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DETAIL……my musical life partZ(1981〜)
New York(後編)
三木敏悟 L,A 長男誕生 ニューポート’82 日米摩擦 強盗 大家のZen 子育て考 |
1981年当時 1981年5月 1982年12月 |
やっと念願のグリーンカードも手に入れて、再びNYの生活が始まりました。 その当時の主な仕事はと言うと、Lexingtonアヴェニューに在ったLexington HotelのNight Loungeでのハコ、それに少しUp StateのCross Countyと言う所に在ったCC Pubでの毎週月曜日のGig(そこではGuitarの増尾好秋さんと一緒)や相変わらず、Paul Jeffly,Charlie Persip,Bob January 等のBandやLatin Bandそれに東洋人と黒人だけのBrother FoodというBand…等々 それから又Latin Bandへのアレンジの仕事も結構増えて、(今流に言えば)超いそがしい日々でこのころが今までの人生で一番貯金があった時期です(トホホ)… しかし、その一見安定した生活も裏を返せばマンネリズムにもつながり、アメリカ生活に慣れたと同時に、何か初期の頃のハングリー精神や新鮮な感性まで薄れて来ているような気が… そういえば、初めの頃の果たし合いセッションにもめっきり行かなくなっているし、日々の生活の上で守りに入っている自分に逆にこの前の帰国で気付かされた感じで、心境に徐々に変化が起きはじめました。 そんな時、昔Barkleeで暫く一緒だった三木敏悟氏から連絡が有り、彼のBig Band(Inner Galaxy)のL,Aレコーディングのお誘いが有り、初めての西海岸行きと成りました。 そのレコーディングは日本、L,AのミュージシャンそれにN,YからぼくとBarry Ries(Tp),Barry Miles(piano)の三人が参加して、ロスやサンフランシスコでライブをした後レコーディングすると言う画期的なもので、日本で活躍している三木敏悟や吉田憲司(ぼくが音大で最初にBandを組んだ先輩)等と再会できると同時に、ロスや日本のミュージシャンと一緒に仕事が出来る事、又こういうプロジェクトを企てる当時の三木敏悟と、日本のJazzシーンの変化に大変興味深いものを感じました。 初めてのロス、これが同じアメリカかと思うくらいN,Yとは別世界でした。 あくまでも晴れ渡った空、乾いた空気、街中が広々とした公園みたいで、ちょっと夏の湘南にも似た感じ、ラジオから流れる音楽もフュージョンが主流でこの風土では当然だと思いました。東洋人の割合も多いけど、何となく日本に近くなった感じ、宿泊先のモーテルも殆どが日本人客で、思わぬ所で味わったカルチャーショックです。 先ずは三木氏始め十数名の日本人スタッフとの挨拶を済ませた後にリハーサルが始まりました。 メンバーは日本から各セクションの精鋭、ロスのスタジオミュージシャン、それにN,Yから三人のソロイストという構成で、あと専属歌手として中本まり、ミキサーも日本人、曲はすべて三木氏のオリジナルというもので、あくまでも日本サイドで要を固めて、主導権を握るという三木敏悟の気概が感じられるもので、あの扱いにくいアメリカ人を立派に統率している姿は大いに尊敬に値する物でした。 そして一週間程の滞在で無事にロスとサンフランシスコでのライブツアー、レコーディング、それにロス見聞(ロスにはBarklee時代の親友Jim German夫妻が居て、オフにはあっちこっち連れ回されました)を済ませました。 思えば、渡米以来ずっと自分の頭の中には、「学ぶ」とか「吸収する」と言う言葉は浮かんでも、彼みたく「起こす」ということは一度も考えた事が無かったし、巨大なアメリカ社会の中でずっとお客さんとして、仕事とは使って貰うものだという観念が染みついて、おこぼれの仕事に満足していた自分に気付かされた、本当に後頭部をガ〜ン!とやられた感じでした。 再びN,Yの現実に戻りましたが、あのロスでの体験は又々自分の気持ちを大きく揺さぶるものでした。 長年のN,Y生活、それは確かに、色んな意味で刺激に満ちあふれ、大変有意義なもので、まだまだ学ぶ事も多いのですが、生活のあまりの厳しさ(特にミュージシャンとしての生存競争はアメリカ人をしてもなかなか厳しい)に何か卑屈になったり、異常にピリピリしたり、ついには音楽を断念してしまう人も少なくありません。 