白バラのビラ5号『ドイツ抵抗運動のビラ』 / ミュンヒェン大学の暴動
第6のビラ−フーバー教授の草稿 / ファルク・ハルナックとの会合 / 夜の落書き
おそらく1943年になってからハンスとアレクサンダーはそれぞれがハルナックの意見を考慮に入れた「具体的に、わかりやすく」書いたビラの草稿を持ってフーバー教授に会いに行った。どちらの草稿のほうが良いか判断を仰ぐためだったようだ。アレクサンダーの草稿は共産主義的だとし、ハンスのものを選ぶ。だがハンスのものにも共産主義的なところがあると意見した。
1月13日のヴィリーの日記に「石は転がりだした」という記述があるので、この日から謄写が開始された可能性が高い。また20日にはヴィリーが5号のビラを持ってケルンに赴いていたためでもある。ビラはミュンヒェンの電話ボックスや劇場などにこっそりと置かれたり、ヴィリーのように汽車に乗って他の都市に運んだりもした。ビラを広く配布すると同時に消印が全てミュンヒェンからだと自分たちの居場所を教えるようなものだったためだ。アレクサンダーはザルツブルク、リンツ、ウィーンなどに。ゾフィーはアウクスブルクとウルムのハンス・ヒルツェルに配布を依頼した。ヴィリーは20日にケルンに出発し、友人や知人を訪ね歩いた。ボン、ザールブリュッケン、フライブルク、ウルムなどにも行き協力を仰いだ。以前協力を約束したボリンガー兄弟にビラを見せ配布を依頼。またハインツ・ボリンガーの友人ヘルムート・バウアーも協力を申し出た。そして24日にヴィリーはミュンヒェンに戻ってくる。
白バラのビラ5号は『ドイツ抵抗運動のビラ』と名づけられている。「全てのドイツ人に呼びかける!」で始まり、ハルナックの意見を参考に今までのビラよりは非宗教的で現実的、具体的であった。もちろん配布を呼びかける締めの文章は健在である。
ヴィリーが日記に「石は転がり出した」と書いた同じ1943年1月13日は、ミュンヒェン大学470年記念祭がドイツ博物館の大ホールで催された。そこで大管区指導者パウル・ギースラーが祝賀演説を行ったのだがそれが学生の怒りを呼んだ。
ギースラーは戦線に立った学生を賞賛し将来の職業のために真面目に準備をする学生を称えたが、適性も才能もないのに戦争にかされるさまざまな義務を逃れる救済機関にするつもりはないとも言った。ここまでなら学生は眉をひそめても騒ぎは起こさなかっただろうが、調子に乗った演説は女子学生を痛烈に批判した。「女はもともと家にいればよいのであって、婦人の最も崇高な勤めは、総統閣下に毎年新たな健康な男の子を生んで差し上げることである」(『ミュンヒェンの白いばら』P258より)そしてこれに続いた言葉が完全に女子学生、ならびに他の男子学生も完全に怒らせた。「もし、お嬢さん方の中に、自分は男に好かれるだけの容姿がない。だから、大学で勉強するより他にないのだとお考えの向きがあるのなら、御心配無用。若くて元気溌剌たる私の副官の誰かをお回ししよう。大変結構な思いをなさることは私が保障する」(『ミュンヒェンの白いばら』P258より)女子学生は席を立ち出て行こうとして警察とナチ党学生同盟の学生に捕えられ、それに怒った男子学生(むしろギースラーに賞賛された学生)が女子学生を解放せよと叫び直接的な行動に出たので混乱は一気に高まった。女子学生を救い出すと市内を闊歩。これにはギースラーに非があることは明白だったため政府も慌てた。1月末に再び集会を開きギースラーは脅し付きではあったが謝罪した。今回はギースラー個人に対する怒りだったため学生はそれで怒りを収めた。
しかし政府はこの裏でカトリック教会や反動主義者が動いているのではと疑い、一時は首謀者を探し出し処分せよと非常事態宣言が出されていた。だがこの騒動に少なくとも白バラグループは関わっていない。ビラ3号で説いたナチと名の付くものの公的行事に対してサボタージュを実践していたからだ。よってメンバーはこれを友人から聞くことになる。ヴィリーの場合は式に出席していた妹のアンネリーゼから聞いた。白バラグループはやっと組織化に手を付けはじめたばかりであり、ちょうど第5のビラに着手したところだった。さらに学生がまさかこんな騒動を起こすなどということは予想外だった。よってこの騒動に対応し抵抗の火を学生達に灯し続けることはできなかった。『ミュンヒェンの白いばら』には「彼らはいずれも学生、あるいは大学教授であって、一人として政治の玄人はいなかった」と一般の市民による抵抗運動組織の限界を示唆している。
