プロフィール    時は、夢と、思いやりの、積み重ね                

 ちょっと くわしく。 これは私の自画像である。ここで私は、自分を、客観視する
             勇気が必要だ。     

   唯原 歩       
                 よろず、すべてに、ほどほどに
。                                            時には・・・ 《ちゃらんぽらん》のすすめ

 

 
 1927、長野・高遠町生れ(森 毅氏 の20年説によると55歳)
  
 私は・・・、染生糸や駄菓子・飴菓子の製造・販売、卸しと小売りを扱う商人でありながら、家業をよそに、町会議員・水道組合理事長ほか三つの公職に憂き身をやつした父と、いつも身ぎれいにしていて、嫁にはやさしい姑・・・、2人のムツカシイ継子・・・にかしづく、亭主よりは15歳も年下の母とを両親にもつ4男(継兄1人、継姉1人、実姉1人、実兄2人、実妹1人)として、この世に生を享ける。

 オヤジはとりわけ子煩悩で、子どもらに手を上げることはもちろん、口で叱ることもない、「子どもにはやさしい父」だった。公用で東京や大阪へ出かけたときは、必ず子どもらにお土産を買ってきてくれた。
 おふくろはシツケにきびしく、メンドウミはよかったが、こどもをよく叱りつけた。「歳費のない町会議員」の選挙をはじめ、外(そと)の仕事ばかりに精を出し、家のことは放りっぱなしの亭主のグチを言いながら、針仕事(和裁)の内職をしたりして家計を助けた。
 おふくろには、よくガミガミおこられ〔感情〕たり、叱られ〔愛情〕たりして、囲炉裏のそばやタンスのかげで泣きじゃくった記憶がある。


                          


 いま、思い起こそうと努めてみても、こどもの頃(小学校入学前)の記憶はほとんど
ない。

 ただ祖母・いねが糖尿病を患い、68歳で死んだときの記憶だけは、鮮烈に残っている。
 我が家の仏壇の前、東側のタンスの前に、北を枕に横たわる祖母・いねの亡骸が、不思議に古希を過ぎた今も、なぜか私の記憶の奥から離れない・・・が、
今、祖母に関する記憶も・・・、これしか残っていない。
 祖母の命日は昭和5年9月18日だから、私の三歳の頃の話ということになる。
 葬儀のとき、風呂の前の中庭で撮影した一族郎党の写真・・・親戚のじいさん・ばあさん・おじ・おば・いとこ・きょうだい・・・おふくろに抱かれた、満一歳の妹まで含めた・・・の中に、めずらしくふっくら太った、白い丸顔の、一見、育ちのよさそうな、自分の姿がみえる。

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 次のアルバムを繰っていくと、私の記憶には全然残ってはいないが、左手を父親(和装の上にインバネス、頭にはソフトの帽子)の右手に握られて、ステッキをついた洋装のいとこ(父の妹と母の兄が両親の長男)との真中で、紅葉のような右手を不器用に突き出して、やや緊張気味に、直立不動の、不恰好な姿勢で突っ立っている男の子が、まぎれもなく吾輩らしい。

 そこには三歳の頃の田舎少年が投影されている。これは前の写真にひきかえ、ひどく疲れきった、真っ黒の、それでいてなぜか命の渋さを秘めた、いかにもやんちゃ坊主で、手に負えないワルガキといった風貌をしている。

 高遠公園に建立された中村不折(高遠町出身の画家)の胸像の前で撮影したものらしいが、頭上に咲く桜の情景やそのとき交わされた大人の言葉のきれはしなどの想い出は、すべて、もちろん、なに一つ、今の私の脳裏には蘇ってこない。
 写真の裏には、まさしくおやじの筆跡で、昭和6年4月26日撮影と記されている。


   


 しかし、・・・
 この写真も、一族郎党の写真とともに、私がこの世に生をうけた最初のころのイメージを記録しているイミで、もっとも祈念すべき写真である。

                        

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 私の幼少時代は、まわりの噂話によると、まったくのヤンチャ坊主(よく言えば活発な子)で、その一例としてとくに親・兄弟(2人の兄と1人の姉)や親戚の先輩らや、近所のオバハンらから耳にタコができるほど聞かされたことは家の前の道路(県道)に寝ころんでは、おやじが起こしにくるまでは、ガンとして起きなかったらしい。他の人に起こされても、またすぐ道路に寝ころんでしまったようだ。
 当時はあまり車やトラックの往来はなかったが、自転車や荷馬車、人の通行には迷惑だったに違いない。おやじの商売の邪魔にもなったことになる。とりわけ近所のオバサンたちには、とんだメイワクをかけたようだ。
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 芥川竜之介の「河童」をもじって表現してみた。
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 吾輩は、また時には道の真中で、人通りや荷馬車の往来を、股メガネに覗いている

