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北塩原村、裏磐梯の歴史と文化 2006.10.07開設 文責 会津古城研究会 会長 石田明夫
米沢街道とは
福島県会津若松と山形県米沢を結ぶ会津五街道の一つ。会津では米沢街道、米沢では会津街道と呼んでいまし
た。
古くからの街道で、古代では、会津の大戸窯の須恵器が米沢に運ばれています。戦国時代、葦名氏家臣穴沢氏と伊
達氏との激戦場となっています。
現在、米沢へは、スカイバレー、または、喜多方市から大峠を通り楽に行けますが、江戸時代、旧121号国道の大峠
ルートは、天正13年(1585)に伊達政宗が北方侵攻時に開設した道で、険しく主要街道ではありませんでした。会津藩 編さん『家世実紀』の寛文九年(1669)の記録に米沢街道の整備記録があります。明治15年(1882)福島県令三島通庸 は、三方道路と称し旧大峠を整備し、主要街道になりました。スカイバレーは、旧米沢街道の東にあり、昭和49年 (1974)に開設されました。
支配地の一つ木流周辺から米を桧原へ運ぶためわざと木流を通りました。江戸時代、桧原金山の整備に木流の住
民が協力しています。
若松から熊倉までは、3ルートありました。
1 若松から熊野堂を通る街道。
2 若松から木流(会津若松市)を通る街道。これは、桧原の穴沢氏と深い関係があります。木流の肝煎は、代々穴沢
氏であり、桧原の穴沢一族です。また、南に位置する沼木には、穴沢一族の菊地氏が住んでいました。
3 若松から森代、塩川を通る街道。
江戸時代では、塩川ルートがメインでした。
熊倉から大塩の間には、関屋の樟と、大塩の八丁壇に一里塚が築かれましたが、どちらも道路工事で片方だけとな
っています。
今も残る萱峠の米沢街道
米沢街道の熊倉から先には、大塩、桧原の二つの宿場がありました。大塩は、会津藩が大塩川に架かる大塩橋を
渡った場所には塩井があり、そこから山塩を採っていました。
大塩橋を渡ると猪苗代道と米沢道へ分かれます。分かれ道の温泉神社階段入口には、文化8年(1811)に建てられ
た道標があります。
分かれ道の西側には、中島氏の末裔で検断を勤めた穴沢氏の屋敷跡があり、会津藩が御触れ出した高札場があり
ました。向かいの階段を上ると、温泉神社があります。
街道を進むと水田が広がり、若松からは六里(約24`)の場所に大塩の一里塚が街道北側の林の中にあります。こ
の付近は、塩の生産で薪を切り出したことから原野となったため萱峠と呼びます。さらに進むと、村道の北側に樹齢 500年の大きな松並木が残る米沢街道があります。松には、殿様松と呼ぶ根の大きなものがあります。萱峠の村道上 には茶屋がありました。南と西に面し土塁が回り20b四方の広さがあります。戦国時代、桧原と大塩をつなぐ狼煙の中 継基地となりました。
萱峠 鹿垣
天正12年(1584)10月、家督を継いだ伊達政宗は、葦名盛隆が家臣に惨殺されたのをチャンスと捉え、会津侵攻を決
意します。11月26日、桧原湖の堂場山の岩山城を攻め、穴沢一族を皆殺しにして、桧原を占領します。天正13年4月上 旬、政宗は米沢より人夫を呼び寄せ小谷山に桧原城を築き始めます。政宗は、『新編会津風土記』によると、入田付 に旧大峠の道を新たに開き、関柴の松本備中らを葦名氏から反逆させ、新田、原田の家臣が北方を攻めさせ、自分 は柏木城を攻める計画を立てます。そこで穴沢、中島、三瓶、伊藤の各氏は、力を合わせ鹿垣と呼ぶ防塁を萱峠に造 りました。 鹿垣(ししがき)跡
『檜原軍物語』には
「萱峠ノ以往ナル切所ニ 鹿垣ヲ結セ モノミヲ差置イテ 出陣ヲ告サセ 其レヨリ此方ナル節所ニ 大木ヲ輪伐置大
石ヲ集メ 置 其外ノマツマリニモ 木石ヲ集メ置テ」
と防御を固めています。政宗は、5月12日この峠に向け進攻を開始。
柏木城には、伊東(藤)氏を置き、萱峠に三瓶氏を配置、穴沢氏は所々に隠し、鉄砲と弓で政宗勢に向け一斉攻撃を
します。石や木材も上から落とし、進攻できず引き帰したのです。
鹿垣は、標高850b付近の村道脇にあります。東に直線的に長さ約163b現存し、東へ低くなりながら大塩川岸まで
続いています。北側は沢が大塩川に向って鹿垣に並行し高さ20bの堀状となっています。
鹿垣と猪と猪苗代
全国的には、猪垣と書かれ、猪よけの土塁や石塁を意味しています。しかし、会津は、ほとんど猪が棲んでいませ
ん。猪は、足が短く、豪雪の会津では生活することが出来ないからです。
会津では、猪苗代と猪の字を使用しているのがあります。それは「イ」とは「井」で水、「ナワ」は「均す」=「奈良」で平、
「シロ」は「代」で高い、を意味します。つまり「高い平らな所にある湖」を指すもので、大和言葉です。その発音に当て字 したものが猪苗代です。
発音は同じにして、会津に棲んでいるカモシカ(鹿)を防ぐようなものに置きかえ「鹿垣」と書かれています。鹿垣は敵
