DETAIL……my musical life   partV(1976〜1978)


New York(前編)


マンハッタン再上陸






west21th street









Jam session









人種の絆












Al Bibbo




























なんで?











East9th street





三田レストラン








Lorren Shornberg












Loft Jazz












Latinの世界




























































976.3

































































































1977年頃






















































































アメリカのことわざに「もしNew Yorkでモノになったら,何処でも大丈夫」といったような意味のものが有ります。アメリカ人をしてそう言わしめるN.Y。何でも本物じゃなければ受け入れないN.Yっ子気質があって本当にパワーがないと駄目ですが、その気がある人間なら誰でも受け入れてくれると言う…自分を試すには最高の処です。



とりあえず昔Barkleeにちょっと在席していた藤原清登(Bass)のアパートをSublet(又借り)してゆっくり住処を探すことにしました。まるっきり初めてではないにしても新天地でこれからどうなるのか、仕事は見つかるのかが当面の大きな問題でした。
ただManhattanは狭い処なので日本人ミュージシャン中村照夫さん、日野皓正さん、増尾好秋さん、鈴木良雄さん、大野俊三君ほか沢山の人と親密に成れて大変励みになりました。



皆がする事ですが先ずは名前を知ってもらう為にありとあらゆるジャムセッションに顔を出して吹かせてもらうのですが、曲目の主流はやはりなんと言ってもパーカーもの、それからマイルス、コルトレーンといった感じで、Bebop時代の延長線上にある感じは強烈にしました。
どこのセッヨンへ行っても皆,我こそはと思っているのでさながら果し合いの形相を呈しているし、又生え抜きの黒人のおじさん達はなかなか近寄りがたい雰囲気があって慣れるまでにはかなり時間が掛かりました。



アメリカ特にN,Yは人種の坩堝、Jazz界もやはりその図式があって、どうしても同じ人種が固まります。何と言っても最大のパワーは黒人で自分達の文化と言う意識が強く、なかなか入れてくれません。それからユダヤ系、学術的アプローチで特に70年代以降のJazzに大きな影響力を示しますが技巧に走るきらいがあり,他人を認めない排他的な傾向が少し強いような感じがしました。イタリア系は音楽も情緒的、丁度日本人と馬が合うのか、ぼくの友人には圧倒的に彼等が多い。あとラテンアメリカ系は兎に角能天気。で東洋系が最も少数派で狭間でチョロチョロ…しかしその現状をなんとかせねば、と日本人も頑張ってはいましたが,まだまだ皆自分の事で精一杯て感じです。



N,Yに移り住んで一ヶ月程してBarkleeで一緒だったDrumsのJack Depietroから声が掛かり、車で一時間位の所にあるNayakという町のJazz barで週一回仕事が始まり、とりあえずホッと、それで新聞で探して300$でポンコツ車を手に入れ、一応プロミュージシャンの形が整いました。その町はN,YのBed Townと言う感じでしたが、色んなJazzMenが遊びに来たり、Jazzキチおやじの知り合いも出来ました。



そこで知り合った一人にAl Bibboがいます。その人は当時60歳くらいでN,Y郵便局に勤めるイタリア系の人ですが、無類のJazz好きでよく彼の家でSwing系のレコードを聴かせてもらったり又色んなJazzの店へ連れて行ってくれて、何かいっぱい飛び入りさせられた思い出があります。中でもぼくが大好きなLee KonitzやFrank Strozierと演らされた時の事は今でも鮮烈に覚えています。



ある時そのNayakのBarの片隅で聞いてた黒人のおっさんに呼び止められて、゛なんでお前はそんなに吹こうとするんだ、もっと自然の音に耳を傾けてみろ…″のような事を言われたことがあります。初めはただのアル中かと思っていましたが話がいちいちもっともで、その人黒人なのにLee Konitzが大好きで彼のKonitz論と言うものを聞かされて、こんなちょっとした触れ合いにもずっしり重たい場面がけっこう有りました。




N,Yで演奏するようになって一つ気がついた事があります。それはN,Yの客の反応が他と違うことです。東京でもBostonでも大丈夫だったのに、いまいち自分のプレーが受けてないのが解るし、明かに自分より下手なんだけど受けが良い奴とか…、結構悩みました。でも大分経って少しずつ解りました。これはN,Yが教えてくれた大切な事だったんですね。簡単に言えば「真実」と言うことでしょうか、借り物の音ではだめなんです。と言ってただ闇雲にオリジナル性と言うわけではなく歴史と伝統を超越した上でのオリジナリティーがシビアに見極められる所なんです。…これはもう一生掛かると実感しました。



