|
ペンタックス一眼で撮影 |
2006 秋 1年半後のD&R |
|
|||||||||||||||||
|
1983 ドナー励2歳の時 |
1948 一歳の私 |
2005正月 手術2ヶ月前 |
|||||||||||||||||
|
生体肝移植 2005年3月23日に生体肝移植手術を受けて3年、再生して満3歳になります。 1948年(昭和23年)10月20日に 2005年3月23日に東京大学医学部付属病院・移植外科で、生体部分肝移植の手術を受けました。 ドナーは次男・励(23歳 当時)、海上自衛隊で潜水艦に乗務していました。 家族は、妻と長男、次男です。長男は手術前年に結婚しています。 2008/03/23 |
|||||||||||||||||||
|
長男夫婦と次男 |
|
2005正月 手術2ヶ月前 |
|||||||||||||||||
|
31歳S55年春頃からgot・gpt等の数値が50〜70と少し高め示すようになりました。 お酒を呑みましたので、酒と過労が原因だと診断され、酒をひかえましたが、 年々数字が悪くなり200〜300を超えるようになってしまいました。
ウイルス性慢性肝炎と診断される S57年(1982)33歳6ヶ月S57年3月23日に完全に断酒・断煙。 そして、初めて横須賀田浦の北部共済病院に1ヶ月入院し、 精密検査と強ミノの静脈注射による治療を受けました。 非AB型ウイルスによる慢性肝炎と診断され、 「絶対に無理をしてはいけない、体を労わる様に」と真剣・深刻に丁寧に (HBs HBc HBe 抗体・抗原等について)説明していただきましたが、 自覚症状がまったく無いので軽く考えていました。 ドナーの励はその時一歳半でした。 当時は、私は節制して食事療法をすれば良くなるものと信じていて ウイルス性肝炎の恐ろしさはまったく知りませんでした。 日本の病院でC型肝炎ウイルスが検出され、 C型肝炎と診断される様になったのは平成2・3年頃からであったと思います。 |
|||||||||||||||||||
|
1999 INF治療中のバス旅行 |
|
1996 子供が大学生・高校生の頃 |
|||||||||||||||||
|
肝硬変と診断される S61年(1986)37〜38歳 辻堂の病院にて 医師もはっきりとは告知しないで、割れて皹の入った茶碗なので大事に使っていけば・・・ 治療できないので社会復帰を考えて下さい、と言われた時が一番辛い時でした。 慢性肝炎はしばらくすると肝硬変になりその多くは多発性肝臓がんなります。 治す事は期待できません。 内視鏡による硬化療法や結紮術は当時はありませんでしたので、 がん発生前に静脈流破裂により亡くなる方が多くおられました。
肝硬変の治療 S63年(1988) 横浜南共済病院に入院治療 この病気も大きな原因で39歳の時に仕事を失いました。 顧客の皆様に辞任の挨拶に伺った時、 あるお客様が東京医科歯科大学長のK氏であることが分かり、 その方に心配していただき、弟子の南共済のA先生を紹介され入院、 本格的に治療に入りました。 しかし、数年間は、効果的な治療は期待できなく、 進行度のチェックと、食事療法と節制した生活くらいでしか対処できませんでした。 漸次、病気は進行して静脈瘤が悪化、繊維化も進み、 肝不全やがんの発生も心配されていました。 |
|||||||||||||||||||
|
愛犬ハチ 享年16歳 2003没 |
|||||||||||||||||||
|
平成4〜5年(1992〜1993) 肝臓がんと診断され手術を受ける。 平成4年(1991)の春、肝臓の右葉s5に25oの影が発見され、 がんの疑いがあると診断されました。 当時は横浜、横須賀の病院では肝臓の手術は行われず、 多くの患者は東京や県下では川崎で手術を受けていました。 C型肝炎を原因とする腫瘍は多発性肝細胞であり、再発率は極めて高いものでした。 私も日本鋼管病院で手術を受ける事になりましたが、 15年前ですとがんの告知はされないのが普通でした。 肝臓がんの手術も症例少なく、予後も芳しいものではありません。 43歳、若いので放っておけば、あとわずかの命と判断されましたので、 とても不安でしたが手術を受ける決意をしました。 肝がんの手術 topへ↑ その年の9月に手術のための精査の目的で入院しましたが、病院の方針だったのでしょうか、 私が肝臓がんであることを徹底して隠しました。 病状の説明に納得できず、「前医に、概ね聞いているから、覚悟は出来ている、 仕事の事情があるので客観的に数字で教えて欲しい」と、主治医を問い詰めて、 再度説明を受けました。 その結果は、血管造影、CT、エコーのフィルム等を見ながら、 「多発性肝細胞がんで、いくつもある様に見える。 