1943年2月3日、ラジオの放送でスターリングラードの敗戦が伝えられた。ヒトラー政権はロシアを劣った国だと国民に刷り込んでいたため、その国に負けたという事実は政府ならびに国民にも大きなショックをもたらせる。そのスターリングラードの敗戦をテーマにフーバー教授は相談役的な立場から一転し、自発的にビラの草稿を作った。
フーバー教授にビラの草稿を見せられたハンス達は内容に賛成したがビラの結語に関して意見は割れた。内容はスターリングラードの敗戦を前面に押し出したもので、ミュンヒェン大学の騒動についても言及。そして問題の結語は「栄光ある国防軍に入りたまえ」といったものだった。元々軍とは政府とは切り離し、フーバー教授のみならず多くの人が軍の中立性を信じていたようだ。軍の力なくして政府を倒すことはできないと考えていた。だが学生たちは実際に軍人として軍を見て、その中立性はすでにないと考えていたようだ。ビラの結語を消すならばその草稿は引っ込めたいとフーバー教授は言ったが、話し合いは決裂しフーバー教授は怒って去っていった。結局、ビラは結語を削って謄写され配布された。
スターリングラードの敗戦を受けて、ハンス達はクリストフにビラの草稿を依頼していた。フーバー教授が草稿を持ってきたためクリストフの草稿は後回しとなったが、この配布されなかったビラの草稿(*)がクリストフ唯一の逮捕の原因となる。またフーバー教授もビラさえ書かなければ逮捕は免れたかもしれない。
(*)クリストフのビラの草稿は『白バラを生きる−ナチに抗った七人の生涯』(M.C.シュナイダー、W.ズュース:著 浅見昇吾:訳 未知谷)P148-P150に掲載されている)
ハンス達学生とフーバー教授を交えてミュンヒェンでファルク・ハルナックとの会合の場があった。2月8日か9日、および11日(フーバー教授がビラ6号の草稿を持っていった)に行われた。しかしハルナックは共産主義に近い意見を持っているため、共産主義を批判するフーバー教授は彼との付き合いをやめるように学生に忠告。だがハンス達は実際にロシアの地を踏み共産主義が否定だけされるべきものではないと考えていたようだ。会合では緊急にここに孤立している抵抗組織と連絡をとり網を張り巡らせ、信頼できる組織を作らなければならないという意見や、早く戦争を終わらせなければならないという意見は一致した。だがヒトラー政権が倒れた後のドイツの将来の構造は意見が食い違う。11日にはフーバー教授がビラ6号を持ってきて、最終行のことで意見が割れる。
ハルナックは2月25日にベルリンで行われる会合にハンス達を誘った。これにハンスとアレクサンダーは出席しようとしていたが、2月18日にショル兄弟が逮捕され、メンバーが次々と逮捕されて言ったためこの会合に出席することは叶わなかった。
1943年2月3日から4日にかけての夜、ミュンヒェン市内で『自由』や『ヒトラー打倒』と型板を用いてタール塗料で書かれた落書きがあり、その横にバツで消された鉤十字まであった。犯人は不明であり落書きをされた建物の持ち主には即刻除去するように指示がおりる事件である。この犯人がハンス、アレクサンダー、ヴィリーである。ハンスとアレクサンダーが落書きをして、ヴィリーが拳銃を持って見張りをしていたのだ。
1月末から2月5日までミュンヒェンに滞在していたハンスの妹でありゾフィーの姉であるエリザベートは、ゾフィーが「何かしなければならない、たとえば壁に何か書くとか」「そういうのはタールで書いてやらなくちゃ駄目なのよ」「夜は自由の味方ね」と言っていたと後に回想している。また一緒にミュンヒェン大学に講義を聴きに行ったとき、壁に書かれた「自由」の文字を見て「こすったってなかなか落ちないわよ。あれ、タールだもの」とも言ったという。
また8日と15日にも落書きは行われたようだ。このようなことはおよそ10年なかったことで、政府は警戒を強めた。