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「イルカ先生、ほらこの旅館は薬草風呂が人気なんだそうですよ〜」
「薬草風呂ですか?いいですね」
「あ、こっちは洞窟風呂って書いてあります。へぇ温泉っていろいろあるんですねぇ」
パンフレットの説明を熱心に読みながら感想を述べる隣の男を眺めて、イルカは小さく微笑んだ。
温泉街道恋街道
「海野中忍。なぜここに自分が呼ばれたかは理解しているかね」
ずらりと揃った里の重鎮。その中でも人事の大御所である上忍がそう尋ねた。
「はい」
簡潔に、凛とした声が響く。
木ノ葉の里で忍達が最も恐れる懲罰会議の場にイルカはいた。
理由は至極簡単だ。昨日付き合い始めた恋人の悪口を言った上忍を、居酒屋で叩きのめしたのである。
結果、イルカは左手首の捻挫と顔に大きなアザを作ったが、相手になった5人の上忍のうち3人は病院へ搬送。退院まで最低2週間を要し、残りの2人も本日からの長期任務をキャンセルになった。
これが病院まで発展しなければ、中忍に惨敗した上忍たちは堅く口を閉ざしただろうが、救急車を呼ぶ大騒動。その上、現場が一般の居酒屋だった事もあり、全員に対する懲罰会議が用意されたのだ。
「言い分があるなら聞こう」
忍同士の喧嘩は、一般人に対する危険性も考えて御法度とされている。
しかもイルカは格上の上忍に対する不敬罪にも問われているから喧嘩だけより罪が重い。
「ありません。先に手を出したのは私です」
「・・・・向こうは飲んでいたら、いきなり海野中忍が暴力をふるって来たと証言しているが」
喧嘩相手の顔を思い浮かべる。懲罰会議の結果次第では忍の資格を剥奪されるから向こうも必死だ。
「その通りです」
だが、イルカは自分の行動を正当化するつもりはなかった。
どんな理由があろうとも、教職に就くものが暴力に訴えるのは問題だと自覚していたからだ。
ただし、5人の上忍を怪我させた事に関しては、微塵も反省していない。
「・・・・・・それでは、結論を言おう」
教員免許剥奪と、長期謹慎が相場だろうとイルカは上忍を見つめた。
「海野中忍。君の性格上、理由もなく喧嘩を売るようなことはないというのが我々の総意だ」
「は・・・・?」
「だが、その理由も君は言わんだろう」
言い訳がましいことは口にしないイルカの頑固さに、上忍や重鎮が苦笑する。
「そして先に手を出した事は動かしようのない事実・・・・よって一週間の謹慎とする」
「・・・・・・」
告げられたあまりに軽い処分に、イルカは声も出なかった。
喧嘩相手の上忍たちには既に上忍手当一年間停止という、かなり痛手となる処分が下っている。
加害者である自分が減給すらされなくていいのだろうかと、不安になった。
「それでは会議を終了する。海野中忍はそのまま残ってくれ」
他の重鎮たちがぞろぞろと部屋を後にすると、上忍とイルカは二人きりになった。
「今回の処分が軽いのが不満そうだね」
「・・・・いえ、そんなことは」
突如問い掛けられて慌てて否定する。もちろん処罰が軽いというのは有難い事だ。
「海野中忍。君が懸念しているとおり今回の処罰には理由がある」
「理由・・・ですか?」
「はたけ上忍とは親しいそうだね?」
突然飛び出した恋人の名前に、イルカは心臓の鼓動が思い切り跳ね上がったのを感じた。
さすがは上忍。しかも人事の大御所。昨日付き合い始めたというのに既にバレているのだろうか。
「・・・・・実は、はたけ上忍から休暇願いが提出されている」
「存じております」
旅行しましょう。と誘ってくれた恋人に、休暇願いの書き方を教えたのは昨日の事だ。
まさか翌日の朝イチで提出したとは知らなかったが。
「彼が・・・・・・一度も有休を利用していないのは知っているかね」
「は?」
「はたけ上忍は、生まれてこの方自分から休暇を申請したことがないのだよ」
「・・・・・それでか」
休暇願相手に唸っていたカカシの姿を思い出して、ようやく納得する。