「冗談じゃない。なにをしている」と世間のささやき。

 しかし吾輩はすました顔で目をこすりながら、返事をする。

「ツマラナイことばかりだから、世の中、逆さまに景色を眺めてみた。・・・
・・・けれどヤッパリ同じだね」

 吾輩はいつのまにか往来の真中で「大の字」に寝転び、脚をさらに大股にひろげる。
 世間は驚いて吾輩を引き起こす。

                  

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 私は小学校に入ってからは、環境が変わったせいか、急におとなしくなり、ケンカもしない人にメイワクをかけない、かといって特にめだつこともなく、鳴かず飛ばずの少年になっていたらしい。
                          
 昭和一三年四月、五年生になったとき、師範学校出身で、新進気鋭の、「林袈裟美」という男の青年教師が担任として赴任され、教育方針として、級長・副級長制度を、この高遠小学校で、はじめて採用される。
 それもクラス全員による選挙で、私が東組の級長に選ばれ、担任の先生から級長を命じられた。
 因みに、副級長は福沢繁幸、神宮よし子が選出される。
・・・                    
 この歳になってから今思うと、この時代に、夢をもち、画期的な、新しい教育の理想を追っていた先生だったという思いがしてならない。
 
 その先生も、赤紙一枚で南京攻略に従軍させられ、若くしてその命とその夢を閉じられてしまった。                    
・・・・・ 
 われわれのポストは、一応卒業するまでの2年間続けられた。
 6年生になって名目上は、級長の立場に変化はなかったが、事実上は、この地位は有名無実のものになってしまった。
 クラスの統率力、支配力をつけてきた「お山の大将」が、子どもなりの集団の力学(グループダイナミックスとかいうヤツ)で、クラスをリードするようになったから・・・。

 しかし担任は、6年生に学年が変わってもなぜか、改めて級長・副級長の選挙をやらずにわれわれの立場に変わりはなかった。
 戦地への慰問や公共機関への寄付などには、担任は代表として、いつも私の名前を使うようにしていた。
 当時、「花畑」という農場で栽培し育てた野菜を町の人たちに売り歩き、その売上金を戦地に寄付したとき、「森下四朗外生徒一同様」宛の感謝状をいただいたが、そのときの差出人に「陸軍中将・板垣征四郎」の名前があったことを覚えている。

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 昭和15年3月、小学校を6年で卒業となったが、商売の景気は、「国家総動員法」につぐ「戦時統制令」のせいもあって、相変わらず低調で、当時、家計は火の車、貧乏のどんぞこにあえいでいた。
 両親との話では兄姉にならって、小学校高等科に進むつもりでいたところ、担任がいつのまにか、おやじを説得して、どたんばで中学進学ということになる。


 1752番地へリンク

    1752番地より
                          

 貧乏ながら小学校担任の説得と指導のおかげで、晴れて憧れの「ペン中」の校章輝く中学校に入学できた。
 学費は、授業料と諸費、計6円也。
 ・・・
 不思議なことに、中学1年1学期の学業成績だけは、古希をすぎた今でも自分の記憶に残っている・・・。17/150であった。
 さすがに中学は小学校と違って、アタマのいいヤツや勉強の好きなヤツが多いんだナと思った。
・・・・・
 オレは中学生活を2年、3年、4年と積んでいくうちに、ナンバー1よりもオンリー1に憧れた。 これは、自分ひとりだけの、キラリと光るものを求める憧れで、希望や意思というよりも、まさに、「あこがれ」であったような気がする。
 ところが5年生の新学期を迎え、野沢潤という担任の教師から突如、校長室に行くように言われ、台田茂太郎という校長から他のクラス、東・中組の級長(小田切淳と日野太郎)、副級長(柴利江と北原実衛)と西組の副級長(福沢弥彦)とともに、私は西組の級長(森下四朗)を命じられた。
 私の4年生学年末の成績が、3番だったせいなのか、当時の記録は残ってはいないが、しかし、なぜ私が西組の級長に選ばれたのか、確かなところは今もって不明である。


                         

