トラウテ・ラフレンツ / ウルムの協力者達 / オイゲン・グリミンガー(資金援助)
「エーミールおじさん」グループ / ファルク・ハルナック(「ローテ・カペレ」リーダーの弟)
ザールブリュッケン(ヴィリー・グラーフが得た仲間)
1919年にハンブルクに生まれる。リヒトヴァルク学校という共同体思想を基本とし、教師の多くが政治的に左翼である学校に在籍していた。だがヒトラーが権力を掌握した後はすぐに解体させられている。生徒達とのつながりを失いたくなった教師エルナ・シュタールは自宅で断続的に読書会を開いた。そしてその会の一人のハインツ・クハルスキーが別に友人サークルを作り、禁止された本や外国ラジオを聴いた。トラウテはそのどちらにも参加している。
1939年ハンブルク大学医学部で当時在籍していたアレクサンダーと知り合う。1941年5月にミュンヒェン大学に移り、アレクサンダーの紹介でハンスと知り合い(バッハのコンサートでハンスと知り合ったともある)親睦を深めた。ショル家とも親しく、一時期はハンスと付き合っていたようだ。
トラウテは白バラの活動に直接関わっていない。だがビラにはトラウテがハンスにあげた本の引用がされていてハンスが関わっていることに気がつく。ハンスに尋ねても「誰がこれを書いたか聞きまわるのはよくない」「君はなるべくなにも知らないほうが君のためにもいい」とはぐらかした。なのでトラウテはビラの最後に書かれた「このビラをできる限り複写し配布されんことをお願いする」という言葉を実行するために力を注いだ。
ショル兄弟の一家が暮らすウルムでギムナジウムの生徒達がビラの配布に協力した。彼らの通っていた人文系ギムナジウムのクラスはナチズム(国民社会主義)の宣伝は無視し、教員は懐疑的な洞察や解説を繰り返すような反体制的なものだった。ハンスが白バラのビラを作成することに影響を与えたであろうミュンスター司教ガーレンの説教を複写し配布したのもこのギムナジウムの生徒だったという。裁判では1つのギムナジウムの学級で3人もの(ハインツ・ブレナー除く)逮捕者を出したことに対して「この事情に細かく立ち入って調べることは当法廷の任務ではない」としながらも「恥ずべきことである」と厳しい姿勢を示した。
ゾフィーの友人スザンネ・ヒルツェルの弟である。1942年の夏に白バラのビラを郵送で受け取り、その作成者がハンスではないかと疑いを持ったため、確認しようとミュンヒェンに赴いた。ちょうど1942年7月22日東部戦線の出発前日で、送別会にも出席。以降ヒルツェルは白バラのビラの配布協力を頼まれ承諾する。渡された白バラのビラ5号を郵送等の手段で配布し、さらには複写機を手に入れて自分たちで印刷をしようともされていたようだ。裁判では禁固5年を言い渡される。
ヒルツェルの友人であり、白バラに関して彼から協力を依頼された1人。郵送のお金を集め、封筒や切手を買うという危険な役目を担っていた。ウルム市内のマルティン・ルター教会のオルガン壇でヒルツェルと共にビラを封筒に入れ宛名を書き、切手を貼っていたようだ。ビラの一部をハイルブロン近郊の知り合い、とりわけカトリック司祭に配る。裁判では禁固5年を言い渡される。
ミュラー同様にビラの配布に協力。裁判では禁固1年半を言い渡される。
ゾフィーの友人でハンス・ヒルツェルの姉。弟と一緒にシュトゥットガルトにビラを運び投函した。しかし典型的なアーリア人の美少女だったためか裁判では「ビラの内容は知らなかった」「許しがたいお人好しぶりを発揮」として禁固6ヶ月の軽い刑ですんだ。後にハンス・ヒルツェルの語ったところによれば、彼女のおかげでウルムの生徒達の罪は加減されたらしい。
直接白バラに関わったわけではないが、ヒルツェル達の友人でガーレン司教の説教を複写して配布した生徒である。ウルムの反ナチスで若いキリスト教徒を集めて抵抗グループを作り、1941年にガーレン司教の説教を複写し配布。18歳で兵役に就かねばならず、自分の意志に反してナチスに貢献することを嫌い1944年10月に軍を脱走。オーバー・シュヴァーベン地方の同志に終戦まで匿ってもらっていた。1942年11月23日にはミュラーに「F.ドストイェスキーの『死の家の記録』を読んでくれ。」「あの語り手は僕だ」と書いた手紙を送っている。
参考:『早稲田大学人間総合研究センター「危機と人間」プロジェクト作成「白バラ展」解説(2005年)』
1892年生まれ。上級公務員養成教育を終え、第一次世界大戦で志願兵として戦うが、その時の経験から徹底的な平和主義者になった。1933年1月30日にヒトラーが政権を握ったことで、1935年にユダヤ人のイェニー・シュルランベルクとの結婚していたため、会社を辞めさせられる。しかしその後シュトゥットガルトで税理事務所を開いて独立した。1939年8月31日の開戦前日には妻イェニーの姉妹のうち2人をフランスに逃がし、そこからさらにイギリスに渡した。また1942年8月にローベルト・ショルが自分の事務所で不用意にヒトラーを批判する言葉を口にして逮捕された時、グリミンガーはローベルトの税理事務所の監理をする。同年12月にハンスが資金援助を願い出て、数週間考えてから資金を援助した。そして1943年4月19日に懲役10年を告げられる。終戦まで収容所に入れられ、妻イェニーはアウシュビッツに送られ捕らわれて8ヶ月後に殺害されてしまう。グリミンガー自身は1986年4月10日に死去。