書き方がわからない、出す場所がわからないと、申し訳なさそうにイルカに頼みに来た理由も理解した。
「それでは今回の休暇は簡単に受理していただけるんですね」
「まぁ、そういうことだ」
上忍はそう言ってイルカに一枚の紙を差し出した、はたけカカシの休暇願だ。
よほど色んなところをたらい回しにされたのか、今朝提出したその用紙はくしゃくしゃになっている。
「はたけ上忍が希望している三日間は全て任務が入る予定だったが・・・初の有休申請だ」
まるで子供の作品でも見守るような目で、くしゃくしゃの用紙を眺めて上忍が口を開いた。
「ゆっくり休養させてやってくれ」
「ご予約のはたけ様ですね、お待ちしておりました」
重厚な造りの老舗旅館。歴史を感じさせる佇まいに相応しく、時折鹿脅しが響いた。
ガイドブックにも、流行の温泉雑誌にも載っていないが、客足が途切れないのが見て取れる。
カカシの趣味の良さに湯治を趣味とするイルカは、ひっそりと驚いた。
「あらまぁ、婚約者同士でのご予約だなんて、誰が間違えたのかしら」
嫌だわ、ごめんなさいねとコロコロと笑う美人女将に、カカシが不思議そうに首を傾げた。
「間違ってなんか・・・・」
「いやぁ疲れました!早く風呂に入りたいですね!カカシさん」
女将の言葉にきちんと訂正を入れようとしたカカシの口を塞いで、無駄に大声を出す。
幼年期の刷り込みのせいでカカシは今回の旅行も婚前旅行と思っている、何の疑問もないらしい。
しかし、世間一般から見れば男同士の婚前旅行を事前予約するなんてありえないことだろう。
カカシを責めるつもりは一切ないイルカとしては、自分がフォローする以外に道はない。
「あ〜大丈夫ですよ。ここは露天も大きいですし、部屋にも露天と内風呂がありますから」
だから急がなくても入れます。と微笑まれて、見惚れつつイルカは素直に首を傾げた。
「カカシさん、ここ利用されたことがあるんですか?」
正直な話、昔付き合っていた女性とのデートの場所とかじゃないだろうな!と、内心面白くない気で尋ねる。
自分だってカカシが初めての恋人ではないのだが、思わず妬きたくなるほどにイルカはカカシに惚れている。
それに昔の恋人と過ごした場所に連れてこられることほど腹の立つことはない。
ただ、カカシが『嫉妬』を理解できるかどうかは難しいところで、悪気はないだろう。
そう覚悟していたイルカに、カカシは相変わらずコッチが和みそうな微笑を唇に浮かべた。はずだ。
「ええ。任務の途中で何度か、アナタの父上とオレの師匠やスリーマンセルの友人と」
「は?」
「海野隊長・・・あ〜、アナタの父上の行きつけの旅館だったんですよ〜ここ」
「そ、そうなんですか?」
「だから、いつか絶対にイルカ先生とご一緒したいって思ってたんですよねぇ」
肩透かしを食らった返事に、イルカの中で勝手に渦巻いていた嫉妬が雪解けよりも早く消える。
自分の現金さに少し呆れるがコレばっかりは仕方ない。付き合い始めの恋人同士なんて相手が世界の全てだ。
「俺とですか?」
確かに昔から自分を想っていてくれたことは本人から聞いていたが、やはり素直に驚いた。
なんといっても相手は、里中と言わず世界中の女性が大喜びで同伴したがる美丈夫なのだから。
「ええ、まぁ」
歯切れ悪く頷いたカカシに、疑問を持つ間もなく部屋に案内された。
「うわっ」
「いい眺めでしょ」
思わず声を上げたイルカの後ろから、してやったりと嬉しそうなカカシの声が続く。
それもそのはず。カカシの予約していた部屋は、多分この旅館の中でも極上の部屋だったのに違いない。
部屋の内装は旅館の外見と同じようなどっしりと重厚な造り。知らず心が穏やかになる。
そして、枠のない一枚窓から見晴らす緑の絨毯。マイナスイオンとやらが目に見えそうだ。
「あの辺りに露天風呂があるんですよ」
緑の絨毯の中を指差されて心が躍る。
カカシと旅行していることはもちろんだが、イルカは温泉が大好きなのだ。
「まぁま、良くご存知ですこと」
お茶を入れてくれていた女将が会話に加わる。
男二人で温泉というのは妙な客だとイルカは思うが、さすが客商売のプロはそんなことを感じさせない。
