|
その日、港に集まった人々は感嘆のため息を漏らさずにはいられなかった。
「こりゃ神様だってビックリなさるにちげぇねぇ」
長年海を見て仕事をしてきた港の食堂の店主が驚いたのも当然だ。
彼らの目を奪ったのは高さ53m、全長268mという巨大建造物だったのだから。
「こんなもの、よく作ったよねぇ」
はたけカカシは目の前の巨大な船を眺めて、そう呟いた。
その声が少しも感動的でなく、どちらかというと呆れを含んでいたのは彼の立場では仕方が無い。
彼の父親は大富豪であり、世界の流れを着実に見据えた投資家でもある。
いくつもの業界で成功を収めた彼の父親は、現在高度成長を遂げている造船業界にも着目している。
今回、H&W社が建造した『タイタニック号』は最大にしてもっとも美しく、最高の技術を結集させた比類ない豪華客船、そして決して沈むことのない『不沈船』として大きな話題を呼んでいた。
その真相を見据えるため、カカシの父は彼に一等客室のチケットを押し付けたのである。
「タイタニック号・・・・ん〜タイタン号みたいで不吉」
優美な白い船体に、そんな感想を持ったのは2200人という大勢の客の中でもカカシだけだっただろう。
誰もが嬉しそうに、真新しい船体に荷物を運び込んでいる。
七トンという世界最大級の船、タイタニック号は『海の宮殿』と呼ぶに相応しいのだから当然だ。
「なんて顔してるんですか先輩」
「おや、テンゾウ。見送りに来てくれたの?」
乗ろうか乗るまいか考える余地は無いけど考えよう。と呟いていたカカシは雑踏の中で声を掛けられて驚いて振り返った。それを場違いに軍服を着こなした若い男がニッコリと笑って受け止める。
「仮にも、尊敬するカカシ先輩の人生の門出ですよ」
「門出ねぇ、墓場って言った方が良さそうだけど」
祝いに。と葉巻を渡されて仕方なく受け取るものの、カカシはそうボヤいた。
「花嫁が気に入らなかったんですか?」
「未来の奥さんとはまだ遭遇すらしてないよ、ただねぇ・・・・」
「結婚したくない。ですか。残念ですが人生には年具の納め時があるようですよ」
「ちょっと、じゃあなんでテンゾウは独身謳歌してんの」
「日頃の行いの差です」
アッサリと答えるテンゾウの目も、やはり豪華客船から離れる事が無い。
「・・・・・あの煙突、一本はダミーですか?」
その巨大さに目を奪われているのかと思いきや、テンゾウが指摘したのは船の構造であった。
「噂ほど完璧な船でもないってことですね」
「あ、やっぱし?オレもそれ思ったんだよねぇ」
しかし、カカシも驚くことなく応じる。
「ですが誰から逃げるわけでもないですし、ボクたちみたいに」
カカシを安心させるためかテンゾウは笑ってそう告げる。
「あれだけ巨大だと、軍属に間違えられるってこともないでしょう」
「カカシ様、ご出立の準備を」
と、同時にカカシの荷物を積み込んでいた使用人が出発を知らせにやって来た。
「あんまり気が乗らないんだけどねぇ」
「長い休暇だと思って楽しんで下さい。帰ってきたら新妻紹介して下さいよ」
不満そうに手を振ったカカシを見送った後、聳え立った白い船を見上げてテンゾウはポツリと呟いた。
「救命ボートがかなり少ない気がするのは、ボクの勘違いかな」
一等客室の中で最も豪華な部屋の中でやはりカカシはため息をついた。
この部屋が気に入らなかったわけではない。大理石とオーク材で彩られた内装は思ったよりずっと過ごしやすかったし、続きの使用人の部屋ともきっちり区切りがあっていい。いくら父の命令だとしても四六時中見張られるのでは辟易してしまう。
「一人息子なんて、人様が思うほど気楽じゃないなぁ」
中世の宮殿を模したベッドに沈みながら呟く。
こんな風に子供じみていられるのもあと数時間の事なのだから仕方が無い。
カカシは、父親の命令で船に乗り、父親の選んだ旧家の令嬢と形ばかりの見合いをし、そして結婚する。
相手の女性の事は何一つ知らないが、彼女の家についてはよく知っていた。国内でも知らないものはいないだろう、王家とも縁続きの名家である。ただし、現在この名家に残されているのは家の名と、年頃の娘と、世間知らずの先代の借金だけだ。そこに目をつけたカカシの父親は、借金を肩代わりする代償に令嬢が嫁ぐ事を要求した。
もちろん、カカシへの相談はいっさい無し。
父親にとっては息子の結婚も、自分の事業の発展と金儲けのための道具に過ぎないらしい。
「そして、見事なまでに身内も信用しないんだから」
カカシに付けられたのは13人の使用人。父の筆頭執事と、その側近。
表向きはカカシの世話をするためだと言っているが、本当のところはカカシの脱走を防ぐため。
その証拠に、使用人の中でただ一人カカシの味方である乳母は13人に含まれていない。
今回の結婚の話だって何度も抵抗した、一人息子の立場を放棄する準備まで整わせたのに。
迂闊にも可愛がっていた犬が人質・・・ならぬ犬質に取られ、どうしてもこの船に乗って見合いをしなくてはならない状況に陥ったのだ。
よって見張りがついていなければ、この船に乗る前にトンズラしていたことは間違いない。
「カカシ様、あまりお待たせしては失礼になりますぞ」
トントンと控えめだが、決して引いてくれる様子のないノックと執事の声に、カカシは渋々返事した。
「ハイハイ、今すぐ行きますよ〜」
「返事は一度で結構です」
「・・・・ハイ」
恨めしさを込めて扉を見やって、天井に向かってため息を吐いた。
サクラは船のデッキで自分の運命を呪えるだけ呪っていた。
どうして、父親の借金の代償を自分が支払わなくてはならないのか、どうしても納得できない。
いや、父親の借金を働いて返せといわれるのなら、それはそれで仕方ないとは思うのだ。
「結婚なんて冗談じゃないわよ」
