「うみの、悪いけど三年生の追い込み入るからさーお前、明日から小学生担当してくんね?」
「またですか?俺は講師じゃないんですけど」
「勉強勉強。お前、教職取ってるんだろ?何事も勉強だよ」
大学一年の夏に始めた塾のアルバイトは今年で三年目。塾長の無茶にもいい加減慣れた。
もともとは彼女のピンチヒッターとして来たのに、彼女が辞めた後もイルカは何故かここに雇われている。
超名門大学のOBだけが講師として名を連ねているはずの有名進学塾。そこの受付兼非常勤講師として。
「頼むよイルカちゃーん。カワイイ子いっぱいいるぞー」
「残念ながら、18歳以下に興味はありません」
春期体験講座が大盛況だったせいで、大幅に増えた入塾届けを整理しながらキッパリと言い渡す。
とはいえ、塾長の言うとおり教師を目指すイルカにとって教壇に立つのは嫌なことではない。
ただし、あまりアッサリ引き受けると次回から毎回人数に入れられてしまうので要注意なのだ。
「講師代、三割り増しなら引き受けますよ」
「高けーよ!」
塾長の悲痛な声と共に本日最後の授業終了のチャイム。午後11時だ。
受験シーズンを見据えてラストスパートの中高三年生たちが、授業内容を話し合う声が聞こえる。
「うみのセンセーお疲れさーん」
「おう、気をつけて帰れよ」
「今度の全国模試、ヤマはっといてね」
「別料金な」
笑って手を振る。最近の子供は送り迎えが基本なので、入り口の前には車がゾロリと並んでいる。
そんな生徒達の隅に一人。高校生とも中学生とも思えない桃色掛かった髪の小さな女の子が紛れ込んでいた。
「・・・・小学生?」
「どうした?なんか可愛い子でも見つけたか」
「違いますよ。見慣れない子がいたもんで」
「どれ?」
「あの、端の・・・」
「・・・・春野サクラか。熱心だなぁ」
「中学生ですか?」
「いや、小学生。五年生だよ。毎日自習室で勉強して帰るんだ。塾来る必要ないくらい頭良いのに」
「へぇ・・・・」
雨が降っているらしく、子供達が次々に迎えの車へと走りこむ。それでも小さな後姿は佇んだままだ。
もしかして傘が無くて困っているのだろうか、と不安になってイルカは戸締りの手を止めた。
「サークラ、濡れちゃうよ」
イルカが声を掛けようとしたのと同時に、涼しげな男の声が少女の名前を呼んだ。
弾かれるように顔を上げたサクラにつられてイルカも視線を追うと、スーツ姿の男が一人。
「パパ、遅〜い」
「や、ごめん。道に迷っちゃってねぇ」
「ハイ、うそー!」
「だめだよ〜サクラ。なんでも決め付けちゃ」
傘のせいで男の顔は見えないが、優しげな口調に自然と顔が綻んだ。
「だって家に帰る道じゃない」
「あ〜ついうっかり」
「どんなうっかりなのよ」
「だから、ごめんってば」
迎えが遅れたらしい父親を責めるが、サクラの声は至極明るい。とても嬉しそうだ。
ぴょんっ、と階段を飛び降りて父親の傘に飛び込むと、当然のように手を握っているのが見えた。
「よーし全員退去。うみのも帰って良し」
「はい。お疲れ様です」
「お、春野パパ。相変わらず仲良しだなー」
「珍しいですよね、あの年頃の女の子で父親と仲良いのって」
「だよなー。ウチなんか部屋に入っただけで怒る怒る」
「・・・・それは塾長の人間性の問題でしょう」
「なんか言ったか?」
身長差のある相合傘の中での会話が聞こえてくるように、サクラが満面の笑顔で父親を見上げている。
その後姿をなんだか幸せ気分で見送って、イルカは館内の電気を消した。

夜の自習室を使う生徒は、そう多くない。最高学年は授業中だし、それ以外はさっさと帰宅する。
ただし、この部屋の常連である春野サクラは別だった。毎日、講義のない日でも一人で黙々と勉強している。
この熱心さを受験組にも見習って欲しいものだと、講師の間ではため息が漏れているほどだ。
「勉強家だな」
「・・・・イルカ先生」
参考書を広げて難しい顔をしていたサクラに声を掛けると、ほわっと笑顔を浮かべる。
「だって全然わかんないのよ」
「・・・・小学生に簡単に解かれちゃ、不本意だろ」
苦笑いするのも無理はない。サクラの手元に開かれているのは全て大学の入試問題だ。
先週までは高校の参考書と格闘していたようだが、どうやらそちらは全部制覇してしまったらしい。
