「うぁー疲れた」
うーん。と片手を伸ばして肩の筋を伸ばす。ゴキゴキッという音に疲れが増した。
「・・・中年のオッサンみたいだな、俺」
新学期が始まってからというもの雑務に追われて寝る暇も無いような毎日が続いている。
とはいえ、可愛い生徒達のためを思えば疲れなど吹き飛ぼうというものだ。
運動会に文化祭。絶対に成功させてやるぜっ。とガッツポーズを決めた瞬間、盛大に腹の虫が音を立てた。
「・・・一楽でラーメン食って帰ろ」
勤め先の中学校と自宅の通り道にあるラーメン屋は、イルカの定番夕食コースだ。
毎日ラーメンというのは健康上よろしくないと思うのだが、漂ってくる匂いが実に食欲をそそる。
「お、イルカ先生。今帰りかい」
「こんばんは、テウチさん。まだ大丈夫ですか?」
「任せな。贔屓にしてくれてるイルカ先生を追い返すような野暮はしねぇさ」
「やった。ありがとうございます。それじゃ味噌お願いします」
「はいよっ味噌一丁。しっかし、忙しいんだなぁ中学校の先生ってのも」
「テウチさんほどじゃありませんよ」
一楽は人気店だ。雑誌にも散々取り上げられて、飯時には大行列が出来る。
実は今も店先には閉店の看板が出ている。この時間に店に入ってくるのは常連ばかりだ。
「へいっ、味噌お待ちっ」
「待ってました。いただきまーす」
手を合わせて麺をすする。疲れた身体には、この旨みが堪らない。
「あー美味ぇ」
思わず唸るとテウチが相好を崩す。
早食いは良くないと思うのだが、空っぽの胃袋にせかされるまま箸を動かしていると横から視線を感じた。
もしかして、あまりにもがっつき過ぎているのだろうか。と視線の主を盗み見る。
そして盗み見たまま固まった。
三つ隣のカウンターでラーメンを食べていた男性客が、イルカを睨みつけていた。
驚いたのは、その男性客の見た目だ。派手な銀色の髪だけでも滅多に見られるものではないというのに、その下の顔は作り物かと思うくらい整っている。ただし今はイルカを睨んでいるので、ちょっと怖い。
「・・・」
慌てて視線を逸らしたものの、突き刺さるような視線は継続している。
だがその男性客が因縁をつけてきそうな気配はない。テウチも気にしてないのだから自意識過剰かもしれない。
「・・・」
だが再び男を盗み見て、その考えを改める。いつ喧嘩を売られたっておかしくない形相だ。
「ごちそう様でしたテウチさん」
男の視線に追い立てられるように残りを平らげると、カウンターに代金を置く。
「あいよっ、毎度あり」
ちょっと落ち着かない気持ちにはなったが、腹が満ちるというのは良いことだ。
「うっし。食った食った」
店を出て星空に向かって身体を伸ばす。
「ちょっと、スミマセン」
そこを呼び止められて振り向き、そのまま走り出したい気持ちになった。
「な、なにか?」
イルカを呼び止めたのは、あの男性客だった。
座っていた時にはそう身長差があるとは思えなかったが、意外に長身だ。180cmは超えているだろう。
店の中にいた時のような険しい顔はしていないものの、美形の無表情は正直笑えない。
「スミマセン、いきなり声掛けたりして」
声をかけたことを戸惑うような口調。そこには喧嘩を売ってきそうな危険は感じられない。
見た目で判断すると大学生といったところだろうが、話しかけてくる物腰は柔らかい。
「いいえ、なんでしょう?」
「あ〜突然でアレなんですけど」
よく見たら左右の瞳の色が違う。黒と赤、こっちも綺麗過ぎて作り物のようだ。
その瞳はイルカ自身というよりも顔の上。つまり結い上げている後頭部に向けられている。
男はしばらく悩んだ後、イルカに向かってこう言った。
「髪、切らせて下さい」






「で、逃げたのか?」
隣を歩く同僚のミズキに聞かれて、大きく頷いた。
