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Detail …my musiical life partT(1949年〜1968年)
| 出生 (熊本県荒尾市) 初めての楽器 ブラバンでSAX 初めてのJAZZ エレキにはまる RKB 夢の゛月世界″ ムードテナー フラバルー 九重登山 退学 翌日の夜行で 東京 大挫折 やり直し TenorからAltoへ 坂口新先生 MALTAとの出逢い 国立音大へ 学生時代 |
1949年2月17日 1959年 1961年 1962年 1964年 1965年 1966年6月 1967年 1968年 |
戦後のどさくさで父親が教職を辞めて一時期炭坑で働いていたその社宅で長男として生まれる。(姉二人) 間もなく父親が炭坑を辞めると同時に隣の福岡県大牟田市へ転居。その家は有明海のすぐそばで姉達と干潟で遊んでいた記憶が何となく有ります。 ぼくが初めて親しんだ楽器は家に有った唯一の楽器オルガンです。オルガンといってもジミ―スミスでも、エレクトーンでもないずっと昔の足踏み式のやつです、見たことありますか?で,とりあえずそれで音出したり、リードを引っ張り出して口でブーブー鳴らしたりして遊んでいました。 そんな訳で多少は楽器に興味を覚えたせいも有って中学に入ると同時に陸上部の誘いを蹴ってブラスバンド部へ、初めはトランペットを受け持たされたが口の形が合わなかったのか、一学期間やっても全然だめで、やむなくクラリネットにまわされました。丁度そのとき姉の彼氏(今の旦那)が持っていたクラリネットを貸してくれる事になり、夏休み中猛練習したおかげで二学期は大変身、そこからぼくの音楽人生が始まったような気がします。中一の終わりに新規購入のALTO SAX担当を言い渡されてすぐ図書室の図鑑で調べました。それがSAXとの出会いです. 中二の時ある先輩が持ってきた譜面が、ブラスバンド用にアレンジされたグレンミラーの゛茶色の小ビン″でそれがぼくが初めて吹いたJazzでした。 その先輩は2年歳上で、とても頭が良く当時としてはすごく進んでいて、ギター、キーボード、管楽器何でも独学でこなしアレンジも出来る人でした。残念ながら若くして自ら命を断たれましたが、彼に音楽は創るものだと言う観念を教えてもらった気がします。 <当時得意になって吹いていた曲> *太陽は一人ぼっち *鞄を持った女のブルース等 この時代西洋音楽特にアメリカンポップスが一挙に日本に押し寄せてきた感じでBeatlsやVenturesをはじめ色んなグループが沢山の曲を流行らせ当時の若者にとって大きな社会現象とまで成った本当に濃い時代だったと思います。ぼくもご多分に漏れずグループを組んでやっていましたが、そのグループはご当地では結構メジャーな方であっちこっち引っ張りだこ、おかげで学業の方は凋落の一途を辿りました。 高校に入って友人の木村君の叔父さんに木村満さんと言ってRKB(福岡の放送局)のディレクターしてる人がいるというので、紹介してもらって、それから暇さえあれば番組制作を見せて貰ったり,生バンドの演奏や有名人を目の当たりにして、たまらなく興奮の日々でした。 それから当時九州の芸能界のドンともいうべき深見俊二さんを紹介してもらって彼のBIG BANDのリードアルトの吉村さんと言う人に習う事になり、毎週末電車で一時間の博多のグランドキャバレー゛月世界″へ、楽屋でレッスン受けてたのですが、ああいう場所へ裏口からはいる時の快感と又その時の独特の匂いがたまらなく好きでした(今思えばあれは酒、タバコ、冷房そして女の香水の匂いがmixしたものだと思います)。そしてレッスンのあとBANDのステージを横から見学して帰るのですがショータイムのお姉さんの生のオッパイ…、これで将来の職業を確信しました♂ そして初めて自分のTenor saxを手に入れました、それはコーンのシルバーソニックの中古で 30000円で買ったのを覚えています。