1943年2月18日−ショル兄弟の逮捕
1943年2月18日深夜−ヴィリーの逮捕 / 1943年2月19日−クリストフの逮捕
逮捕から処刑まで−ショル兄弟とクリストフ
1943年2月18日木曜日。ショル兄弟はおよそ1800枚のビラが入ったかばんを持ってミュンヒェン大学に向かった。途中、離れた場所での講義に遅れないように講義終了10分前に教室を出たヴィリーとトラウテに会った。また午後に会おうと約束して別れたが、ヴィリーもトラウテも2人が講義終了間際になにをしようとしているのか不安に思う。ショル兄妹は講義が終わる前の数分を利用して密かにビラを撒こうとしたのだ。
窓の縁やホールの階段などにビラを置き、いったん外の道路に出たものの残ったビラを全て撒こうと引き返した。偶然か故意か、ビラはホールの上から下へと落ちた。しかしその時、用務員のヤーコプ・シュミートに見つかり2人は捕まった。直ちにゲシュタポに通報。撒かれたビラがハンスの持っていたかばんにぴったり収まり、逮捕された。この時ハンスはクリストフの自筆のビラの草稿を持っていて、破いて飲み込もうとしたもののゲシュタポの手に渡ってしまった。 ミュンヒェン大学は一時閉鎖され、大学内にいた学生などは外に出られなかった。まもなく学長が状況を説明し始めたが、反逆者を逮捕したと述べると学生たちは「足を踏み鳴らし、歓呼の声を挙げさえした」とそこにいた男子学生が後に回想している。
最初2人が尋問された時、落ち着き払って否定した。ゲシュタポもその態度にビラを撒いたのはこの2人ではないのではないかと思ったかもしれないが、ハンスの部屋から発見されたクリストフの手紙の筆跡と自筆のビラの草稿の筆跡が一致。また未使用の8ペニヒの切手が数百枚見つかった。証拠を突きつけられ否定できなくなった2人は、クリストフならびに他の仲間を守るために、ビラの作成は全て2人でやったと主張した。
なぜショル兄妹は白昼の大学でビラを撒くなどという危険な行動を犯したのか。この前日ハンスはオトルにウルムからの緊急の伝言があると言われ、明日会うと約束していた。ウルムではハンスに協力していたハンス・ヒルツェルがビラの郵送を手伝ってもらおうとしたシュトゥットガルトのギムナジウム(高等中学校生)に密告され、2月17日に取調べを受けたためだ。なんとか解放されたハンス・ヒルツェルは密告した2人にハンスのことも話したことを思い出し、ショル家に駆けつけハンスに「『権力国家のユートピア』は絶版です」と伝えてくれと頼んだ。これは危険を知らせる合言葉だったようだ。だが連絡はとれず、たまたまミュンヒェンのカール・ムート宅に滞在していたオトルに電話をし、ハンスへの伝言を依頼した。オトルはその晩のうちにハンスと連絡は取れたが、盗聴を心配して実際に会って伝えなければならないことがあると言って明日の2月18日の昼前に会おうと約束した。また2月16日の晩に書店主ヨーセフ・ゲーゼンを訪ねたハンスは新しいビラを見せ、2・3日のうちに大学で撒くつもりだと話したという。また「逮捕は時間の問題だ」とも言ったともいう。
ヴィリーはショル兄妹が逮捕されたことは知らなかったが、偶然それを見ていたアレクサンダーはヴィリーに連絡をとり警告した。すぐに身を隠したほうがいいとアレクサンダーは言ったが、ヴィリーは自分対は軍人なのだからそんなことをすれば脱走ということになると反対した。その後ヴィリーは招かれていた親類の家に夕飯を食べに行き、夜中の12時を少し過ぎに下宿に戻り、待ち構えていた捜査員に逮捕されたという。その時同じ下宿に住んでいた妹のアンネリーゼも逮捕された。アンネリーゼは一切関わっていなかったが、反逆に加担ないしは知っていたという容疑をかけられたのだ。
ヴィリーが帰宅する前にすでに家宅捜索は行われていたが、反逆罪に該当する内容のものは発見されず、押収されたものはヴィリー宛の手紙となどであった。だがヴィリーはこういうことも想定していたのか日記は肌身離さず持っていた。これが警察の手に渡れば自分のみならず多くの人が危険に陥ることは目に見えていたので、捜査員に「軍服に着がえたい」と申し立て、相手が返事に迷った隙(*)に日記を隠すことに成功した。