誰もが認めていることだが、春野サクラは小学生クラスでは習うことがないほど頭の良い子なのだ。
「どっか行きたい大学でもあるのか?」
有名大学の名前が記載された参考書を眺めて告げると、小学生らしく屈託なく笑う。
「中学校にも行ってないのに?」
「いや・・・・あんまりサクラが熱心に勉強してるからな」
ああ。と勉強の手を止めたサクラが笑う。自分を担任する講師誰もの疑問を汲み取っているのだろう。
なにしろサクラが塾に入ったのは春期体験から。そしてその時には既に全国トップの成績を有していた。
「だって暇なんだもん」
小学生クラスは六年生以外全て八時に全部の授業が終わる。だがサクラは自習で3時間は塾に残る。
「勉強してねぇで、遊べばいいだろ」
学習塾関係者の台詞ではないと思うが口にしてしまう。
「外で遊ぶのは、学校の校庭以外禁止されてるのよ」
「・・・・なんでだ?」
「公園で遊んでた女の子が誘拐される事件があったの、イルカ先生知ってる?」
教職を目指すイルカが知らないはずはない。なにしろ最近は子供を狙った犯罪が多発している。
数ヶ月前にずっと遠くで発生した事件は未解決のまま。学校が過敏に反応するのも無理はない。
「校庭はね、先生たちが見張っててくれるの。ただし夕方六時までで強制帰宅」
「・・・・・嫌な話だな」
イルカが幼い頃は、そんな厳格な防犯を必要としなくても外で思い切り遊べたものだ。日が暮れるまで。
たった数年の差なのに、明らかに変わりつつある世の中を思って天を仰いだ。
「よねー。それでパパが仕事辞めるって言い出して」
「は?」
「困ったパパでしょ」
言いながら。けれど酷く嬉しそうにサクラがはにかむ。
「もー、すんごい過保護なの。まぁアタシ一人娘だし、可愛いし・・・って、先生笑うとこじゃないのよ」
「サクラみたいな頭の良い子が、そうそう攫われやしねぇだろ」
「そう。でもアタシのことになるとパパ、親バカ通り越してただのバカになっちゃうのよね」
あの雨の日の二人の姿を思い出せば、それは無理のないことに思えた。が、もちろんツッコミ所は残る。
仕事を辞めて娘を守る。どうも過保護を通り過ぎて、ネジが一本外れているようにしか思えない。
「ほっといたら、本当に仕事辞めちゃうから・・・色々考えたのよ」
「・・・・・」
「でもパパの仕事が終わるまで学校で遊ぶのは無理だし、友達も習い事してる子が多くて遊べないし」
サクラの自習が父親の帰宅に合わせてなら当然だ。彼女は塾の閉館時間に毎日帰宅している。
「それで、アタシも習い事してパパと一緒に帰ろうって決めたの」
「塾って習い事に入るのか?」
「ここ、駅に一番近いし夜遅くまで開いてるから便利なのよ。勉強するの好きだし」
確かに塾の閉館時間はかなり遅い。市立図書館や児童施設では、どうしても一人の時間が増えるだろう。
「それに、パパが安心するから」
しかし、父親を安心させるために塾に入ったという生徒は残念ながらイルカも初めてのことだ。
そして・・・・仕事を辞めないように、小学生の娘に説得される父親も。
「親孝行だな、サクラは」
褒めながら、イルカが春野サクラの父親に「ダメ親父」の烙印をこっそりと押したのは言うまでも無い。

「受付はこちらですよ」
午後7時30分。どの教室も授業真っ盛りの時間に、玄関に佇む青年を見つけてイルカは親切に声を掛けた。
スーツ姿に縁なし眼鏡。一見すると塾に出入りする営業マンかとも思ったが、雰囲気が全然違う。
必要以上に媚びた様子も気負いも無い。それに、こんな営業マンをイルカは見たことがない。
「受付?」
本人は呟いたつもりだったのかもしれないが、涼しげな声はきちんとイルカの耳に入った。
「ええ。館内に入る際はコチラにお名前と身分証をお願いします」
「ハイ」
青年は素直にイルカの言葉に従うと、差し出したペンを取ってサラサラと名前を書いた。
「ん〜連絡先って、携帯でいいんですか?」
「・・・・結構です」
真正面で問いかけられてイルカは息を呑む。青年がちょっと呼吸が出来ない程の美形だったからだ。
もちろんイルカは女の子が好きだし、変な趣味だって無いのだが、こんな綺麗な顔した男を初めて見る。
作り物のような綺麗な顔を更に不思議にしているのは色違いの瞳。赤とグレイ。そして天然モノだろう銀髪。
青年の書いた名前が自国語でなければ、道に迷った外国人と間違えてしまったに違いない。