「当たり前だろ。あんな夜中にラーメン屋の前で髪切らせろなんて普通じゃねぇよ」
「確かにな。けど、なんだろな。髪切り魔だったら、問答無用でその尻尾切るだろうし・・・」
「尻尾っていうなよ」
「何言ってんだ。生徒達にも言われてんぞ、今日イルカ先生の尻尾ボサボサだったねーとかって」
「げ」
金と時間を惜しんで数ヶ月放置している髪は、言われても仕方ないほど伸ばしっぱなしだ。
確かに、あの男はファッション誌の表紙から抜け出したかのように格好良かった。
だとしたら何か、深夜のラーメン屋で声をかけずにいられないほど自分が小汚かったということか。
ちょっと気になって廊下に備え付けの鏡を見ると、ミズキが遠慮なく吹き出した。
「別に気にするほどじゃねぇって」
「気になるだろ。哀れんで声掛けるほど小汚いって言われたら」
「言ってないだろ誰もそんなこと」
「本当か?」
友人としての欲目ではないだろうな。と確認する。
仕事柄動きやすさが優先される。その為か周りも身なりには煩くないのだが子供たちの見本となるべき大人であるのは疑いようの無い事実だ。深夜のラーメン屋で年下男子に哀れまれていい立場ではない。
「確かに・・・伸びすぎかもな。明日休みなんだし髪切りに行って来いよ」
「だな。うっし、明日は久々にダンゾウじいちゃんとこ行くか」
「イルカお前知らねぇのか、ダンゾウさん店閉めちまったぞ」
「え?なんで」
驚きのあまり荷物を取り落としそうになった。店主の志村ダンゾウは高齢だから嫌な想像が先に来る。
「三代目が釣り仲間探してただろ。元々幼馴染なんだってよ」
「ちょ、ちょっと待てよ。そうなると床屋無くなっちまったってことか?」
「そうなるな。ってか一応お前も年頃の男なんだし美容室行けよ、美容室」
苦笑したミズキが隣町の有名な美容室で手入れしているサラサラの髪を風に靡かせる。
「美容室なぁ」
気乗りしない声が出るのも無理はない。イルカは美容室が苦手だ。
女性スタッフには綺麗な人が多すぎてどこを見ていればいいのか悩むし、男性スタッフには男の癖にあんなチャラチャラした格好をして。と時代錯誤の頑固親父のようなことを思う。
メニューの種類は多いし、カットするだけでもスタイリストの格と髪の長さによって値段が変わるのも頂けない。「●●円〜」などという記載がある店などは、寿司屋の「時価」に相当する危険を伴っている。
改めて志村理髪店のシャンプーブロー込みカット3000円。という男らしいメニューが惜しまれた。
「もういっそ自分で切り揃えちまうかな・・・」
「それは止めとけ」
小さな呟きは、木ノ葉中学校一のオシャレ先生と名高いミズキに却下された。







「ダンゾウさんが店閉めたの知らなかったのかい、イルカ先生」
「はい」
「まぁ、突然だったもんな」
ラーメンを啜るイルカをテウチがフォローしてくれる。
志村理髪店は美容室なんかとは縁のない男のオアシスだった。もちろんテウチも常連だ。
「ダンゾウじいちゃん、死ぬまで店やるって言ってたのに」
「目が悪くなったってボヤいてたからなぁ。仕方なかったんだろうさ」
「テウチさんは辞めないで下さいよ。俺、この店なくなったら生きていけませんから」
「かー嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。チャーシューオマケだよ、先生」
「ありがとうございます」
厚切りのチャシューに大喜びしたのも束の間、ボサボサの髪がスープに映ってゲンナリする。
「どうすっかな、この頭」
ミズキの美容室は隣町の人気店だ。雑誌でも良く取り上げられていて、それだけで行く気が失せる。
この町にも駅前に美容室があるのだが、スタッフは全員女性で男性客を見たことがない。
「床屋探してんのかい」
「はい。さすがに伸びっぱなしなんで」
