北塩原村、裏磐梯の歴史と文化 2006.10.07開設 文責 会津古城研究会 会長 石田明夫   

裏磐梯、北塩原村の城
桧原城
戸山城
岩山城

東北を代表する裏磐梯・北塩原村の山城
 東北地方南部は、戦国時代になると、2大勢力に集約されていきます。会津と中通り中南部を領する葦名(あしな)氏
と、県北と米沢地方を領する伊達氏です。なかでも葦名盛氏と伊達政宗は良く知られた人物です。活躍した時期は、盛
氏の方が早く、盛氏は甲斐の武田信玄と親交もあり、越後の上杉謙信とも同時代の人物です。葦名家と伊達家は、相
互に協力し姻戚関係になっていましたが、盛氏以後、葦名家の世継ぎ騒動により、内部が混乱し、葦名家では、養子
を伊達家から入れるか常陸の佐竹家にするかで分かれ、織田・豊臣氏の親交のある佐竹氏より盛隆が入ることにな
り、佐竹氏の影響が強くなります。そのため、伊達氏は、会津を攻撃するようになります。天正13年(1585)には、桧原
峠を越えて、裏磐梯へ進攻し、一方は喜多方の関柴へ侵攻しますが、関柴では、葦名氏の抵抗により伊達方は敗北し
ますが、桧原では政宗の指揮もあり、葦名氏配下の穴沢氏を攻め、岩山城で皆殺しにします。桧原は、金山があり、伊
達政宗としても手中にしたかった場所でした。その後は、葦名氏の防御があり、会津へ攻めることも出来ませんでし
た。しかし、天正17年(1589)、政宗は猪苗代城主の盛国を見方に付け、母成峠から猪苗代城へ入り、6月5日、磐梯山
麓で葦名義広と摺上原(すりあげはら)で合戦となります。葦名義広方は、この日だけで2500人が戦死し、伊達政宗の
勝利で幕を閉じ、400年間続いた葦名氏の会津支配は終了します。
 両氏の境界付近には、領地の支配だけでなく、特別に戦争をする目的や金山を支配する城郭が造られます。それら
は境目の城と呼ばれ、攻める方や守る方があります。緊張した場所にあり、金山の支配もあったことから築城に関して
は、双方とも当時の先端の技法を取入れて築いています。戦国時代は、全国的に鉄砲の導入に伴う合戦の変化や織
田信長・豊臣秀吉という勢力拡大に伴い城郭の堅固化、城下町の整備と、目まぐるしい築城技術の変化がありまし
た。とくに葦名氏は、東北地方では、中央よりやや遅れながらも、安土城や関東地方の金山城、武田信玄の信州や甲
府の城から築城技法を学び、会津美里町本郷の向羽黒山城を改修し、北塩原村の柏木城を築き、東北地方に無かっ
た石垣の築城技術を取り入れ城郭の構造にも大きな変化が現れてきます。最も異なるのは、石垣の出現です。東北
地方では、石垣を導入するのが、葦名氏が最初で、天正12年(1584)頃です。次いで、石垣を導入したのは岩城の上
遠野氏のようです。伊達氏は、葦名氏より約5年遅れて、石垣を導入しているようです。現在、東北地方には、蒲生氏
郷が築城した近世城郭以前の戦国時代に石垣を持つ城は、福島県の南部を中心に約40存在しています。そのころの
城は、若松城のような天守閣が存在しないことから、石垣も直径1mを越えるような巨大な石は使用しませんが、柏木
城のように、100m以上にわたり、高さ3mで築かれたのが存在しています。戦国時代の城館は、各村々に存在し、平
坦地には小規模な館。山間部には、小規模な館と山城がセットで築かれています。町単位には、中規模な平城や山城
が築かれ、さらに領主になると、大規模な城と最後の砦となる山城を築いています。
 裏磐梯は、葦名氏と伊達氏の緊張した場所にあることから、葦名氏の戸山城、柏木城、綱取城、伊達政宗の桧原城
とも250mを超える大規模なものです。葦名氏は石垣の技術を取り入れ、伊達政宗は石垣は無いものの複雑な虎口
(入口)でもって当時の築城技術を駆使しています。 
柏木城
萱峠鹿垣
桧原城外構
 裏磐梯から大塩へ抜ける村道の萱峠には、天正13年(1585)に葦名氏が防御に築いた防塁の鹿垣や、桧原城にあ
る外堀にあたる外構などの遺構も築かれています。さらには、天正13年に穴沢氏が政宗に攻められ討ち死にした岩山
城が桧原湖に半島状に突き出た堂場山の先端にあります。裏磐梯・北塩原村にある山城は、大規模で、保存状態も
良く、文献と比較し築城年代を絞り込むことができるため、築城技法を知る上でも貴重です

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