・・・・・「爪の痕跡」 -軍需工場の中の青春-参照

 われわれの中学生時代は五年間、すべて直接、間接、戦争の暗雲に閉ざされた。
 とりわけ五年生時代は、まともに授業が受けられたのは、一ヶ月だけ。他は雨天のみ学校。
 雨の降らない日は、農村での田植え、稲刈り、桑の抜根作業、六道原での伊那飛行場建設のための土方作業、井澤学校林での植林、農村に泊り込んでの暗渠排水工事等々に明け暮れて・・・
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 中学生らの溢れる向学心や好奇心は、非条理な戦争の大河にせきとめられた。
 ある作家は、いくつかの危険な断崖の中で「青春は眩しく光る崖だ」と述べているが、「われわれの青春は、未来の見えない、鈍くうつろう灰色の崖」でもあつたろうか・・・。

・・・・・ そして、とどのつまり、五年生の9月からは三月の卒業式を終わった後も、終戦間近まで、長野県伊那中学校報国隊として、名古屋の軍需工場での長期学徒動員に駆り出されたのだ・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ★ 戦争という名の「暗雲」に閉ざされた【当時の時代相】は、卒業学年の少年たちの進路選択にも、いや応なく大きく重くかかわった。

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  ☆ 歴史に学び、われわれの歴史を後世に、語りつないでいきましょう。

 ・・・ 自分を、自分たちを、その歴史を、人びとに、みんなに、世間に、子どもたちに、後世に、未来たちに、悪びれることなく伝える勇気を持ちましょう。

「爪の痕跡」へ
        勤労動員


・・・やがて終戦。
 既成の価値観や倫理学の崩壊、希望や未来のすべてが失われ、山河と絶望だけが残る。


                  

 戦後。
 イも、豆飯、雑炊、すいとん、いり豆、ジャムつきコッペパン、など栄養失調が気遣われるほどの、腹ペコで、ヒーヒー言いながらのレベルの食生活が続く。

 まったくといっていい「受験勉強なしの受験」であった。
 しかし終戦時のドサクサにまぎれて、なんとか国立の高等工業学校に入学する。
 「物理」は一番ニガテで、成績も悪かったのに、なんの因果か、「高工」の電気工学を専攻させられるハメになる。
 「高工」での学業成績は、小学校や中学校の時代とは、180度の転換で、三年間を通じてまさに、低空飛行そのもので推移した。
 なんとか、不認定科目は1学年から卒業まで、一科目も出さずにすんだが、けっこう悪友と連れ立って、城山公園や善光寺山門、野尻湖などに遊び、より広い教養(?)を身につけるかたわら、遅まきながらの青春を、不慣れで、不器用なスタイルで、遊びほうけた。

 折に触れては、僚友の辰野雄威や小山和男らと学校の講義をサボリ、師範学校前に並び立つ県立図書館に出向いて、専門外のルソー、アンドレジイド、ケ゜ーテやヤスパース、ハイデッガー サルトル、パスカル、モンテーニュなどの翻訳本を読みふけった。
 
 どの文芸評論家であったか、辰野隆が博士号をとったときの論文だという
「仏蘭西文学上・下」(白水社刊)は、当時私も学生の分際ながら、 「まさに圧巻だ !! 」と感じた。
                        
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 この頃(ころ)になって、ようやく「平和」を感じとるようになる。
 空襲警報のサイレンにも、おびえないでもすむ。神社や川べりや防空壕に、逃げ惑わないでもすむ。
 貧しくても、ユメがもてるようになった時代の「しあわせ感」をひしひしと体感する。・・・・・・・・・・・・・
                         
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 電気工学の課程を規定の3年間で、なんとか末席を汚して修了。
 ひきつづいて逓信局機械課線路係(電電公社-NTTの前身)という職場に就職。
 1年経って“深く”思うところあり、同局を退き、高校教師(数学・理科)となる。

 この頃、日増しに「秋霜烈日」という言葉が、私のアタマから一時(ひととき)も、はなれなくなる。
 検事バッジは菊の紋、弁護士バッジは向日葵。
検察官のバッジは「秋霜烈日」を表している。秋におく霜と夏の烈しい日をイメージしているという。

 向日葵よりも菊の紋が、なぜか自分の全存在を支配する。
 私はしきりに「東京地検特捜部」をユメに見るようになる。

 ギリシャ神話の女神「テミス」は、法と正義の女神。
テミスは目隠しをして天秤と剣をもっている。
この神話のイミを考えたりもした。

・・・・・・・・・  

 25年4月、1年間の教師生活に別れを告げ、志を同じくした次兄とともに上京。
 【大学旧制度の最後の年】だときいて、次兄とともに私大・法学部(旧制・3学年制)に入学。
 家賃の安いネグラを求めて、ツルミのアパート、友人が巣くう新宿・阿佐ケ谷・世田谷・浦和や大学構内の研究室内、大宮櫛引・宮原などに、フトンをかついで転々とする。