父親は喜々としてサクラに言い聞かせた。はたけ家は大富豪であること、その息子が優秀であること。
だが、詐欺師が架空の投資話を持ってきた時も、父は同じように彼は信用できる男だと繰り返した。
それも一度や二度ではない。騙されても騙されても懲りない父は、とうとう伝統ある屋敷まで売りに出す羽目になって・・・・外観だけの屋敷を守るために、サクラを売り飛ばすことに決めたのだ。
「・・・・それも、あんな男と」
うっとりするような容姿の、会話一つにも気を使える、申し分のない青年だ。同伴している母親はそう絶賛する。
相手が一回り以上年上なことも、サクラに興味なんか微塵もないことも完全に無視して。
「あぁ!腹立つ!!」
いっそこのまま船から飛び降りて、港まで泳いでいく事は出来ないだろうか。と激昂した頭で考えた。
おもわずデッキを乗り越えて・・・・・あまりの高さに諦めかけた時。
「ダメですっっ!!早まっちゃいけない!!」
後ろから思いっきりタックルをかまされて、サクラは手すりを掴んでいた手を離してしまった。
「きゃぁあああ!!」
反動で手すりを乗り越えたサクラの足が、荒れ狂う海の上でブラリと揺れた。
今回の見合いのために仕立てたドレスも風に煽られて、サクラの体からスゥッと血の気が引いた。
「大丈夫ですか!?」
恐怖に飲み込まれそうになった時、暖かい手が重ねられた。そして焦り気味の若い男の声。
「大丈夫なワケないでしょっ!早く助けなさいよ!」
「は、はいっ」
船からぶら下っていた時間は五分もないだろうが、甲板に引き上げられたサクラは小さく震えていた。
「あの・・・・」
「何てことするのよ!危うく死ぬところだったじゃない!」
「え?」
震える手を何とか理性で押さえて、飛び込みの原因になりかけた男を睨み付ける。
緑色の煙筒服に身を包んでいたのはサクラと同年代。くるくるの丸い目をした健康そうな男の子だった。
「身投げだったんじゃないんですか?」
「ないわよ!ちょっと嫌なことがあったからボンヤリしてただけよ、このバカ!」
風の音や船が波を書き分ける音が大きく響いて、サクラの声を怒鳴り声以上のものに変える。
日の落ちた甲板は、船内でパーティが行われていることもあってサクラと少年の二人きりだ。
だが怒鳴られた少年は怒るわけでもなく、見たこともないような明るい笑顔を浮かべた。
「そうですか、それは良かった」
「・・・・」
決して端整な顔立ちというわけではない。なのに歯が白く光る爽やかな笑顔に続く言葉を忘れた。
その笑顔に見惚れていた自分が信じられなくて、サクラは低い声で少年を睨み付ける。
「なにが良かったのよ。死に掛けたっていうのに」
「そ、そうでした!!大変失礼いたしました!!」
サクラの言葉にまんまるだった少年の瞳が、更に見開かれる。まるで驚いたリスみたいだと思った。
座り込んでいた体をバネ仕掛けの人形のように勢い良く立ち上がって頭を下げる。
情けない姿のはずなのに、煙筒服を誇るようなまっすぐの背中に思わず笑い声が漏れる。
「もういいわよ。変な所に立ってたアタシも悪いんだし」
「とんでもない!貴女に問題なんてありません。僕の修行不足です、申し訳ありません!」
「修行?」
「あ・・・・はい。接客の修行中なんです」
「見習いなの?」
「いいえ。この航海を最後に船を下りて、叔父のホテルを手伝うんです」
くるくる眼がキラキラ光る。大富豪の名ばかりの妻になる予定のサクラには眩しいくらいだった。
「叔父さんの?」
「はい」
「どうして。この船って世界でも三つの指に入るような豪華客船なんでしょう?」
「良くご存知ですね。ええ、オリンピック号という世界最大の船に匹敵する素晴らしい船だそうです」
「いいの?船員が、だそうです。だなんて」
皮肉っぽく告げるが伝わった様子もない。船室のことでしたらお答え出来るんですがと恐縮された。
「まぁいいわ。それで叔父さんのホテルで何するの?」
「客室係です」
「なによそれ・・・結局ここと一緒ってこと?」
「いいえ、叔父のホテルで働くのは僕の小さいころからの夢でしたから」
「ホテルのどこがいいの?客の我侭に振り回されて大変じゃない」
「そんなことありません。お客さまのご期待に応えるのが僕の生きがいなんです」
「生きがい・・・・」
「ああっ、僕としたことがベラベラとすみません!」
「そんなことないわよ。いいホテルなのね、泊まってみたいわ」
資産家である相手の家が滞在先に用意するホテルは、きっと最高級に違いない。
なにしろ、この豪華客船の二室しかない最高客室をポンッと二つ用意してしまうような金銭感覚だ。
名家とは名ばかりの、物心着いたときには家財道具の大半が差し押さえにあっていたサクラには馴染めない。はたけ家からの支度金で揃えられたドレスも、靴も、宝石も全部が枷にしか思えない。
この航海を終えたら、広大な屋敷に閉じ込められた名家出身の貞淑な妻という人形になるための。
「ぜひ泊まって下さい。お待ちしています」
「そうね・・・・早く着いて夢が叶うといいわね」
「いえ。これが最後の航海ですから、今までの感謝を込めてお客さまをもてなしたいと思ってます」
まっすぐに向けられた濁りのない目線。自分の仕事に誇りを持つ同年代の少年に息を忘れた。
「おい、リー!何サボってんだ!!」
「はい!すぐ行きます!」
甲板扉が開いて少年の先輩らしき船員が声を上げる。慌てて立ち上がった背中はやっぱり真っ直ぐだった。帽子を被りなおして笑顔を浮かべる。
「ご迷惑をお掛けしました。僕は仕事に戻ります」
「あ・・・・・」
「いつでも声を掛けて下さい。良い航海を」
「ちょっと待って。アナタ、名前は?」
「リーです。ロックリーと申します」
立ち上がって海風に煽られる髪を手で押さえ、ドレスの汚れを叩き落とした。