「ちょっと通ってたことがありましてねぇ」
「あら、お客さまのような素敵な方を覚えてないなんて、私としたことが」
「あはは。そりゃそうですよ、オレがココに通ってたのは15年前ですから」
「15年前?それでは先代女将の時代ですわね」
カカシの気さくさは人を誤解させるのではないかと、時に思う。
どんな些細な会話もカカシは無視しないし、あの穏やかな口調で応じて嬉しそうに話を聞く。
イルカも出会った頃に感動した人への気遣い、これも忘れることはない。
アカデミーで荷物を抱えて歩いている教師がいれば気さくに手伝うし、残業している者にも声かけを怠らない。
お陰で、イルカの恋人はアカデミー女教師の『結婚したい上忍ランキング一位』なのだ。
本人に聞いていなければ、イルカだってアレが擬態だとは思えない。
「お風呂は、露天もお部屋も24時間入っていただいて構いませんので、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
カカシと夕飯の細かい打ち合わせを終わらせて、女将が席を外すとカカシが口布を引き下げた。
「せっかくですし、さっそく一風呂行きますか?」
「ああ、そうですね。風呂の後は浴衣で一杯ですよ」
相変わらず儚げな美貌につい目を奪われながらオヤジっぽく言ったイルカに、カカシが喉で笑った。
「なんですか?」
「や、親子だなぁ、と思いまして」
海野隊長も来るたび言ってました。と遠い目をしたカカシに少しだけムッとした。
別に父親に似ていると言われたのが嫌だったわけではない。自分の知らないカカシの過去に嫉妬しただけだ。
「どうせカカシさんは酒、嫌いですからね」
「嫌いというわけじゃないんですよ。薬物訓練を受けてるんで効かないだけで」
「え・・・?だって飲みに誘ってくれたじゃないですか」
カカシと付き合う前、二人は日々飲み歩いていた。
酒豪のイルカに付き合って飲んでいたカカシは、確かに顔を上気させていたはずだ。
「・・・・・あ〜イルカ先生と飲みに行けるのが嬉しくて」
「は?」
どこの国のプレイボーイが口にしても寒気が走りそうな台詞を、サラリと口にする。
色素の薄い髪が額当から開放されてフワフワと顔にかかる。それが妙に子供っぽくて可愛い。
「馬鹿なことを言わないで下さい」
赤くなっているだろう顔を伏せて、イルカは浴衣とタオルを乱暴に抱えた。
「うっわ〜堪んねぇな」
森の中に溶け込むように作られた露天風呂は、傷に効くとかで平日にも関わらず5人ほど先客がいた。
その中の数人は忍だと一目でわかったが、五大国の条約で保養地での戦闘は固く禁じられている。
お陰でイルカも含めて、全員がゆったりと休養を取っていた。
「お湯が綺麗だ」
緑がかった不透明の湯は、とろりとしていて肌に染み入る。湯治を趣味とするイルカにも文句なしの天然温泉。
両手両足を大きく広げて伸びをしたイルカは、そのまま和風の入り口を眺めた。
湯気と霧が入り混じった入り口に、望む長身は未だ現れない。
正式に付き合いだして、まだ一週間。未だ恋人同士という感覚は薄くて、言うなら友達以上恋人未満だろう。
そう考えると、この旅行の意義は大きい。
イルカも男の恋人を持つのは初めてだが、カカシに任せていれば大丈夫だという安心感があるから不思議だ。
今までも決して男に声を掛けられなかったわけではなかったのだが、冗談じゃないと全て断ってきたのに。
相手がカカシだというだけで、こんなにドキドキしているのはなぜだろうか。
「何期待してんだよ・・・俺は」
コレまでの付き合いで二人の間の肉体的な接触は、手を握ったのとおんぶされたくらいだ。
そろそろ惚れ込んでいる相手との、そういう関係に思いを馳せても不思議はないだろう。
「でも、まぁ・・・あっちも真剣だし」
誰に言い訳する必要もないのだが、やはり男のプライドを納得させるのには時間がかかる。
嫁に来て欲しい。と言われたのだから当然カカシは、イルカを抱きたいとそう思っているはずだ。
