高遠城址の桜
付.高遠藩 藩校・進徳館に学んだ人々
山峡は ここに極まる兜山 三峰川を前に 城は立ちけむ
窪田空穂
高遠、その地名の高雅さは、
たかだかとした一幅の絵をみるようです
司馬遼太郎
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高遠城址公園の桜は、「タカトウコヒガンザクラ」と呼ばれます。
マメザクラまたはキンキマメザクラと、エドヒガンザクラの交配種一系で、日本桜研究の第一人者、林弥栄氏は「ブルヌス ベンズラ マキシマウイチ・ シイビー・タカトオコヒガンザクラ」という名前をつけたといわれます。
密度が濃く、赤みの強い、小ぶりの花をつけた一五○○本以上の桜の林は、昭和35年、長野県の天然記念物の指定を受け、平成二年には日本さくらの会の【さくら名所百選】に選ばれています。
また町では【桜憲章】を制定し、桜守の手によってその保護育成がはかられています。
「天下第一の桜」・高遠城址公園の桜は、四月の開花時期ともなると、全国からのバス観光旅行、老若男女の観光客を呼び込み、とりわけ照明に映える夜桜の景観は、影絵のように淡く浮き出る南アルプスや中央アルプスにかこまれ、
その絶景は、他に比類のないものです。
開花時期は例年四月十二・三日頃とされているが、平成15年は四月十五日、人出もピークは、十九・二十日、強い雨風がなければ、二十五日ごろまでは楽しめます。
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高遠城址公園の面積は、ほぼ12万平方メートル。
そのうちタカトオコヒガンザクラが植えられている部分の面積は、66499.79平方メートル。
高遠城址公園
昭和48(1973)年、国指定の「史跡」
明治4(1871)年廃藩置県、翌5年、高遠城の建物は民間に払い下げとなる。明治9(1876)年、公園となり、旧藩士たちが元の高遠藩の「桜の馬場」から桜を移植した。本丸の老樹はこのとき植えられたもので、樹齢約120年になる。
「こひがんざくら」に霞む「学雲橋」から大手門を望む
公園入り口に高遠閣がある。修養道場、会合の場所として、利用されている。本丸入り口に城下町問屋の門が移築されてある。
また本丸には、「高遠公園碑」「中村不折胸像」「藤原社・新城神の合殿」「太鼓櫓」「中村元恒・元起の贈位記念碑」などがある。
また橋を渡った南曲輪には「靖国招魂碑」、更に橋を渡り、法瞳院曲輪に出ると、碧梧桐とその弟子広瀬奇壁の巨大な「句碑」がある。
二の丸の奧には、伊澤多喜男の「無字の碑」、その前には荻原井泉水の「句碑」がある。
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伊澤多喜男の「無字の碑」 ![]()
昭和8年頃、高遠町の有志は、伊澤多喜男の徳を慕い、町民の範と
すべく、その顕彰碑の建立を計画した。多喜男氏は、「政治家はいつ、
なにが起こるかわからない。まして軍部に、にらまれている私は、国賊
といわれるようになるかもしれない。そうなると、碑を建てた人たちに迷
惑がかかる。」といって、再三の申し出を聞き入れなかった。町も意思を
変えず、昭和10年、遂に無字のままの碑を建てた。
昭和23年、碑の側に、そのいきさつを記した副碑が建てられている。
清貧の政治家・伊澤多喜男の風格を表す碑として、相応しい。
進徳館 ![]()
城址入り口の手前、左手の石段を登ると、古い門が見える。その奧に
見える茅葺きの建物が、高遠藩の藩校・進徳館である。
万延元(1860)年、時の城主・内藤頼直によって開校され、明治4(187
1)年廃藩置県により廃校となる。
進徳館やその師範であった中村元起の門からは、維新後の日本に
多くの人材を輩出した。とりわけ教育界で活躍した者が多く、日本近代
教育の開拓者となった伊澤修二をはじめ、多くの指導者を生んだ。また
進徳館出身の藩士から長野県教員になったものが多く、高遠藩は明治
初年、教師の供給源となった。進徳館は近代日本を動かした逸材を生む
とともに「信濃教育」の源流を形成する力となった。
進徳館には講堂・聖廟、総裁詰所、学監詰所、師範詰所、教場、生徒
控所などがあった。
「進徳館」の額は、藩校の設立を助言し、命名した江戸昌平坂学問所の
林大学頭復斎の子・学斎の筆になる。
聖廟には孔子を中央に向かって右に孟子、曹子、左に顔子、子思の像
が祭られている。
進徳館の学問は、天山に基礎をおき、元恒に受け継がれ、元起により
結集されたと言われる。その特色は「実学」に重きをおき、実践に裏付け
られ、しかも原理・原則を重視した。
高遠が生んだ先覚者 ![]()
仁科五郎盛信 ![]()