「アタシは春野サクラ。助けてくれてありがとう」
久々に浮かべることの出来た自然な笑顔は年相応の少女で、そこに望まない結婚の陰はなかった。
「はぁ・・・あーんなオンナノコと結婚って・・・」
軍の質素な食事に慣れた胃が無駄に豪華な朝食に悲鳴を上げるのに耳を塞いで、デッキから海を見る。
昨夜、初めて会った時には勘違いかと思ったが、朝の光で明らかになった婚約者はやはり年端も行かない少女だった。豪華な食事だけでなく、その事実がカカシの胃を更に圧迫する。
「十歳以上の年の差は・・・致命的だよねぇ」
地平線しか見えない海を眺めて、カカシは知らず胸元に触れていた自分を嘲笑った。
拠り所にしてきた海軍の階級章は、もうこの胸にはないというのに。
「・・・・未練がましいな」
無理も無い。海軍兵学校も含めると10年以上海軍の飯を食ってきたことになる。
「ま、あそこがオレの家だもんねぇ」。
本当の父親以上に慕う艦長。将校としてのあり方を教えてくれた上官たち。下士官との交渉術を伝授してくれた先任兵曹。協調性や遊びを知らず教えてくれた兵士たち。誰もが掛替えのない仲間だった。
出世するうちに乗艦も肩書きも背負う責任も大きく変わったが、その人間関係は変わらなかった。
信じる仲間に報いるために、自分の才能も出し惜しみすることなく最大限の努力をし続けた。
その結果。つい一ヶ月前カカシは最年少で隊司令を任されるという名誉を賜ったのだ。
「第四任務部隊司令か・・・」
もう何の意味もなさない肩書きは、就任の挨拶を待たずカカシの軍最後の階級になった。
甲板から眺める海は、自分が拝命していた艦隊の艦橋から見る海とまったく一緒に見える。
なのに、軍人として眺める海にはもっと自分の不足部分を埋めてくれる何かがあったはずだ。
「はたけ上将!?」
下のデッキから掛けられた声を幻想だと思ったのは、過去に浸りすぎていたからだろう。
二度、懐かしい名前で呼ばれて、ようやく現実に戻る。思わず下のデッキを覗き込んだ。
大きな声で歌を歌っている子供たちに囲まれて、カカシの名を呼んだのだろう青年が頭を下げた。
敬礼ではないが、その礼儀正しい所作はカカシが探し求めていた潮の香りを思わせた。
「はたけ上将ですよね?」
「アナタは?」
「太平洋第四任務部隊第三群第7艦隊旗艦チドリ、うみのイルカ曹長であります」
久々の敬礼。思わず踵を合わせて返礼しかけたカカシはその手で銀髪をぐしゃりと潰した。
骨の髄まで染み込んだ海軍の礼儀。だが今のカカシは父から与えられた名ばかりの実業家でしかない。
その現実を認めるのが辛くて、イルカと名乗った青年に口早に告げる。
「オレ、除隊したんですよ」
望んでではない。知らないところで知らないうちに決まっていた除隊。
反論するまもなく居場所を奪われた。十年間自分の力で作り上げた初めての居場所だったのに。
たった一日で受理された除隊届けを前にして、父に反抗する虚しさを思い知らされる結果となった。
父は必要に応じて手駒にするためカカシの海軍生活を許していたのだと。
「ええ、存じ上げています。実は俺も『元』曹長なんです」
子供たちの輪を抜けたイルカが屈託のない笑顔でカカシの下に立つ。
そのイルカが抜け出したのに気がついたのか、大声で歌っていた子供たちがワッと群がってきた。
「イルカ先生、何してるの?」
「あの人だれー?」
「キレーだね」
まだ幼児と呼ぶのが相応しい子供は全部で10人程度だろうか。不思議そうな瞳が眩しく感じる。
「こらこら、遊んでろって」
「だって先生がいなきゃつまんないもん」
「仕方ないやつらだな」
口ではそう言いながら子供たちを見る眼の優しさに嘆息する。
一等客室の客からは冷たい視線を感じないでもないが、そんなのを気にする様子もない自然体。
戻ってきてと訴える子供たちをあやしきれず、イルカは笑ってカカシに再度深く頭を下げた。
「では上将、お話出来て光栄でした」
「あのっ」
引き止めたのは。やはり海に未練があったのか。不思議そうな顔に何かを求めたのか。
両手を子供に塞がれて、どう見たって軍人には見えない男。
「・・・・よければ、また話を」
なのに、その満面の笑みからは潮の香りと失った家族の面影を感じた。
「アナタ・・・・」
「あ、これは大変ご迷惑をお掛け致しました。改めて客室係のロックリーと申します」
「ここの担当なの?」
「ええ」
ニコニコと太陽のような笑顔でお茶を入れてくれるリーに落ち着かなくて、サクラは何度も盗み見た。
外見だけなら婚約者のカカシの方がずっと魅力的なのだろうが、リーがいるとホッとするのは何故だろう。
「昨日、大丈夫だった。怒られたりしなかった?」
同船している母親が室内にいないのを確認して恐る恐る訪ねる。一晩中心配だったのだ。
また会えないかと船内を捜索したが、母やカカシの執事の視線に監視されてだからたかが知れている。
ヤキモキしていた自分の気持ちを知って愕然とする一方で、再会を純粋に喜んだ。
「僕のことを心配してくださったんですか?お優しい方ですね、サクラさんは」
びっくり眼が優しく笑う。一言一言に感情が篭っていて知らないうちにサクラも微笑んでいた。
「どうぞ」
「ありがとう」
甘い紅茶はサクラの好みに合っていて、船に乗って以来張り詰めていた心が解き解されるのを感じた。
「居心地は如何ですか?」
「うん。思ったより揺れないし、ちょっと退屈なくらい」
「退屈?ですか」
「カジノ好きじゃないし、コンサートってガラじゃないのよね。プールって気分でもないし」
それは婚約者のカカシもそうらしい。あっちはあっちで困っているのがなんとなくわかっていた。
サクラは同い年の女の子に比べても見た目幼い。立派な青年であるカカシには妹程度しか思えないだろう。
