突然、ふとあの子に会いたくなるときがある。あの場所を訪れると、俺の記憶が蘇るんだ。
近所に出来た、一軒のドラッグストア。そこで俺はいつもあの子を思い出す。それはあまりに自然で、止められない衝動で。胸が苦しくなる。
――出会った当初は『少し変わった子だな』そんな印象しかなかった。それが――どうして今はこんなにも胸を、記憶を締め付ける。あの子の存在が大きくなっているのがわかる。
俺は店内を歩き回る。もしかしたら、あの子がいるかもしれない。そんな、淡い期待を抱いて。
だけど、見つからない。学校帰りに寄ったであろう、女子高生たちの群れ、退屈そうに商品を補充している女性店員。綺麗に整理された商品に囲まれた俺は、呆然と立ち尽くして、歯を食い縛る。
いるわけ、ないか。
一週間前も探した。けど、いなかった。それはそうだ、いないことを俺は知っている。でも、どうしてか――目線が、店内を探ってしまう。
ため息を吐いて、手に取ったジュースをレジに持っていく。
「百三十円になります」
お金を支払って、外に出る。キャップを取って、一気に飲み込む。
――違う。
ジュースを壁に投げつけた。鈍い音がして、ペットボトルが地面を転がる。液体が、アスファルトの色を濃くする。
空を見上げた。あの子――濡れせんべいはどこにいるのだろうか。
「あの子(濡れせんべい)にもう一度、会いたくて』
俺が濡れせんべいと出会ったのは五年前だった。その頃は生きていたおばあちゃんが、いつも三時のおやつを用意してくれた。それはどれも、年寄り好みで若い俺には合わなくて――かりんとう、ようかん、せんべいという、酷いラインナップだった。
「ゆうちゃん、おやつだよ」
そうおばあちゃんに話しかけられる度に、俺は憂鬱な気分になった。用意されたからには食べなきゃ悪いし、でもぶっちゃけ食べるのめんどうだし。なにより、ただおやつを食べるためにおばあちゃんや親父と同じ空間にいるというのは、微妙なお年頃の俺には苦痛だった。
――そんな日だった。濡れせんべいと会ったのは。
手に持った感触が、普通のせんべいと違った。簡単に曲げられるのだ。三百六十度、いかようにも。引っ張って、二つに分けることも出来る。変なヤツだな、と俺は思った。口にして、おばあちゃんに『どう?』と聞かれて、俺は答えられなかった。いや、その時に俺は何かを言ったのかもしれない。だけど、今の俺はよく覚えていない。
――だからかもしれない。あの子にまた会いたいと思うのは。
俺の記憶じゃ、おいしかった記憶はない。でも病み付きになる、独特のクセがあったのは確かだ。あの味にまたもう一度会いたい。最近、俺はそう思うようになった。
だから――バイトが終わると、自然にドラッグストアに足を運んだ。そこで、俺は濡れせんべいを探した。せんべいコーナーに足を運び、あの子を探す。――だがいない。
「――どうしてっ!」
そう叫びたい衝動を必死に堪えて、また上の棚から見直す。一度見ただけじゃ、諦められない。見落としているかもしれないと思ったから。
――でも、やっぱりいない。いなかった。
今度は、手当たり次第にせんべいの袋を手に取った。触って、中のせんべいを確かめる。どれも硬い。あのもちもちとした、独特の柔らかい手触りではない。
これも、これも、これもっ!
