主要メンバー

誕生から白バラに関わるまでの生い立ちをまとめ。

ハンス・ショル / アレクサンダー・シュモレル / クリストフ・プロープスト
ヴィリー・グラーフ / ゾフィー・ショル / クルト・フーバー

ハンス・フリッツ・ショル [Hans Fritz Scholl]

 1918年9月22日にドイツ南西部シュワーベン地方のヤクスト河畔インガースハイムで、ショル家の2児長男として生まれる(プロテスタントの洗礼を受けた)。父ローベルトはインガースハイムの村長であり、3年後にはフォルヒテンベルクの町長となる。だが新しい物を取り入れ自由主義のローベルトは保守派の町民に反感を持たれ、1930年に退任。ルートヴィヒスブルクで2年を過ごしウルムに移った。

 1933年3月30日、ヒトラーが政権を握る。この時ハンスは14歳だった。郷土愛と祖国繁栄を謳うヒトラーに祖国を愛する若者は急激に惹かれていく。ハンスもその熱狂に捉われ、父の反対を無視して姉や弟妹達とヒトラー・ユーゲントに入る。当初ヒトラー・ユーゲントは青年団の理想が受け継がれているように思え、さらにのめり込む。ハンスは中隊長にもなり、1936年にはニュルンベルクで開催された党大会の旗手に選ばれるまでとなった。しかしこの党大会でハンスはヒトラー・ユーゲントに幻滅する。個人の特性を生かし発展させることを理想と見ていたのに、党大会で見たものは型にはまった均一性とヒトラーへの異常な忠誠だったからだ。

 他民族の民謡や著書、ドイツ民族であってもユダヤ人の手によるものはことごとく禁止されたことも徐々にハンスの心を冷ました。そして決定的にヒトラー・ユーゲントと決別する事件が起きる。ハンスが隊長を務める中隊で、隊独自の旗を作り上げてその旗に忠誠を誓った。だが点呼のために整列をした時、大隊長はその旗を発見。そして旗を持っていた12歳の少年に「お前たちに特別な旗は必要ない。みんなと同じ決められた旗を持ちなさい」と言い、よこすように命じるも少年は動かない。何度か命じても渡さない少年に痺れを切らして無理やり旗をとろうとしたとき、ハンスは二人の間に入り「その旗を持たせてやってください」と言った。その後つかみ合いが起こり、ハンスは大隊長を殴ったことで隊長ではなくなった。

 ハンスは弟ヴェルナーや隊の隊員数人を連れて「ドイツ青年団1月11日(Deutsche Jungenschaft vom 1.11.)」略して「d.j.1.11.」に加わる。当時はヒトラー・ユーゲント以外の青年団は認められておらず、青年団に入ることは非合法な活動とされた。だがハンスは積極的に活動し、ウルム「d.j.1.11.」の中心的存在になっていく。

 1937年3月にアビトゥアをすませたハンスは4月から半年義務化された労働奉仕を行い、10月半ばに兵役に就いた(兵種は志願すれば選べる。ハンスは騎兵隊)。

 1937年晩秋ドイツ全国で青年団の捜査が開始され、11月にショル家にも2人の警察官が訪れ、その場にいたヴェルナー、インゲ、ゾフィーを逮捕する。ゾフィーは男の子と間違えられただけですぐに解放されるが、他の2人はおよそ8日間拘留される。ハンスは兵役に就いていたので逮捕が遅れ12月にシュトゥットガルトに送られる。だが彼を気に入っていた上官のおかげで、明らかにグループの中心人物の1人だったにも関わらず翌年1月には釈放され軍に戻ることができた。

 1年間の兵役を終えると11月からテュービンゲンの病院で、医学部入学の前提条件として衛生兵養成訓練と試験を受けるよう命令が下る。翌1939年1月試験に合格し、4月からミュンヘン大学医学部の学生となった。

