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中田節子、広告の中のニッポン、1993年、ダイヤモンド社
1872年新橋横浜間鉄道開通
1877年、西南戦争
・西南戦争景気と横浜までの鉄道開通で急上昇したのが、熱海と箱根だ。初めの頃は朝7時に新橋を出発し、神奈川から乗合馬車、小田原から人力車か、かごに乗って夜になってから熱海に着くという具合だった。
1895年(明治28年)豆相人車鉄道の熱海―吉浜間、翌年には吉浜―小田原間が開通し、国府津と小田原の間だけ鉄道馬車を使えば、新橋から一日で往復出来るまで近くなっていた。
p.71
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有隣 第434号、04/1/1
座談会「横浜鉄道物語」(2)
篠崎
神奈川駅はどのあたりにあったんですか。
岡田
神奈川駅はほとんど痕跡が残っていないんです。青木橋のちょっと横浜寄り、若干線路の敷地が膨らんでいるところです。
p.2
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_434/434_2.html |
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小倉遊亀、「とうとう絵かきになってしまった」、『小倉遊亀』、1991年、日本経済新聞社
・横浜市ミッションスクールの音楽の教師をしていたのが大津時代からの親友で、この人の世話で私の捜真女学校入りが決まりました。が、私は仏徒、学校はキリスト教、ひそかに肩身せまく思って居りました。或る日「溝上さん一寸話あります」と校長ミス・カムバルスがお呼びになりました。「教会へ出ないことを叱られるのだ」と思いながら前へ座りますと、カムバルス先生はお皺のたるんだ老顔に笑みをたたえて「あなた絵描きありますね」。思いがけないお言葉に「ハイ」と申しました。「絵描き、牡丹の花描きます。牡丹の花、神様あります。あなた、神様毎日描きます。しあわせです。教会へ出席しないこと心配ありません」といって、お口の両端を左右につり上げてニコニコなさいました。私は思いもかけぬ校長様の温かいお心に触れたのと同時に、先生の信仰の広さ深さに頭の下がる思いをいたしました。菩薩とはこういう方のことなのだと、今も思って居ります。この先生の下ならと、それ以来17年、生徒と一緒になって勉強しました。
※1920年 25歳
横浜のミッションスクール捜真女学校講師となる。
※捜真の基礎を築いたのは第2代校長のカンヴァース先生です。先生は、教育の究極の目標は「真理を捜すことである」と考え、1892年より校名を「捜真女学校」と改め、1910年には手狭になった山手より神奈川区中丸の現在の地へ校舎を移転しました。
http://www.soshin.ac.jp/enkaku.htmlより
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赤塚行雄、昭和20年の青春、有隣堂、2004年
・捜真女学校
pp.13-15
pp.125-131
pp.152-155
pp.158-159 |
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・第2次世界大戦中、現在の子供の国には弾薬工場や倉庫があり、旧陸軍の「田奈部隊」が駐屯していた。神奈川高等女学校(現神奈川学園)や旧制横浜二中(現横浜翠嵐高校)の生徒が火薬を詰める作業などで学徒動員され、同中の生徒6人が事故でなくなっている。
・工場へ物資を運搬した引き込み線(現在の東急こどもの国線)
近くの住吉神社には6人の生徒の慰霊碑がある。
子どもの国の敷地には弾薬庫跡がのこる。04/10/11、朝日朝刊神奈川版)
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赤塚行雄、昭和20年の青春、有隣堂、2004年
1944年11月30日の事故については 13 六本の「横浜緋寒桜」にでている。
田奈部隊に向かうトラックが奈良川に逆さまに落下、その下敷きになって死亡した。pp.133-134 |
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