武田信玄第五子。天正九(1581)年、高遠城主となる。翌年織田信忠の
大軍に包囲され、落城した。墓は五郎山の山頂にあり、位牌は桂泉院
にある。
保科正之
徳川秀忠第三子、家光の異母弟。信玄の娘・見性院に預けられ、7歳で
高遠城主・保科正光の養子となり、正之と改めた。寛永8(1631)年高遠
城主となる。五年間在位、名君の誉れが高かったといわれる。
阪本天山 砲術の天才、儒学者、教育家 ![]()
延享2(1745)年、高遠藩士で砲術家・英臣の第一子として生れる。父か
ら伝えられた萩野流砲術に加えて独創的な「周発台」を発明した。
江戸に出て荻生狙来の高弟大内熊耳に師事、易学の研究にも努めた。
また高遠藩の郡代として、旧弊の刷新につとめ、藩の財政を改革した。
五十六歳の時、さらに大阪を経て長崎に赴き、長州で多くの門人に砲術
儒学を教えた。
「高遠の学」は、天山を祖とし、その門人らによって形成された学問体系
である。
中村元恒 医師、儒学者、高遠藩儒官、![]()
安永7(1778)年代々医者であった元茂の子として上穂村(駒ヶ根市)に
生れた。15歳で阪本天山の門人となり儒学を学ぶ。
享和元(1801)年京都に上り、儒学と医学を学ぶ。文化7(1810)年高遠藩主
内藤頼寧に招かれて、儒官として藩士に儒学と医学を指導した。
また「天山の学」をひきつぎ「高遠の学」を完成した。
著書に「尚武論」「蕗原拾葉」(郷土文献の大集成)「易学源流論」毛詩通解」
その他多数の著書を残し、その一部は「希月舎文庫」として保存されている。
中村元起 高遠藩儒官、![]()
進徳館 藩校を創設、「高遠の学」を次代に継承
中村元恒の次男、
伊澤修二 日本近代教育の開拓者、東京音楽学校、東京芸大初代学長
東京高等師範学校長、貴族院議員![]()
嘉永4(1851)年、高遠藩士伊澤文谷の長男として生れる。進徳館で学び
明治3年大学南校東京大学前身の貢進生に選ばれた。同7年愛知師範学
校長、同8年ハーバード大学で教育学理化学を修める。同11年帰国、翌年
東京師範学校長、同年10月音楽取り調べ係に任命され、教員養成、体育
音楽等未開拓の分野を開拓した。同14年小学唱歌集初編を編集発行した。
文部省では文相森有礼のもとで、教育制度を確立させた。
大正6(1917)年急逝。
著書に、「生種原始論」、「教授真法」「教育学」「学校管理法」等がある。
伊澤多喜男 貴族院議員 枢密顧問官![]()
明治2(1869)年、高遠藩士伊澤文谷の4男として生れる。東京帝国大学
東京大学を卒業、内務省に入省。
明治40年和歌山県知事、愛媛県、新潟県各知事を経て台湾総督、東京
市長を歴任。憲政会系の指導者として活躍した。
戦後公職追放となり、政界を引退。
劇作家飯沢匡は多喜男の次男。昭和24年没。
中村弥六 日本第一号の林学博士 日本林業の祖 衆議院議員![]()
安政元(1854)年、高遠藩儒官中村元紀の4男として生れ、明治2年上京、
開成学校に学ぶ。大阪師範学校で教職を勤めた後、ドイツに留学、林学を
学ぶ。帰国して農商務省に勤め、林業の指導者を養成した。
第1回総選挙以来8回当選、歴代内閣は「背水将軍」として恐れた。
弥六はアジア諸国の発展に関心をもち、孫文を援助したり、フィリッピンの
独立運動を支援した。昭和4(1929)年没。
著書に「林業回顧録」布引丸事件秘録」「布引丸事件の真相」等。
中村不折 洋画家 書家 文展、帝展の審査員、![]()
城址公園本丸に胸像が立つ。 慶応2(1866)年江戸に生る。明治3年、故郷高遠に帰る。
ここで漢学を北原安定に、南画を真壁雲卿に学ぶ。高遠小、飯田小教師となる。
同21年上京小山正太郎に本格的な絵を学ぶ。
夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、らの作家と交友、その小説の挿し絵を描く。
同34年フランスに留学、ジァン・ポール・ローランスに師事、38年帰国、
40年大作「建国靱業(じんぎょう)を発表、洋画界に確乎たる地位を占めた。
昭和18年没。著書に「芸術解剖学」「俳画法」「不折俳画」等がある。
島村利正 作家![]()
明治45(1912)年、高遠町本町に生れる。高遠実業補修学校中退。上京して
正則英語学校に学ぶ。奈良飛鳥園に勤めた頃、志賀直哉、滝井孝作らの
知遇を得て師事し、作家の道に入る。
1940年「高麗人」で芥川賞候補となる。1950年「青い沼」で平林たい子賞。
1955年「妙高の秋」で読売文学賞を受賞。地味な作風ながら純度の
高い短編中編を書き続けた。
その他「残菊抄」「奈良登大路」「秩父愁色」「霧の中の声」などの外に、
郷里高遠を舞台にした「城址のある町」などがある。また随筆に「多摩川
断想」。
昭和56(1981)年没。