 同年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦勃発。

 1940年3月、ハンスはミュンヒェン学生中隊に召集され、衛生中隊に配属。ドイツ国内を転々としたあとフランス派遣軍に加わった。 が、日記や手紙からうかがえるフランス戦線の状況はのんびりしたもので、フランスがドイツに全面降伏したあともそれは変わらなかった。9月末に帰国したハンスは10月15日再びミュンヒェン学生中隊第2衛生部隊に配属され、医師資格予備試験を修了するよう命じられる。同年秋、同じ部隊に配属され、同じ命令を受けたアレクサンザー・シュモレルと出会うこととなる。1月に試験に合格。1941年8月 ハンスとアレックスはハルラッヒングの市民病院に実習に入る。この前後からハンスの書簡にアレクサンダーがよく現れるようになった。

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アレクサンダー・シュモレル [Alexander Schmorell]

 1917年9月16日にウラル河畔オーレンブルクで生まれる。父フーゴーはロシアに定住した毛皮商人の息子でロシア生まれロシア育ち。ミュンヒェン大学で医学を学んだ後、再びロシアに戻り、1915年にロシア正教の聖職者の娘と結婚。アレクサンダーが生まれた(ロシア正教の洗礼を受ける)。フーゴー、アレクサンダーはともにロシアで生まれたが、ロシア人と結婚しようともロシア人を母をもとうとも彼らは「ドイツ人」。第一次世界大戦の折には「敵国者」としてモスクワを追われオーレンブルグの収容所に入れられる。そこでアレクサンダーが生まるも、1919年彼の母親はチフスで亡くなった。

 翌年フーゴーは同じロシア生まれのドイツ人女性と結婚。1921年にドイツに引き上げ、ミュンヒェンに移った。アレクサンダーの母親代わりであった生粋のロシア人の子守も、亡くなった兄の未亡人フランツィスカ・シュモレルという書類上の名前を与え一緒にミュンヒェンに移った(ロシア人在住のドイツ人の引き上げ協定ではロシア人の使用人を連れて行くことはできなかった)。裕福な家庭で継母との関係も良好であったアレクサンダーは、自由にのびのびと育った。さらにロシア語しか話せない子守から完璧なロシア語も教えられていて、アレクサンダーはロシアへ強い憧れを持っていた。ドイツ風の「アレックス」と「シュリク」というロシア風の愛称で呼ばれるが、本人は「シュリク」と呼ばれることを好むほどだった。

 アレクサンダーはシュタールヘルム系の「シャルンホルスト」という青年団に加盟していたが、1933年に強制的にヒトラー・ユーゲントへ一元化されたことをきっかけにやめた。

 1935年ミュンヒェン新実科高等学校でクリストフ・プロープストと知り合う。彼はすぐに転校してしまったものの親交は続いた。

 1936年アビトゥアを終えると義務化された兵役を嫌って、少なくとも自分で行き先を決められるように志願して軍に入ろうとした。しかし1935年に「軍に志願するものはその前に半年間労働キャンプに参加するように」規定されていたため却下される。そしてアレクサンダーは労働キャンプに行くこととなった。共同生活と厳しい規則、プラーベートのない生活は、裕福な家庭で自由に育った彼にとって精神的に耐えがたい生活だった。何より形だけでもヒトラーに忠誠を誓うことができなかった。労働キャンプをなんとか半年勤め、1937年11月馬の好きだったアレクサンダーは騎兵砲隊に入隊する。リンツやチェコスロヴェキアなどに駐屯したが、そこで自分達が解放軍ではなく占領軍であることをはっきりと認識して、体制への拒否感が強まっていった。

 アレクサンダーは芸術面に強い興味をみせ天職は彫刻だと思っていたのにもかかわらず、1939年4月ハンブルクで医学の勉強を始める。そこでトラウテ・ラフレンツやユルゲン・ヴィッテンシュタインと知り合うが、戦争が始まり、1940年には学生中隊に召集されフランスに送られる。帰還した後(秋以降)にミュンヒェン大学に籍を移し学生中隊に配属された。同年10月、医師の予備資格試験を終えるように命じられる。具体的にいつ知り合ったかは定かではないが、同じ命令を受けていたハンスと知り合う可能性は時間の問題だった。8月の実習ではハンスと一緒にハルラッヒングの市民病院へ行くこととなる。