光ってないのがショックでしたが、なかなか良い音してたと思います。だんだんと趣味もポップスから大人の雰囲気のムードテナーが良くなりサム・テイラーやシル・オースチンをコピーしてやっていたらそれが地元のバンドマンの耳に、ある日キャバレーのバンマスからお呼びが掛かかってズルズルとこの世界へ…(かくして大牟田でバンドマンデビュー)そして挙句の果てには学校にバレて退学処分と相成りました。(今では考えられない事ですが,それはこうして起きました…) <この時期の得意な曲> *ハーレム ノクターン *ダニー ボーイ *ヤキティーサックス等 それは高3の6月のある日の事、当時大牟田で一番流行ってたGOGOクラブ「フラバルー」での出来事です。 そろそろ出演時間と言う事で何かを買いにエレベーターで下へ、そしてドアが開いたらそこには高校の教師が二人、「あチャ−!」と言う事で、しかしその場ではとりあえず別れて、そして暫くしてから二人が入っていったクラブに戻り、その日も踊りに来てた十数人の同級生を楽屋に隠し、混み合った場内から何とか皆を逃がしました。 それで翌日は山岳部の友人二人を誘って学校へは行かずに九重山に登りました。 その時期の自分は全てが崩壊寸前でした、突然飛び込んだ大人社会と、学校生活の現実とのギャップ、高3になると学友達もそれまでの能天気な仲間から確実に将来を見据えた競争社会への意識が増して来ている、しかも近頃休み勝ちだったので段々授業に付いていけない、それに家庭も姉達の事でゴタゴタ揺れてる。 登校すればどうせ何らかの処分は食うだろうが、何とかもう一度やり直してまともな高校生活に戻りたいと言う気持ちからの登山でした。 二日間で山を降り登校しましたが、直ぐに校長室に呼ばれました、それから「誰と誰がクラブに出入りしていたか?」と言う尋問を受けましたが、現行犯で捕まったらしい二人の情報は入ってたので、その二人の名前を挙げました。それで謹慎を言い渡されてその日は授業も受けずに家に帰されました。 そして翌日家へ二人の教師が来て、退学を言い渡されました。 まさか退学とは思いませんでした。 さすがにショックでしたが、その時の親の気持ちが子を持つ今身に染みて解ります。 実際あのクラブに出入りしていた生徒は2,30人は居たと思いますが、主犯格として三人が辞めさせられました。 (この件に付きましては1999年、当時同校校長の古賀幸毅氏との間で和解が成立しています)。 それから40年、現在いみじくも自分自身が音楽学校で教鞭をとる様になって、教育の現場での生徒との係わり合い、又理念と言うものは常に大きく心に占める事柄です。 退学の翌日には夜行の゛みずほ″で東京へ向かっていました。 朝からずっと泣いていた母親やクラスメートと別れるのはつらかったけど、東京行きは兼ねてからの夢だったので…明日から東京という、突然訪れた独り立ちの不安と興奮、寝台車の最上段での一夜は人生最大の岐路だったと思います。 東京ではとりあえず目黒で塗装工場をやっている叔母の手伝いしながらバンドの修行をすることになりました。 仕事の内容は、今は少なくなりましたが公衆電話器の塗り替えで、ぼくの受け持ちは古い塗装をサンドペーパーで落とす事だったのですが、一日中やっていると翌朝右手が固まって暫く動かなかった。それから仕事中いつも考える事は、今何曜日の何時、何の授業が終わったところだなぁ…と言う事ばかりでした。シミジミ でも仕事の後は自由に工場で練習出来たし、先生にも当時有馬徹&ノーチェ・クバーナにいた塚本紘一郎氏を見付けてもらって(ちょっと厳しかったけど)感謝してます叔母さん。 <このころ買ったレコードになぜかJust In Timeの入ったソニーロリンズが有り、よく聴いていたが何吹いてるんだかさっぱり解らなかった> そしてレッスンが始まり毎週日曜日に目黒から大泉学園まで通う事になりました。 その先生は当時としては珍しく芸大からBig Bandへ進まれた本格的なSax奏者でしたが、それまでのぼくの奏法、楽器、マウスピース、リード…全てが間違ってたと言う事でことごとく改められ、又ぼくより少し後に入ってきた鈴木徹生君(故人)は東京の人で結構きちんとしてたのでいっそう挫折感を味わった時期でした。