 大学1・2年のとき、授業をさぼり、食うためと学費捻出のためのアルバイト=皇居・桜田門内にある「恩給局調査課」(東京駅下車)で恩給事務の仕事に従事する。
 この職場には、法大、東大、慶大、中大などを中心に30名ほどのアルバイト学生がいて、青春を謳歌しながらも、大志を燃え立たせてそれなりに勉学にうちこんでいた。
 課長が中大卒で係長が中大と慶大卒だったせいか、中大の学生が特段に多かった。
 授業のために職場を休む日が多くて、調査課にはずいぶんと迷惑をかけたが、課長をはじめ課の上司はみんな我々アルバイト学生の便宜をはかってくれた。夜間の学生の身分を思うと、ぜいたくは言えないが、アルバイトなしで昼間悠々通学・聴講している学生を、当時われわれは多少のヒガミを交えて、「遊学生」(ゆうがくせい)と呼称していた。
 今でこそ大学生は、その収入の用途は多種多様ではあろうが、ほとんどの学生がバイトを持っている。当時は、昼間の大学生が昼間のアルバイトを持つなどは、ごくごく稀れであった。

 ・・・
 御茶ノ水駅の道路を隔てた真向かいに郵便ポストが立っている。 
 ちょうと゜この頃、三重から上京した妻との最初の出会いの場所として、とりわけこの場所に、私の想いは深い。

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 司法試験のほかに公務員上級試験、外交官試験などがあったが、当時の私には後述の二者については、まったくの不勉強で、その試験の存在さえも知らなかった。

 大学1年目の夏休みに故郷の高遠に帰り、人並みに司法試験に備える努力を始めた。
 遠い親戚にあたる興福寺という寺の、蝉しぐれに囲まれた一室を借り、法律の丸暗記に集中してみたりもする。
 一週間ほどのカンヅメの結果は、丸暗記は自分のショウにあわないことを知る。
 ケ・セラセラ・・・アキラメ・・・。 
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・               ・
 「我は山賊、汝(うぬ)が誇りをかすめとらん」(太宰治)という「道化の表情」や、「生活に耐え、人間に耐え、思想に耐え、世界に耐える」、「展望」の臼井吉見が真の実存主義作家と激賞した(椎名麟三)。その他・・・
 野間宏や織田作、田村や青山(2003年現在90歳でなお健筆)、篠崎などの常識をはずれた無頼派、ヒロポンでかきまくった“生きて甲斐なき男たち”の時代。

 「僕の誠実さが僕を磔刑にした」(原口統三)の「あわれむべき終末の自負」等々・・・。
 溢れるダダやデカタンスの戦後派私小説の洗礼をうけた「アプレゲールの時代」に生き、
「一行のボードレールにも如かない」(小林秀雄)メランコリーとアンニュイの青春の谷間を彷徨したりもする。

 雨の夜空に飛び散る架空線の火花をつかまえようとして、人並みに全学連のデモの尻にくっついて、スローガンを叫んだり、陽(ひ)にあせて黄色く染まったザラ紙の本を乱読乱学して、青い実や赤い実をついばんでいたりした若い、この頃の時代。
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 大学には司法試験準備のための、いくつかの研究会が、入会を勧めに来ていたが、なぜか哲学研究室のゼミを選択し、主任教授が専攻する法哲学= (ケルゼン)の「純粋法学」と(ラードブルッフ)の「法形而上学」を研究テーマとする。
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 この方向で上を望んでいたが、現実は重苦しく、如何ともしがたく、生活その他のために、歯ぎしりをして初一念を断念。・・・ケ・セラセラ
 29年2月、偶々声がかかった臨時雇いの中学教師となり、数学と英語を担当する仕儀となる。

                       
 3月までは、まだ臨時の教師の身分だったから、このまま一生教師を続ける意思はなかった。とりわけ私の意識の中では、この道の終着駅である校長とか教頭とかには、全然魅力を感じなかった。特に“校長先生”とか“教頭先生”とかの呼称には、生理的な嫌悪感さえ、もった。
・・・
 その代わり、はじめて「生徒から」“〇〇先生”と呼ばれたときは正直、嬉しかった。
  しかし先生同士が相手を先生と呼び合うのは、イケスカナイ、なんともイヤな感じがした。
大学教師になってからも、私はいつも相手の教師を『〇〇さん』と呼ぶことにしていた。
 しかし学生から先生と呼ばれるのは、ごく自然に受容できたような気がする。
 
