢一族は、大塩の柏木城に入りました。
伊達政宗、桧原城を築く
桧原を手に入れた政宗は、天正13年(1585)、小谷山に桧原城を築城しました。現在の桧原湖北岸、標高954mの小
谷山山頂に中心の曲輪があり、山麓と湖水に外構(そとがまえ、外堀)の土塁と堀が290mあります。土塁は、高さ1m から2m残り、湖内に続いています。城は、湖水面からの比高差が約130mあり、土塁、空堀と掘切、二重の虎口が設 けられていますが、石垣はありません。
葦名氏の鹿垣築城
葦名氏は、伊達政宗の会津盆地進攻に備え、天正13年5月に萱峠に鹿垣を築きます。峠には今でも長さ163m、高さ
7mの土塁があります。政宗は、天正13年5月12日、まだ完成しない桧原城と穴沢俊光のいた館を拠点とし、葦名氏家 臣で松本一族の関柴備中を見方に付け、喜多方の北方と桧原方面の同時に進攻します。大雨と鹿垣を守っていた兵 の防戦、関柴氏との連絡不足による進攻日の1日違いにより、桧原からは進攻することができず、政宗は進軍を取り やめ、桧原城に帰ります。一方の関柴方面では、葦名勢が伊達勢を撃退し、政宗の作戦は失敗します。
穴沢一族の善七郎は、6月14日、桧原に潜入し、政宗が馬場で馬上にいたところを弓で襲いましたが、失敗し、大塩
へ帰っています。政宗は桧原に54日間居ました。その後、桧原城には、天正17年(1589)6月5日の摺上原の戦いまで 城番として後藤孫兵衛を置いていました。
さいごに
戦国時代、全国的に鉄砲の導入に伴う合戦の変化や織田信長・豊臣秀吉という新たな勢力拡大に伴う城郭の堅固
化、城下町の変化、目まぐるしい築城技術の進歩がありました。葦名氏は、東北地方では、中央よりやや遅れながら も、天正8年(1580)8月6日には、信長のいる安土城へ荒井万五郎を派遣し、親交を深めています。関東では群馬県太 田市の金山城や、武田信玄の信州や甲府の城から築城技法を学び、会津美里町本郷の向羽黒山城や北塩原村の柏 木城を代表として、いち早く石垣を築くという変化が現れてきます。東北地方の戦国時代では、北塩原村の桧原の戸山 城、桧原城、大塩の柏木城、北山の綱取城など、年代も特定できる当時の大規模な城跡がいくつも存在する地域は他 にありません。城跡の遺構は、大変貴重であり、先人の苦労が伺えます。
文責 石田明夫
参考文献
「檜原戦物語」『会津資料叢書上巻』歴史図書社
石田明夫「葦名氏・伊達氏の中世城館跡」『福島考古40号』福島県考古学会
石田明夫「東北南部における戦国期の城館跡」『福島考古42号』福島県考古学会
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