お互いに望まない結婚というわけだ。望んでいるのは互いの資産と家名なんて寒々しいにも程がある。
「図書館は如何です?世界中の本が揃っていますよ」
「え?」
サクラは本が好きだ。唯一の財産といえる家の膨大な蔵書も全て目を通している。
けれど良家の子女には必要な才能ではなく、誰もが本よりも刺繍糸と針をサクラに押し付けてきた。
なのにどうして、この船には他にも沢山のアミューズメントがあるのに彼には欲しいものがわかるのだろう。
「ご案内しましょうか?」
「・・・・いいの?」
「もちろんです。僕のお客さまを退屈なんかさせません」
暗い気持ちになりかけたのを、やはり爽やかな笑顔が救い出してくれた。
「で、艦長から次に予測ミスしたら、お前は一週間トイレ掃除長だって言われましてねぇ」
「上将にトイレ掃除なんかして頂いたら、正直な話落ち着きませんよ」
「でしょ?なのに、そのあと二連続でノイズ聞き分け失敗して本当にトイレ掃除長になりました」
「あははははっ」
「オレの最初の肩書き、水雷長兼トイレ掃除長ですからねぇ。恥ですよ、恥」
グラス片手に遠慮なく爆笑するイルカに、カカシも清清しい気持ちで琥珀色の液体を充電する。
気取った一等客室のバーよりも、ざわついた二等客室の食堂の方が落ち着くのは軍を思い出すからだろう。
「いやっ、はたけ上将がこんな面白い方だとは」
「ん〜普段は一応取り繕ってクールなフリしてみてました」
「ご謙遜を。フリだなんて思えませんでしたよ」
大富豪の御曹司でありながら、軍神とも呼ばれた実力派エリート。
有名だったが、有名なだけに噂は尾ひれも背びれも付きまくりどんな人物なのかまったく知りえなかった。
だから、まさかこんな風に酒をかわすことが出来るなんてとイルカは率直に感謝の意を表した。
「本当にラッキーでした。上将とこうしてお話できるなんて」
「あ〜オレ、もう除隊してますし・・・・その上将ってのは、チョット」
「あっ!申し訳ありません」
「いえいえ。どうか気軽にカカシと呼んで下さい」
「そ・・・それは無理かと」
「いいじゃないですか、周りは誰も知らない人ですし」
「はぁ」
苦笑いするしかない。確かにまわりは知らない人だろうが、カカシの容姿は目を惹くのだ。
気軽に二等客室に下りてきてしまう豪快さとは相容れないような儚げな美貌に、乗り合わせている娘達も落ち着かない。
「で、イルカ先生はどちらへ」
「青の国です。義兄がホテルと学校を経営してまして、子供たちを送って行くところなんです」
「へぇ」
「義兄も軍にいたんですがある日突然『この海に青春はないっ!』といって除隊しまして」
「・・・・・」
「数年音沙汰がなかったんですが、今年ようやく落ち着いたと連絡があったんです」
「それ・・・・もしかしてガイって名前じゃないですよねぇ?」
「え?あ、そっか。義兄とは同期ですか」
カカシが最年少艦長として候補に挙がったとき、対立候補だった男だ。
指揮官としては有能で、場を盛り上げたり艦内の結束という点に対しては神業とも呼べる手腕を発揮した。
なので所構わずライバル宣言をしてくる上に濃くて鬱陶しかったが、唐突な除隊には寂しさを感じたものだ。
「アレが身の程知らずな、美人の嫁を貰ったって話は聞いてましたけど・・・アナタのお姉さんですか」
「美人かどうかは」
謙遜するイルカに、彼女が結婚さえしてなければ似ているかどうか聞きたかったなと残念に思う。
「上将・・・じゃなくて、カカシさんはどちらへ?」
「へ?」
ぼんやりとイルカの顔を眺めていたせいだろう。質問の意味を図り損ねて間の抜けた声が出る。
「あ〜」
年端も行かない婚約者と、強制新婚旅行中です。と答えようとして何故かとどまる。
イルカが連れていた子供たちに混じっても違和感のなさそうなサクラ。あんな少女に気があるなんて思われたくない。
「世界が誇る船ってのに乗ってみたいって駄々捏ねられちゃいましてねぇ」
「え?どなたか同船されているんですか?」
「妹です」
そんな風に思ったせいで、ついうっかり嘘をついた。
「楽しかったですか?」
「うん。すっごく」
両手に抱えきれないほどの本を抱えたリーに聞かれて、サクラは心の底から頷いた。
朝から晩まで詰めていても退屈しない宝の宝庫。なのに他の人たちは興味がないのか、いつも貸切だ。
つい時間を忘れてしまうサクラを気にしてリーは毎日夕食の時間に間に合うように呼びに来てくれる。
「すごいのよ。女の人でお医者さんになった人がいるの」
「お医者様ですか、すごいですね」
部屋までの短い道のり仕入れた知識を披露する。リーはどんな話も興味深げに聞いてくれるから話していて楽しい。
「アタシも、あんな風に生きてみたいな」
「出来ますよ、サクラさんなら」
「だと、いいけど」
苦笑い。サクラには夢を見ることも許されない。なにしろ借金のカタに嫁に出された身の上だ。
「いけませんサクラさん。信じなくては」
「え?」
「貴女は聡明で才能に溢れた、とても美しい女性です。なんだって出来ますよ」
満面の笑みを浮かべて告げられた言葉に、知らず顔が火照った。すごく嬉しいと素直に思った。
「ありがとう」
「・・・」
「・・・」
気まずい。お互いにそう思っているのがヒシヒシと伝わってくる。
カカシはここの所ずっと二等船室に入り浸っていたし、サクラは図書館の住人になりかけていた。
当人達はそれを満喫していたが、二人に婚約者としての関係を求める監視役はそう甘くはない。
無理やり捕まえられて正装させられた先では、参加する前からゲンナリしそうな一等船室の晩餐会が繰り広げられている。
「カカシ様、女性をお褒めするのは紳士の嗜みですぞ」
会話という会話がない二人に焦れて執事頭が口を挟む。カカシは困った顔をして傍らのサクラを見た。