                         
・・・・・・・・・・・

 34年4月長野・伊那市に仮寓、高校教師(数学・理科)として転任。
 36年4月、名古屋に転住、高校教師(電子科・電子回路、電子機器、高周波計測)として着任。
・・・・・
 ひきつづき、妻とともに幼い二人の娘をつれて、名古屋市内に居所を転々とする。
・・・・・
 このころ大学教師への任用を志し、種々その門を探る。
・・・・・
 この間、愛知県内各高校(数学、電子計算機と流れ図)、県教育委員会教育センター(小中高教員の現職教育・コンピュータ、教育工学、教育研究法、学習指導法)、名古屋の女子大と女子商科短大(情報処理論、コンピュータ演習、情報管理論−情報検索)等に勤務。
 ・・・・・・・・・・・・・
 これよりさき、高校在勤時代、昭和46より、県教育センター建設調査会議・専門部会所管資料の調査研究と汎用電子計算機導入機種選定専門会議委員として県教育センター建設の準備に携わる。 
                       
 情報検索用教育シソーラス1978年版(AIDOR Thesaurus)の開発(教育センター、研究代表者) 〔庁内から、ミスター・アイドルのニックネームをいただく〕
 文部省JEIC(日本教育情報センター)構想調査研究会委員
    業追えて
    ビールに想う
    新幹線
      (52年11月17日 東京・霞ヶ関 文部省からの帰途)

 国立教育研究所教育シソーラス(国レベル)開発プロジェクト委員
 文部省教科用図書(高等学校電子回路、電子機器、中学校技術)検定調査審議会調査員(白表紙本の審査)
 IEA(国際教育調査)国内委員会委員
 文部省主催全国教育情報処理講習会講師
 日本図書館協会図書館学(情報検索)研修会講師
などをつとめ、一応、とりあえず自分の、宮仕えの仕事を終わる。
   ・・・・・・・・・・・・・・
  
 教育のいろいろな分野・領域を体験できたし、私の仕事を支えてくれた先輩・同僚の、たくさんの善意と友情にも恵まれた。
 また、さまざまな小市民社会に見え隠れする美醜両面の人間模様にも触れることができた。
 挫折や回り道、エラーや弱気や勇み足もあった・・・。
・・・・・
 チャランポランの人生。右往左往の人生・・・一見ムダに思える人生。しかし・・・
 これは一つの視点だけから見るせいで、多くの視点、広い視座、全体の私の人生の流
れ、言ってみれば“神の配剤”、“理性の権威”として、すべてに意味があり、有意義であったと古希を過ぎた今、深く感じている。
 むしろ否定的な側面の方が、私の人生全体にとってはブラスであったようにさえ感じる。

 ・・・世界的に著名な哲学者・ヘーゲルの次の言葉が浮かんできた。
     【理性の狡智】(List der Vernunft)

そして・・・。
 今は、終(つい)の住みかを得て、家族・妻、長女、次女夫妻、孫二人とともに、
 愛知・名古屋の近くで、
 「いま、高齢新人類に求められる美学とは、なんなのか?」
を、探しつづけている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           
 かくして・・・・・44年の、長くて短かった教職人生・・・・・。

 この道に入ったのは、「リッパな教師として」とか、「教育愛に燃えて」とかいった、胸を張っていえるような動機からではない。そのくせ官僚になるための、「高文官試験」や検事・裁判官・弁護士になるための「司法試験」なども、率直に言って自信がないままに、一度も受けずにゴロゴロしていた。         
                        

 結局、私は「デモシカ教師」(命名は永井道雄)として、そのスタートを切ってしまった。
 しかしながら、以来、生徒や学生らと向き合いながら、この世界をモタモタ、ガツガツ、時には、フツフツ歩くうちに、いつのまにか「教師冥利」というヤツにハマッてしまった。
 この道に新しく志しをかかげ、この道を、いつも前だけは、向いて歩きつづけたつもり。
・・・そして、生徒・学生らからたくさんの「元気と癒し」をもらった。
・・・・・・多くの人たちが、私たち家族の人生と私の職務を支えてくれた。
・・・・・・・いつのまにか、44年が過ぎた。
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 このホームページの原稿を草稿している頃、母校大学の学員会から一通のメールが寄せられた。・・・
 40年卒、私より12年後輩の宗像紀夫氏が、名古屋高検検事長として、2月14日付けで着任されたという。
 自分の青春のころの、フツフツとした大志・初志を想い、感慨一入、心境まさに複雑だ。
・・・・・
 彼は40年司法試験合格、43年検事任官、「東京地検特捜部」に12年勤め、その間、政界汚職捜査、疑獄事件の捜査に情熱を燃やしたという。その後、ロッキード事件(控訴審公判)やリクルート事件などを担当し、検事生活の大半は、「悪との戦い」だったという一文が、本人の挨拶の言葉として添えられていた。



 
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