「はたけ、カカシさん。ですね」
「ハイ」
名簿に書かれた名前と、差し出された免許証の生年月日を確認する。29歳。
生徒に『はたけ』という苗字の子はいない。だいたい保護者にしては若すぎるだろう。
もしかして新しい講師を塾長が雇ったのだろうか。なにしろ、ここのところ生徒数はうなぎ上りだ。
そう考えてみれば、スーツも縁のない眼鏡も年齢を上げて見せるための小道具に思えてくる。
「お約束ですか?」
「・・・・あ〜ハイ。ちょっと早く来すぎちゃったんですけどねぇ」
腕時計を見て苦笑する。そんな仕草がまるで映画のワンシーンみたいだとイルカも苦笑した。
こんな講師を雇ったら女の子たちは勉強どころではなくなるだろうに。
「そうですね。授業が終わるまで待って頂けますか?」
塾長の担当を確認して告げる。今は高校生の授業に入っているから、まだ一時間くらいは出てこない。
カカシは微笑んで答えると、受付横のソファに腰を下ろして長い足を組んだ。
きょろきょろ、と楽しそうに館内を見回して一言。
「セキュリティ、しっかりしてますね」
「はい?」
「入退出管理。授業中は侵入防止システムかぁ・・・・」
ちょうど視線の先の教室を眺めて、まるで天気でも尋ねるような口調で呟く。
そう。イルカの勤める塾の人気は進学率はもちろん、子供の身を徹底して守る防犯システムにある。
授業中にIDカードがない人物が教室に押し入ることは不可能だし、受付で身元の確認をする。
休憩時間中も、外部の人間が誰の目にも触れずに子供たちの下に行くことは出来ない造りだ。
もちろんそれはパンフレットに謳っているものの、システムをいきなり指摘する人はかなり珍しい。
「施設も綺麗ですし、イイトコですね」
少し警戒したイルカを嘲笑うように、今度は温泉でも褒めるような笑顔。
「・・・オレ、正直不安だったので安心しました」
「こちらは初めてですか?」
普通就職しようという先だ。事前に下見の一つでもするのではないかとほんの少し声が驚く。
「あ〜いえ、前に一度。でもその時は契約だのナンだので頭がいっぱいで」
恥ずかしそうに笑うと作り物のような顔が一気に親しみやすくなる。女性なら一瞬で落ちるに違いない。
「見学する余裕もなかったんですよねぇ」
「いつ、いらしたんですか?」
イルカは週五日バイトに入っている。これだけ目立つ男が面接に来たのなら覚えていないはずがない。
「ん〜、春期講習のあとです」
「ああ・・・それじゃウチが一番バタバタしてたときですよ、申し訳ありません」
受付を臨時バイトに頼んでイルカも講義していた頃だ。臨時バイトに館内を案内する余裕はないだろう。
「いえいえ、事前にパンフレットは頂いてたんですから気にしないで下さい」
「簡単でよければ、館内案内しますよ」
つられるように答えたイルカに、カカシが心持ち目を見開いた。そして、すぐに優しく細める。
「あ〜、でも仕事中でしょ?」
「館内の案内も仕事の一つなんですよ。申し遅れました、受付担当のうみのイルカです」
「・・・・イルカ先生?」
「はい?」
「あれ?小学生クラスの先生の名前も・・・たしか」
思い出すように問いかけられて、顔が引き攣る。
なにしろ大手チェーンであるこの進学塾の売りの一つは講師が全員有名大学のOBであることだ。
現役大学生のイルカが教壇に立っていることはトップシークレット。塾長には危機感がないのだろうか。
「あ、その、非常勤なんです」
「・・・・・裏事情?」
責めるでもなく笑って呟いたカカシに、青年然とした雰囲気ではなく大人の男の匂いが漂う。
理想と現実。本音と建前。そんな現実社会を知り尽くした男の重み。少し驚いてその顔を凝視する。
「どうしました?」
「・・・いえっ、どこか見たい場所はありますか?」
不思議そうに問いかける顔に正気に引き戻される。慌てて答えると、今度は子供のように嬉しそうな笑顔。
「ん〜じゃ、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ちょうど授業中だが、防音設備の整った教室内から人の声が漏れることはない。また逆も然りだ。
「へぇ・・・授業参観なんて出来るんですか?」
それは案内も後半に入って、受付近くの小学生クラスに近づいたときのことだった。