ティリー・ハーンというグリミンガーの秘書がいる。彼女はグリミンガーの頼みでミュンヒェンを行き来しハンスを何度か訪れている。このことから資金援助を承諾した後はグリミンガーはかなり白バラの活動に手を貸していたと推測される。ハンス達が逮捕された時もハーンはショル兄弟の下宿に印刷機を持ち込もうとしたが、ゲシュタポに気がつき事なきを得た。また、彼女は裁判での証言で機転をきかせ、死刑を宣告される危険性もあったグリミンガーを救っている。戦後、グリミンガーとハーンは結婚した。
参考:『早稲田大学人間総合研究センター「危機と人間」プロジェクト作成「白バラ展」解説(2005年)』
ジャーナリストのルート・アンドレーアス=フリードリヒ(1901年ベルリン=シュネフェルト生まれ)と指揮者レオ・ボルヒェート(0898年モスクワ)が作ったベルリンのグループである。白バラと直接的な関わりはないが、ルートの日記である『影の男』にはミュンヒェンで何かが起こっていると書き出している。1943年3月23日にやっとなにが起こったかを知ることのできたルート達は入手したビラ第6号を複写し、国外の人にドイツ人もナチばかりではない、抵抗している人間もいると知らせたくてスウェーデン、ノルウェイ、スイス、イギリスに届けた。しかしベルリンに情報が届くおよそ1ヶ月足らずで、白バラグループは他国の情報操作と国内の隠蔽により急速に神話と化していった。
グループのメンバーは先にも記したルート・アンドレーアス=フリードリヒ、レオ・ボルヒェートが中心となる。ルートは早い時期からヒトラーの『我が闘争』を読み、ユダヤ人の多くの友人が危険にさらされることを察知し、助けなければと考えた。またボルヒェートは1936年以降、政治的には信用できないと就学を禁止されている。他のメンバーはルートの娘で俳優学校生徒のカーリーン・フリードリヒ。機械技術工事の親方クルト・エックマン。迫害を逃れて地下に潜ったユダヤ系の印刷技師ルートヴィヒ・リヒトヴィッツ。法律家のハンス・ペータース教授。内科医のヴァルター・ザイン博士(1905年生まれ)は1944年に病気になった外国人労働者に健康だという証明書を書くことを拒み指名手配となった。ベルリン=ラーゲル(名前に自信なし)と後にプレッツェンゼー刑務所の牧師となったハラルト・ペルヒョウの2人は反体勢の官僚・知識人のグループであったクライザウグループとも連絡があった。このグループは摘発されることもなく、メンバーは全員ナチス政権の時代を生き延びることができた。
ルートの『影の男』と題された日記は1947年に出版された。その中の1938年〜45年にかけてのグループの活動を記している。以下は早稲田大学人間総合研究センター「危機と人間」プロジェクト作成「白バラ展」解説(2005年)でのパネルを引用したものである。
「白バラ展」のパネルで書かれていたことだが、意味がよく掴めなかったものがある。『大きな危機が目前に迫った時「エーミールおじさん」という警告の声が上がった。抵抗グループの名称となったのは戦後のこと』といったようなことが書かれていた。これは「エーミールおじさん」という言葉が危険を知らせる合言葉だとその時は認識していたが、いまいち不安が残る。もし知っている方がいらっしゃれば教えていただけると嬉しいです。
参考:『早稲田大学人間総合研究センター「危機と人間」プロジェクト作成「白バラ展」解説(2005年)』
ハンス達が熱心にアプローチをかけたファルク・ハルナックは1913年3月2日にシュトットガルトに3番目の子供として生まれる。彼はベルリンを中心とした「ローテ・カペレ(赤い楽団)」という反抗組織の中心人物であったアルヴィド・ハルナックを兄に持つ。アルヴィドは1942年12月2日に50数名のメンバーと共に絞首刑に処せられ、義姉のミルドレッドも1943年2月16日に処刑されている。ハンス達がファルクに目をつけたのも、彼が「ローテ・カペレ」など、抵抗組織と連絡があると考えたからだ。アレクサンダーの友人である女流画家リーロ・ラムドールはファルクの婚約者であり、彼女の家で彼からの手紙をハンス達が発見したことからファルクとハンス達の接触ははじまった。