ふんわりしたシフォンのドレスは似合っているが、明らかにサクラの幼さを強調してしまっている。
何をどう褒めればいいのか。残念ながら年端の行かない少女に欲情する趣味はない。
「あ〜可愛い、ね。うん」
「サクラ。カカシさんが褒めてくださったのよ。お礼なさい」
母親に促されてサクラも渋々カカシを見る。今の明らかな社交辞令になんとお礼を言えというのか。
でもカカシの気持ちはわかる。うっとりと見つめる他の令嬢たちと違って、サクラも彼を意識できない。
なにしろ正装したカカシは輪をかけて大人の男だ、隣に座っているのも気疲れしてしまう。
「・・・・ありがとう」
以上会話終了。
「そうだわ。サクラ、最近どちらに出かけているの?姿が見えなくてママは心配したのよ」
「・・・・図書館に行ってたの。いいじゃない、本読んでただけなんだから」
「図書館ですって?そんなことより他家のお嬢様と仲良くなさい、晩餐会にも顔を出さない貴女が船員と親しげに口を聞いていたなんて言われてママは恥ずかしくて仕方なかったわ」
「この船のことを教わってただけよ。図書館のことも彼が・・・」
「船員が私たちに何を教えられるというの。給仕係などと同等の口を聞いてはいけません」
母が差別主義者なのは今に始まったことではない。口答えすることがどれだけ無駄なことかもわかっている。
春野家は確かに王家と縁繋がりかもしれない。だがそれがなんだというのだ。
サクラが他家のお嬢様たちと話さないのは、彼女達が傲慢で見栄張りばかりだからだ。
名家とは名ばかり借金だらけの貧乏貴族に産まれたサクラには、持ってる宝石の大きさなんてどうでもいい。
この船に乗っている名門家の誰それと懇意になっただとか、親戚には誰それがいるなど何の意味があるのか。
「船で色んなところを旅して、色んなことを知ってるわ。アタシなんかよりずっと賢いのよ」
「船員にそんな教養あるわけがないでしょう。字も書けないと聞いているわ」
リーの笑顔を思い出したら許せなかった。自分の母親だからこそ、尚更許せなかった。
「食前酒です」
サクラがぐっと唇を噛んで耐えたのは、当のリーが給仕に現れたからだった。
ずっと後ろに控えていたのだから母親の言葉が聞こえなかったはずがない。でも彼は笑顔のままだった。
その澄んだ目が語りかけてくる。僕は何も気にしてません、どうか耐えてくださいと。
だから余計に申し訳なかった。この船の中にリーがいてくれなかったら毎日が拷問だったのに。
こんな親が贅沢に生きるのを助けるために自分は好きでもない男と結婚しなければならないのか。
「お話する相手は選ぶものよ。もっとカカシさんとお話なさい」
「・・・・カカシさんは大人しく本読んでる女の子が好きなんだって」
精一杯の反抗だった。もちろんそんな話はしていない。カカシの名前を出せば母親が黙ると思っただけだ。
「まぁ、そうなの。カカシさんが仰ったの?」
話を振られたカカシがサクラをちらりと見た後、背後のリーにも視線を向けた気がした。
「あ〜、ええ。オレが本読むの苦手なんで・・・どんな本読んだか教えてくれるんですよ、サクラちゃん」
協力してくれた。驚いて思わず整った顔を見つめると、口元がかすかに綻んだ。
「ちなみに船員サンと話してるのもオレのせいです。海軍にいたせいか船の構造が気になって仕方ないんですよねぇ」
「いやだわ、私としたことが存じ上げずに失礼なことを」
単純な母親が相好を崩す。なにしろ目の前の青年は家名に相応しい生活を与えてくれる救世主なのだから。
「いえいえ。良家のお嬢様にやらせちゃいけないことだとは思わなくて。すみませんねぇ成り上がりで」
「カカシ様、口が過ぎますぞ」
後ろに控えていた執事頭に叱られて、カカシがちろりと舌を出す。
「あ〜でも、サクラちゃんの図書室通い止められると困るなぁ。あの本の続き、まだ聞いてなかったよねぇ」
頭の良い男だな。と振られた話に頷く。サクラの図書室通いは彼にとっても有難いのだ。
「まぁまぁ、カカシさんとのお話のためだったら構いませんのよ」
予想通り、母は目を輝かせて承諾した。普段だったら皮肉の一つでも吐きたいところだがグッと抑える。
「ありがとうございます」
にっこり。と作り物のような顔で微笑むカカシはこの瞬間、サクラの敵ではなくなった。
「ありがとう」
「ん〜?」
「さっき、ママに嘘ついてくれて」
「ま、お互い親には苦労するよね」
促されてデッキに出た二人に、さっきとは違う距離感が生まれていた。
恋愛感情ではない。これは窮地に追い込まれた同志としての連帯感とでも言ったらいいのだろうか。
「苦労してるの?」
「財産を狙って息子でいるか、無一文で他人になるかって言われたら後者即決って程度に」
「そうすればいいのに」
自分もそうしたい。そんな望みを込めて告げるとカカシは苦笑いを浮かべた。
「可愛い飼い犬が犬質に取られてんの」
「犬質?」
きょとん。と目を見開いたサクラに、カカシは手にしていた煙草をケースに戻した。
「両親ならあっさり見捨てるんだけどねぇ」
「アタシも、そうしたい」
「すりゃいいじゃない」
「無理よ。パパは箱入りお坊ちゃま育ちで一人じゃ何も出来ないの、パンの値段も知らないわ。ママだって高いのは気位だけ。アタシが見捨てたら物乞いにもなれないで野垂れ死ぬしかないのよ」
だから見捨てられない。最低でどうしようもない親だけど、それでもここまで大きくして貰った恩がある。
「本当に、親には苦労させられるよねぇ」
はぁ。と二人分のため息。でも相手が仲間だと思えば少しは気が楽になる。
「二等って楽しい?」
「ん〜」
「ずっと入り浸ってるから」
カカシはほとんど一等客専用に設けられた娯楽場に顔を出さない。