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クリストフ・ヘルマン・プロープスト [Christoph Hermann Probst]

 1919年11月6日、南バイエルンのムルナウで生まれる。父ヘルマンは大学で科学を学び学位も取得。実家が裕福だったため定職につかずアマチュアの学者として多方面の専門家と交際していた。そして姉アンゲリカとクリストフはヘルマンの意向で無洗礼のまま育つこととなる。ヘルマンは決して無心論者ではなかったが、比較宗教学に熱心だったため、子供たちが自分で宗教を選び取ってほしいと考えようだ(無洗礼の子供はとても珍しかった)。

 その後、両親はクリストフがまだ幼い間に離婚・再婚をした。母カタリーナはオイゲン・ザッセ博士と。父へルマンはエリザベート・ローゼンタールと。姉弟は父の元で暮らしたが、新しい継母を「おばあちゃん(omi)」と呼んでなつき、母の再婚した家庭とも親しい交流があった。しかしヘルマンの再婚相手は半ユダヤ人だった。1935年9月15日に「ドイツの血筋及びドイツの名誉保護法」という、ユダヤ人とドイツ人の結婚は国外でされたものであろうと無効となる法律が公布されてしまう(通称「ニュルンベルク法」)。これによりエリザベートのみならずヘルマンと子供たちも強制収容所送りになる危険性をはらんだた。ついには1936年6月、ヘルマンが鬱病のようなノイローゼになり療養していた施設で事故か自殺かわからない転落死を遂げる。複雑な環境に育ちながらもクリストフは成績優秀、品行方正、人格円満な青年に育つ。飛び級で18歳か19歳で終えるアビトゥアを17歳で終える。

 アレクサンダーとは1935年、ミュンヒェン新実科高等学校で知り合った。クリストフはすぐに転校してしまったものの親交は続く。転校のため7年間で4校の学校に通うことになったクリストフだが、2校めと4校めは同じ系列の私立の寄宿学校だった。そこは共同活動を重視し、生徒の個性を尊重していたためナチスの影響が抑えられていた。1937年から38年にかけて国民の義務の労働キャンプと兵役を済ませ、空軍に入った。1939年の春には軍務を終え、ミュンヒェン大学で医学の勉強を始める。クリストフはナチスの安楽死殺人に激しく嫌悪を抱き、医学部を専攻したと思われる。

 1940年春にはヘルタ・ドールンと結婚。ヘルタの父ハラルトは当時名の通った知識人で、カトリックへの改宗者でもあった。ヘルタ自身もカトリックで、クリストフ無洗礼のままだったもののは1940年、41年に生まれた息子・ミヒャエルとヴィンセントにはカトリックの洗礼を受けさせた。クリストフは22歳で妻と二人の息子、そして半ユダヤ人の継母を養うこととなり、忙しい日々を送った。継母は村の人に見て見ぬふりをされ、ユダヤ人が必ずつけなければならない黄色い「ヴィテノ星」もつけずにいることができた。

 1940年秋、アレクサンダーがミュンヒェンに戻ってきて再会する。ハンスたちと違い戦場に召集されることはなかったものの頻繁に移動を命じられた。翌年の7月まではミュンヒェンにいたが次の学期からはシュトラースブルクに移り、42年4月に再びミュンヒェンに戻る。

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ヴィルヘルム(ヴィリー)・グラーフ [Wilhelm(Willi) Graf]

 1918年1月2日にラインラントのクーヘンハイムに生まれる。3年後にはザールブリュッケンに移住し、父はぶどう酒販売と貸しホールを営業する会社の責任者となった。また、当時ザールブリュッケンを首都とするザールラントはドイツではなく、どこの国にも属していなかった(ドイツ語圏内)。