確かにそれが自然だと思う。どうも自分がカカシを抱くのは無理そうだし、養ってやれそうにもない。
なによりもカカシに抱かれるのだという現実が、嫌じゃないのだから。
そこまで考えたところで、気配を感じて入り口を見る。さすがに普通の場所ではカカシも気配を絶ったりしない。
が、しかし。入ってきた長身を捕らえて、イルカは絶句しそうになった。
「か、カカシさんっ?」
「はい?」
笑うカカシの整った顔の下半分と左目には、まるで整形後の患者のようにタオルが巻きつけてある。
なのに、その思わず眼を背けてしまいそうになった立派な下半身は何一つ隠す様子がない。
「あ〜遅くなっちゃってスミマセン。タオル巻くのに手間取っちゃいまして」
あはは。と苦笑するカカシに目の前で屈みこまれて、イルカの視線はやはりソコに釘付けになる。
「風呂で顔隠す必要もないでしょう!取りなさい、そんなもん」
カカシが自分の顔を人前に晒すのを極度に嫌っているのは知っていたが、ここまでかと少し呆れる。
「え〜」
不満そうに声を上げたカカシを無視して、タオルを取る。
それをカカシの胸に押し付けて、ようやくイルカはその弾力が予想と違うことに気がついた。
「うわ・・・」
見た目が華奢なのでてっきり細い男なのだと思い込んでいたが、カカシはどうやら着痩せするタチらしい。
バランスの良い身体は一見しただけで、イルカよりも鍛えられていることがわかる。とはいえ身軽さを求められる上忍に相応しく、必要のない肉は筋肉すらも削ぎ落としているのだろう。この身体をどう評するべきか言葉に詰まる。鋭角的とか、攻撃的とか、草原の肉食獣を連想させる実にシャープな体型だ。
「どうかしました?」
「い、いえっ!なんでもありませんっ」
よりによって男の身体に見惚れるなんて。と心臓をバクバクさせながらイルカは無駄に頭を振った。
カカシは少し不思議そうにしていたが、イルカに洗い場を促されて大人しく従う。
「俺は変態か・・・・」
未だ動悸の収まらない心臓を押さえて呟くが、他の客もカカシの身体に注目しているのに気が付いた。
別に変な意味でなく、人目を引く顔と身体の持ち主なので当然といえば当然かもしれない。
「イルカ先生、背中流しましょうか?」
「うわっ!?」
不意に気配もなく後ろから問いかけられて、イルカは危うく風呂で溺れるところだった。
洗い場まで行ったはずのカカシが、ボディソープ片手で真後ろにいた。
「背中・・・・・?」
「温泉に来たら同伴者の背中を流すのは礼儀でしょ?」
「は?」
「って、四代目が」
イルカが聞きとがめたのを気にしているのだろう。カカシの声が自信なく続く。
幼年期の殆どを暗部と最前線で過ごしたカカシは、世間の常識というものをほとんど知らない。
とりあえず程度にはアカデミーで習ったが、そのアカデミーにも怪我の長期療養で一年間通っただけだ。
あとは、師でもある四代目火影と、イルカの父親である海野上忍に任務途中に教えられている。
だが、イルカも嫌になるほど知っているが、四代目はともかく、イルカの父親は人をからかうのが好きな男だった。
そしてカカシは、可哀相になるほど素直に教えられたことを信じている。
「あの・・・・上忍に背中流してもらうなんて、正直恐れ多いんですが」
「?」
「普通は格下の人間がすることなんですよ、カカシさん」
あまりにも不思議そうなカカシに、先生だからというわけでもないが子供に言い聞かせるような台詞を選ぶ。
「ん〜それって、掟なんですか?」
「そんな大層なものじゃないですけど」
苦笑するイルカに、カカシはホッとしたように表情を崩すと、手にしたボディソープをかざして見せた。
「じゃ、流させてください」
「・・・・・・それでは、お言葉に甘えて」
なんだか妙に気恥ずかしいな、と思いつつ、せっかく楽しそうにしているカカシの誘いを断るほどのことはない。
洗い場に移動したイルカの後ろでは、カカシがボディスポンジを泡まみれにしている。
「それじゃ、失礼します」
礼儀正しい人だ。一礼してイルカの身体にスポンジを当てたカカシに見惚れたのは一瞬。
