白バラができる以前

『風防燈火』

 オトル・アイヒャーが提案した回覧同人誌を『風防燈火』という。

 ショル家と親しかったオトル・アイヒャーは、ハンス、ゾフィー、ヴェルナーや他のウルムの親しい友人、そして自分自身も軍務や勤労奉仕などに召集されてウルムを離ればらばらに散らされてしまった時、それぞれの場で孤独に戦う仲間を結び支えために何かできることはないかと考えた。そこで同一テーマをめぐる論文や詩、エッセイ、スケッチなどを友人から定期的に集め、その間で回覧する回覧同人誌『風防燈火』を兵舎で寝起きしながら自由な時間の全てを注いで編集した。

 ハンスはカール・ムートやテオドール・ヘッカー、ジギスムント・フォン・ラデッキなどの書いたものも紹介したり、ムートが訳した当時のフランス作家の原稿なども提供した。もちろんハンス自身も「貧困について」「トリノの聖骸布について」と題された宗教的な内容の論考を連載している。インゲやエリザベート、ゾフィー、トラウテ・ラフレンツ達も原稿を書いたり表紙の絵を描いたりさまざまな形でこれに関与した。しかしハンスがミュンヒェンの親しい友人にも加わってもらおうと働きかけていたが『風防燈火』自体が中止せざるをえなくなった。

 1941年秋から始まった『風防燈火』は、3号までを発行された。しかし1942年2月ミュンヒェンのハンスを訪ね『風防燈火』を受け取り帰宅したインゲは、父ロベルトが反ナチス発言の科で逮捕・告発を受けたあおりで連行され尋問を受けた。『風防燈火』の件は発覚していなかったのでインゲは機転を利かせ『風防燈火』を隠しゲシュタポに発見されるのは免れた。しかしこれを機にこの試みは「秘密結社活動」とみなされ16年の刑に照らされることが現実味をもって現されたため、あまりに危険でこれ以上続けるのは無理だと判断された。

 しかしインゲ・アイヒャー=ショルは後の回想に「この4ヵ月後、『白バラ』のビラ第一号が印刷されました。でもこれはもう、書き手の内面に向かうのではなく、外部に働きかけることを意図したものになっていましたし、結果としても、16年の刑などという生やさしいことではすまなくなってしまっていたのです」(『ミュンヒェンの白いばら』P162引用)とある。これはこの『風防燈火』をやめなければ弟と妹も白バラの活動に身を投じることもなく死を免れることができたかもしれないというインゲの悔恨が見えなくもない。

 また、『白バラの声−ショル兄妹の手紙』(インゲ・イェンス:編 山下公子:訳 新曜社)でハンス、ゾフィーともにオトル・アイヒャー宛てに『風防燈火』に関する手紙が掲載されている。

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