「はい。教師から話を聞くより授業風景を見て頂いたほうが我が子のことがわかるだろうという趣旨で」
「でも抜き打ちで保護者が参観に来るんじゃ、先生たちは大変ですねぇ」
「最初はプレッシャーですけど、慣れますよ直ぐに」
「あはは。でも有難いですよ、学校の参観じゃ参加できない人も多いでしょうし」
なんだか実感の篭った言葉に少し違和感を感じる。まるで保護者側に立った意見だ。
「そうですね。時々、田舎の祖父母が見学に来るなんてオプションも付きますけど」
「・・・そっか。孫の勉強してる姿なんて、滅多に見れるもんじゃないですよね」
凄い祖父母孝行なんだ。と外見からは想像付かない台詞を口にしたりする。
「ええ、子供の姿しか見てませんね」
「みんな親バカですよねぇ」
くくくっ。と笑った拍子に、カカシが左手の薬指に指輪をしているのに気が付いた。
結婚しているのかと口を開きかけたのと終了のチャイムが重なる。一斉に館内が喧騒に包まれた。
「あれーイルカ先生、何でこんなとこにいんの?」
わらわらと教室を出てきた生徒達が声を上げる。が、次にカカシを見て恥ずかしそうに顔を伏せた。
カカシは子供が好きなのだろう。子供たちと目が会うとニコッと優しげな笑みを浮かべてみせる。
ただ、その笑顔に子供たちは顔を真っ赤にして、転がるように『サヨナラ』を告げて帰宅路に付く。
「オレ・・・子供に避けられるんですよ。やっぱ目の色が違うから怖いんですかねぇ」
「いえ、たぶんそれは違うと思います」
悲しそうに子供たちの背中を見送るカカシの呟きに、イルカは思わず返事をしていた。
目の色が違うのなんてあの距離では大してわからない。子供たちはカカシの雰囲気に圧倒されただけだ。
「あーイルカ先生、ラッキー」
六年生クラスから飛び出した男の子がイルカを見つけて、教科書を持ったまま万歳する。
「やっべーの!俺、今の授業全然わかんなかった!」
「おいおい」
「ここと、ここと、ここ。教えてよ」
教科書を突きつけられて逡巡する。なにしろ、今は客を案内中の身だ。
「あ・・・悪ぃ、後でな」
「あはは。意欲があっていいですねぇ。ではイルカ先生、今日は案内して頂いてありがとうございます」
「え、いや」
慌てて振り返ると、あの整った顔に優しげな微笑。なんだかそれだけで反論が全て喉に戻る。
出合ってまだ数十分だが、イルカはこの新しい同僚に既に好意を抱いていた。
なにしろ頭の回転は速いし、それでいて知らないことは素直に驚いて受け入れる。きっと良い先生に違いない。
それに塾長は万事いい加減だが、人を見る目だけは確かなのだ。
「案内業務は店じまい、でしょ」
「しかしっ」
「次はぜひ、授業参観で」
深々と頭を下げられて、相手の言葉まで脳に行き渡らなかった。
その長身の後姿を見送って生徒と視線を合わせた瞬間、不意に言葉の矛盾に気がついた。
「・・・・なんで参観?」

「だからな、新しい講師なんか雇ってねぇって。そりゃアレだ、たぬき」
「舐めてんですか、塾長」
「じゃなきゃキツネだろ。そりゃな、人員補充はしたいけど俺のセンサーに反応しねぇのよ、どいつもこいつも」
お茶をすすりながらの塾長の言葉に、イルカは昨日の入館者リストの文字を眺める。
銀髪の青年が書いた文字はそのままなのに、誰一人として彼の待ち合わせ相手ではなかったのだ。
確かに考えてみれば、カカシは一度もここに就職するなんて口にしなかった。
「うみの君、それって他の塾のスパイじゃないの?」
「おいおい。授業内容ならともかく、館内案内じゃ腹の足しにもなんねーだろ」
本日最後の授業が終わる直前という時間のせいか職員室に残った講師達も面白がってカカシの正体を推理する。
「すっごい美形かー、見たかったなぁ」
「俺も会いたかったね。今度会ったら勧誘しとけよ、うみの」
最近は子供がらみの犯罪が少なくない。塾の講師を選ぶのにも苦労が多いらしく塾長がため息を吐く。
合わせてイルカもため息を吐いた。一緒に働けると思ったのに。それを自分はどうも楽しみにしていたらしいのに。
少しだけ癖のある字。綺麗だけどそれだけで終わらない字が、まるで銀髪の青年そのものに見えた。
連絡先に書かれた携帯電話の番号。なんとなく暗記してしまって、涼しげな声が耳に蘇る。
きっとシンデレラに置き去りにされた王子はこんな気持ちだったんだろう。アナタは一体ドコノダレ?

