私、山本茂樹は都内の高校に勤務する高校教員である。教員生活は今年で25年になる。これは4年前、私がひとりの女子学生をめぐって経験したことである。
私が担任していたのは3年生。私の勤務する学校は進学校ということもあって、夏休みが終わったこの時期、生徒は受験勉強の真っ最中である。その受験シーズンが始まったばかりの2学期の初め、問題は起きた。クラスの女子、愛川優子(仮)が突然学校に来なくなったのである。
愛川はクラスの中でもおとなしいタイプで成績は普通。クラスメートとの関係も特に問題といえることはなかった。愛川の長期無断欠席を知った私は、愛川の家に連絡を入れた。しかし、電話には誰も出なかった。
意を決した私は、愛川の宅に家庭訪問することを決めた。ドアのチャイムを鳴らすと母親らしき女性が私を出迎えてくれた。
「すみません。私○○高校の山本と申しますが、突然お邪魔して申し訳ありません。あの…優子さんのことなのですが、最近学校に来ていないようでして…。」
「わざわざ来ていただいて申し訳ありません。玄関先というのもなんですからどうぞ奥へ…。」
愛川の母親は暗く晴れない表情で家の中に私を導いた。
家を見渡す限り、愛川の家庭はそこそこ裕福な中流家庭といったところであった。小ぎれいなつくりの家でインテリアはきちんと整頓されていた。だが、その壁のところどころに殴りつけたような穴が開いていた。
居間のソファーに愛川の母親と向かい合って座り、私は早速尋ねた。
「優子さん、今どうしているんですか?学校以外のところにでも行っているんですか?」
愛川の母親は首を横に振って言った。
「いえ、・・・実はあの子、今、自分の部屋に閉じこもったきり出てこないんです・・・。今年は受験だって言うのに・・・。本当に申し訳ありません・・・。」
いわゆる引きこもりというやつか・・・。私はそう思い、最近ニュースなどで世間を賑わせているNEETのことなどを思い出した。元来私は、NEETやひきこもりなど、金のある家庭で甘やかされた意思の弱い若者がなるものと思っていた。そこで私は母親に尋ねてみた。
「お母さん。もしかして優子さんのことをちょっと甘やかしすぎたのではないですか?世間ではNEETなどが騒がれていますし・・・。」
母親は声を荒げて言った。
「私はあの子のことを甘やかしたことなど一度もありません!!むしろ、世間様に恥ずかしい人間にならないよう人一倍厳しくしつけてきたつもりです!学校に行かなくなったあの子をムリヤリにでも行かせなくちゃと思って、主人と力ずくで何度も部屋から引きずり出しました。でも、あの子、私たちには一度も反抗したことなんてなかったのに私や主人を殴りつけて…仕舞いには大暴れして家のものを壊したりするんです・・・。」
愛川の母親は、顔を手で覆い堰を切ったように泣いた。家の壁にあいていた穴の意味がようやく理解できた。
「お母さん。申し訳ありません。私も優子さんが一時でも早く学校に戻れるよう望んでいるのです。今、優子さんとお話できますか?」
母親はむせびながら答えた。
「今、あの子に会おうとしても無駄です。誰も寄せ付けようとしません。実の母親でさえ顔を見たくないというのですから。」
「それでは、優子さんはいつも部屋にこもって何をしているんでしょうか。」
「私にも良くは分かりませんが、本を読んだりインターネットをしたりしているみたいです…。」
誰にも会いたくない。そういう気持ちになることは誰しもあることだ。しかし、人間は他社との関係の中で成長し、生きていく存在である。愛川の状態がこのまま続き、世間でよく言われるひきこもりのように何年も放置され、人間関係を築くコミュニケーションが出来ないようにはさせたくなかった。
「分かりました。今日は帰らせていただきます。でも、会えなくてもいいので優子さんの部屋の前まで行ってもよろしいですか?」
母親は無言でうなずいた。
愛川の部屋の前。ドアに窓はなく、この中に愛川が本当に居るのかどうかすら分からない。愛川が心を開いてくれそうもないことは分かりながらも私は声をかけた。
「愛川。先生だ。山本だ。今、君がここから出たくないことはお母さんから聞いてよく分かった。先生が、出てこいって言ってもおまえ、多分出てこないだろう。だけどな。先生、これから何回も来るからな。気が向いたら会ってくれよう。」
そういって私は愛川の家を後にした。
それからというもの、私は毎週金曜日の放課後は愛川の家を訪れるようになった。母親の話なども聞きながら最近の愛川の動向を聞いた。そうしていくうちに愛川の母親の表情も晴れていくようだった。愛川の部屋の前に行くたびに私は最近の学校での様子などを伝えていた。しかし相変わらず、愛川は自分の部屋に閉じこもったままだった。
愛川の家に通い始めてから2ヶ月たったとき、変化が訪れた。学校から家に帰って自宅のパソコンのメールを確認してみると、なんとあの愛川がメールを送ってきていた。一学期の最初に配布した自己紹介のプリントに自分のメールアドレスを載せておいたことを思い出した。
そのメールにはこう書かれていた。
「こんにちは、先生。愛川です。先生も大変だね。やっぱ私って不良娘なのかな?学校行ってないもんね。私だって別に何か嫌になったから学校に行かなくなったわけじゃないんだ。なんとなく、休みだした。最初は夏休み終わった後夏風邪で3日学校休んだら、行けなくなった。親とか、学校行けってうるさいけど、世間体ばっかり気にしてマジうざいし。一人でいるほうがよっぽど気楽でいいよ。ネットの人たちも優しいしね。学校行ってもやることないしさ。授業もつまんないし。あ、ごめんね!(笑)まあ、そんなとこだから。別にもう来なくてもいいよ。じゃあね。」