やっとアパートがEast Villageの9th streetに見つかりました。初めてN,Yに来たときからお気に入りのエリアで、なによりJazz Clubが多いVillageに歩いていけるのが最高でした。



N,Yのミュージシャン(日本人に限らず)は大体カミさんのサポート無しでは成り立ちません。
うちのカミさんもご多分に漏れずWall streetの近くに在った日本レストラン「三田」でウエイトレスとして働く事に成りましたが、そこはオーナーが和田さんと言って元、慶応のBig Bandにいた人と言うことも有ってJazz系の人が多く集まりDrumsの日野元彦氏、中山正治氏(いずれも故人)磯見ひろし氏Tenor Saxの竹内直氏等が次々と加わり、あとミュージシャンの奥さん達とかで結構JazzyでHotな人間模様が展開されました。



アメリカ人には色んな型破りの人がいますがこの人もなかなかでした…
毎週日曜日にVillage Gateに出演するBob January Big Bandで一緒だったLorren Shornberg 、当時まだ20才そこそこのユダヤ系の青年でしたが、レスター・ヤングそっくりに吹くTenorで、初めはなんかいけ好かない奴と思っていたのですが、彼のBig Bandを頼まれて行ってビックリ、メンバーが全員5、60代、それも昔Count Basieにいたとか言う、いかつい黒人のおじさん達もいて、専属歌手が日本でも知る人ぞ知るBarbara Lea、それでその人達を彼がちゃんと取り仕切っているではありませんか、もう尊敬の雨あられ…その後Best Friendの一人となりました。
ぼくが帰国して数年後のライブ・アンダーザスカイで、彼がリーダーでエリントン・トリビュートバンドやってるのをテレビで見たときは感慨無量でした。



1970年代中ごろは又N、YJazzの一つの流れとしてLoft Jazzが盛んな時期でも有りました。今はファッショナブルに成りましたが、SOHOの倉庫街に手を加えて実験的なJazzを聴かせる場所が色々あって、そんな中でFrank Foster、Jaki Byard、Charlie Persip等がそれぞれ若手を起用したオーケストラを持っていました。ぼくはその中でPershipのLoud Minorityと言うBandに属していましたが、バンマスもさる事ながらメンバーがかなりアクが強い人達でアンサンブルより個人プレー重視でグイグイ来る演奏なので一曲がやたら長かった覚えがありますが、そこでN,Yのアクを大分しみ付けられたような気がします。



詳しい方はご存知だと思いますがN、Yはあとラテンのメッカでもあります。特にHornPlayerにとっては安定した仕事の供給源でも有り、昔からJazzとは密接な関係にありました。それでラテン系移民とJazzの融合によりこのN、YからSALSAが誕生したのです。そんな訳でぼくもMachitoをはじめ色んなラテンバンドを経験することになりますが、以外にもそこでDizzy Gillespie、Tom Hallel、Richie Vitale、大野俊三等と共演の機会が有りました。



しかし最初ラテンの仕事を始めた時はあまりの文化の違いに毎日が驚きの連続でした。
いわゆるN、Yのラテンクラブの客といってもスペイン系の白人から中南米のインディオそれからドミニカンは黒人、キューバやプエルトリコはMix…でそれらの様々なLooksの人達が一つのクラブで和気藹々と飲んで踊ってるんです、アジア人では考えられませんね。
それで仕事が終わるのは朝の3時過ぎ、本当に踊るのが好きな人達で、その代わり彼らのSalsaの踊りは本当にスムーズでもうしびれました。



QueensにあったラテンのナイトクラブAnoranzasでハコ(週6日)を2年間やった時はドップリと言う感じで、かなりラテン色の濃い日々でした。皆気がいいし女の子もチャーミングで面白かったのですが、辛かったのは彼等とのリハーサルです。合わない所をその原因をつきとめないで、合うまで頭からやるんです、もう何回も切れそうになりました。
しかし気が付いたらいつの間にかアレンジャ―兼コンマスやってたし、慣れちゃったと言うか…もういいかな〜と言うことで足を洗うことにしました。



当Bandもドミニカ、プエルトリコ、コロンビア、ホンジュラスそして日本から成る混成グループでした。(クイーンズでのハコバン)


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