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DETAIL……my musical life partX(1979〜1980)
New York(後編)
| 「備えよ常に」 Paulの電話 リハスタート Paulの電話U レコ―ディング 2日目(大雪) 3日目 ミンガスって? 怖くなかった! |
1978.1.18 |
New Yorkは時として突拍子も無い事を起こしてくれます。あの小さなマンハッタン島が発見されて200年余りの間にあらゆる分野で世界の流れを変える中心地となってしまったのですから。連日どこかで凄い事が起きています、「備えよ常に…」特にN,Yでは大事な教訓です。 或る日突然Paul Jeffreyから「ヘイ、メン!ミンガスのレコーディングやるかい?」みたいなノリで電話が掛かりました。ぼくが電話の向こうで仰天している様を楽しむ様にわざとさらりと言っているのが解るので、ぼくも超クールに「OK」…後で武者震いが止まりませんでした。 彼が今度のレコ―ディングの音楽監督を任されたらしいのです。゛これだなマンハッタンの怖さは″と思いました。 これまでBarkleeの授業以外でちゃんとしたJazzのレコ―ディングの機会に恵まれなかったのでこれが記念すべき初レコ―ディングとなりました。 兎に角リハーサルが始まりました。初めは譜面を固めると言う事でぼくたち若手だけではじまりましたが、もちろんMingus抜きで(当時Mingusは体調が悪く車椅子状態でした)Paulがリハの一部始終をテープに録音してMingus邸で指示を仰ぐと言う風で、はじめはどんなレコ―ディングになるのか全然見えませんでしたが、本番が迫るに従って、George・Coleman、Charles・Mcpherson、Pepper・Adams、Lee・Konitz、Eddie Gomes…等が姿を見せはじめ、な、何だこれは…!そうこれはMingusゆかりのミュージシャン総動員の集大成盤だったんですね。レコード会社(Atlantic)も何かを予期していたに違い有りません。 そして又Paulから電話が、Mingusから「この東洋人のAltoにもソロを取らせろ」とお達しがあったと言うのです。テープ審査にかなったと言うことでしょうか、棒若無人のMingusならではのなせる技だと思います。どこの馬の骨の東洋人に名だたるSax吹き達とバトルやらせちゃうんだから。 いよいよレコ―ディング当日、小雪の舞う中をCentral Parkに程近いAtlanticスタジオへ… 居ましたMingusが、車椅子でしたが、きれいな白人の奥さんに付き添われて、それですぐPaulに連れられて挨拶に、「こいつがあの…」みたいな紹介されて握手しましたが、わりとシャイな微笑みだったのを覚えています。 ぼくの席はLee KonitzとGeorge Colemanの間でKonitzは前からよく知っていたのですが、Colemanは顔が怖かったのではじめビビリました。でも「自分のAltoはハーレムの道端で30$で買ったんだ」等と自慢げに見せてくれて(それって盗品じゃないの?)…意外と気のいいおじさんでした。 Konitzの方はろくなリードが無いと言うので、ぼくの箱から一枚あげたら、確か50セントくれたと思います。まあ意外と巨匠とはこんなものなんですかね!? ![]() 1曲目は゛Something Like A Bird″ソロ順の進行表が配られました。(何せ一つの楽器に2〜4人ずつがバトルしながら曲が進行するのでソロ順を間違えないだけでも大変なのです)未だMcphersonが来ていないけど一度通してみようと言う事で(当然全員が顔を揃えたのはこの日が初めて、Michael Breckerなんか一度もリハ来なかったし)全長30数分の曲の全貌が初めて明らかにされました(昔Barkleeのクラスでやってたorganizeされたレコ―ディングとは全然違うNY風?大味な進行…) そして本番テイクが始まり、アンサンブルにミスが有ろうが、ソロの良し悪し等(Mcphersonは自分のソロの直前にやっと到着)全然気にせずひたすら先へ進みました。ぼくは内心゛え〜ッ、いいのかなぁ″とも思いましたが、後で思うにあのセッションは「あの日NYでMingusとあれらのMusicianであんなセッションが行われた」というドキュメンタリーだったような気がします。 (結果的にあれがMingusの遺作になったのですが) 翌19日レコ―ディング2日目は゛THREE WORLDS OF DRUMS″と言うMingusの書き下ろしで、Joe・Chambers,Steve・Gadd、Dannie・Richmondによる壮大なドラムバトルの曲、こっちは大してやることが無くて楽だったのですが、外の世界にも壮大な事が起きていました。その日は朝から雪だったのですが、終わって外へ出たら一変に景色が変わっていました。なんと記録的なブリザードで地上は完全にマヒ、地下鉄も止まり々しながらやっとの思いで家まで辿りつきました。 それでレコ―ディング3日目(20日)は延期に、改めて23日にということになりましたが、もうその日にはツアー等で出来ない人が続出、急遽エキストラが駆り集められ、にわかバンドが作られました。その中にはMALTAの名前も見られます。 日本でよく聞かれます「ミンガスはどんな人?怖くなかった?」と… Mingusと言えばJimmy・Knepper(T.bone)の歯を折ったとか、パーカーと喧嘩しそうになったとか色々逸話の多い人ですが、残念(?)ながらその当時はそんなパワーはありませんでした、が一度レコ―ディング中に緊張が走った事がありました… Konitzフュ―チュアリングのバラードのテーマで一箇所どうしてもMingusは音をBend(しゃくりあげ)してほしくて(どうもホッジスのイメージがあるらしい)説明するんですが、Konitzもさるもの、「OK!」とは言いますが、テイクでは全くもと道理、完全無視…スタジオ中に一瞬大緊張の沈黙が流れました。しかしMingusも、もう違いました、「OK,次」… (Konitzにホッジス求める方がネ!?) こうして何とか無事にレコ―ディングを終えました。 そしてその夏このグループでニューポートJazzフェスに出演しましたが、それから間もなくしてMingusは亡くなりました。 せっかくお見知りお気頂いたのもつかの間の事で逝ってしまいました。 でも亡くなる前に少しでも接する事が出来たのは、ラッキーだったと思った方がいいのでしょうか? その直後に二枚のLP゛ME MYSELF AN EYE″゛SOMETHING LIKE A BIRD″として発売されました。 次へ トップへ戻る |