「さてと、それじゃそろそろ見送りだな」
塾長の掛け声に眺めていた名簿から顔を上げる。可愛らしいチャイムに合わせて一気に館内が喧騒に包まれた。
「先生、ばいばーい」
「さよならー」
大騒ぎして玄関を飛び出していく生徒を見送る。
あっという間に人口密度が減った正面玄関に、今度は見慣れた姿を見つけて声を掛けた。
「お疲れさん、サクラ。そこ暑いだろ?中で待ってていいぞ」
「本当?よかったー」
ホッとしたように素直にイルカの後ろについたサクラが、名残惜しそうに定位置の階段を眺める。
「大丈夫か?あと30分くらいしたら全館閉まっちまうぞ」
「うん。後はいつもあっちで待ってるから」
サクラが指差したのは塾の真正面にあるファミリーレストラン。24時間営業中。
「そんなに遅くなるのか?」
イルカは事務も兼任しているので、いつもサクラを見送れるわけではない。
塾が終わった後も、こんな小さな子が時間を潰していたのかと思うとなんとなく不憫に思える。
「うん。ときどきね」
「そっか・・・大変だな」
「そう。お陰でアタシ、デザートメニュー制覇しちゃったのよ。太っちゃうし」
だがサクラ自身がそれを苦痛だとは感じていないのだろう。屈託無く笑った後に頬を膨れさせる。
「なのにパパは、ぽっちゃりしてるほうが可愛いよとか適当なこというの」
「そうか?俺もガイコツみたいに痩せてるよりは可愛いと思うぞ」
「口だけよ、そんなの。パパだって痩せてる女の人が好きだもの」
「なんでだよ」
「だってアタシのママ、すっごくスタイル良いんだから」
憮然とした返事に少し驚いた。余りに父親しか会話に出ないので、てっきりサクラは父子家庭なのだと塾内では定着していたのだ。
「・・・・理想と現実は違うっていうもんな」
「そうなの?」
「おう。先生もな、実は女優の富士風雪絵みたいな彼女が欲しいんだぞ」
茶化したイルカにサクラが思いっきり吹き出した。人気の無い館内に可愛らしい笑い声が響く。
「笑うなよ、こっそり教えたのに」
「ごめんね先生。だって、意外なんだもん」
「・・・・傷ついたぞ。よし、なんか奢ってもらわねぇとな。この悲しみは癒されねぇ」
「ふふ、イルカ先生も一緒に太る?」
可愛い天才少女の魅惑のお誘いに、イルカはニヤリと笑って頷いた。

「なんだか・・・不思議」
「なにがだ?」
小学生と大学生。ちょっと見危険な取り合わせもサクラが連呼する「先生」に救われる夜のファミレス。
二人の間に並んだ『三種ベリーの初恋パフェ』と『夏みかんのシトラスゼリー』
「ウチのパパ甘いものダメなの。こーんなに美味しいのに」
「俺も普段はそんなに食べねぇぞ」
といいつつ別にイルカは甘いものが嫌いなわけでもない。疲れた時には結構好んで食べている。
太る太ると文句を言いながらサクラの食欲も旺盛だ。二つ目のケーキに視線が泳いでいる。
「うーん。どうしよう・・・食べちゃおうかなぁ。先生、半分手伝ってくれない?」
「無茶言うなよ。ほら、これで我慢しろ」
自分のゼリーをすくってサクラの目の前に差し出すと、一瞬驚いた顔をしてすぐ笑みを浮かべて唇を近づけた。
「えへへー、なんか嬉しい」
「ん?」
「お兄ちゃんってこんな感じなのかなーって」
「なんだそりゃ」
「だってー。アタシ一人っ子だし、パパなんか天涯孤独だし」
「天涯孤独?」
「うん。パパは生まれたときからパパがいなくて、ママも死んじゃったんだって」
「へぇ・・・そうなのか」
「そうなのよ。だからアタシ、おじいちゃんとかおばあちゃんっていないのよね」
両親と二人の弟に祖父祖母叔父叔母と囲まれてヌクヌクと育ってきたイルカには想像もつかない。
だから一人娘のサクラに異常なほど過保護なのかと少し納得した。