 ギムナジウム(高等中学校)に入ってまもなく、カトリック教だったヴィリーは(白バラのメンバーでは唯一のカトリック教徒)カトリックの青少年グループ「新ドイツ(Neudeutschland)」に加入する。そこで同志と密度の濃い関係を築いていった。1933年に青少年グループはユトラー・ユーゲントに一元化されたが宗教活動のみは許される。1934年の復活祭に「新ドイツ」のグループ・リーダー・キャンプに参加し、「灰色会(Graue Orden)」の創設者フリッツ・ライストに出会い、入会する。1935年ザールラントはドイツに取り込まれ、1936年2月にはヒトラー・ユーゲントへの入団が形式上は自発的に、現実は義務化した。だがヴィリーは頑なに入団を拒否。「新ドイツ」のメンバーでヒトラー・ユーゲントに入団したものは名簿から名前を抹消し「h.jに入った」と補足する徹底ぶりだった。入団しないものは大学入学資格試験の受験を拒否された。だがヴィリーの住むザールラントはドイツに加盟して間もなかったためか、ベルリンの命令を無視してヴィリーに受験資格を与え、1937年11月にはボン大学に入学。1938年1月「徒党を組んで不穏な活動」の罪状で逮捕、3週間拘留される。起訴されるもオーストリア併合の恩赦で解放。

 1939年夏学期までボン大学にいたが、閉鎖寸前のボン大学で医師資格予備試験を何とか受け、勉強を続けるために1939年9月ミュンヒェン大学に移ってきた。しかし1940年1月、ヴィリーは召集され東部戦線に行くこととなる。衛生兵のヴィリーが実際に先頭に加わったわけではないが、占領軍として戦場に存在し、間近でで戦争を見たことは大きな影響を残した。考えを共有できる人は身近にいず、「灰色会」のメンバーと前線であっても話す時間はなく、孤独で苦しい日々を送る。そこで救いとなったのはロシア人の少女であった。お互いの言葉が通じない二人だが、少女にもらったバラライカを大切にし、日記にはたびたび彼女が無事でいることを願う記述が見られる(『権力と良心』に当時のことをつづった日記がまとめられている)。

 1942年4月7日にミュンヒェンに戻ったヴィリーはミュンヒェンにいたフリッツ・ライストのところへ訪れる。「灰色会」のメンバーの集会所もあり、同志と語らえるようになったにもかかわらずヴィリーは孤独だった。戦場の悲惨さとミュンヒェンの平和さの落差に深い疑念を抱いていたのだ。「灰色会」のメンバーとヒトラーへの抵抗を話し合っても、消極的抵抗を支持する彼らとの考えの相違は拭えなかった。

 そんな時ハンスたちと親しかったフーベルト・フルトヴェンクラーと知り合う。またアレクサンダーとクリストフが通っていたフェンシングクラブににも通い始めた。このあたりで繋がりでハンスたちと知り合ったものと思われる。

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ゾフィーア(ゾフィー)・マクダレーナ・ショル [Sophie(Sophie) Magdalena Scholl]

 ショル家の4番目の子供として、1921年5月9日にフォルヒンベルクで生まれる。自由に伸び伸びと育ち、一歳下の弟ヴェルナーと特に仲がよかった。絵を描くことが好きで、芸術的才能もあったらしい(『ゾフィー21歳』にゾフィーの描いた絵が載っている)。ハンス達がヒトラー・ユーゲントに入った時、兄達に続き疑問を持たずに同組織の少女版BDMに入った。しかしハンスが熱心に活動したのに反し、ゾフィーはさほどBDMを重要視せず熱狂はしなかった。ユダヤ人の友人に対する迫害にも憤りを感じていたようだ。そんな中で1937年11月ゾフィーが16歳のときに、ヴェルナーとインゲと共にゲシュタポに逮捕されてしまう。ハンスがヒトラー・ユーゲントに見切りをつけた後、熱心に活動していた「ドイツ青年団1月11日」の摘発のための逮捕だった。ハンスは兵役についていたため逮捕が遅れ、ゾフィーは「男の子と間違えられて」逮捕されたためその日のうちに釈放される。

 その頃ゾフィーは友人を通じて知り合った4歳年上で国防軍仕官候補のフリッツ・ハルトナーゲルと親密になっていった。軍人ゆえに戦地に赴き、なかなか会えないフリッツと多くの手紙をやり取りした。