あと1年、もっても3年です。 手術をすれば改善はされますが、多発性だから再発は防げません」、 とはっきりと告げられてショックを受け 暫く大部屋の病室には戻れない心理状態になり、平静を保つのに苦労しました。 子供が上は中学2年、下が小学4年の時でした。 2度のTAEでがんを叩きましたが不十分で翌年(1992)の1月25日に 13時間の手術を受けました。 腫瘍2箇所120gと同時に脾臓も全摘出しましたので、 腹一面の大きな傷(逆Tの字の形)に驚きました。 左葉の一つは取れなかったが、小さいから3p位になったら塞栓で治療、 と言われました。 がん細胞のタイプはエドモンド2型でした。 3月15日に術後1月半で退院は出来ましたが、再発の恐怖と、術後の後遺症、 (腹筋が不自由)にその後、長く悩まされました。 肝がんより奇跡的に回復 平成8年(1996) もっても3年と告知された三年目に入り、覚悟してホスピスに世話になるつもりで、 以前に掛かっていた近くの横浜南共済病院に精査のため入院しました。 その結果は、驚くべき事に、「再発は無い、全く綺麗でリピオドールに何も染まらない。 少なくとも、あと1〜2年は保障できます」、と診断され、命拾いしました。 その時の気持ちは、何とも表現しようがありません、 ホスピスから現実の社会へ戻れたのですから。 但し、再発したら「早いですよ」と厳しい一言もありました。 |
|||||||||||||||||||
|
平成11〜15年(1999〜2003) 再発防止のため、HCVの特効薬と言われたインターフェロン治療を受けました。 1ヶ月入院してイントロン900万単位を、計6ヶ月間受けました。 激しい悪寒と、9度6分の高熱、食欲不振、脱毛等、副作用はとても厳しいものでした。 陰性化した嬉しさをバネに耐えることができたと思います。 しかし、喜んだのも束の間、3月後にはウイルス反応が陽性になってしまいました。 とても落胆しました。厳しい現実でした。 その後、毎年のように、全快を期待して、また再発を遅らせるために、 副作用と戦いながら、インターフェロンの治療を受け続けました。 神奈川県の肝臓病患者会で肝炎患者のための奉仕活動 平成7年頃から、体調の良い時は、神奈川県の肝臓病患者会の役員として、 肝炎から肝がんまで、会員さんの電話相談に応じ、自分の体験を通じての病気の説明や、 患者への勇気付け、励まし等のボランティア活動をしてきました。 年4回の会報、冊子等の編集、出版、講演会のテープ起こし、 年2回の肝臓専門医による講演会開催等の奉仕活動を行いながら、 HCVに付いて勉強させていただきました。 甲斐なく肝がん再発 毎年のように、新しいインターフェロン療法が示されこともあり、 2000年β型フェロン、2001アドバフェロン、2002イントロンとリバビリン併用、 2004ペガシス(ペグ)、と毎年のようにチャレンジしました。 保険が効かないものもあり、費用と副作用に悩み戦いながらの一年、一年でした。 静脈瘤の大吐血も何度かあり肝を冷やしましたが、その治療のお陰かその間は、 再発はありませんでした。 2003年、ついに再発が続いて起き、その度にTAEやPEITで叩いてきました。 しかし、その都度肝機能は落ちて予備能力が無くなっていきました。 浮腫や腹水も出てきてアルブミンや血小板の減少が顕著でした。 Albが2.0に近づいて行った時は、とても恐ろしく感じました。 |
|||||||||||||||||||
|
生体肝移植を勧められて topへ↑
|
|||||||||||||||||||
|
平成16年(2004)夏 2004年6月 治療しても再発が続き、今も3個1.8〜2.5pのがんがあり、先も見えている。 助かるには肝移植しかありません」 「幸いに、未だ体力もあり他の器官は健康でしたので条件はとても良い、 しかもがんの大きさと数が、3cm以下3個以下というミラノ基準に入るので、 今年から保険の適用に該当します」、と告げられました。 肝移植には1500万〜2000万円は掛かると言われていましたので、 高嶺の花で自分の事としては考えてもいませんでした。 それが3割負担で可能になると、急に現実感がでてきました。 常に死を覚悟してきたこの10年なので、 半ば人事で面白い可能性がでてきたな、長生きできて良かった位にしか 感じていませんでした。 その後、具体化してきた時には、迷い、葛藤し、 情報収集に苦労するとても辛い半年間になりました。 肝移植手術(生体肝移植, 脳死肝移植)は、日本では、1989年に初めて行われて以来、 2005年までに約3,000例の術例があり、重症肝臓病の治療法として確立しつつあります。 術後一年の生存率は、概ね良くて90%悪くて80%と言われています。 2004年の夏、生体肝移植の検討段階に入った当初も分からないことばかりで、 判断材料さえ見つけられないような状況でした。 医療機関からの説明や自分で本やネットで調べて理解する様務めて、 またドナーをはじめ周囲の努力で生体肝移植までこぎつけることができました。 <一部前記術と重複>