「お母さんは?」
「ママ?うーん良くわかんない、自分のこと話さない人だし」
「あ?」
首を捻ってブルーベリーを飲み込んだサクラの返事に、今度はイルカが首を傾げた。
「仕事でずっと外国にいるのよ。年に一回ぐらい帰ってくるけど」
「キャリアウーマンってやつか。でも、話くらいするだろ」
春野家が父子家庭だと思われるはずだ。聞いてみれば母親の海外赴任は既に10年を越すらしい。
「ママは、アタシの話を聞くだけで自分の話はほとんどしないの」
「サクラはお喋りだからな」
「・・・・だって。帰ってきても仕事ばっかり、ママは仕事の鬼なのよ」
「ふぅん。なんの仕事してるんだ?」
「知らない。だから、話なんて聞いたことないんだってば」
「パパとは、あんな仲良しなのにな」
「だってパパは・・・あ」
テーブルの上に置いていたサクラの携帯がブルブルと鳴って着信を示す。
「もしもし、パパ」
イルカに断りを入れて飛びつくように電話に出たサクラの声が深夜とは思えないほど弾んでいる。
「うん。駅前のファミレス・・・・え、でも・・・うん」
その弾んでいた声がどんどん小さくなって、見る見る元気がなくなる。
「ううん、大丈夫よ。パパこそ、アタシのこと気にしてドジしないでよね」
最後は誰が見てもカラ元気だ。携帯を閉じたサクラがハァーと大きなため息を吐いた。
「ごめんねイルカ先生。こんな時間まで付き合ってくれたのに、パパまだ帰れないんだって」
「俺のことはいいけど・・・・どうするんだサクラ」
帰宅できないサクラの父親を責める気は起きなかった。社会人が大変なのは百も承知だ。
「タクシーで帰りなさいって。ゴハン・・・どうしよっかな」
デザートと違って、ファミレスの食事は飽きているのだろう。メニューを見る目がウンザリしている。
「パパは、何時頃になりそうなんだ?」
「わかんない。でも、この時間に帰ってこなかったら・・・・朝だと思う」
たとえここで食事に付き合ったとしても、このまま帰せばサクラは一人で夜を迎えることになる。
イルカも一人暮らしだから、それが慣れてしまえばなんてことないのは百も承知だ。
だが、こんな小さな女の子にあの寂しさを習慣化させたくない。当然だと甘受させたくもない。
「そっか、だったら俺の家で食べてくか?」
「・・・・・先生、料理とか出来るの?」
「まかせろ」
この誘いが、今後長きにわたって自分を苦しめる結果になろうとは。
当然のことながら、この時イルカは予想もしなかったのである。

「イルカ先生っ、待って待って葉っぱ」
「死にゃしねーって、ほら熱いぞ」
深夜に大騒ぎするのもなんだが、イルカのアパートは大学生ばかりが住んでいて静かな時のほうが少ない。
今日も三階のサッカー部員たちが大宴会中で、サクラとイルカの大奮闘も気にされてないに違いない。
「もー、イルカ先生ってば大雑把なんだから」
冷蔵庫の残り物大活躍スパゲティを見て、サクラが言葉とは裏腹に大笑いしている。
「でも美味しいー」
「だろ。料理は見た目じゃねぇんだぞ」
子供らしく豪快な食べっぷりを見せるサクラに、遠く離れて暮らしている弟を重ねて微笑ましく見守る。
年頃の女の子をアパートに連れ込むのに躊躇しなかったといえば嘘だ。しかも過保護パパの熱愛娘。
嬉々として打ったサクラのメールに返信はない。なので、数時間後には怒鳴り込まれるかもしれない。
だが、こんな可愛い女の子が一人ぼっちでメシ喰って風呂入って寝るなんて、ちょっと寂しすぎる。
イルカがパパの鉄拳さえ覚悟すればいいだけのこと。警察沙汰にされなければ問題ない。
「大丈夫よ、ウチのパパのんびりしてるもの」
「のんびり?」