最初は成り上がりなのを気にしているのかと思ったが、そんなこと気にするタイプじゃないだろう。
「ま、とりあえずドレスのブランド気にする奴はいないかな」
カカシの答えに吹き出す。サクラが晩餐会で他の令嬢に一番受けた質問だったからだ。
「それっていいとこね。船員と話してても責められない?」
「手を繋いで踊れるよ」
にやり。と笑ったカカシに、サクラは思わず赤くなった。
「・・・」
デッキの手すりを眺めて唾を飲み込む。計算上は問題ないけれど、やっぱり結構高い。
だが勇気を出して心を決めると周りを見回した。誰もいないのを確認してドレスを捲り上げる。
動きにくいドレスを色んなところに引っ掛けながらなんとか細い手すりに登った。
「やった・・・きゃぁあああっ」
達成感に浸りかけたのが良くなかったのだろう。履いたままのヒールの踵が手すりに引っかかった。
なんで裸足にならなかったのだろうかと後悔したって既に身体は落下している。
「いゃあああっ」
どすん。予想していた衝撃はなくて、恐る恐る顔をあげる。
「大丈夫か?」
落っこちた先が人の腕の中だと認識するのに結構な時間がかかってしまう。
「・・・」
お礼を言わなければと思うのに恐怖で声が出ない。貧乏とはいえ王家と縁続きの名家の令嬢だ。
「あんなとこから落っこちたら怖いよな、もう大丈夫だぞ」
サクラを受け止めてくれた優しそうな男の人は、そう言ってよしよしと撫でてくれる。
普段だったら子ども扱いしないでと憎まれ口を叩くところだが、そんな口利く気にもならない。
滲んだ涙を隠したくて、抱いてくれる胸に子供らしく縋りついた。
「イルカさ〜ん?」
「あ、こっちです」
「おや、随分派手な逢引ですねぇ」
「違いますよ。この子、上から落ちてしまったみたいで」
「落ちた?ったく、どんなオテンバすりゃ一等船室から落ち・・・」
呆れ顔で言いかけたカカシが、顔を上げたサクラを見て頭を抱える。
「だって、連れてって言ったのに連れて行ってくれないから」
「だからって、そのカッコで一等船室のデッキから飛び降りることないでしょ」
「仕方ないじゃない。誰かみたいに二等船室で遊べる洋服なんて用意してもらってないもの」
「一等で遊びなさい。大好きな図書室があるじゃない」
「全部読んじゃったのよ。自分だって一等が楽しくないから入り浸ってるくせに、ずるいわよ」
「ずるいって」
「・・・あの、この子カカシさんのお知り合いなんですか?」
「え」
サクラを抱っこしたままのイルカに問われて、カカシが硬直した。
イルカにしてみれば当然の問いだが、この年端も行かない少女を婚約者だとは言いたくないカカシには聞いて欲しくないところだ。
「あ〜その、知り合い、といいますか」
「もしかして同船してるって言ってた妹さんですか」
引き攣ったカカシの笑顔をどう解釈したのか、イルカが予想外の事を言い出した。
「いもうと?」
サクラの呟きにカカシが天を仰ぐ。
「ん、違うのか?」
不思議そうに聞き返されて考える。カカシが自分を連れて行ってくれなかったわけを。
「可愛い妹を置き去りにして遊びに行っちゃう薄情者は兄だと思わないことにしてるの」
「それでお兄さんを追いかけちゃったんだな」
「そうよ」
ぷん。と子供っぽく頬を膨らませると、イルカが振り返って笑う。
「行動力はお兄さん譲りですね」
「・・・あ〜」
「それじゃ今日は思う存分遊んで行こうな」
サクラを床に下ろして視線を合わせて満面の笑み。少し驚いた。
こんな風に笑う人はサクラの周りに誰もいない。いや・・・リーだけだ。
ここで笑わなきゃ相手の心証を悪くするとか、礼儀だとかという作り物の笑顔じゃない。
肩肘ばかり張って生きてきたサクラに年齢相応の子供でいいんだよ。と言ってくれる暖かさ。
「けど、その格好じゃマズイか。カカシさん、ヒナタの服借りてくるんで待ってて下さい」
「ハイハイ」
ひらひら。と手を振ってイルカを見送ったカカシが、ちらりとサクラを見る。
「ありがと」
「なんのこと?」
「オレを嘘つきのロリコンにしないでくれて」
「この間のお礼よ」
隠す気持ちは理解できる。サクラだって許されるならリーに隠しておきたいと思うのだから。
それに
「ちょっと憧れたの」
「ん?」
「本当にお兄さんだったらいいなって」
驚いた顔をしたカカシが、照れて真っ赤になっているサクラの小さな頭を撫でる。
「オレも、サクラみたいな妹欲しかったよ」
「そこで一回転」
「きゃあっ目が回る」
かき鳴らされる音楽。誰もが思い思いにステップを踏み、酒を飲み交わしていた。
サクラも代わる代わる色んな人と手を繋ぎ音楽に合わせて身体を動かす。
「大丈夫ですか」
「うんっ、すっごく楽しい」
よろめいた身体を支えてくれたリーも嬉しそうだ。母親が見たら激怒するのは間違いないだろう。
「もう一回踊ろう」
「はい」
手を繋いで、時には抱きしめて、けれど全然ムードなんかなくて。ただただ盛り上がり皆で笑う。
「もーやだ楽しいっっ」
「そりゃ良かった」
休憩しましょうと飲み物を取りに行ったリーを見送って、カウンターで飲んでいたカカシに訴える。
夜の外出は令嬢らしくないと渋る母親を、二人で星を見ながら愛を語るからと大嘘ついて説得してくれたのだ。今頃母は大富豪の暮らしでも夢見ているに違いない。娘が他の男の子と踊っているとも知らずに。
「一等の方が華やかなパーティだと思ってたんだけどな、違うのか?」
カカシの横で飲んでいたイルカの質問に、良くぞ聞いてくれたと身を乗り出す。
「全然違うわよ。踊ってる間中、足踏まないかばっかり気にしなきゃいけないの」
「そりゃ、お前がヘタだからでしょ」
一等船室のパーティで既に何回かサクラに足を踏まれているカカシがゲンナリと呟く。
