ミュンヒェン帰還 / トラウテ・ラフレンツの行動 / ヴィリー・グラーフの行動
ハンス・ショルの行動 / ファルク・ハルナックとの出会い
1942年11月6日から東部戦線に赴いていたハンス達は、11月6日にミュンヒェンに帰還した。白バラのメンバーは再びミュンヒェンで再開し集う。ハンスとゾフィーは同じ家にそれぞれ部屋を借り、そこやアトリエがメンバーの集まる場となったが、11月26日クリストフがミュンヒェンからインストブルックに転属を命じられ、大学も当地のところに変わったため彼は不定期にしか会合に参加できなかった。
メンバーは効果的に賊動を進めるために、しばらくビラの再開は延期しグループの拡大を優先した。
トラウテは11月に数週間ハンブルクに赴いた。1939年の夏学期まで属していた友人サークルに連絡をつけ、白バラの活動について話しビラを見せるためだ。サークルの中心人物のハインツ・クハルスキーとグレータ・ローテは『ヒトラーと戦争に反対』と題した外国ラジオの放送の周波数を記したビラを作成し、ハンブルクで配布したこともある。2人は白バラの活動への協力を賛成したが、サークルの人達には説明が必要で時間がかかると話した。この時点でハンブルクのグループでは積極的な抵抗を行う準備は整えてはいず、すぐに行動を起こせる状態ではなかったのだ。実際にハンブルクでビラがまかれたのは白バラのメンバーが逮捕された後で、ハンブルクでも多くの若者が処刑されることとなる。
尚クハルスキーは白バラのメンバーが逮捕された後に行動を起こし処刑された科学化学生ハンス・ライベルトとも知り合いであったが、ライベルトは白バラのメンバーが逮捕される以前には白バラのグループと関わりを持つことはなかった。
11月11日、ヴィリーは故郷ザールブリュッケンに戻り26日に妹アンネリーゼを伴って戻る。アンネリーゼは直接白バラの活動には関わっていないようだが、ヴィリーはゾフィーのように白バラに協力してくれることを望んだか、精神的にも苦しい活動の中で肉親に安心感を求めたりしたのかは不明である。クリストフがインスブルックへ行くことがわかったので、12月2日にハンスの部屋で集まり集会を開き、そこでグループ作りについての話し合いをした。そこで他の都市にいる信頼できる友人に抵抗運動について打ち明け、グループの拡大することに協力を頼もうと決まった。これにはカトリックの青年運動や「灰色会」に所属して信頼できる友人を多く持っていたヴィリーがすぐに行動を開始した。
12月4日にミュンヒェンにいる「灰色会」創設者フリッツ・ライストを訪問した。翌日には彼の友人アーダルベルト・グルンデルとも話し合うが難色を示した。また他の「灰色会」の友人たちも活動を起こす危険性と得られるかもしれない成果はつりあわないと考えた。また暴力手段による抵抗を神学的な理由から拒否。12月12日の日記にはフリッツの協力は得られそうにもないといったミュアンスのことが書かれている。12月下旬のクリスマス休暇の前後にザールブリュッケンに帰ったヴィリーは旧友を訪問して回った。12月23日の日記には「新ドイツ」でもボン大学医学部でも一緒だったハイン・ヤーコプスを訪問し、活動の計画を打ち明け、彼も賛成したということがかかれている。ヴィリーの日記にはその後も「新ドイツ」の友人たちを訪問していることが書かれていたが、ヒトラー政権に強く反対している点は同じであっても抵抗するという計画には賛成はしてくれなかったようだ。カトリックの彼らにとっては最終的には神学的理由から拒否することに行きついたのだ。
だが「新ドイツ」にいた頃は特に親しいわけでもなかったハインツ・ボリンガーにクリスマスのミサで再会し、ヴィリーは彼に近づいた。その日の会話で彼が自分たちの計画に賛成してくれそうだと判断したヴィリーは翌26日に彼の自宅を訪ねる。ハインツ・ボリンガーは当時ハンブルク大学の哲学科助手であり、ハンブルク大学の抵抗グループについて語り、ミュンヒェンのグループと協力することを約束した。また、医学部の学生で当時ザールブリュッケンの病院に衛戍病院に勤務していた弟のヴィリー・ボリンガーも協力することを約束した。ヴィリー・ボリンガーは休暇証明書(*)と軍人乗車証を持っていなかったヴィリーのためにそれらを手にいれ、さらには将校用のピストルと自動拳銃をくすねてきた。