しばらくスポンジで背中を丁寧に洗ってくれていたカカシが、スポンジを置いてボディソープを自分の手で泡立て、そしてマッサージをするようにイルカの身体に回してきた。正直、第三者からみるとかなり際どい。
「か、かかかかかかしさんっっ!ちょっ、ちょっと待ってくださいっっ!」
「ハイ?」
それでもカカシに下心があるようにも見えなかったので放っておいたイルカだったが、こと股間に至れば話は別だ。泡だけでなく、ボディソープを液体のまま使いゆるりとイルカのナニを扱く手法に驚き慌てて抵抗する。
「なっなにをしてるんですかっ?」
「?・・・なにって、背中を流してるんですが」
「そこは背中じゃないでしょうっ」
「ハイ」
「そういうところは自分でやりますから」
「・・・・・背中を流すというのは、全身くまなく洗わせていただく、という意味ですよね?」
「違います。文字通り、背中を洗うんです」
「ん〜?」
困惑しているカカシに、思わず三途の川を渡った父親を引きずり戻しそうになった。一体何を教えたんだ、アンタ。
「もう俺は十分流してもらいましたから、はい今度はカカシさんの番ですよ」
「オレ?いや・・・オレは、いいですよ」
「ほぅ、俺の好意が受けられないと?」
スポンジを手に睨み付けると、カカシは素直に怯えた顔をしてイルカに文字通り背中を預けた。
「では、お布団ご用意しておりますので」
ペコリと頭を下げた仲居さんに必要以上に反応して、イルカは口に入れていた里芋をそのまま飲み下した。
「ハイ、どーも」
一方のカカシは平然としたもので、幸せそうに秋刀魚を口に運んでいる。なにしろ数少ない好物だ。
これはアレか。上忍と中忍の差なのか、それとも経験地の差だろうか。
なにしろ上忍といえば、遊ぶ金にも相手にも困らない立場だ。泣かせた女の数知れず、そこまで考えて小さく唸る。ちょっと妬ける・・・・・いやかなり妬ける。
「イルカ先生?」
「はひっ?」
考え事をしていたせいだろう。アホみたいに声が裏返ったが、カカシは気にした様子も無くふわりと笑う。
「あ〜箸が止まってたので。具合でも?」
「いえ・・・・あの。風呂も気持ち良いし、メシも美味いなぁと」
「そうですか、そりゃ良かった。お誘いした甲斐ありましたねぇ」
「でも、大丈夫でしたか?カカシさんが三日も休みを取るなんて大変だったんじゃ」
「ん〜オレ、よく調べたら有休が200日以上消滅してて」
「に・・・ひゃくっ!?」
思わず味噌汁を吹き出しかけたイルカに、今度はカカシの箸が止まった。
「はぁ、オレ任務の割り当て全部受付に委託してたでしょ。それすると有休取れないって知らなくて」
「今まで休んでなかったんですか?」
「ん〜任務前って唐突に待機になったりするから、それが休みだと思ってました」
忍の福利厚生はあってないようなものだ。イルカたち内勤は比較的優遇されているがカカシたち戦忍たちは違う。
命を削るような任務を数多くこなして、各地を点々とすることが多いため有休なんか取ったことのない忍が多い。
「それで人事に聞いたら、二泊くらいどうにかしてやるって言って貰えまして」
「当然の権利です」
「あはは。でも任務放棄で、今年の有休は全部没収なんですけどねぇ」
「は?」
「ま、イルカ先生と二泊三日旅行出来る方がいいですし」
「まさか・・・・・この旅行の休みと今年の有休引き換えたんですか」
「ハイ」
飄々と答えられて頭を抱える。この先カカシが有休を消化できるとは思えないが、それにしたって不公平だ。
思わず『休養させてやれ』と言った人事の上忍の顔が過ぎった。つまり今後酷使するから三日間くらい休ませろ。
そういう意味だったということだ。感激した自分を思わず罵ると、カカシがヘラリと笑顔を浮かべた。
「オレ、旅行って初めてなんですよ」
「え?でもカカシさんは任務で各地に」
「あ〜ええ。任務地なら数多く行ってますけど、こういう恋人と二人きりとかないので」
照れくさそうに微笑むカカシに、イルカも幸せな気分になる。
「そうですよね」