まさかここで若い男に髪切らせろと言われて反省したとは言いづらい。
「だったらダンゾウさんとこに行きなよ」
「は?」
「ダンゾウさんは店閉めちまったけど、あそこまだ床屋やってんだ」
「そうなんですか?」
「そっか先生知らねぇんだよな。サクモ先生ンとこの倅が戻って来ててね」
「サクモ先生に息子さんがいたんですか?」
はたけサクモはこの町を地盤にしている国会議員だ。彼の尽力があるからこの田舎の町が安穏としていられるといっても過言ではない。あの職業についていて彼ほど慕われている人物はいないだろう。イルカも投票権を得てから毎回票を投じている。
「そうか先生とは代違いか。マイトんとこの倅と同級生だったもんな」
「ガイさんなら四つ上ですね、でもサクモ先生に息子さんがいたなんて初めて知りました」
「サクモ先生も倅が家飛び出してからは言わなくなっちまったもんな」
「家飛び出したって・・・?」
「良い学校に入ったのに、床屋になるって途中で辞めちまったんだよ」
かかかっ。と笑ってテウチが鍋を仕込む。あんな立派な人でも家庭は色々あるんだな。としみじみ思った。
「それっきり。ですか?」
「ああ。けど最近都会の洒落た床屋に勤めてたのを辞めて、ダンゾウさんとこで店始めたんだよ」
「え?サクモ先生の跡継ぐために戻ってきたんじゃなくて」
「そりゃ小せぇ頃から飛びぬけて賢かったし一人息子だったから、サクモ先生は跡取りにしたかっただろうがなぁ」
子供は思うとおりにならねえよ。と笑って、テウチが煮玉子をオマケしてくれた。






「はー、美味かった」
満腹になった腹を上から叩いて思い切り腕を伸ばす。
「あ」
凝りに凝った肩を鳴らして前を見て。イルカも思わず声を漏らしかけた。
昨日の髪切り魔が驚いた顔で立っていたからだ。
「ちょっと待って下さい」
ダッシュで逃げようとしたのに気づかれたのだろう。小走りで近づかれて腕を取られる。
「昨日は、突然スミマセンでした」
深々と頭を下げられて面食らう。
謝られているのに無視して立ち去ることなど出来るわけもなく、逃げようとした足を止めた。
「顔上げてください、俺もいきなりでびっくりしただけですから」
「そりゃビックリしますよねぇ。路上で髪切らせろなんて言われたら」
青年は恐縮した様子で自分の髪をぐしゃり、と掻き乱す。その髪は月明かりが反射するほど艶やかだ。
近づくと何か良い匂いもする。普段ならこういうチャラチャラした男は嫌いなはずなのに、そうは思わなかった。どうしてだろう、と彼を見て、立ち振る舞いに浮ついたところがないからだと気がついた。
若い男にありがちの自分を誇張して見せようという気負いがない。
「あのね。オレ、美容師なんです」
青年はコレを先に言わなきゃいけなかったんだよねぇ。とボヤキながら、イルカを見た。
「美容師さん、ですか」
そこで昨日のやり取りが腑に落ちてイルカも納得した顔になる。
一般人のミズキに切りに行ったほうがいいと言われる状態の頭が、美容師である青年には耐えられなかったのだろう。
「ええ、昨日アナタが店に入ってきたときは男性で黒髪の長髪なんて珍しいな〜と思って見てたんですけど」
居たたまれない。不精していた自分の髪がボサボサなことはイルカが一番良くわかっている。
「アナタ、ドライヤー使わないでしょ」
「え、なんでわかるんですか?」
「やっぱり」
青年の視線が頭の上で結い上げられたイルカの髪に向けられ、はぁと小さなため息が漏れた。
ドライヤーを使いたいのはやまやまなのだが、風呂から上がると睡魔に負けてそのまま眠ってしまうことが多い。だが、何でその事を青年が知っているのかと疑問に思う。
「あ〜髪の痛み具合が全然違うんです。色入れてないからこの程度で済んでますけど」
「へぇ」
