昭和31年卒業村井八郎 父親に高校生のとき、“将来は教育畑”への道を奨められるも、身を処する術に劣る自分に、人を導く素質が備わっている筈がないと断念!さりとてその他の希望のないままに愛知大学法学部に入ったのが、昭和28年の桜咲く四月のことだった。 当時は戦後の立ち直りの時代。学生運動真っ盛りで東大・愛大事件の最中で、学内では新旧さまざまな思想が渦巻き騒然とした時期であった。そんな時、高校時代の友人である金田君(2年時に退部)に誘われるままに空手部の門をたたいた。
入部して間もなくのある日、フリーをやらされた。上級生から本気で殴っても蹴っても構わないと言われ、少々腕力には自身のあった小生、勢い込んで向かっていったが、結果は惨々であった。小生よりもはるかに身長も低く、体格的にも見劣りすると思われる一年先輩の黒釜、若林両先輩に一指も触れる事ができなかった。加えて同期入部の真野克巳君(柔道2段、3年より応援団に移り団長となる)にも、ものの見事に投げられてしまった。この時初めて「武道」「技」と言うもののスゴサを身をもって知った次第である。 入部して一年間は、愛大空手部生みの親的存在の田中宏先輩の下で稽古に励み、先輩が卒業された以後は、伊藤藤男先輩が主軸となり、大塚師範,三河支部の小島支部長,そして東大空手部の方々のご指導を賜りながら、日々の稽古そして合宿等を体験した。 昭和29年より新城警察署の道場を借り、地元の小中高生10人位の指導を開始した。新城市で彼等と共に行った演武会は、今懐かしい良き思い出である。昭和30年頃よりは旧柔道場を空手道場とし、日大OBの鈴木師範の厳しい剛の指導の下、部員も少しずつではあるが増え始め、優秀な人材が輩出しだした。 ここで大塚師範からお聞かせいただいた師範のエピソードの一つをご紹介しよう。 大塚師範もこの頃より海外へ空手指導に出掛けられる事となり、そんな際ホテルでの出来事である。洋式トイレに入って用をたそうとしてみたが、不慣れなためどうしても”大物”が出ず、困り果てた揚げ句、便器の上に跨がって日本式スタイルで要約目的を達し本当にほっとされたとの事である。今ではすっかり身近なものとなった洋式トイレも、当時としては先人らにとって使い勝手の悪い物であったようだ。 時折洋式トイレに座しながら、酒杯を傾けつつ話しておられた師範のお姿を思い出す今日このごろである。 在学4年間唯ひたすらに励んだ空手道の稽古が、小生に強靭な身体と精神力をもたらした。そのお陰で社会人として挫折することなく今日を迎えでることができたと確信をしている。あの頃安酒に酔い「娘さん惚れるなよ・・・空手部の学生さんにはよう・・・」とよく皆で歌った懐かしい日々を想いつつ、今日も一献かたむける小生である。 久郷恵保 昭和27年春入学して間もなく、愛大事件が発生しました。その喧噪もようやく治まった6月末空手部に入部。一回の稽古体験もなく、そのまま合宿に行くことになり、不安な気持ちで参加した事を憶えて居ります。
練習は基本重視で非常に厳しく、1日午前3時間 午後4時間 夕食を挟んで夜間2時間 延べ9時間の毎日。密度の濃い合宿で、初心者にとってはとても有意義なものでありました。 それ以降春は校内道場、夏は奥三河の小・中学校を借りての合宿を行い、その際には和道流宗家大塚先生を招いて指導を受けるようになったのであります。
当時の定期的な行事は以上であったと思います。昭和28年田中宏昌主将が卒業され、強力な指導者不在と言う事による練習内容のマンネリ化は歪めなかったのも事実であったが、その反面、この頃より各年度の入部者も増え、その大半が高校時代運動部系でそれなりの活気が漲って居りました。 今から思えば田中先輩が空手部創設という種をまき、その種が地中で芽生え、外界の光を浴びようと、地表に割れ目を開いた・・・そのような一時期ではなかったかと考えられる次第です。 |