模索と葛藤、迷いと惑いの中、やっと医療機関を選択しました。 移植のため入院してからも、ドナーが後から入院する日の前夜まで、 携帯片手に迷い、苦しみました。 この歳(当時56)でドナーの善意に甘えて良いものかと。 平成5年に13時間に渡る肝がんの手術を受けています。 多発性肝細胞がんなので再発して早ければ1年、以って3年と告知されていました。 (当時は今ほど手術の予後が良くありませんでした) その後、インターフェロンによる治療を数年に渡り4回、 それぞれの種類 (α・β・リバビリン併用等)を 受けましたが、すぐ陰性になるのですが止めると陽性化してしまいました。 副作用が厳しく、とても辛い半年間でした。 その効果によるものか、奇跡的に、10年間再発がありませんでしたが、 平成15年夏、再発してそれから、TAEやPEITで叩いてきました。 しかし、その都度寒の予備能は低下し、got等の数字は100前後でしたが、 次第に顔色も鉛色になり、アルブミンが低くなり、腹水も溜まり、 浮腫みも出るようになりました。 平成16年(2004年)初夏には、 それまでは手術費用に1500万〜2000万円掛かりましたが、 この1月からミラノ基準の条件を満たせば保険適用になり、 私の場合はかろうじてその基準内でした。 「夏休み明けにも手術をしたい、早いほうが良い」、と医師に強く勧められました。 「自分は京大で経験を積んできているし、 万一の場合は京大の先生に新幹線で来てもらうから、 心配はありません」、とも言われました。 体力は未だ有り、日常生活には何の支障も無い状態でしたので、 切迫感も無く大いに迷いました。(一部前記術と重複しています) 家族に話すことは、私の場合あまり抵抗はありませんでした。 と言いますのは、10年前から、後わずかの命と宣告されてきました。 実際、S60年頃は肝硬変と診断されると、以って5年と言われ、 静脈瘤破裂で亡くなる方が多かったです。 私も何度も静脈瘤破裂による大吐血をしましたが、 幸い内視鏡による硬化療法や結紮術による処置で一命を取り留めています。 がんの手術や処置を何度も経験して、50歳まで生きられるとか、 21世紀を迎える事などは夢の向こうでした。 一年、一年をやっと生き延びて、それを喜びとする生活でした。 この様な背景があり、私の生への執着は吹っ切れていました。 肝移植ができれば、もしかしたら少しは人並みに生きられるかもしれない。 治らないC型肝炎が治るかもしれない。夢のような話で人事の様でもありました。 患者として、信州大の一例目から大変な関心を持って注目していましたが、 そのとき以来、高額な費用と医療施設とのコネクション等、羨ましいが全くの他人事で、 自分とは関係の無い事でした。 家族への説明の時も、殆ど他人事のように話し、その時は移植を自分がするつもりは、 殆ど無かったように記憶しています。 医療は日進月歩、少し長生きするといろんな可能性が生まれるものだと、感心していました。 幸いに、妻と次男の善意により、ドナーの件は苦労せずに解決しましたが、 適合検査の結果、妻(当時54歳)は臓器の大きさと抗体の問題で最適ではなく、 次男(23歳)も脂肪肝が強くかなりの減量を必要とされました。 どちらも適合臓器ではあるが、問題は少なからずあり、 結果として次男に決まったが、脂肪肝治療の半年間のその節制振りは、 涙ぐましいものがありました。 耐え難い苦痛を伴う手術をして、自分の肝臓の半分を父に与えるために、 大変なつらい減量をする。無論仕事をしていながら。 その時、ドナーが横浜市大の脂肪肝外来のY先生に大変にお世話になり、 3週間ほど入院しました。 この脂肪肝治療なくして移植は不可能でした。
|
|||||||||||||||||||
|