(ぼくのこれまでの人生で味わった最も大きな挫折感はこの時期《退学も含めて》と後の渡米後の一年間だと思います。) 初めはバンドボーイに成るつもりでテナー一本さげて九州から出てきたのですがレッスン受けたり色んな音楽聴いたり又大人の社会を垣間見たりしている内に少しずつ考えが変わって来て、もう一度高校へ行き直して音大で一から勉強しようと言う気持ちに成り、茨城県の東洋大付属牛久高校3年へ編入、今度は失敗しないぞと一念発起、一転して超(?)真面目な受験生となりました。そこでも放課後音楽室を使わせて頂き、感謝々々 そして今度はこれと言ってトラブルも起こさず、音大受験に備えて順調な日々をおくっていたかに見えたある秋も深まった頃でしょうか、いつもの様に大泉学園の先生のところへレッスンに行くと、何やら真新しいAltoが、先生曰く「大森君、実は音大はテナーじゃ受験できないらしいんだよ、それで今日からこれが君の楽器ね」「……」ずっとテナーばかり聴いて、サム・テイラーみたいなテナー吹きになるのが夢だったのに…、まッ仕方ないか、受験まで我慢しよう、と言う事で、テナーは下取りに、急遽Altoに持ち替える事に成りました。 音大には夏と冬、受験生の為に講習会が開かれます。その事も冬に初めて知り、ぼくは武蔵野音大のに参加しました。そこで初めて坂口新先生とお会いしました。Sax科の受講生は10人くらい、しかしその中で初対面は僕だけ、(実は音大と言う所はお目当ての先生には事前にレッスンを受けるのが常識だったのです)今思えば本当に何にも知らない田舎者のスットコドッコイでした。 で、公開レッスンで何やら怪訝そうな顔の先生に最初に名を呼ばれレッスンを受けました。お呼びデナイ状態も良いとこだったと思います。 後の皆の音色を聴いて唖然としました。「今まで聴いていたSaxの音とは全然違う」 とろける様な甘い音、綺麗に整ったビブラート、これが初めて聴くクラッシックSaxの音でした。ショックを通り越して顔から火が出る思いとはこの事です。特に最後に登場した小柄で髪をオールバックにした男、彼は凄かった…なんと、それがあのMALTAだったのです。音色、テクニック…全て異次元の物でした。 で、後でおそる々話し掛けましたが、結構気さくな奴で、もう以前から芸大狙って坂口先生のレッスンに鳥取から通っている事など話してくれました。 いや〜もう、大ショック!まあこの前までラーセンのマウスピースでテナー、ピュ―ピュ―やってたんだもんな、しょうがないか…、と思いつつまあ今年はダメ元で受けるだけ受けよう、しかしとりあえず坂口先生につかねばと門を叩き、2ヶ月間必死にやったら、なんとかかんとか国立音大に受かりました。 人生とは解らないものです。2年前までは考えても見ませんでした、音大へ行こうなどとは… ずっと孤軍奮闘してたのに、居ました居ましたいろんなやつが、そこで初めて開眼させられました、本格的なJAZZに。 パーカー、スティット、コルトレーン、エりントン…本当に目から鱗がボロボロ〜 SAX科の石渡悠史先生もJazzに理解がある方で何にはばかりなくナイトクラブでも仕事が出来、憧れのPIT INNに初めて出たときは積年の涙がちょちょぎれました。 もともと音大へはJazzの為に入ったとはいえ、レッスン以外では殆どクラッシックを真面目に勉強した記憶が無く、兎に角一年の時からしょっちゅう先輩のトラでキャバレーへ、あと音大では吉田 憲司(tp)や板橋文夫(Piano)とはよく演りました。 それから当時付き合いが有った上智大学Jazz研の宮野 裕司(Alt sax)や吉田賢一(Piano)等には音大生のJazzとは一味違う、つまり歌心に多大な影響を受けました。 でもせっかくの機会だったのにもう少しクラッシックちゃんとやっとけば良かったとも今悔やまれます。 続きへ トップページへ戻る |