「でも確かに、サクラが最初に着てたみたいなの着て踊るなら踊りにくそうですよね」
「他のご令嬢で足踏むようなのいませんけどねぇ」
「兄さんにうっとり、してる子はいっっっぱいだけど」
「へえ」
飲んでいた酒を喉に詰まらせたカカシを、イルカがちろん。と見る。
「こんなだけど、正装すると結構格好いいのよ。そういう時だけ自慢なの」
「だろうな。海軍の礼服も格好良かったんだぞ。付いた仇名が第四任務部隊第三群の氷の女王」
「やだー、全部凍りつかせそう」
「だいたい男に女王って仇名が間違ってんですよ」
「いや、当時は俺もなんて綺麗な人かとうっとりしてたもんです。まさか中身がコレだったとはな」
はぁ。とワザとらしくため息を吐いたイルカに、サクラの楽しげな笑い声が重なる。
「あ、音楽が変わった」
アップテンポの音楽に、カカシがイルカに笑いかける。
「やりますか」
「今日こそ勝ちます」
二人は拳を合わせ笑い合うと中央の円卓に飛び乗った。初めてではないのか皆わくわくした目で見ている。
「うわっ」
音楽が始まった途端、カカシがイルカの足元に滑り込み、それを予期したようにイルカはバク転でかわした。
そしてお互いに立ち位置を入れ替えると一番近くにあったジョッキを手にして、一気に飲み干す。
「すごーい」
思わずサクラは歓声を上げた。ダンスではなく本質は格闘なのだろうがまるで踊っているみたいだ。
「海軍伝統の円卓組手ですよ。はたけ上将もうみの曹長も使い手ですから」
まるで自分が褒められているような嬉しい顔で戻ってきたリーが説明する。
世間は狭い。リーはイルカの部下だったのだそうだ。
「どんなゲームなの?」
「単純です。相手を落せば勝ち、ただし長引けば酔いが回ってそれだけ不利になります」
「お酒も強くないとダメなのね」
「ええ。でも一曲続けるのって二人の息が合ってないとすごく難しいんですよ」
円卓の上の二人は実に楽しそうだ。互いの腕を組んでジョッキを飲み干すなんて小憎らしい事もしてみせる。
「息ぴったり」
「そうですね」
「すごく楽しそう」
こうしてみるとカカシも結構子供っぽい。けれどそれは相手がイルカだからだ。
「あ」
イルカのフェイントに引っかかったカカシがバランスを崩す。周りの歓声が一段と高まった。
「あ〜負けました」
「これで引き分けですよ、カカシさん」
火照った顔をデッキで冷やしながら、なのに手にはグラスを持っているのだから呆れてしまう。
「ヤダなぁ、イルカ先生どんどん強くなってんだもん」
「ズルばっかりするからじゃないですか」
「ズル?」
「いきなりその綺麗な顔で、好きだよ。なんて言われたら動揺するに決まってます」
それで昨夜は足を踏み外して円卓から落ちるという、今までに無い屈辱的な負け方をしたのだと睨まれる。
「カカシさんが海軍至上最強だって言われてた意味がよーくわかりました」
「あはは。失敗したねぇ」
「もうあんな手には惑わされませんよ」
寒い地域なのだろう。火照った体にはちょうどいいが吐く息は白い。
「じゃなくて。どさくさに紛れて伝わればいいな。と思っただけなんだけど」
「は?」
船内は変わらず盛り上がっている。たった壁一枚隔てただけなのに、二人の周りは静寂に満ちていた。
「好きですよ。アナタが」
言ったカカシより、言われたイルカの方が驚いて手にしていたグラスを落っことす。
船が上げる波しぶきに消えたグラスの行方を冷静に目で追ったカカシに緊張感は微塵も無い。
「そ・・・それは、俺も好きですけど」
どっちが告白しているかわからない。緊張丸出しでそう言ったイルカに、カカシはくっと笑う。
「あのね、オレの好きはイルカ先生を抱けちゃう好き、なの」
「・・・酔ってるんですか?」
「酔っ払いの戯言で片付けようとしてる?」
「というより信憑性が」
ありません。とイルカが苦笑いするのも無理はない。
「じゃあ、信じられるまで試してみましょうか」
引き寄せてキスした拍子にカカシが手にしていたグラスも波間に消えた。
「っ・・・なんだ?」
枕代わりにしていたカカシの腕で目を覚ましたイルカが、自分を叩き起こした衝撃の原因を探す。
先に起きていたのだろうカカシも険しい顔で外を伺っている。
「何かと衝突したみたいです」
「・・・正面ですか?」
「衝撃音は右舷から。ただし、オレもそれで目が覚めたので正確じゃないかも」
無言。それは恐怖などからではない。海軍出身の二人は事故直後の行動が生死を分けることを熟知している。
音を聞き分ける。充分な時間を取った後、イルカが続けた。
「エンジンは止まってません。電気がついてるってことは機関室は無事なんでしょうか」
「ん〜なんか惰性で進んでる気がするんですけど」
「確かに」
再び無言になった二人が、同時に顔を見合わせる。
「水音ですよね、今の」
「ええ。ってことは浸水・・・あちゃ〜もうちょっと速度とか気にしとけば良かった」
客として乗っているわけだからそんなこと気にするはずがない。
しかし海軍出身のプライドが疼くのか、カカシが乱れた髪を更に掻き回す。
「寝てたので正確ではないですが衝突時の速度はたぶん22.5ノットかと」
「冗談でしょ」
ガリッ。と爪を噛んだカカシが、ふぅと小さく息を吐く。
「最悪3時間で沈む」
カカシの予想に異議を唱えることなく、イルカも頷く。
「マズイな。救助用のボート、絶対人数分ありませんよ」
「あのタイプの救助ボートは一隻70人まで耐久性を試したことがあります」
「だとしたら問題は一等船室の客ですねぇ。即刻沈むならともかく、なまじ時間があると身分がどうのと騒ぎ立てる連中です。下手すると数人だけでボートを占領する危険がある」
「・・・救助用ボートは一等デッキに」
ごくり。と唾を飲み込む音が聞こえた。当然だ、一等船室への階段には鍵がかかっている。