私は驚いた。愛川がこんなに饒舌だったとは。だが、学校での様子を見ていてもそれほど活発に話しているところを見たことはなかった。クラスで愛川と親しい友達に聞いてみても“おとなしい”というのがまず第一声に聞かれる愛川の特徴だった。私にとって内容的に胸に刺さることはもちろんあるがそれより、まず愛川がメールをくれたということが嬉しかった。私はひきこもりというのだからもっと暗いものを抽象的に想像していたが、愛川がこんな文章をよこしたことにむしろ違和感をすら覚えた。私は愛川のメールに応えようと思った。私は愛川がいつも何をしているのか、どんなことを考えているのか、インターネットでどんな人たちと「会って」いるのか・・・。部屋の前まで行ったときには返事すらしなかった愛川がメールならばすぐに返答が来た。
「いつもはやっぱネットかな。ネットの人たちは優しいよ。親身になって私のこと考えてくれるし。私が学校行ってないって言ったら、やっぱし、学校行ったほうがいいよーとか言う人とかもいるけど、私と同じで学校行ってない人とかマジヒッキーの人とかと話して。無理しなくてもいいのかなーって。・・・」
私は正直、インターネットでつくられる人間関係などたいしたものではないと思っていた。匿名性の仮面の下、ヴァーチャルな仮想体験の下に構成される人間関係など本当の人間関係ではないとさえ思っていた。しかし、愛川の様子を見ると、まるで現実世界での人間関係のほうがつかみどころのない空虚なもので、インターネット上のヴァーチャルな人間関係のほうが現実性があるようだ。だから、愛川は「現実の」ネット世界では生き生きとしている。今やこういう世界観も許されるのだろうか。
私は愛川が何を考えているのかをもっとよく理解するためにインターネットでの人間関係について自分なりに調べてみた。そうすると、インターネットでの人間関係の構築については賛否両論があり、悪いことばかりではないということが分かった。自分たちの趣味で集まっている人たちや、愛川のように引きこもっている人たちが集まり、話をするには丁度よい「空間」なのであった。確かにこういう「空間」でのコミュニケーションは周りのノイズを無視して自分たちのコロニーでまとまりあうことが出来る、現代社会の一種のオアシス的な存在なのだろう。
愛川とはその後もメールでのやり取りを何回かしたが、どうやら両親との隔絶が相当深いようである。愛川の父親は商社に勤めており、仕事が忙しく週に2、3回しか自宅に帰らないそうだ。それでいつもは母親とのやり取りが多かったようだ。両親は愛川を国立大学に入学させたく思っていて、そのために進学校であるこの高校を選んだそうだ。しかし、愛川自身にメールで聞いたのだが、愛川自身は高校卒業後、専門学校に入学し美容師になりたいのだそうだ。高校3年の春からそう思い始め、学校で勉強することに意味を感じなくなっていたという。親とは意見が合わず口げんかになることも多かったようだ。そういったタイミングが重なって愛川が見つけ出したのがインターネットという「空間」だったのである。それは学校的価値からはずれ、家族ともコミュニケーションできなくなった愛川の最後の人間的な生きる道であったのかもしれない。
だが、やはりそれは現実的な人間空間で生きる人間存在の本質からすれば、一時的なものでありえても一生その世界で生きることは出来ない。ノイズのない心地よい空間であるからこそつい長居をしてしまいがちだが、それはいわば蜃気楼のオアシスなのである。ただし、愛川にとってそれは癒しの空間である。すぐに取り上げることは出来ない。
私はまず愛川の両親にこのことを伝えようとした。愛川がいつもどう思っているのか、将来はどうしたいのか、両親に本当は分かってもらいたいと思っていること・・・。愛川の両親は驚いていた。ただ引きこもっているだけかと思っていたわが娘が実際にはそんなことを考えていたなんて。
「お父さん、お母さん。優子さんはご両親の敷いたレールの上を離れて自分で考えようとしています。もしかしたらこのまま国立大学に入学したほうが安定した人生を送ることが出来るのかもしれません。しかし、それが優子さんにとって本当に幸せな人生と呼べるものなのでしょうか。優子さんは自らそのことを必死で考えてきたのです。確かにこのまま引きこもっているのは決してよいことではありません。しかし、引きこもるか学校へ行くかではなく、まずご両親が優子さんの声に耳を傾けてあげることが必要なのではないでしょうか。」
愛川は引きこもってはいたが、それは確かに愛川が自分ひとりになって考える休憩時間だったのかもしれない。この後、愛川は両親と話し合うことができ、高校を中退した。「高校ぐらいは卒業しておいたほうが・・・」という両親の意見があったそうだが、それよりも愛川は一刻も早く美容師になるための勉強がしたかったのである。愛川はその後、専門学校に入学し美容師として立派に働いている。最近になって愛川から便りが届いた。あの時と変わらぬ明るい文章で、仕事を楽しくやっているのが生き生きと伝わってきた。ただし、今度はメールではなく、手書き一葉のハガキでよこしてきたのであった。 (了)