ファルクは兄の影響か1934年5月にはミュンヒェン大学でナチ学生同盟に反対する最初の非合法なビラを友人たちと発行している。またハンス達が接触してきた時も従兄弟のディートリヒ・ボンヘファーとクラウス・ボンヘファーの兄弟を介してベルリンの抵抗組織と連絡をとろうとしていた。しかし1942年11月からはじまったファルクと白バラの関係も長くは続かなかった。2月上旬にミュンヒェンで白バラのメンバーとファルクは会合を開いたが、2月18日にはショル兄弟が逮捕され、続々と関係者が捕らわれる中ファルクも逮捕された。裁判では泳がせて他の抵抗組織をあぶりだそうと考えたのか、無罪となり釈放される。しかし同年8月に兵役についていたファルクは上官からゲシュタポの手が伸びているとの警告を受け、軍を脱走して地下に潜る。そしてギリシア解放軍E.L.A.Sに入った。戦後ドイツに戻ったファルクには叔父エルンスト・フォン・ファルナック、ボンヘファー兄弟、義兄ガンス・フォン・ドホナーニなどが1945年春に殺害されていたと知ることになる。その後は演劇や映画の演出家として働き、ナチスの迫害と抵抗を多くの作品でリアルに描いた。1991年9月3日にベルリンで死去。78歳だった。
「ローテ・カペレ」についてもまとめてみたいが、あいにく『ミュンヒェンの白いばら』や『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』『ドイツにおけるナチスへの抵抗11933〜1945』で触れられているのを見ただけで、どういったグループだったのか私は全く理解できていない。もし詳しく知っている方がいらっしゃれば教えてくださるとありがたいです。
ファルク・ハルナックが監督をした映画(一部):
参考:『早稲田大学人間総合研究センター「危機と人間」プロジェクト作成「白バラ展」解説(2005年)』
ヴィリー・グラーフは「灰色会」などの仲間に白バラの拡大と協力を求めて行動していたが、仲間たちは宗教上の理由などにより難色を示していた。そんな中、クリスマス休暇を利用して故郷のザールブリュッケンに帰った折に、クリスマスのミサで以前ヴィリー・グラーフがいた「新ドイツ」のメンバーの一人であったハインツ・ボリンガーと再開する。「新ドイツ」時代は特別親しいわけでもなかったが、再開したハインツと会話をして、彼は白バラの活動に協力してくれそうだと判断し、翌26日にハインツの家を訪ねた。そしてハインツとその弟のヴィリー・ボリンガー、後にはヘルムート・バウァーの協力を得ることができた。ハインツとヘルムートは反ナチの教授達と接触があり、小さなサークルも作り謄写器も入手済みであるからとフライブルクで、ヴィリー・ボリンガーがザーツブリュッケンでそれぞれ協力するといった。
カトリック青少年組織、「新ドイツ」のメンバーであった。1914年には積極的抵抗をしようと決意しており、機会さえあればヒトラーを射殺するつもりですらあったが、グループのメンバーは次々召集されて行動を起こすには至らなかった。だが1943年、当時フライブルク大学の哲学科助手だったハインツは故郷でヴィリー・グラーフと再会し、白バラ5号を受け取り配布を引き受ける。この時「愚かなドイツ人が目を覚ますためには、もうちょっと爆弾が落ちなきゃ駄目なんじゃないの」と懸念したという。1943年4月19日の裁判では「大逆罪を知っていた」「外国放送聴取」で懲役7年を宣告される。1945年4月12日に釈放。その後1966年にレラッハの今日行く大学教授に就任し、1990年に死去した。
医学部の学生で、衛生兵としてザールブリュッケンの衛戍病院に勤務していた。元々兄に協力に賛成していたヴィリー・ボリンガー1943年1月22日にヴィリー・ブラーフの訪問を受け、彼はビラを封筒に入れ配布する役目を引き受けた。さらに休暇証明書と軍人乗車証入手しヴィリー・グラーフに渡した。それによりハンス達は安全に配布や仲間を確保するためにミュンヒェンを離れることができた。その後、兄たちが逮捕されると証拠となりそうなものを全てザール川に投げ込む。警察の取調べを受けた際も密かに刑務所から届いた兄の「全て否認せよ!」のメモの通り否認を貫き、拘留尋問を免れることができた。1944年4月には「知っていたのに通告しなかった」と禁固3ヶ月を宣告されるも「任意の第三者ではなく、子供の頃からの友人を庇おうとして通告を怠ったと」情状酌量の余地が与えられている(この時彼の弁護にあたったフーバート・ナイ博士は後にザールラント州の首相となる)。その後大学を修了し、化学士として働く。1975年にパータールで死去。
ハンブルク大学医学生。ディー・アルト(ザールブリュッケン出身でヴィリー・グラーフと知り合いであった)とともにフライブルク大学在住中にハインツのグループに属す。二人はハインツから白バラの事を聞き、協力を了承。1943年1月23日にフライブルクにハインツを訪ねてやってきたヴィリー・グラーフは彼に会えなかったためヘルムートのところを訪れている。1943年4月19日の裁判でハインツと同じく懲役7年を宣告されたが、ホーホ・アスペルクで刑の一環として科されたドイツ刑務所結核療養所看護助手の仕事で結核に感染し、獄死した。
参考:『早稲田大学人間総合研究センター「危機と人間」プロジェクト作成「白バラ展」解説(2005年)』