平成元年卒業
「忍耐からの飛躍」
小川敬介 我々が幹部であった昭和63年度の日本は、いわゆるバブル経済の好景気に支えられ、世の中全体が明るく輝いていました。継続していた売り手市場の就職活動、とりわけ体育会出身者が企業から求められると言う好環境の元で、我々自身の将来には明るい展望が開けていました。このような環境と充実した学生生活のなかで、我々は部活動に熱中しました。 この年は、かねてより西加茂郡三好町に建築中であった名古屋校舎が完成し、開校記念行事が盛大に行われました。わが空手道部は、名古屋校舎代表の長谷川を中心に名古屋校舎体育会の中核メンバーとしても積極的に関わり、活躍しました。 こうした明るい話題の一方で、我々が幹部になった時点での空手道部は、我々4年生が5名、3年生が1名、2年生が1名という深刻な部員不足に陥っていました。これは決して彼ら同期入部者が少なかったわけではなく、先輩より引継ぎ、守られてきた伝統の練習方法や礼儀作法についていけなくなり、退部していった結果なのです。諸先輩も我々自身も経験してきたように空手道部の厳しさ、苦しさ、辛さに耐え、練習を重ねた者が、有段者となることができます。部に残った者は団結し友情を深め、やがて幹部となり、試合やゼミのみならず、大学内外で活躍することができますし、卒業後も空手道部での経験が大きな財産となって、職場や地域で活躍する糧となると強く信じています。このことは、卒業後の現在も間違ってはいなかったと今更ながらに思います。愛知大学空手道部で4年間続け、卒業することは、大変価値のあることなのです。 しかしながら、当時の我々は、我々幹部が卒業した後に部として、団体戦のチームができない状況に陥ってはならない。いくら部員が試合で強くても部活動を維持していくために必要な最低限度の部員がいなければ、愛知大学空手道部の将来は無いと考えました。まさに愛知大学空手道部存続の危機でした。 幸いなことに、新入部員5名を入れることができましたが、かつての先輩方のような1学年で数十人以上の新入部員が入部するといった状況は、到底不可能になっていました。 そこで、我々は空手道部の伝統を尊重しつつも、部を存続させながら、さらなる活性化を目指しました。過度な礼儀作法はやめ、部員がやる気を持ち、短期間で強くなる環境を整えるよう努力しました。 第一は、心肺能力を高める為、効果的なダッシュを取り入れたランニングに変えました。 第二は、試合に勝つために必要な体力、筋力をつけるために、器具を使ったウェイトトレーニングを練習に取り入れました。 第三は、組み手に応用できるよう、ミットを使ったコンビネーションの練習や攻撃ばかりでなく、受けや防御の練習も取り入れました。 第四は、実戦経験を積むため、積極的にOB主催の合宿や練習に参加しました。しかしながら当時最大のライバルであった中京大学には推薦入学生が多数おり、惜しくも優勝を阻まれました。 こうした努力と我々自身の練習の成果が、東海学生空手道選手権大会で団体戦優勝に結びつかなかったことは非常に残念です。 部員数の減少といった深刻な状況を重く見た諸先輩方の物心にわたるご支援により、翌年度より、それまではなかった空手道の経験者を優先的に推薦入学させる制度を大学当局に認めていただいたことは、愛知大学空手道部にとって大きな転機となりました。経験者が入部した事の効果は早々に現実的に見えてきました。なにより部員確保ができ、初心者入部者にも目標ができて、部全体のレベルアップが見込める様になりました。 その後、聞き及ぶところによると我々が卒業した後の後輩の時代には、部員数も1学年数十人を数えるほどまで増え、愛知大学空手道部は、毎年東海学生空手道選手権大会で優勝を重ねている強豪校になっているとのこと。後輩の活躍をうれしく思うとともに、我々5人がしたことが愛知大学空手道部の新たな伝統となって、部の活性化につながっていったと自負しています。 現在、我々5人は、家庭を持ちそれぞれの職場で充実した日々を送っており、折に触れて再会しては旧交を温めあっているところです。
東海学生空手道選手権大会 (春季) 団体戦準優勝 東海学生空手道選手権大会 (秋季) 団体戦準優勝 東海学生空手道選手権大会 個人戦優勝 鈴木秀俊(2年秋季大会、3年春季大会) 冬季合宿 豊川寒稽古 夏季合宿 福井県小浜市
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