「楽しいもんですねぇ。イルカ先生と風呂入って、メシ食って、新婚さんみたいだなぁなんて思っちゃいました」
「ぶふっ」
そうだった。この人は無意識に口説く天才だった。と吹き出した酒を処理しながら反省する。
その手にカカシの手が重なって、耳元で囁かれた。
「今日は歩き通しで疲れたでしょ?そろそろ休みませんか」
ついに来たか、この瞬間が。イルカもゴクリと生唾を飲み込み、力強く頷いた。
「・・・・なんだ、これ」
すかーと気持ち良さそうに眠っているカカシを眺めて、思わず呟いた。
期待していたわけではない。別に抱かれたかったわけでもない。そんな切羽詰ってなんか絶対無い。
「けど・・・・爆睡するか?普通」
二人っきりで、温泉で、風呂上りで、恋人が浴衣ときたら欲情しなけりゃならんだろう、まっとうな成人男性として。
いや、確かにカカシは全うとは言いがたい。だが、これはもう本能だ。ここは幸せそうに寝ていい場面ではない。
しかも布団は成人男性の二人旅行に相応しく、あと一人真ん中で眠っていられるくらいに離されている。
本来寝床は寝るところだが、ここで健全に眠られた日にはイルカの方が黙っていられない。
「カカシさん」
大体、上忍は元来気配に敏感で寝ているように見せかけて寝てないことが多い。常時半覚醒状態なのだ。
しかし・・・里の誇るトップ上忍でありながら、カカシはどう見ても爆睡している。間違いなく。
「・・・カカシさん」
ぐっすりと眠っているカカシの耳元で名前を数回囁いて肩を揺すると、うっすらと色違いの瞳が覗く。
「ん・・・・イルカせんせぇ、まだ寝てなかったんですか?」
「眠れなくて」
もちろん明かりは落としている。ここはムードだ、ムード。そう唱えながら精一杯の色っぽい声を出してみる。
それが色っぽいかどうかは第三者判断なので難しいところだが、努力だけは買ってやりたい頑張りだ。
カカシは布団の上に胡坐をかいて、この上なく眠そうに首を傾げた後、ぎゅっとイルカを抱きしめた。
「うあっ」
「眠れないときは〜一緒に寝ましょ」
その言葉こそ望んだものだったのだが、カカシはイルカの首に顔を埋めたまま微動だにしない。
しばらくすると、すうすう。と気持ち良さそうな寝息が聞こえてきて、イルカは緊張を一気に解いた。
「・・・・・どうせ俺は色気の欠片もないですよ」
「そういうわけじゃないんですよ〜」
ぐっすり熟睡しているイルカの横で一つ弁解してみた。
そりゃカカシだってオトコノコですから、可愛い恋人が浴衣一枚で転がってるのに指を咥えて我慢したくない。
イルカが期待している以上にカカシだって期待していた。大体男が恋人を旅行に誘うのなんて目的は一つだ。
しかし今夜だけはイルカに手を出せない理由がある。例え理性が崩壊してもイルカのために手は出せない。
「本当はねぇ、すっごく我慢してるんですよ」
一生懸命誘ってくるイルカに狸寝入りで誤魔化すのは正直とっても辛かった。
温泉の魔力も侮れない。浴衣と風呂上りが最強だとか鼻で笑ってたけど、うっかり手が出そうになった。
「だけど、アナタはオレの大切な人ですから」
自制心、自制心。と心に唱える。上忍たるもの、恋人の誘惑にも負けるべからず。
この状況下。S級任務より辛いな、とカカシのため息が静寂を震わせた。
「ふぁああ」
思い切り伸びをして目覚めて、イルカは窓一面の緑の絨毯に一瞬目を奪われた。
驚いて、そういえば旅行に来ていることを思い出す。二泊しかないのに安眠してしまった恨みも込めて。
「くそぅ・・・・熟睡しちまった」
仕事で疲れていたのと、カカシとの旅行で緊張していたのと両方だろう。イルカは久々に爽快な目覚めを迎えた。
なのに心の方は全然爽快じゃない。当然だ。その原因になった男を睨んでやろうと視線を流して。
「は・・・・・?」
隣の布団は血塗れだった。それだけじゃない、忍装束に身を包んだカカシが転がっている。
「なん、で?」
眠ったのはカカシの方が早かったはずだ。きちんと旅館の浴衣を着ていた、意外に似合うななんて思ったから間違いない。
なのに目が覚めたら血塗れで、忍装束に着替えているなんてどんなマジックだ。