ところがこの前の帰国や又今度のロスで逢った日本人ミュージシャンの屈託のなさというか、はつらつとした前向きさは何なのでしょう? おそらく長年N,Yでやってきた日本人にはあのようなプロジェクトは考えつかないと思います。あまりにも巨大なものに立ち向かっていくことの功罪…そんなことを考え始めた時期でした。 渡米8年目にして第一子「通生」誕生。自分32才。 二度目のニューポートジャズフェスですが今回はCharlie PersipのBand(Loud Minority)での出演でManhattanから送迎バスで行ったのですが、その会場が何処だったのか全然記憶に有りません。ただ僕たちのあとStan Getzのステージで、かれのサウンドがすごく良く会場を魅了してたのだけは覚えています。 あとその会場で日本からきたばっかりという小林という青年と出会い、一緒に送迎バスに便乗させて帰ったのですが、それが後のジャパニーズ・ジャズ・メッセンジャーズを率いて結構活躍する事になったモンキー小林(Drums)でした。 その当時も続々と日本から若手ミュージシャンが来ては又去って行く人も多かったのですが、ぼくが初期の頃経験をしたような、はちゃめちゃな奮闘振りを見ていると何か愛おしくなって、ほのぼのとした当時独特の人間関係が生じました。その頃付き合いがあった若手は、その他にも *東 出(いずる)(a,s)大阪から出て来ていたパーカーきちがい、楽器のセッティングから服装まで全て真似してた超おかしなやつ。 *鈴木正克(通称マーボー)(a,s)自分はフリージャズやるのにパーカーばかり聴いてた翔び(?)きちがい。 *森近徹(t,s)コルトレーン好きの超マイペース人間…等々 あと、それから当時の日米関係を特筆しなければなりません。 当時日米経済摩擦が一番激しい時で、日本の円が急激に力をつけた時期,、逆にアメリカの失業率は最悪でかなり日本に対して険悪なムードが漂いました。おまけに当時N,Yの有名なビルディングが次々と日本企業のものになったり有名なJazzの老舗も日本人の所有物になったりして、もともとN,YのJazz Clubは日本人客が多かったのですが、ここはいったい何処の国だ?と思う様な状況になりました。 それはいいとしてもN,Yのミュージシャンの間で、日本での演奏では桁外れのギャラが貰えるという話が広まって、Japanese Priceを要求する風潮が出来上がったのもこのころです。 ただ日本の経済力の発展とともに、日米の距離は近くなり、ぼくが来た頃に比べると遙かに行き来しやすくなって、いつでも本場のJazzをN,Yで、又日本でも常時海外の一流の演奏が聴けるようになり、このころから聴衆やミュージシャンの耳も随分変わったと思います。 功罪あいまって兎にも角にも、日本の勢いは凄いものでした。 これも経済摩擦と関係が有るのか?それとも多少金持ってそうに見えるようになったのか、はたまた子持ちになって雰囲気が変わった為か、それまで一度も危ない目に遭った事が無かったのに、立て続けに二回も道端で襲われて金を取られました。巷ではそんな話をよく聞きましたが、いつも夜の一人歩きも全然大丈夫だったのに…やっぱり何かが変わったんでしょうね、そういえば車もここのところよく三角窓破られて、中を物色されることも多くなったし、何か狙われてる気がしたので、もう一度引っ越す事にしました。 今度の所は同じBlooklynでも少しましなPark SlopeというエリアでしかもZen松浦(初めてのNYで居候させてもらった彼です)所有のアパート(そう彼はNYに骨を埋める決心でその後アメリカ人女性と結婚しDrumsをやりながらアパートを手に入れて、大家もやっている人です)で万全の構えを築きました。 やはり子供を持ち、育てると言うことはこういうことなのか、それまでは平気で我慢出来た事、例えば、治安の事、環境、それに人種問題…多分本人はその中で育てばそんなものと受け入れるでしょう(少なくとも自我に目覚めるまでは)が、このままこの社会で育てるのは多少でもアブノーマルな育ち方を強いる事になるのではないか、と言う疑問…若し彼が将来アメリカ生活を望むのなら自分の意志で行けば良い…等,徐々にアメリカ生活継続への疑問に気持ちが揺れ動く日々でした。 続きへ |