「最近結ぶの面倒でしょ。髪が多くなったような気がして」
「・・・」
「髪の栄養分が抜けてパサパサになってるんです。ちゃんと手入れすれば・・・」
言葉を止めた青年が正気に戻って、また頭を下げる。
「スミマセン」
「いえ、そんな気にしないで下さい。切らなきゃならないなとは思ってたんです」
初対面でケチつけられまくりだったが不思議とイルカは嫌な思いをしていなかった。
それどころか、この青年が自分の職業に真っ直ぐなのを知って、なんだか嬉しくすらあった。
「切るんですか?」
「はい」
「だったら・・・オレに切らせてくれませんかねぇ」
気になって仕方ないのだろう。イルカの尻尾から中々目を離さずに、だが控えめに申し出られる。
「いや、美容室は敷居が高くて」
「あはは。なんですそれ」
職業柄でもあるのだろう。イルカの言葉を冗談と思ったのか、屈託のない笑い声が零れる。
「懐具合もありますし」
「ヤダなぁ、オレがお願いしたんですから金取ったりしませんよ」
「でも」
「ウチの店、すぐそこなんです」








「ここ、ダンゾウじいちゃんの」
熱意に負けてついていった先は志村理髪店があった場所だった。しかし、その面影はどこにもない。
ダンゾウが一人で切り盛りしていた昔ながらの理髪店は、今時らしいけれど街並みを損ねないテウチの言うところの小洒落た店になっていた。
「おやダンゾウさんと知り合いですか?」
「常連だったんです。でも忙しさにかまけてたら店閉められてしまって」
鍵を開けた青年に続く。イルカの想像していた美容室とは違って、不思議に落ち着く。
「ね、そんなに敷居高くないでしょ」
「確かに。男一人でも入れる気がします」
「そりゃどーも。それじゃ始めましょうか、どうぞ」
勧められて、どこかのカフェにでもありそうなソファに似た椅子に座る。座り心地の良さに驚いた。
それが顔に出たのだろう。正面の大きな鏡に映った青年が嬉しげに微笑んだ。
「それでは本日担当させて頂きますカカシです。ヨロシクお願いします」
「はい、うみのイルカと申します。お願いします」
鏡越しとはいえ丁寧に挨拶されてイルカも慌てて頭を下げる。
「まず、シャンプーですかねぇ。普段、どこの使われてます?」
立ち上がったカカシが何かを引き寄せる。洗面台みたいなそれを見ながら質問の意味を考えた。
「え・・・と、石鹸です」
「せっけん?」
「ご存じないですか。牛乳石鹸、髪も体も顔も全部洗えるんです」
ミズキにも有り得ないと言われるくらいだから、カカシには軽くカルチャーショックだったに違いない。
手にしていたボトルを取り落としそうになったほど。だが彼はすぐに立ち直って鏡の中のイルカに笑いかけた。
「あ〜便利な石鹸ですねぇ。でもイルカさんくらい長髪だと、ちゃんとシャンプーとトリートメント使ったほうがいいかな、と思います」
結った髪を下ろされて予想以上に伸びているのに気づく。生徒の女の子たちより長いかもしれない。
控えめなカカシの忠告も最もだと思える。毛先は痛みまくっているし、ボサボサ感が一層高まる。
手入れされたカカシの銀髪と並ぶと、可哀相なくらいだった。
「ま、そういうことならオレの独断で決めちゃいますね」
「はい」
シャンプーくらいは買おう。そう思わずにはいられない。
「それじゃ、椅子倒しますよ〜」
背もたれがちょこっとだけ倒れて首が後ろで固定された。頭の後ろで水音が聞こえて驚く。
「上向いたまま洗うんですか?」
志村理髪店で髪を洗ってもらう時は、シャンプー台に向かって頭を突き出し下を向いて上からお湯をかけられる。男性客しかいないので化粧が落ちる心配は無いが、顔にお湯が垂れて結構辛かったのだ。
「あ〜理髪店だと逆ですもんねぇ」
「美容室は歯医者みたいに椅子を思い切り倒してシャンプーすると思ってました」