『権力と良心 新装―ヴィリー・グラーフと白バラ』(クラウス・フィールハーバー他:編 中井昌夫・佐藤健生:訳 未来社)に当時の日記が掲載されている。
(*)休暇証明書・・・軍人でもあるヴィリー達はミュンヒェンから50キロ以上はなれた場所に勝手に行ってはならなかった。汽車の中で定期的に遠出を許可されていることを証明する休暇証明証などがないと「脱走兵」とみなされた。
11月にハンスはウルムに行き、当時18歳でギムナジウムの生徒だったハンス・ヒルツェルを訪ねた。以前ハンス達がロシアに行っていた同年の夏にゾフィーは彼に80マルクを渡して謄写器と紙を買ってくれと頼んでいたのだ。ヒルツェルは少なくとも12月末にはシュトゥットガルトでビラを配るという取り決めがなされていた。彼の姉スザンネ・ヒルツェルやギムナジウムの同級生のフランツ・ミュラー、ハインリヒ・グーターも配布に協力した。
ハンスはアレクサンダーと共に、父ローベルトの友人でユダヤ人の妻を持つシュトゥットガルトの会計士オイゲン・グリミンガーに資金援助を頼みに行った。はじめは計画の危険性に難色を示すが、ハンスは「成功の暁にはあなたに大臣の椅子を約束する」とまで言って頼み込んだ。その時は考える時間がほしいと言ったので、12月はじめにゾフィーと一緒に再度赴く。そして500ライヒスマルクを用立てしてもらうことができた。ハンスがグリミンガーと交渉している間、ゾフィーはシュトゥットガルトで音楽を勉強していたズザンネ・ヒルツェルを訪ねていた。白バラのことをほのめかし、「もしヒトラーが向こうからやって来て、私がピストルが持っていたら撃ち殺してやるわ。男達がやらないなら女がやらなくちゃいけないのよ」と言ったという。「でも、そうしたらすぐにヒムラーが代わるだろうし、ヒムラーの後にもまだけっこうたくさんいるんじゃないかしら」とズザンネが言えば「自分で罪を背負わないために、何かをしなくてはいけないわ」と答えたという。
12月はじめミュンヒェンにいる書店主ヨーゼフ・ザーンゲンを訪ねグループ拡大について話し合う。ザーンゲンには7月の時点で白バラの活動について打ち明け、協力の約束を取り付けていた。また彼はイタリアの抵抗運動グループとコンタクトがあった美術史家ジョヴァンニ・ステパノフと白バラとの連絡をつないでくれもした。
1942年秋、アレクサンダーと親しかった女流画家リーロ・ラムドールをアレクサンダーはハンスと一緒に訪問した。そしてハンスはテーブルの上にあった手紙の差出人が“ファルク・ハルナック”であるのを見て「この方はアルヴィド・ハルナック博士の親戚の方だろうか」と問いかけたという。
アルヴィド・ハルナックとはベルリンの帝国経済省の上級参事官であったが、帝国航空省のツュルツェ・ボイゼン中尉と共にゲシュタポが「ローテ・カペレ(赤い楽団)」と呼んだ抵抗組織を指導していた。この抵抗組織高級官吏から工場労働者とかなり広範囲の者が関わり、1942年8月には組織は挑発され、100人にも及ぶ逮捕者を出した。内、55名が処刑され、アルヴィド・ハルナックとアメリカ国籍の妻ミルドレッドも逮捕、処刑された。そのアルヴィド・ハルナックの弟がファルク・ハルナックであり、ファルク・ハルナックの婚約者がリーロ・ラムドールであったのだ。ハンス達は外国放送で「ローテ・カペレ」について知っており、ファルクから何かその件について情報がもらえないものかとリーロに仲介を頼んだ。ファルクは会うことを承知したが、駐屯していたケムニッツに来るように言った。ハンスとアレクサンダーは休暇証明書を持っていずためらったものの、彼を通じてベルリンの抵抗組織と連絡がつくかもしれないと考えたために会いに行く。
1942年11月、ハンスとアレクサンダーはケムニッツを訪れた。3人はすぐに打ち解け、4種類の白バラのビラを見せ意見を求めた。ファルクはあまりに文学的だと指摘し、現実的で政治的に明確なものを書くようにすすめた。また国防軍の内部と外部にあるさまざまなグループとの間に連絡があることと、軍の反対派の中には、ヒトラーに対して反乱を起こす準備をしているグループがあることを告げた。これはハンス達の期待を上回っていた。そしてベルリンの抵抗組織の本部と連絡をとってほしいと頼み、ファルクもそれを約束した。