北塩原村、裏磐梯の歴史と文化 2006.10.07開設 文責 会津古城研究会 会長 石田明夫   

裏磐梯の伝説、黒猫と守り狐

猫魔(ねこま)の黒猫
穴沢善右衛門と黒猫退治
 穴沢新右衛門俊光の長男善右衛門俊次(広次)は、政宗の桧原侵攻の時、小田原に視察に行っていたことから助か
り、蒲生氏郷の時に、桧原に戻った武勇に優れた人物。磐梯山にある温泉(磐梯山西の中ノ湯温泉か雄子沢南にあっ
た温泉で今でも湖岸から湧き出る)へ、妻子を連れて、湯治に来ていました。
善右衛門は、湯治場の下男とともに、山の麓にある池に釣りに出かけました。その日は、いつになく面白いほど魚がか
かり、宿に帰るのを忘れるほどでした。日が暮れてきたので、2人は、宿には帰らず、近くにあつた仮小屋に泊まり、翌
朝宿に帰ることにしました。
 2人は、小屋の外で釣った魚を焼き、食べ終わると辺りはもう真っ暗でした。小屋で休むことにし、中に獣除けのため
に焚き火絶やさず、釣った魚の話や世間話に花を咲かせていたのです。すると小屋の入口から中を覗く老婆が立って
いるではありませんか。善右衛門は、驚きの声を出しました。暗い中を良く見ると見覚えのある乳母のようでした。2人
は、乳母を中に招きいれ、今日釣ってきた魚を再び焼き、3人で話を始めます。老婆は喜び、魚を嬉しそうにむさぼりま
した。3人とも眠くなり、横になったのです。善右衛門は、夜中、妙な物音と、猫の声が聞こえることに気づいたのです。
すると、脇に寝ていたのは、老婆ではなく、尻尾があり、ひげが横に伸び、ふさふさした毛に全身が覆われた真っ黒な
大きな猫ではありませんか。老婆に会ってから、このような場所に人がいるはずが無いと不思議に思っていたことが的
中したのです。
 かねてより、磐梯山には、人をも恐れぬ化け猫の魔物が棲んでいると聞かされていたことから、それに違いないと確
信し、恐る恐る手に刀を取り、魔物を一刀のもとに刀を振り下ろしました。魔物は、声を上げ、息絶えたのです。
翌朝、湯治場に向った2人は、山上から急ぎ下ってきた宿の主人会って、宿に残してきた妻の姿が見えなくなったという
知らせでした。
 驚き、すぐに村人を動員し、湯治場付近を捜しました。すると、2日後、山深い沢の断崖で、大木の枝に引っ掛ってい
る妻が発見されたのです。その近くには、年老いた木こりがいたのです。木こりに木を切って妻を下ろしてくれと頼む
と、木こりは、善右衛門の腰に差した刀を貸して欲しいと逆に頼むのでした。不思議に思い、断ると、年老いた木こり
は、2日前に出会った老婆の猫より大きな黒猫に姿を変えたのです。すると黒猫は、斬り殺された老婆は自分の妻で、
その恨みに、善右衛門の妻をさらい、かみ殺し、木の枝に掛け、ここで待っていたという。そして、雄国の山中へ妻をく
わえ空高く飛んでいったのです。
 善右衛門らは、驚き、すぐに桧原から一族を集め、村人と供に魔物の猫が飛んでいった方向を探したのです。する
と、磐梯山の西、雄国沼南東の山頂岩場にある穴に、妻の亡骸を口に加え、目を見開きじっとにらみ付ける黒猫の姿
があったのです。
 改めて、その穴を取囲み、善右衛門は、一刀のもとに黒猫を斬り殺し、妻の亡骸を取り戻したのです。
黒猫を切った刀は、初代俊家が盗賊文太郎を切った時に、葦名盛高より賜った家宝の名刀で、後に猫切丸と名づけら
れました。魔物の黒猫が切られた岩は猫石、そしてその山を猫魔ヶ岳と呼ばれるようになりました。 文責 石田明夫