「ま、そういう店もあります。ただね、オレ身長高いでしょ?」
イルカも低いほうでは無いがカカシはそれより背が高い。それが何か関係するのかだろうか。
「イルカさんがさっき言ったのフラットシャンプー台っていうんですけど、そっちだと腰痛めちゃうんですよ」
ほとんど立ったままの姿勢を崩してないカカシに、ああ。と納得した。
「湯加減大丈夫ですか?」
「はい」
「オレが美容師成り立ての頃は、まだリアシャンプー台・・・コレがなくて、結構ヒドい目に遭ったもんです」
髪を洗ってもらいながら話をするというのは新鮮だった。なんだかちょっと楽しい。
「ヒドい目?」
「新人は来る日も来る日も掃除とシャンプーですから、あっという間に腰痛地獄です」
「髪切らせてもらえないんですか?」
「入ってすぐに?まさか。下働きしながらカットモデルを題材ごとにクリアして、やっとですよ」
ふわっ。と良い香りが漂う。シャンプーですと告げられてカカシから香ったのも同じ匂いなのに気がついた。
「カットモデルってなんですか?」
「店の営業終わったあとに友達だとか町行く人を捕まえて髪切らせて貰うんです。昨日のオレみたいに」
絶妙な力加減。人に髪を洗って貰うのがこんなに気持ちいいもんだったとは、とこっそり感動する。
「切らせてくれるんですか?」
「ん〜題材によりますねぇ。タダだからと喜んでくれる人もいますけど腕が未熟なわけですし」
「何人くらいで合格なんですか?」
「その店によって違いますけど、ウチは一つのお題ごとに百人でした」
「百人!?」
思わず頭を起してカカシを振り返りそうになった。前もって察していた手にやんわりと抑えられる。
「もちろん切ればいいってもんじゃありませんから、先輩や店長のチェックが入ります」
「百人・・・って題材が変わったら、また百人なんですよね。そんなに切らせてくれる人見つかるんですか」
「ま、ほとんど街中でナンパですよ」
流しますよ。と声がかけられる。髪を洗っただけなのに、なぜか目や肩がスッキリした気がした。
「大変なんですね、美容師さんって」
「ん〜オレなんかは好きで選んだ仕事なんで」
結構楽しいもんですよ。人の頭ばっかり見る癖はついちゃいますけど、と肩を竦める。
「確かに。好きじゃなきゃラーメン屋で人の髪なんか気にしませんよね」
「スミマセン」
苦笑する気配がして、次はトリートメント。と、また良い香りがした。
「マッサージしても大丈夫ですか?」
「そんな、髪して貰ってるだけでも贅沢なのに」
本気でそう思ったのに、予想外だったのだろう。カカシは口元を肩に押し付けて笑いを堪えた。
「あ〜しばらく時間置かないとダメなんで、肩とか首とか触られるのヤじゃなければ」
「いいんですか?」
「もちろん」
美容室すげぇ。口に出しそうになって飲み込む。
これだけ贅沢だったらミズキの美容室の目玉が飛び出るような値段も法外とは言えない。
シャンプーも気持ち良かったが、カカシはマッサージも上手かった。どこにいるのか忘れて眠りそうになるほど。
「それじゃ、流しますね」
「んあっ」
気がついたら熟睡していた。イルカは恥ずかしく思ったが、珍しいことではないのだろう。
カカシは気にした様子もなくテキパキと作業を進めていく。
「流し足りないトコないですか?」
「・・・はい」
世の中の王侯貴族というものを初めて羨ましいと思った。夢見心地とはこのことか。
椅子を戻されてタオルに頭を包まれた自分と対面する。鏡に映った顔はとても満ち足りていた。
「やべぇ・・・気持ち良い」
「そりゃなによりです」
ドライヤーの温風がまた眠りを誘う。シャンプーの心地よい香りが広がるから尚更だ。
けれどドライヤーの音が切れたときイルカの眠気は嘘のように消えていた。ぐっすり眠った後の爽快感すらある。
「うわ・・・」