を防ぐための土塁があり、その外側には堀や沢を設け、峠などに造られた戦略上の防御施設です。
一ノ渡戸古戦場
小塩川を渡る所が一ノ渡戸があります。『新編会津風土記』に天正14(1586)年4月、穴沢廣次が一族を率いて桧原
城の後藤孫兵衛を攻め、敗走と見せかけ、この場所まで引き返し、待ち構えて挟み撃ちにしたという。
『檜原戦物語』では、穴沢新十郎ら百姓を含む120人余が堂場山の西に隠れ、穴沢善七郎ら180人余が正面から桧
原城を攻めたといいます。10日早朝、城正面の木戸(大手門)を弓で攻め、伊達方は鉄砲で応戦、三度押しあいとなり ます。伊達方は驚き、500人が城内から打って出たという。そして、穴沢氏を追いかけましたが、堂場山近くに潜んでい た加勢に挟み撃ちされ50人余が亡くなったという。穴沢氏の死傷者は10人余という。
米沢街道の中間、中ノ七里
中ノ七里の地名は、若松と米沢からそれぞれ七里の中間に位置することから付けられています。今では集落も無く、
一里塚も消滅しています。
山賊が隠れていた物見岩
文明年間(1469〜87)文太郎を首領とする山賊60〜70人が、中ノ七里付近に勢力を張っていました。『新編会津風土
記』には、物見岩の付近に山賊が隠れ、岩の上で見張りをして往来の者を襲ったという。『檜原戦物語』によると、葦名 盛高が、仙道(中通り)の穴沢郷にいた穴沢越中俊家に山賊退治を命じます。俊家は、弟通恒に木地師3人の案内で 細野方面の山中3ヶ所に150人余を忍ばせ、俊家本隊は、萱峠に200人で進み一気に攻めて挟み撃ちにします。山賊 は、沢を逃げ回りますが囲まれて54人が斬られ一人を生け捕りとなります。盛高は喜び、俊家に貞宗、弟の通恒には 国光の刀を渡したという。 蘭(あららぎ)峠
蘭峠の名は蘭に由来
峠の名は『新編会津風土記』によると、「葱管茅芦柳葉蘭」が産していたことに由来します。蘭は、どのようなものかは
不明です。行者にんにく、またはノビルのようです。戦国時代には、狼煙などの通信をする物見役が置かれていまし た。新緑や紅葉、厳冬の季節には、見事な風景となります。峠を東の桧原宿へ下ると川があります。その川は、桧原か ら見ると会津方面に位置していることから会津川と称しています。
桧原宿
明治21年(1888)の磐梯山噴火で、新たに移転した集落です。集落内には、地区で運営する日帰り温泉もあります。夏
はキャンプや釣り、冬はワカサギ釣りの拠点となっています。移転された穴沢一族の墓が街道沿いにあります。穴沢本 家の墓は、道路沿いではなく、一段上の場所にあります。
湖底の桧原宿は、文化6年(1809)に完成した『新編会津風土記』によると89軒あった大集落でした。文禄3年(1594)
の蒲生氏郷が調べた『領内高目録帳』には石高が、桧原は40石4斗2升と書かれ、大塩の1330石9斗8升、漆の1855石 7斗1升と比較しても、桧原は大幅に少なくなっています。寛政元年(1789)に完成した『会津鑑』には、無高と書かれてい ます。
米の取れない桧原が営んでいられたのは、主要な産業として金山と宿場がありました。『旧事雑考』には、慶長3年
(1598)2月に、上杉景勝家老の直江兼続と石田三成が桧原の宿について掟書を下しています。桧原は米沢街道の宿 場として重要な役目を果たしていました。
桧原峠の攻防戦
金山の北には、峠の通行を監視する桧原口留番所がありました。さらに、長井川に沿って進むと鷹ノ巣一里塚があり
ます。東側は半分以上消滅していますが、西側は直径8.5b、高さ1.9bで残されています。さらに進むと、迷沢との分れ 道になり尾根道を進みます。そこから北へ米沢街道がありましたが、現在は歩行困難です。
標高1000bを越す桧原峠には、四つの峠道があります。江戸時代の街道は西にあります。峠には、平坦地や土塁状
のものがあり、米沢藩との境壇が造られています。
その東にも街道跡があります。そこには、平場と土塁と堀跡が残されていることから、戦国時代の峠は、江戸時代の
街道東にあったようです。さらに東にあるのが、車も通れる現在の綱木と金山を結ぶ林道です。さらに1`b東にはス カイバレーが造られています。
『会津鑑』によると永禄7年(1564)4月11日、伊達輝宗は、石川但馬を派遣し1500人で桧原を攻めます。侵攻を察知し
た穴沢俊恒は、480人で桧原峠に空掘、逆茂木や柵を築き防戦、伊達方は174人(『檜原戦物語』では173人)が討死に しています。永禄9(1566)年1月にも伊達方1000人余がここを通過し、桧原を攻めましたが、桧原より北12町(金山の北 側)の一ノ渡で530人余が亡くなっています。天正13年の政宗侵攻では、峠の物見役が殺害されています。
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