十個ほど、もちもちしてそうなせんべいのパッケージを見ては、触った。だけど、どれも違う。ただの硬いせんべいだ。
「あ……ああ……っ」
横でポテトチップスを補充していた店員の奇異な視線を浴びながら、俺は肩を落とした。
それから、店内を歩き回った。
かぜ薬コーナー、ベビー用品コーナー。こんなところにあるはずないことを、俺は知っている。だけど、意味もなく探してしまう。それほど俺は、あの子に恋焦がれているのか……。
虚しさで、心に空洞が出来たみたいだった。ぽっかりと空いた穴を埋めるのは、あの子しかいない。だけど、あの子はいない。
俺は踵を返して、その店を後にした。
どうしようもない自分の気持ちを誤魔化すように、俺はバイトに明け暮れた。全てを忘却の彼方に追いやろうと、一心不乱に打ち込んだ。
季節は変わる。夏から秋へ。秋から冬へ。
俺は毎日の昼飯をコンビ二で済ませていた。理由は簡単で、親が作ってくれないからだ。自分で作ればいいと言うかもしれないが、残念ながらめんどくさいのでそれはしない。『めんどくさいはいい言葉』何年経っても、この考えだけは変わらない。
いつも通りに店内へと入る。すっかり顔を覚えてしまった店員を横切り、雑誌コーナーで本を立ち読みする。そして、一通り読み終わると、俺は飲み物と弁当を手にレジへと向かうのだ。
パートのおばちゃんが笑顔で出迎える。
「いらっしゃいませー。……今日の夕飯何にしようかしら……」
最近、このおばちゃんはレジを打ってる最中、ぶつぶつと独り言をしゃべる。ボケてるんじゃないだろうか、そう思いつつも突っ込まないであげるのは俺の優しさゆえだ。
「暖めますか? ……こんなの不味そうなお弁当を買う人も、いるのだわねぇ」
「はい」
そう答え、お金も払う。待ってる間、暇なので店内を見回す。
電子レンジの音。店内に流れる音楽。
――ああ、気付いている。俺は知っている。あの子が、ここにいるってことを。ここから二列目の棚、駄菓子コーナーに行けば、あの子に会えることを。
だけど俺は、会いにいかない。駄菓子コーナーを避けていた。ずっと、無視して過ごした。あの子に会いたくて仕方がないはずなのに。
……一方で、俺は夜になると、今もドラッグストアに行ってあの子を探し回るんだ。なんという矛盾。自分の行動がわからない。俺はあの子を求めているのか、いないのか。
「お客さまー、大変お待たせ致しました」
「あ、はい」
レジで弁当を受け取る。
――弁当も受け取ったことだし、帰ろう。
そう思った。だけど、両足が動かなかった。
――また今日も逃げるのか、と。
振り返って、数歩進めばあの子がいる。あの子はあそこでずっと待っている。俺を待ち続けている。なのに、俺は今日もまた、無視をするのか。
――『会うな』と声がする。『会え』と声がする。
「ちょっとあんた、どいてよ」
第三者の声に、驚く。見ればレジに長蛇の列が出来ている。俺がボーっと立っていた所為か。
「すいません」と謝って、どく。そして俺は出口――の反対側にある、駄菓子コーナーへと歩いた。
向き合おう、あの子と。
心臓の高鳴りを押さえる。ズンズンと歩を進める。
――辿り着いた。あんなに遠くに感じていた駄菓子コーナー、それがいとも簡単に。
目線を上の棚から走らせる。
「あ――」
そこで俺は見つけた。あの子を。
身体に稲妻のような衝撃が走る。心臓がドッと脈打つ。目の前が揺らぐ。
気付いてしまった……。気付かなければよかったのに。知らなければよかったのに。もう遅い。俺は自分の矛盾が、本当は矛盾じゃなかったことを知ってしまった。
「あ、はは……は……」
なんてことはない。俺は濡れせんべいに甘えていたかったんだ。最近はどの食べ物を食べても満足しなかった。おいしいと感じなくなっていた。年を取ったからか、舌が肥えたのだろう。刺激を感じなくなっていた。だから、俺は濡れせんべいに期待したのだ。あの独特の味なら、俺を満足させるんじゃないか、と。
あの子に想像と期待を膨らませ、自分を保っていたんだ。
――俺は、バカだ。
全ての理想の形として、あの子にいてもらいたかった。だからあの子を探す一方で、見つけることを拒んだ。なのに、俺はあの子を見つけてしまった。幻想が、幻想ではなくなってしまったんだ。
俺は走った。湯殿川のほとりで走った。コーラが炭酸だってことも、構わずに。弁当が傾いても、構わずに。おかずについたソースがご飯に寄りかかり、ぐちゃぐちゃになっても、構わずに。ただ走って忘れたかった。あの子に対する想いを。今の自分は、あの子に失礼だ。
――その日から、一ヶ月が経った。あれから俺はあの子に会っていない。だけど、それでいいんだと思う。俺からあの子に会うことはまずないだろう。だけど、もし――例えば親戚の家へ遊びに行って、おばちゃんのお盆からあの子が会いに来た時は――胸を張って、会いたい。
あの子とちゃんと向き合える自分でいよう。それがきっと――あの子に対する礼儀だと思うから。