そのスッキリした目で鏡を見て、自分に驚いた。
ボサボサだった髪が、ミズキみたいにと言ったらミズキに怒られるだろうがツヤツヤになっていたからだ。
「あ〜やっぱり、綺麗な髪ですねぇ」
「こ・・・こんなに違うもんなんですか」
自分の髪というのが嘘みたいだ。触ってみればしっとり、絡まった髪を解くのに苦戦した朝が信じられない。
「や、元々の髪質ですよ。あんまりにも・・・構って貰えなくて拗ねてただけで」
手抜きしていたというのは気が咎めたのだろう。しかしそう言われたとしてもイルカは反論しなかった。
これが自分の本来の髪だというなら、かなり酷い扱いをしていたということになる。
「ん〜勿体無いけど、毛先は切るしかないですねぇ。長さの希望あります?」
「いえ、お任せします」
トレードマークになっている尻尾だが、別に何か特別な理由で伸ばしているわけではない。
「わかりました。それじゃ・・・ま、五センチくらい切っちゃいますね」
言うなり銀色の細いハサミが軽やかに髪を切り落とした。手元を見る瞳は真剣そのものだ。
けれど鏡の中のカカシを注視しているイルカと目が合うと、にこっと微笑む余裕も忘れていない。
大学生だなんて思った自分が申し訳ない。ここにいるのは紛れもなく一人の職人だった。
手に届くところに雑誌を与えられていたのだが、イルカは子供のように夢中になってその光景を眺めていた。






「違うんだよなぁ」
「なんだよ。いきなりヘアケアに目覚めでもしたのか?」
職員室での呟きを聞き咎められて、イルカは手にしていたボトルを差し出した。
「コレだと思ったんだけどよ。やっぱり違う」
「おいおい。コレはな、一本五千円の高級品なんだぞ」
貸していたシャンプーを受け取ったミズキが口を尖らせる。だがイルカが聞いてないのに気づいて肩を落した。あれから3日。イルカの髪は別人のようにツヤツヤしている。
ミズキにも生徒達にも散々指摘され、それまでの酷さを自覚したイルカはシャンプーを買う決意をしたのだ。
だがどれがいいのかわからない。ミズキや女子生徒のオススメを使ってみたもののしっくりこない。
確かに石鹸よりは指通りも良くなるし、いい匂いだってする。だけどやっぱり落ち着かない。
「あのシャンプー売ってねぇのかな」
「どこのだ」
「髪切ってくれた店で使ってたやつ」
カカシの店で使ったシャンプーが一番良い匂いだった。そう思うのだ。
あの時、ちゃんとメーカーとか聞いておけば良かったな。と後悔しても仕切れない。
「売ってるだろ」
「へ?」
「そっかイルカが知るわけないよな。大抵の美容室で使ってるシャンプーとか買えるんだよ」
「そうなのか?」
「ってより美容室で使ってるのは特別仕様だから、普通の店に置いてねぇの」
「へぇ」
知らなかった。シャンプーやトリートメントなんて、ドラックストアで買うものだと思い込んでいた。
「ただし、値段が全然違うからな」
その美容室で買っているというシャンプーを誇らしげに見せられて、ついでに聞いてみることにした。
「なぁミズキ。美容室で髪切ってトリートメントってのしたら普通いくらくらいするんだ?」
「うーん店によって違うだろうけど、俺が行ってるとこは二万くらいか」
「二万!?」
「ああ、俺の担当さんチーフスタイリストだし」
事も無げに言い切られて絶句する。高いだろうとは思っていたものの、そこまでとは思わなかった。
ということは、つまりイルカはカカシに二万円分タダ働きさせてしまったということではないか。
気にしないで下さい。と笑った記憶の中の綺麗な顔に、気にします。と今更呟いた。

学校終わりに覗いてみると、店は中も外も花で溢れていた。
開店祝いの花なのだろうが店の規模に対して花が多すぎる。外から見ると花屋のようだ。
「ありがとうございました」