いや、そうではなくて。とイルカは自分に思い切り自己ツッコミする。問題なのはカカシが血塗れであることだ。
「カカシさんっ!?大丈夫ですかっ」
保養地での戦闘を禁じてあるといっても、忍は全員が五大国に所属しているわけではない。
特に名高い上忍であるカカシは、その外見が目立つため一目で木ノ葉の写輪眼だとわかってしまう。
まさか深夜に寝込みを襲われたのだろうか、それなのに自分は熟睡していたのだろうかと唇を噛む。
「ん〜・・・・オハヨウございます、イルカ先生」
「カカシさん」
「・・・・・どうかしました?」
「どうかしました、じゃありませんよ!いったい何があったんです?」
「へ?」
眠そうに目を擦っていたカカシがイルカの剣幕に驚いて自分の周りを見回す。そしてポリポリと頭を掻いた。
「あちゃ・・・・」
まるでお漏らしでもした子供のような声を上げるが、当然これはそんなものではない。ムッとする生臭さは本物だ。
「あ〜ちゃんと温泉入ろうと思ってたのに・・・・うっかり寝ちゃったんですねぇ」
「いや、だから一回寝たでしょう。その後に何があったんですか?」
「ん〜」
「まさか敵が・・・?」
「いえいえ。昨日、緊急で任務一件入っちゃいまして」
「はい?」
任務地にいる忍に追加任務が割り当てられるのは珍しいことではない。だが、カカシは休暇中の身だ。
しかもこの休暇と引き換えに、今年の有休すら没収された木ノ葉一過労死に近い上忍様だ。
「おや?帰ってたんだ」
「は?」
ガラリと扉を開いて入ってきた男の第一声に、イルカは目を見開いた。
そこには、宿の浴衣を着て体を仄かに上気させたカカシ。温泉帰りなのが聞かなくたってわかる。
「あ〜おはようございます、イルカ先生」
「え・・・は?なん、で?」
風呂上りの爽やかカカシと、血塗れで布団に転がっているカカシ。目の前に二人いる恋人に混乱するイルカに血塗れの方が苦笑した。
「イルカ先生に変な真似、してないだろうねぇ」
「あはは。途中で束縛が消えたからヤバイのかなぁと思ったけど、本当にヤバかったんだ」
「お前ね・・・・そこは心配してチャクラ抑えるトコでしょ」
「そっちこそ、何心配してドジ踏んだの?」
ニコニコと見惚れるような笑顔で告げる風呂上りカカシに、血塗れカカシが苦々しく顔を歪める。
「そっか。オレがイルカ先生と風呂に入ったからか」
「あのねぇ・・・」
「ちょっ、ちょっと待ってください!どういうことなんですか、一体」
延々と続きそうなカカシ同士の会話に混乱した頭が、ようやく口を動かすのに成功した。
遮られて二人のカカシはイルカに視線を移すと、二人揃って困った顔になる。
「あ〜実は、緊急で任務依頼が舞い込みまして」
「ええ、それはさっき聞きました。でも休暇中のカカシさんに依頼しなくても」
受付担当者は一体何をしているのかと唾を吐きたい気分になる。なにしろカカシは人生初の休暇中なのだ。
普段から命を削っている戦忍の休暇くらい全うさせてやるのが、優遇されてる内勤忍の勤めだろう。
「イルカ先生って優秀ですよねぇ」
「はい?」
風呂上りカカシが脈絡のない褒め言葉を口にする。すると血塗れカカシの方も頷いて続けた。
「アナタが謹慎に入ってから三日で受付所は恐慌状態に陥っているんですよ」
「は?」
「ダブルブッキングや、日程ミスが続いてまして、オレにまで頼らざるを得なかったんです」
「ま、A級任務じゃ受けられる上忍も限られてますしねぇ」
「・・・・・・受付のミスなんか、貴方がフォローする必要ないのに」
「ん〜まぁ、そうなんですけど。苦情になったら帰ってからのイルカ先生が大変かな、と思いまして」
ダブルブッキングした任務をどうにか担当して欲しいと急使が来たのは、温泉に入る前のことだ。
断りたいなと正直思ったけど、謹慎空けに処理をするイルカのことを考えると一件くらいいいかと諦めた。
「イルカ先生がラク出来るならオレも仕事する甲斐あるでしょ」
「だったら、そう言ってくだされば」
「でも、受付が大変だなんて言ったらイルカ先生は里に帰っちゃいますよね、あと一泊あるのに」