そう言えばサクラを迎えに来たときに声だけ聞いたことがある。涼しげで優しい声の持ち主だった。
「うん。のんびり」
「サクラ見てると想像付かねぇよな。似てるのか?」
「似てない。アタシはママそっくり」
「それじゃサクラのママは美人だろうな」
「どうだろ。パパは結構目立つのよ、警察に捕まったことあるって言ってたし」
「あ?」
「アタシを幼稚園にお迎えに行った帰りにね、不審者って通報されちゃったんだって」
「ふ・・・不審者って」
わが子を迎えに行って尋問される父親。一体どんな容姿をしているのか不安になる。
見るからにヤクザだとか、子供と遊んでいたら『変質者』の一言で片付けたくなるようなオーラを漂わせているとか。
そういうのに殴り込みされるのは、さすがにちょっと怖いかもしれない。
「あー、美味しかった。ごちそうさま。イルカ先生、ウチのパパと同じくらい料理上手かも」
「そりゃどうも。なんだよ、サクラのパパは料理も作るのか?」
食器を片付けようとするサクラを客だからと制して食後のお茶を用意する。
「うん。お弁当も全部パパが作ってくれるの」
「すごいな」
「すごいでしょ」
誇らしげに笑うサクラに寂しさは見えない。過保護なパパは、決して悪い父親ではないに違いない。
ダメ親父と烙印したはずの溺愛パパは、とりあえず「親バカ」にイルカの中で昇格した。

「・・・・あ?」
深い眠りから耳障りな電子音に叩き起こされたイルカは、やけに高い体温に一瞬だけ混乱した。
サクラはすぅすぅと規則正しい寝息を立てて、気持ち良さそうに眠っている。
だぶだぶのスエットを着ているせいで、なんだか赤ちゃんみたいだと思わず笑えて幸せになった。
「よしっ、朝飯でも作るかな」
サクラを起こさないように寝床を抜け出したイルカは、ふと玄関に置かれたゴミ袋とカレンダーを見た。
「やべっ」
慌てて時計を見る、夏にゴミを出し忘れるのは致命傷だ。収集時間まで後五分しかない。
持ち前の体力はこんな緊急事態に生かさねば意味はないだろう。ゴミ袋を抱えて部屋を出る。
エレベータを呼ぶ時間を惜しんで階段を駆け下りゴミ収集所に走り込んだ。
「うおっ!?」
叫び声を上げたのは決してゴミが収集されていたからでは無い。ゴミの中に人が倒れていたからだ。
朝っぱらから殺人事件か!と踵を返しかけたイルカは、気を取り直して死体に駆け寄った。
「・・・はたけさん?」
下敷きにしたゴミを抱きしめるように伏せっている男が息をしているのを確かめて声をかける。
スーツは無残にゴミにまみれ、夏場ということもあって臭いもヤバイが男は身じろぎ一つしない。
だが間違いない。先日見学に来た、はたけカカシだ。派手な銀髪は見間違えようがない。
「大丈夫ですかっ!」
「ん・・・・月末ろくおく・・・はい。かいり・・・ぷらす3ぱぁせんと」
ゴミ袋を放り出して駆け寄ると、苦しそうに眉間に皺を寄せて呻き声を上げる。
「どうしたんですか?こんなところで、どこか悪いんですか?」
だが呻き声は一瞬で、カカシはすぐに気持ち良さそうに寝息を立て始めイルカは唖然とした。
「・・・・寝てる?」
大学の飲み会では暴走して消えた挙句野宿したという学生が多発するが、カカシに酒を飲んだ様子はない。
もしかして物凄く弱くてコップ一杯で前後不覚になるタイプだろうか。だがそれにしたって社会人だ。
今日は平日の金曜日。イルカのように夏休みならともかく翌日に差し支える飲み方をするだろうか。
「まぁ・・・どっちにしても放置していけねぇよな」
ごみ収集所で優雅に眠っているカカシを抱きかかえると、予想外の重さに息が詰まった。
イルカより長身のしかも多少乱暴に扱っても爆睡している男なのだから、女の子のように行くはずない。