「悪いわねぇ、花まで貰って」
「イエイエ。またよろしくお願いします」
「ほほ。もちろんですよ。こんなに素敵にして頂けるなんて嬉しいですものねぇ」
弾む足取りで帰っていくのはイルカも良く知ってる呉服屋さんのご隠居だ。
いつも上品な装いのお洒落なおばあちゃんだが、見事に結われた髪がいつもよりずっと素敵に見える。
「ありがとうございました」
ご隠居を見送っていた茶髪の若い男が深々と頭を下げた。
若いが年配女性に受けそうな爽やかな顔立ちは落ち着いても見える。彼がサクモ先生の息子さんだろうか。
店の中に戻った青年を眺めてそんなことを考えたのは、カカシの姿が見えないからだ。
もしかして、勝手にシャンプーやらなにやらを使って二万円分タダ働きしたせいでクビになったんではなかろうかと焦った。
「あれ、イルカさん。どうしたんです?」
「うわっ」
店の前に並べられていた鉢植えから店を覗いていたイルカは後ろから声をかけられて飛び上がりそうになった。
「カ・・・カカシさんっ」
「どーも、こんにちは」
頭を下げながらイルカの髪をチラリと見て満足そうに唇が上がった。
「こ、こんにちはっ」
礼儀正しく頭を下げるカカシに釣られて頭を下げて、のほほーんとした様子にホッとする。
どうやらクビになった気配は無い。さすがサクモ先生の息子さんが店主なだけあると、懐の広さにコッソリ感謝する。
「この間はありがとうございました。生徒にも同僚にも商店街のオバちゃんたちにも褒められまくりで」
「あはは。そりゃ良かった」
「それであの・・・俺、シャンプー欲しくて来たんですけど、その・・・」
「え、シャンプーってオレの?」
「はい!ミズキの・・・ミズキって同僚なんですけど、そいつのとか生徒のオススメとか使わせて貰ったんですけど違ってて」
「それでわざわざ?」
「お恥ずかしながら、あんまり高いと買えないんですが・・・」
「あ〜スミマセン。アレ業務用しかなくって一般販売してないんですよねぇ・・・けど、そっか」
「売り物じゃないんですか」
がっくりと肩を落したイルカに対して、カカシがとても嬉しそうに提案した。
「オレの手元にあるんでお裾分けしますよ」
「え、だって業務用って普通より大きいんですよね?」
それだと値段も高くなるし、そもそもカカシの独断で売っていいのか?と聞きかけたイルカに、あの綺麗な笑顔が向けられる。
「気に入ってもらえたの嬉しいんで。っても、店先で用意できないんで裏に回って貰えます?」
「裏?」
「あ〜この裏、オレん家なんです」
住み込みか。納得して店の中にいるオーナーだろう青年に気づかれないように裏に回る。
かつてダンゾウが一人暮らししていた古風な一軒家の庭先には、不似合いな大型バイクが二台も止まっていた。
「イルカさん、こっちこっち」
紙袋を手にカカシが手招きする。縁側とカカシ。こっちも激しく不似合いで笑ってしまう。
「ハイ、どーぞ」
「おいくらですか?」
「お裾分けって言ったじゃない。いいですよ」
紙袋の中には立派なボトルが二本も入っている。ミズキのシャンプーは半分以下のサイズで五千円だった。
これだと二万くらいだろうか。と頭の中で計算したイルカにカカシは相変わらず無頓着だ。
「駄目です。この間だってタダ働きなんですから」
「あはは。アレもオレがお願いしたんですし・・・それにコレ、気に入って貰えたの嬉しいんですよ」
「だってすごく良い香りじゃないですか。カカシさんが使ってるのもこれですよね?」
「ハイ」
言葉どおり嬉しそうな笑顔を向けられてイルカの方が嬉しくなる。
「これは俺が気に入って買うんです。だから頂くわけにはいきません」
「じゃ、次に髪切る時はオレ指名して下さい。それでチャラってことで」
「でもそれじゃ」
「あ〜、イルカさんの髪がどんな扱い受けてるか考えると眠れなくなるんです」
