他のメンバーの動き

1943年2月24日晩まで−アレクサンダーの行動 / 1943年2月27日早朝−フーバー教授の逮捕
1943年4月19日−アレクサンダー他、メンバーや協力者の裁判
ハンブルクのグループとハンス・ライペルト

1943年2月24日晩まで−アレクサンダーの行動

 アレクサンダーは偶然ショル兄弟が逮捕されるところを目撃したらしく、身を潜めた。その行動は、ファルク・ハルナックの婚約者で女流画家のリーロ・ラムドールとアレクサンダーの友人ニコライ・ニコライエフ・ハマサスピヤンが証言している。だが、どちらの証言も食い違っている。これは彼女らはその後40年近く沈黙していたゆえに記憶に曖昧な点ができてしまったのだろう。しかし『ミュンヒェンの白いばら』と『白バラ』でも推測していることが違うのでどうまとめるべきかわからない。よって大雑把なアレクサンダーの行動についてのみ書く。

 アレクサンダーはおよそ正午から1時頃にショル兄弟が逮捕されたのを目撃した後、リーロかニコライかどちらかの部屋に逃げ込んだ。そして午後3時頃、ヴィリーに会って危険を知らせるために電話している。その間にパスポートの偽装をして逃げる準備を行った。ヴィリーに会った後は家には帰らずリーロの下宿に留まったようだ。そして翌日19日、シュタルンベルク駅から列車で逃げようとしたが厳しい検問があったため断念。自転車か徒歩でミュンヒェンを離れたが、警察は写真入りの指名手配書が作られていた。一度は警察に取調べを受けたが偽装パスポートのおかげで切り抜ける。ともかくアレクサンダーは国境を越えスイスを目指していたようだ。しかしアレクサンダーは再びミュンヒェンに姿を現す。

 2月24日の晩、ミュンヒェンは空襲に見舞われた。地下の防空壕に下りようとしていたアレクサンダーのかつての学友であった婦人の前に、彼は現れたのだ。匿ってくれというアレクサンダーに婦人は自分の家の鍵を渡し、後から私も行くから先に行ってと言った。が、アレクサンダーが扉を開けようとしていると、警官に捕えられる。手配書のみならず千マルクもの賞金をかけられたアレクサンダーはついに逮捕された。逮捕直後はハンス、クリストフ、ゾフィーがすでに処刑されているとは知らず、必要以上に容疑を認めてしまった。

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1943年2月27日早朝−フーバー教授の逮捕

 フーバー教授もショル兄弟の逮捕を目撃したのだろう。だが彼は教授であり、アレクサンダーのようには逃げられなかった。21日には家族で疑いを招く恐れのある手紙や書類を焼き捨てた。26日の夜には教授の妻は田舎に食料の買出しに出かけた。これから当分家にこもっていたほうが良いとフーバー教授が考えたためだ。だが翌27日早朝、当時12歳のビルギットはゲシュタポが鳴らしたベルで扉を開けた。父はまだ寝ているからと足止めしようとしたがゲシュタポはフーバー教授が寝ている寝室に向う。ビルギットにできたのは「パパ、警察!」と叫ぶことだけだった。

 ゲシュタポは家宅捜索をして、フーバー教授を逮捕した。ビルギットはゲシュタポに「泣いたり騒いだりしないこと」「普通どおりに学校に行くこと」「誰にも父親が逮捕されたといわないこと」と命じられた。戻ってきた母も3月3日に拘留され、4月20日に母が釈放されるまでずっと、ビルギットは1人で、「両親は旅行中だ」と言わなければならなかった。

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1943年4月19日−アレクサンダー他、メンバーや協力者の裁判

 この裁判もフライスラーが直々に裁判を行った。だが前回とは違い、被告人にも弁明の機会が与えられた。その時フーバー教授が弁明した内容は詳しく残っている。アレクサンダー、ヴィリーも自身や仲間を守るために弁明を試みた。しかしそれでも、前回同様にフライスラーは彼らを国家反逆者として一蹴した。結局、アレクサンダー、ヴィリー、フーバー教授は死刑を宣告された。他に起訴されていた者達も懲役刑や禁固刑を宣告される。しかしファルク・ハルナックは無罪だった。これはハルナックを泳がせ「ローテ・カペレ」についての情報を得ようとしたものと思われる。

 1943年7月13日にアレクサンダーとフーバー教授の刑が執行。ヴィリーは「新ドイツ」「灰色会」の仲間について厳しく追及され10月12日まで刑が延期された。

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ハンブルクのグループとハンス・ライペルト

 ハンブルクからミュンヘン大学化学研究所に移ってきたユダヤ混血であるハンス・ライペルトは白バラグループの逮捕、処刑に衝撃を受けた。そこで、働き手を失い犯罪者の家族として苦しい生活を強いられていたフーバー家のために募金活動を行ったり、最後のビラを複写してハンブルクに持って行くなどをした。しかしゲシュタポに通報され、1944年10月8日に逮捕される。死刑判決を受け1945年1月29日で処刑された。

 ハインツ・クハルスキー、グレータ・ローテを中心とするハンブルクのグループは、白バラの協力者の1人トラウテ・ラフレンツを通じて白バラとつながりがあった。彼らは白バラのビラを再編したり、外国放送から得た情報でビラを製作して配布をしたりしていた。彼らとハンス・ライペルトは知り合いではあったが、ハンス・ライペルトは生前の白バラとのつながりはない。ハンス・ライペルトの逮捕をきっかけにハンブルクのグループも次々と逮捕者を出し、刑期を終え釈放されたトラウテ・ラフレンツはこの件で再び逮捕された。クハルスキーは1945年4月17〜20日に処刑を宣告されたが、護送中に敵からの攻撃を受けた隙に逃亡に成功している。

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