(*)返事に迷ったのは政府が公然と国防軍の領域を侵すことは避けたかったため。結局は私服で「市民」として逮捕された。
クリストフはインスブルックの空軍学生中隊にいた。また妻のヘルタは1月に三人目の子供を出産し、産褥熱で入院していた。よってクリストフはショル兄妹が逮捕されたという急な警告を受けられる状態ではなかったし、抵抗運動に加担していると証拠はないはずだった。だがショル兄妹が逮捕された翌日、給料の支払いを受けるためにインスブルックの空軍学生中隊窓口に姿を現した時、中隊長のもとに出頭命令を受けた。やがて中隊長の部屋から出てきたクリストフは青ざめていたという。程なく現れたゲシュタポに軍服から私服に着がえさせた上で、手錠をかけた。
これに驚いたのはクリストフだけではなかった。ゾフィーと同じ房に入っていたエルゼ・ゲーベルの回想によれば冷静を保ち続けていたゾフィーは捕まったのがクリストフだと聞いてはじめて愕然とした表情を見せたという。だがすぐに「せいぜい自由刑しかかせられない」と気を取り直した。だがクリストフはショル兄妹同様、死刑を宣告された。ショル兄妹が自分達に全ての責任を負うように尽力し、ハンスがクリストフ自筆の草案を「個人的な政治的意見の表明だ」と主張し、他には一切の証拠がなかったにも関わらず、このビラの自筆草案によってクリストフは死刑を宣告されたのだ。
尋問でゾフィーは良心的な係官に「兄に引きずられたナイーブな女の子」と罪を軽くしようとしてくれたが、「あなた方の思い違いです。私はできるようになれば、すべてもう一度まったく同じようにやってみるでしょう」(『白バラ』より引用)と言った。ハンスも「こういう人達が死ななければならないのはおそろしいことだ」と称するぐらいの毅然とした態度だったという。(クリストフの担当者の証言は残っていない)
2月22日、わざわざベルリンから急いで来た国民法廷長官のローラント・フライスラーによって裁判が行われた。たまたま傍聴していた司法修習生レオ・ザンベルガーの後の報告によると、被告がどこまでも毅然としていたのに対し、フライスラーは喚きたて散々に被告を悪党に仕立て上げたという。弁護士も被告を助けるつもりは毛頭ないようで「人間がかくの如き恥知らずな行動を起こし得るとは信じがたい」と言う始末だった。ゾフィーは「私たちが言ったり書いたりしたことは、多くの人たちが考えていることです。ただ、そう言う人たちはあえてそれを口に出さないだけなのです」(『白バラ』より引用)と言った。知らせを受け駆けつけたショル兄妹の両親は発言を求めたが即刻追い出され、「あなた方のしつけが悪かった」とまで言われたようだ。
3人はこの日の5時に執行されると決まった。だがそれをショル兄妹の両親は知らぬまま子供たちと面会し、ウルムに帰ると2人の減刑嘆願に尽力した。まさかこんなすぐに刑が執行されるなどとは夢にも思わなかったのだろう。クリストフは家族への面会は叶わず妻がクリストフの運命を知った時はすでに彼は処刑された後だった。ハンス、ゾフィー、クリストフは手紙を書いたようだが、これは届かなかったらしい。
判決後、クリストフは家族のために助命を嘆願し、ハンスも口添えをしたが一蹴される。その後一度も洗礼を受けていなかったクリストフは、カトリックの洗礼を受けたいと申し出て許可された。クリストフは姉に向けた手紙で「死がこんなに容易なものだとは思わなかった」と書いたという。ショル兄妹のところにも牧師は訪れ聖餐式を行った。その時牧師はヨハネによる福音書15章13節「その人が友のために命を捨てること、それより大いなる愛はない」という御言葉と神の祝福を送ったようだ。また看守たちは3人の態度に圧倒され処刑前のわずかな時間に3人を会わせ、タバコを一本渡した。その後処刑場に最初に向かったのはゾフィーだった。「まつげ一つ動かさずに」と評されるほどしっかりとした足取りで出て行ったらしい。次にクリストフ、そしてハンスが断頭台に上った。ハンスは首を括りつけられる前に「自由万歳」と叫んだという。