カカシやサクラがデッキを越えているのだってそれが一等客だから見逃されているに過ぎない。
「イルカ先生、子供達を連れて南階段に来てください。オレが上から鍵を開けます」
「でも・・・」
「生死がかかってる時に四の五の言う奴は、何様だろうとオレが海に叩き込みます」
「わかりました。サクラは?」
「先に連れて行きます。あの子がいてくれないとオレが動けなくなる」
頷いて自分のシャツを羽織ったイルカの手を、カカシが引き止めた。
「カカシさん?」
「一つ言い忘れてましたけど」
真剣に言葉を待ったイルカの手を目の高さまで上げて、その甲に薄い唇が触れた。
「昨夜のアナタは最高でした」
「そ、そんなこと言ってる場合ですか!!」
「紳士のたしなみでしょ」
「時と場合を考えるのが紳士でしょうがっ」
カカシを殴り飛ばして貨物室を出たイルカは、怒りに任せて階段を駆け上がる。
「あんのエセ紳士めっ」
散々罵って二等船室に続く扉の前に立つと、口付けられた手をじっと眺めた。
「そんなのこっちのセリフなんだよ」
何かのおまじないのように自分の手の甲に口付けて、勢い良く扉を開いた。
「どういうこと」
甲板に降ってきた氷山の欠片の入った飲み物が一等船室の客に振舞われている頃、サクラはカカシから耳を疑うような話を聞かされていた。
「しー声が大きい」
「だって、あと3時間でこの船が沈むなんて」
「オレもイルカ先生も海難事故は散々見てきてる。で、全く同じ結論に至ったから信じてくれていい」
「でも」
一等船室の客にも給仕たちにも何の変化もない。
ワイシャツを着崩したカカシと、二等船室の女の子から借りた粗末なドレスを着たままのサクラを見る冷たい目もだ。
「カカシ様、どちらにいらしたのですか。その格好は」
「サクラと朝帰りしてんだから遠慮してくれる?」
自分の部屋に飛び込んだカカシを執事頭が非難するが、それすらも追い出してサクラをベッドに座らせた。
「この船には、救助用のボートが人数分ない」
「え・・・」
「サクラだったらわかるでしょ、ママは二等船室の客や船員をボートに乗せるかどうか」
「・・・乗せないわ。一緒に乗せるなんて屈辱だとかなんとかいって嫌がる」
「オレもそう思う。そしてそれはサクラのママだけじゃない」
泣き出しそうになった。外は極寒の海だ、投げ出されたら助かりっこない。
だけど目に見えるようだった。きっと一等船室の客が優先される。なぜなら彼らはお金持ちだからだ。
「イルカ先生や、ヒナタちゃんは?リーさんは」
暖かく迎えてくれた二等船室を思い浮かべる。それだけじゃないこの船には三等客室だってあるのだ。
「大丈夫だよ」
「でも」
「優先順位なんかつけさせない。助けられるだけ助ける」
「・・・」
「イルカ先生に二等船室の客を誘導してもらったら、救助用のボートを下ろす。船員たちに気づかれる前にやるしかない」
「アタシは何をすれば」
「執事頭を抑えてて欲しい」
「どうして・・・?」
「この作戦はオレとイルカ先生が揃わないと出来ない。執事頭はああ見えて腕が立つ、オレより強い」
「でも、どうしたら」
「これを。一応婚約指輪として貰ってきたんだけど」
ベッドサイドの金庫から取り出した小箱をカカシが無造作にサクラに投げる。
「・・・すごい」
箱を開けてごくりと唾を飲み込んだ。中に入っているのは素人目にも一級品とわかる指輪だったからだ。
「オレが、これを持ってサクラが逃げたって執事頭に訴える」
「どっちに逃げたらいいの?」
即座に状況を読むサクラに、カカシが満足そうに頷く。
「南階段で二等と三等の客を誘導する。だから・・・」
「北階段ね」
即座に立ち上がったサクラを、カカシが引き留めた。
「3時間って言ったけど、1時間で電気系統が全滅する。その時間には1号のデッキに戻ってくるんだよ」
「・・・わかった」
言いながらカカシがサクラに救命道具を装着させる。
指輪の箱を握りしめて震える手を押さえる。一人で出来るだろうか、そんな恐怖がじわじわと体を覆う。
「サクラ」
「はいっ」
「任せた」
扉を勢い良く開いて全力疾走する。北階段はどこだろう、リーに習った船内図を必死に思い浮かべる。
出来る出来ないではない。やらなければならないのだ。キッと前を見据えてサクラは一層早く走り出した。
「何事ですか、カカシ様。そのお顔はどうなされました」
「・・・っ、あの小娘。オレを殴って指輪を盗みやがった、すぐ捕まえろ」
「なんですと」
「あっちだ。絶対に殺すなよ、はたけの嫡男が女にコケにされたなんて知れたらいい笑いものだ」
「かしこまりました。北ですな」
憤怒の形相で部屋を後にした執事頭を見送る。サクラが逃げ切ってくれればいいがと思わずにはいられない。
万が一途中でつかまっても王家の血筋だ。殺されることは有り得ない。
「頼んだよ、サクラ」
一刻の猶予もないのはカカシも同じだ。自分でつけた顔の傷を拭って、部屋を飛び出した。
「うわっ!?は、はたけ上将・・・じゃなかった、はたけ様」
「とと、ゴメン」
「いえボクの方こそ申し訳ありません。そのお顔は・・・?」
「あ〜ちょっとね」
少し強く殴りすぎたかと反省する。
「医療キットを」
「いいからいいから。そんなことより、三等客室の船客数を知りたいんだけど」
慌てて踵を返したリーを?まえて問いただす。何人乗っているかで救出にかかる時間を逆算するためだ。
「・・・そんなことをどうして?」
真っ直ぐな目で見られて、真実を語るべきか躊躇する。
リーのことは信用しているが、彼はこの船のスタッフだ。
「はたけ上将は・・・さっきの衝突が致命傷だとお考えなのですね」
押し黙ったカカシに感じるものがあったのだろう。グッと唇を噛んだリーが悲しげにそう言った。
「」
|