くくくっ。と喉で笑われる。だが悪い気はしなかった。
「・・・わかりました。それじゃありがたく頂きます」






「・・・こんにちは」
カカシの店の前を通ると、掃除をしていた女の子が消え入りそうな声で挨拶をして来た。
高校生くらいだが地元の子ではない。今時ストレートの黒髪は珍しいが、それがとても似合っている。
「こんにちは、お疲れさん」
声を掛けると真っ赤になって深々と頭を下げる。その幼い仕草が可愛らしくてつい頬が緩む。
「ヒナタ、次30分空けたから七番行ってく・・・おや、イルカさん」
「こんにちは」
「こんにちは。あ〜テンゾウも仮眠取るって言ってるから、店頼むね」
「はい」
いってらっしゃい。と見送られたカカシが、イルカと肩を並べた。
「お出かけですか?」
「買い出しです。カカシさんはどちらに」
「ん〜昼飯です」
「今からですか?」
ずいぶんと遅い昼食だ。
「日曜日でしょ。立て込んじゃって」
ああ。と納得した。大半が休みの週末は髪を切ろうと思う人も多いのだろう。
「三人で店回すのなんて初めてで、なーんかバタバタしちゃってます」
「・・・あの女の子も美容師さんなんですか?」
「ええ。でもヒナタはネイリストなんで、そっちがメインですけどね」
「ネイリスト?」
「爪です。ネイルアート」
「へぇ、美容室でマニキュア塗ったりするんですか」
「マニ・・・まぁ、似たようなもんですけど」
ぷ。と吹き出しかけたカカシの笑いは幸いにもイルカには聞こえなかった。
「にしても『女の子』って、イルカ先生、ヒナタのこと何歳だと思ってます?」
「え・・・高校生くらいじゃないんですか?」
今度の笑いは隠せなかった。
「あはは。成人式なんかとっくの昔に終わってます。たぶん先生と変わんないですよ」
「俺と!?」
思わず振り返る。控え目に微笑んで手を振る女の子はどう頑張っても18歳以上には見えない。
そうなると隣の男だ。見た目に反して落ち着いているから二つ下くらいだと思っていたが、果たしていくつなのか。
「っと、じゃオレそこ寄りますんで」
「あ・・・はい」
もしかして年上とか。ニッコリ笑ってコンビニに入っていったカカシを見送って、ないないと否定した。





「見て見てイルカ先生、でこりーんサクラ」
「ちょっとやめてよイノ」
「おお、前髪切ったのかサクラ。似合うぞ」
「ほーら。やっぱりオデコ出した方がいいんだって」
学年一の才女であるサクラと、チア部の主将であるイノはとても仲が良い。タイプが真逆だが、だからこそ気が合うということもあるらしい。
「でもさすがカリスマよね。アタシも次はあそこにしよっと」
「カリスマ?」
「えー先生知らないの。ほら志村のおじいちゃんの床屋、あそこが美容室になったの」
「あ、ああ」
「あそこの美容師さんって、夕日紅とか照美メイとかの専属だった超カリスマなのよ。前のお店じゃ予約が四年先まで埋まってたんだって」
「美容室で四年先って使えなくねぇか?」
四年も待っていたら髪が伸びて大変なことになるだろ。というイルカの疑問は華麗にスルーされた。
「しかもイケメンだってんで、もーママたちが喜んじゃって」
確かに。と、そこは全力で同意する。商店街のオバちゃんたちにも新しい美容室は評判が良い。
全体的に『サクモ先生の息子さん』の人気が高いのが少々悔しい、イルカとしてはカカシの方がイケメンだと思っている。
「イノも好きだろ、イケメン」
「そうだけど、ちょっと年の差ありすぎ。ウチのおねぇちゃんなんかは告白するーって言ってるけど」
「え」
「サクモ先生の一人息子なんだって。お金持ちってこと」
「ああ、そっちか」
オーナーの青年を思い浮かべてホッとする。ホッとした後に、なんでだと自問するが答えはない。










=未完=