「・・・・・」
「コイツね、どーしてもご一緒したかったんですよ。多少無茶しても」
「いつから本体じゃなかったんですか」
咎めるように見られて風呂上りカカシが肩を竦める。そう、このカカシは本体ではない。
「温泉入る前に入れ替わりました。ただ、夕飯食べ終わるまでは本体の意識下で動いてたので本体と一緒ですよ」
「え・・・・?」
「本体がドジ踏みまして、こっちにまで意識割けなくなったんです」
ま。お陰でこうやって自分勝手に風呂行ったり、イルカ先生とお話できるんですけどねぇと、微笑まれて絶句。
イルカは血塗れで倒れこんでいるカカシを慌てて引き起こした。案の定、右腹部に深い裂傷。刃物の傷だ。
裂けた傷口には何の手当ても施されておらず、こびりついた血の塊を新しい血が塗り替えている。
「こんな傷を放っておくなんて、何を考えているんですか」
「あ〜ちょっと寄り道するのヤだったので」
救急道具を引き寄せたイルカに、面目無さそうにカカシが言い訳する。
それを風呂上りカカシ、つまり影分身したカカシが興味深げに眺めている。
「オレが、イルカ先生に手を出すんじゃないかって相当心配だったんだよねぇ」
「分身のカカシ先生は熟睡してましたよ。だいたい自分の分身なんだから嫌でも行動パターンは読めるでしょう」
少し自棄になって言い捨てたイルカに消毒液を乱暴に振られ、カカシがちょっと眉を顰めた。
「自分の分身だから信用ならなかったんですよ、イルカ先生」
「は?」
「うっかり手傷負う程度に」
相変わらず楽しそうな分身のカカシを制御出来ないところをみると、カカシは見た目より消耗しているらしい。
「さて、それではオレは元に戻りますか」
「え?」
「本体も戻ったことですし・・・・あ〜イルカ先生、だから先生に色気がないわけじゃないんですよ」
「・・・・・・まさか、起きてたんですかっ?」
「ん〜オレが本体だったらなぁ、とちょっと後悔しました」
くすくす。そんな笑い声を残してカカシが噴煙と共に消える。あとに残された二人には気恥ずかしい空気が流れた。
「・・・・・・スミマセン、自分の影分身も制御できなくて」
「いや、俺の方こそ見抜けませんでした全然」
「オレ上忍ですし」
見抜かれたら結構落ち込みますと、笑ったカカシにイルカも笑顔を浮かべて見せた。
そうか昨日カカシがイルカに何も仕掛けてこなかったのは、そこにいたのが本体ではなかったからだったのか。
影分身でも本体からの命令系統が崩れれば暴走しかねない。だがそこはトップ上忍、影分身も上忍並だ。
「あれ、本当なんですか?」
「どれです?」
「影分身の動向が気になって怪我したって・・・・」
「あ〜そんなつもりなかったんですけど。浮かれてたのは否定しません」
「浮かれてた?」
「意識をね・・・・こっちに向けすぎまして。うっかりザクッと」
「だったら影分身を消して、チャクラを温存すべきでしょう」
「ま、そうなんですけど。オレがいきなり消えたらイルカ先生びっくりするかと思いまして」
「びっくりしますけど・・・・目覚めたら血塗れのカカシさんが転がっているよりマシです」
「あ〜面目ない」
「責めてるわけじゃないです」
ザックリと抉られた痕に眉を顰める。感情を失っている分、感覚も鈍いとは聞いていたが見ている方が辛い。
イルカと居るときだけ感情が生まれるのなら、自分と一緒でないときカカシはこの傷をどう思っていたのだろう。
大怪我を負えば死ぬ事だってあると、この生まれたての赤ん坊のような上忍は理解しているのだろうか。
「楽しかったんですよ」
「はい?」
「こんなに楽しいことがあっていいのかなとか思ってたら、ザクッと」
「・・・・・・」
大したことではない。ただ二人で旅行に来ただけなのに、ここまで嬉しいと思えるカカシが逆に可哀相だった。
里のために生かされ、里のために育てられ、どれだけの犠牲を払ったのかすら自身では気づくことも無いだろう。
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