守り狐
桧原峠と狐の軍隊
 永禄7年(1564)4月、伊達輝宗は、石川但馬に命じて桧原を攻めました。
穴沢俊恒、俊光親子は、事前に石川らの侵攻を察知し、桧原峠の頂上に、土塁や空掘、柵、木を切り倒して枝を下に
向け登りづらくした逆茂木を設け、備えていました。
その痕跡は、今でも峠頂上とやや下った米沢側の緩斜面に土塁と堀が残っています。戦いは、多勢に無勢の石川但
馬勢の方が有利で、穴沢氏は、防備をしていたにも関わらず、持ちこたえるのがやっとでした。もし、この峠が破られれ
ば、一気に伊達勢がなだれ込み、桧原は火の海になる恐れがあったのです。
 その時、峠の東に鉢を伏せた形から名付けられた標高1511.7bの東鉢山山陰から、大声がして、一ノ渡戸にいた
石川但馬らの伊達勢は大いに驚き、大混乱となり、伊達勢は散り散りとなったのです。
そして伊達勢は、沢に面し大きくニ方向に分かれ、背後を衝いた形となったのです。その姿を見た穴沢氏は、峠の上か
ら一気に大声を上げて攻め込みました。すると、伊達勢は、挟み討ちに会ったと錯覚し、戦いとならず、沢を下り逃げ
出したのですが、背後に敵がいると思った伊達勢は沢に転げ、前面から弓と葦名の精鋭部隊によって斬り込まれたの
です。その時、穴沢氏は深追いしませんでしたが、伊達勢は480人を討ち取り、大勝利となったのです。
しかし、穴沢俊恒は不思議だと思ったのです。東鉢山から大声を上げた援軍は、どこにもいなかったのです。その声
は、山びこのようだったのですが、俊恒は、夕闇となった桧原峠の帰り道、東の東鉢山と、西の高森山を見ると、白狐
に導かれたおびただしいきつねの姿と、狐を守るように狐火が見えるではありませんか。その姿を見た俊恒は、勝利
の勝鬨は、白狐と狐たちのおかげだと思い手を合わせ感謝したのです。
 その狐は、戸倉川から長井川にかけて縄張りとする白狐で、ときどき村人を騙していたいたずら好きの狐だったので
す。村人は、よく狐に騙され迷ったことからその沢を、迷い沢と呼んでいました。
 俊恒と村人らは、今回の勝利は狐の勝鬨の声で勝利したと信じ、「勝鬨(かちどき)稲荷大明神」の社を建て稲荷様を
祀ったのです。
 しかし、天正13年(1585)の伊達政宗の桧原侵攻では、その神社は縁起が悪いと破却されましたが、村人は密かに
山中へ御神体を移し、伊達勢がいなくなるよう崇めていたのです。
勝鬨(かちどき)稲荷神社と早稲沢の由来
 いつしか時が過ぎ、勝鬨稲荷神社の祠の前に、どこからともなく稲の穂が上げられていたのです。標高822bの高
冷地で、稲は育たない場所です。ところが、稲穂が上げられてから88日後、今度は祠の前にある沢に、稲穂が花盛り
となっているではありませんか。驚いた村人は、一坪の田を作り稲穂を大切に育てたのです。秋の彼岸には、見事な稲
穂となり、稲荷様にお初穂として捧げ、ご先祖様も供えることが出来ました。その沢を、「早稲沢」と呼ぶようになり、稲
のおかげで定住することが出来、板倉も造られるようになったことから「戸倉」と呼ばれるようになります。
 その稲は、お盆頃に出来る早稲種で、山間部の高冷地で栽培されていました。その品種は、後に「早稲沢二タ節」と
名づけられ北海道でも栽培していましたが、今では作付けはしていません。               文責 石田明夫
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