朝から通報されては厄介なので、誰にも会いませんようにと祈りながらカカシを引きずって部屋に戻る。
どこかにぶつかる度に、カカシが眉を寄せて呻くがそんなことにかまう余裕はない。
自室に辿り着いたときには珍しく息が切れていた。布団の上に投げ出すと嬉しそうに温もりを抱え込む。
「きっつー」
一気に噴き出した汗を拭い息を吐いて、今度はカカシがゴミの上に寝ていたのを思い出してゲンナリした。
せめて。と半分曲がっている眼鏡と、クリーニングに出しても復活しなさそうなジャケットを脱がす。
元々は甘い匂いを漂わせていただけにゴミと相まって壮絶だ。慌てて窓を開けて消臭剤を振りまいた。
「・・・・たい、予算・・・るいけい」
ようやく異臭が緩和されると、またカカシが布団を抱え込みながら唸っている。
仕事の夢でも見ているのだろうか。なんだか一生懸命指示を出しているようにも聞こえるが。
「・・・・・すっげー偶然だな」
また会えればと心のどこかで願っていた男が、自宅の前に寝ているなんて。ちょっと嬉しい。
出来れば再会の場はゴミ収集所ではない別のところが良かったけれど。
「はたけさん?」
声をかけても反応は無い。無表情なせいで冷たく見える整った顔がベッドでまどろんでいるだけだ。
やっぱり綺麗な顔だなと感心するイルカの前で、その色違いの瞳がパチリと姿を現した。
「うわっ弁当!!」
そんな意味不明の叫び声を伴って。
「は?」
かなり焦った顔で飛び起きたカカシは、イルカを見て目を丸くした。
「・・・・ぱぱ?」
だが目を擦りながらの可愛いお客さまの声が何よりもイルカを驚かせた。

「もう、パパってばゴミ捨て場で寝てるなんてサイテー」
「ん〜ごめんごめん。タクシーでここまで来たのはいいんだけど降りた途端にふ〜と意識が」
「ずいぶんお疲れだったんですね」
コーヒーとオレンジジュースを用意したイルカが口を挟むと、カカシは申し訳なさそうに頭を下げる。
「ご迷惑をお掛けしてスミマセン」
「いえ、気にしないでください」
「気にしてよ、イルカ先生。初対面でシャワーも洋服も借りるなんて、ご迷惑なんだから」
「そんなの気にしねぇよ。それに初対面じゃないんだぞ」
「うわっ、イルカ先生っ!!」
「・・・・どういうこと?」
慌ててイルカの口を塞いだカカシの行動も虚しく、彼の聡明な娘はしかめっ面で父親を睨んだ。
「塾に来たの?」
シャツとデニムという服装のせいか、眼鏡を外しているせいか、小学生の娘がいるとは到底思えない。
「あ〜だって心配だったんだよ。入塾手続きの時に見たっきりだしねぇ」
「もう!なんでアタシに言わないの?」
「言ったら怒るでしょ。過保護だって」
「アタシに黙って勝手に来てる方が怒りますー」
「ごめん」
心底申し訳なさそうな顔で謝るカカシに、本気で怒っていたわけでもないだろうサクラが苦笑いする。
「ね、先生。これが家の過保護パパ」
父親の過保護を恥じるでもなく、むしろ誇らしげに紹介した。
「サクラがいつもお世話になってます」
丁寧に頭を下げたカカシからは、一人娘を溺愛して会社を辞めるような無謀さは読み取れない。
「ま、今後も何かとお世話かけると思うんで、何かあったら連絡下さい」
差し出されているのが名刺だと気づくのに大学生のイルカは遅れて、慌てて受け取る。
「ちょっとパパ、イルカ先生にアタシのこと聞いたりしないでよ」
「しないよ」
「ホントに?」
「ん。でもイルカ先生が連絡してくれたら、それはオレの責任じゃないでしょ」
ね。と目を合わせて微笑まれて赤面しそうになった自分に慌てる。どんなに美形でも相手は子持ちの男だ。
「パーパ」
目を据わらせて腕を組むサクラに、イルカは思わず吹き出した。



=未完=