 1940年3月に大学入学資格試験のアビトゥアを済ませるが、政府が命ずる通りに労働キャンプに行くことを拒んだ。大学に進学するためにはそこで半年間優秀な働き手であったことを証明する書類が必要だったため、代わりに認められていた保母の資格を取ることを選んだ。しかし半年間の労働キャンプと違い、2年間も保母養成学校に通わなければならなかったが、それでも労働キャンプはいやだったようだ。5月から保母養成学校での授業が始まるが、その頃からゾフィーがフリッツにあてる手紙に政治意識がある文面が見られるようになった。軍人のフリッツに対して、彼の心配をする気持ちと戦争に対する批判が入り乱れていたが、そこにはゾフィー独自の理念がすでに息づいていたようだ。1941年3月保母試験に合格するものの、長引く戦争に保母資格をとっても労働キャンプと同等の価値は認められず、労働キャンプへ召集されることとなった。肉体的にも精神的にも苦痛だった労働キャンプを半年間勤め上げやっと大学に進学できるかと思いきや、さらにもう半年キャンプは追加された。この時はゾフィーが幼稚園にいきたいと申請し、自分が責任者になれる街中にある幼稚園じゃなきゃだめだと条件をつけ、概ねそれは受け入れられた。

 5月、労働キャンプを終えたゾフィーはハンスのいるミュンヒェン大学に進学する。芸術方面に進むとばかり思われていたが、生物と哲学を専攻した。

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クルト・フーバー [Kurt Huber]

 1893年10月24日にスイスのクアという町で良家の4人兄弟の下から2番目に生まれた。フーバーは幼い頃高熱を発し呼吸困難に陥る。気道を確保しようとした医師がのどを切開した処置の不適切か、単に高熱によるかは定かではないが、フーバーには神経障害と発声障害が残る。日常生活にはさほど影響はない程度ではあったが、良家の子弟として立ち居振る舞いを気にするフーバーには恥ずかしく思えることであった。さらにヒトラー政権は「優秀なアーリシア人種に障害者などいるはずがない」と、社会生活に適さない障害者は戦争にも行けず、いかに無駄飯を食らうかと大キャンペーンを張り「安楽死処置」を行うほどだった。これは後に優秀な学者となり大学教授となったあとに「正教授」になれないなどと影を落とすことになる。

 1897年フーバー家はシュトゥットガルトに引っ越した。家庭は音楽教育などに熱心でフーバーに強い影響を与える。1911年には父が亡くなり、1年後には母が大学で学ぶ子供達と一緒に暮らそうとミュンヒェンに引っ越した。1914年7月には第一次世界大戦が始まるが、フーバーは障害のため兵役を免除された。その間にミュンヒェン大学で音楽、哲学、心理学を学び、1917年に音楽学の論文で学位を取得。1920年には音楽心理学をテーマとした論文で大学教授の資格を取得した。1926年にはミュンヒェン大学の助教授となったものの無給。講義委託によるわずかな収入しかえられなかった。その担当領域は「哲学、実験心理学、音調−ならびに音楽心理学、および心理学的民俗音楽学」であった。哲学部は哲学だけでなく歴史、美学、言語学、文学も含まれるがもちろんそれら全てを一人の教授が教えられるわけではない。しかしフーバーはかなり広範囲の領域を担当していたようだ。

 1929年には結婚。同年『バイエルンの民謡』という民謡集を編集、発行した。その業績に注目され、1936年にはアカデミー会員となる。1937年にはベルリンに民謡研究および収集の保存施設が作られ、フーバーにはそこの所長の椅子とベルリン大学での教授職が約束された。昇進の見込みもなく家族を養うには生活が苦しい薄給だったためフーバーは引越し費用を借金し(ベルリンで所長と教授職の給料で返せるはずだった)ベルリンに引っ越した。しかしそこでフーバーは教授職の件はうやむやにされ、「ドイツ民族の精華」であるNS学生同盟のための歌の作曲依頼をされた。作曲依頼は拒否したが、それはヒトラー政権にどういう姿勢の持ち主かということも示してしまうことになる。フーバーははじめから決してナチス政権に反感を抱いていたわけではない。むしろ民族性の育成を重視するヒトラー政権は、民謡を通して「民族の魂」を救おうとするフーバーの思想とそう遠いものとも思えなかった。しかし焚書事件をはじめとし明らかに思想が食い違うことを痛感せざるを得なかった。よってフーバーはナチ党には入らず、いくら学者として認められても財政状態は改善されはしなかった。先の作曲依頼の拒否で関係はこじれフーバーは多額の借金を残したままミュンヒェンに戻り、かつての同僚に頭を下げてミュンヒェン大学で働かなくてはならなかった。1938年にはミュンヒェンに戻ってきていたが、学期の関係で1939年の夏学期から講義を受け待つようになる。よってほぼ半年、一家に収入はなかった。