生体肝移植手術 topへ↑ 平成17年(2005) 東京大学医学部附属病院において、2005年3月23日、 生体肝移植術を受け(ドナー 次男 励23歳)、 約1ヵ月半(3/17〜5/4までの48日間)の入院生活を終え、無事退院いたしました。 とは言っても、最初は20時間の長い手術、胆汁漏れによる4月5日の再手術、 8日に再々手術と大変でした。 最初の結果はとても良く、麻酔から醒めたその日の夕にベッドサイドに立って体重を量り、 少し足踏みもでき、かなり余裕がありました。 今までの300例のうち2番目に良い状態とICUで言われて喜んでいました。 5日後くらいに30mくらい離れたHCUへ歩いて移動できました。 その後、右脇腹部の痛み、手術の傷の痛み、発熱とても辛くなり、 胆汁漏れによる腹膜炎で緊急手術と告げられ、 それが再度重なり大変なショックを受けると共に、体力も日ごとに弱まり、 錯覚、幻覚等が生じて、厳しい闘病の毎日になりました。 毎日、朝夕廊の端から端まで、看護師さんに支えられながら歩きますが、 ふらつき、倒れそうで辛いものでした。 免疫抑制剤の副作用による筋力低下と震えのせいもあったでしょうが、 だんだん歩けなくなってきた時は、このまま回復できないのではと恐怖がつのりました。 その恐怖は退院後も3ヶ月は続きました。 振り返ると4/8の再々開腹手術から27日間で退院しています。 非常に辛い闘病でしたが、信じられない短さに驚いています。 最初の3/23の移植手術からは42日目の退院でした。
後 記 topへ↑ 次第に病状は悪化し、平成5年1月には、肝硬変から肝ガン(多発性肝細胞がん)へと進行し、 13時間にわたる手術を受けました。 奇跡的にその後10年再発が無く闘病を続けてまいりましたが、2003年に至り再発しました。 治療を続けるうち肝の予備能も低下、また肝がんが多発するようになり、 先が見えてまいりました。 もってあと1〜2年の命と診断され、最後の手段として、 家族及び医師と相談の結果、移植を行うことにいたしました。 現在、わが国における肝移植は、脳死移植と生体移植がありますが、 脳死移植による臓器提供者が少なく、実績も少ないため、 生体移植を選択することになりました。 病院・医師・コーティネーターの診断、精査、度重なるインフォームド・コンセントの後、 移植手術が実施されました。 家族間において、レシピエントの立場、父親の立場から妻や子に、お願いする事はできません。 断れば関係は破綻するか、しないまでもとても気まずいものとなります。 断ることができないお願いはしてはならないと考えました。 卑怯かもしれませんが、客観的な情報以外、自分からは詳細は話せませんでした。 そして最先端の医療技術のお陰で生還することが出来ました。 特に、次男 励の決断に大変感謝すると共に、家族の愛と思いやりを大切にして 行きたいと考えています。 術後、体重が15キロも減り、すっかりスマート?になってしまいました。 2ヶ月近い想像を超える辛い施術と治療を余儀なくされ、 5月4日、無事、退院でき、その後の1年間の、厳しい副作用との戦いも克服できた今、 心底、健康で命あることのありがたさを痛切に感じております。
一年間に支払った総医療費は4,604,229円でした。 その内、9割は国保の高額療養費支給と、生保の入院医給付金 (2社)で賄えました。 保険に該当しない場合は、2004年以前同様、1500万から2000万は掛かるそうです。 臓器移植手術の実現に向けても様々な問題があり、それがクリアできたとしても、 術後管理や薬の問題等があり、手術が成功したからといってそこで全てが 完了することはありません。 ある意味手術が終わった時点がスタートラインともいえるでしょう。 退院後の免疫抑制剤・ステロイド剤・インターフェロン等の複合の副作用は 非常に厳しいものがあります。 筋力低下、手指を初めとする振戦(震え)、味覚異常、食欲の著しい低下 、白内障、発熱、悪寒悩まされ、 また免疫力の低下で口の中にカビが生えたり、感染予防のため人混みではマスク着用、 食事も制限を受け、 一日おきの痛い自己筋肉注射等、で1年間苦しみます。 精神的にも辛いものがあり、やっとギリギリで耐えられたようです。 薬代だけでも多い時は月10万円近く掛かりました。 1年半経った今は、薬はプログラフ1〜1.5を朝夕、メドロールを1錠朝一回と、少なくなり、 体調はとても良く肝機能も正常で安定しています。 退院後はドレーンを抜く5日間の入院以外、月一回の通院で済んでいます。 2年目からは2ヶ月に一度になりました。 何よりも退院後に具合が悪くなり、再入院することなく今日に至っていることは、 主治医の先生に深く感謝するのみです。 最後に、この貴重な体験と幸運を生かすためにも、肝炎から肝移植に至るまで 患者の皆様のお力になれることがあれば、できうる限りお役に立ちたいと考えています。
|
|||||||||||||||||||
|
|
|
|
|||||||||||||||||
|
1990 肝硬変で闘病中の頃描いた線画 |
|||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||