 フーバーの娘のビルギット・フーバー=ヴァイス夫人の語るところによれば、毎日の食べ物にも事欠き、成人後の健康診断で「成長期に極端な栄養不良だったため、根本的に発育不全」と診断されるほどだった。当時小学生のビルギットは時折、良家の娘としての義務の一環で同い年くらいの子供の家に訪問し温かい心遣いを見せなければならなかった。ビルギットは見事にそれをこなしていたが、ある家に訪問した時お茶請けにジャムのついたパンが出てきた。「誰かの誕生日なのかしら」と思ったビルギットだったがその家の人たちの表情からはジャム付きのパンが特別なものである様子は窺えない。そこでビルギットは「良家の人間として守らなければならない人たち」が自分より裕福な暮らしをしていることいに気づき、ショックを受ける。

 その後母はフーバーに無断でナチ党への入党届けを出した。党員になりさえすれば給料は上がったためだ。もちろんフーバーは激怒したが、逼迫した家計と生まれたばかりの息子に与えるミルクもない状況ではフーバーも我慢するしかなかった。だが程なく教会からの脱退と娘の学校での宗教の授業を取りやめろという命令が来て、これにフーバーは再び激怒して党事務所に怒鳴りこんだ。幸いその時は「せっかくミュンヒェン大学の教授という身分の人間が入党してくれたのに、そんなくだらないことでだめにしてしうのは本意ではないから」と丸く収めてくれた。

 フーバーが再びミュンヒェン大学に復帰した1939年の夏学期に、ハンスはミュンヒェン大学に入学した。が、その時ハンスはフーバーの講義を登録した様子はない。しかし1942年の夏学期にはハンスとゾフィーがフーバーの3つの講義を受講した。それ以前もハンス、アレクサンダー、クリストフ、ヴィリーなどの白バラのメンバーは友人の誘いや評判の聞いて聴講していたようだ。彼の講義は学生に人気が高く、かなり早めに席をとらなければならないほどだった。ナチ党に加入した騒ぎでさらにヒトラー政権への嫌悪を強くしたフーバーは、ナチスのスパイがいるかもしれないというのに講義で、禁止されたユダヤ人哲学者の著者を引用したり、ナチスを批判したりした。この姿勢が後々ハンス達は彼を白バラのメンバーに加える動機のひとつとなったのかもしれない。

 フーバーとハンスが個人的に知り合ったのは1942年6月のある会合のようだ。ハンスと親しくなったフーバーはアレクサンダーの家で催されていた読書会にも誘われ、ハンス達がロシア戦線に送られる前夜の7月22日に開かれて送別会にも出席している。そこでははじめは文学の話をしていたが、政治にまで話はおよび、「まったく度を失っていた」と評されるほど興奮したフーバーはヒトラー政権に対する過激な抵抗を口にした。

 学生がロシア戦線から帰還した後の1942年12月9日、ハンスはフーバーのもとを訪れて自分達が「白バラのビラ」を書いたことを告げ、フーバーにも活動に加わってほしいと言った。フーバーはすでにビラを受け取っていたが、まだハンス達がビラを書いたことを知らないときにはっきりと彼らの前で「あのようなビラ活動は危険が多いばかりで効果が期待できない」と語っていた。しかし結局はフーバーも白バラの活動に加わることとなる。

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