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今でこそ鶴見から保土ヶ谷に抜けるりっぱな一号国道ができて
いるが、当時東海道はいまの幸ヶ谷小学校下付近から、神奈川
電話局前を通って青木橋を抜け、さらに神奈川台町から西区の
浅間町へ通ずるわずか3bほどの道路で、両側に商家や民家
が立ち並んでいた。
高島町付近はすでに埋め立てられていたがいまの横浜駅うら
側、※鶴屋町付近はまだ入り江になっていて台町の崖下まで潮
が押し寄せていた。
台町からの見晴らしは素晴らしく本牧の鼻まで見通しがきい
た。紺碧の海に遠く浮かぶ漁船やカモメの飛びかう様はまさに絶
景だった。
そのころいまの神奈川公園、神奈川会館、区役所周辺は第一
国道あたりまでが大きな堀になっていて堀の周囲に大きな料亭
や芸者置屋、待合、遊郭、商店などが並んでいた。
神奈川花柳界は古い伝統をもち、関内とともに横浜の二大花
柳界として有名だった。
引き手茶屋の昔から旧東海道筋にあって古い歴史を誇る料亭
田中屋,丁子屋などをはじめ、この堀の周りには対湾亭、名古
屋、あるいは西洋人あいての神風亭など三,四階建ての一大料
亭が建ち並び、これらの料亭には海に張り出した涼み台や屋形
船が浮かべられ、夏の灯ともしころとなれば涼み台で一献かた
むける客、きれいどころをはべらせた屋形船で三味や太鼓の音
もにぎにぎしく海へこぎ出して行く客などでにぎわった。
青い目、紅毛の客人が出入りする神風楼はとくに横浜らしい光
景だった。
※1912年青木町先海面埋め立て竣工、鶴屋町と命名
←旧東海道と1863年創業田中屋 |
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この堀と海をつなぐ二つの橋があったがいまの神奈川区役所う
ら付近にあった碧海(へきかい)橋から中区の弁天橋まで一銭
蒸気が出ていた。これが横浜港の真ん中に浮かべられた海水
プール「忠泳館」とともに子供たちのあこがれの的だった。
一銭蒸気は明治33年(1900年)木内回送店がはじめたもの
で、文字どおり一銭で乗れた。交通が不便だったあの当時は早
くて楽な一銭蒸気がもてはやされ、神奈川と関内をつなぐ重要な
足となった。ポンポンポンと白波をけたてて快走する小蒸気に乗
せてもらうことは、まだ十歳前後の私にとって大きな楽しみだっ
た。
忠泳館は古舟を改造して海水を張り、デッキではお菓子や飲
み物を売っていた。いわば水の上に浮かべられたプールで港の
中央部にあった。盛んになってきた埋め立て工事で海岸から追
われた子供たちが、みんな一銭蒸気で忠泳館に集まり、夏の一
日を遊びたわむれた。
今のように油が浮いている海でなく底のほうまですき通って見
えるほどで2尺もあるイナダやボラがよくつれました。
←神奈川公園 |
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子供の頃のもう一つの楽しみは、須崎神社と熊野権現のお祭り
だった。キリギリスやスズムシを売る虫屋や金魚屋が店を並べ、
あのころまだ珍しかった蓄音機屋がなにがしかの金を取って受
話器を貸し、客の耳に差し込んで聞かせているさまが*アセチリ
ンガスのにおいとともになつかしくおもい思い出される。青木橋
から東神奈川へ抜ける道路(現在市電六角橋線)も狭い道で朝
9時ごろには菅田町や港北方面から肥料を買いにくるお百姓の
荷車や牛車で延々と列をなし、私どもは「肥やし横町」と呼んでい
たものだ。反町の横浜市役所付近は、たんぼだったが明治33
年(1900年)埋め立てて堀の周囲にあった遊郭がここに移って
きたがそのころはタンマチと言わずソリマチと呼ばれていた。
*原文のまま
←籠平(神奈川区) |
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このころの神奈川はまだ横浜市内でなく橘樹郡大字神奈川町
字青木町だったが、1901年4月はじめて二つの町が合併、※
神奈川町としてて横浜市に編入された。
いまでは住宅地となっている松ヶ岡は当時タヌキが人をだますと
かキツネの嫁入りがあるなどという話がほんとうに信じられてい
たのんびりしたよき時代だった。
いまの市役所わきを流れている滝の川は小川だが昔は本牧の
千代崎川、保土ヶ谷の帷子川と並んで横浜の三大悪川といわ
れ昭和6年(1931年)の区画整理で改修されるまでは毎年秋
の出水期になると必ず東神奈川うら、平川町、二ツ谷、反町付
近一帯は洪水に見舞われ田畑や民家などが水浸しとなった。
明治29年(1896年)2月私の父藤之助が社長になって対湾亭
前の空地(現在の区役所裏付近)に神奈川電灯会社を設立、火
力発電所を建設した。
発電能力も小さく、ごく周辺の街道筋だけに配電する程度だっ
たらしいが神奈川に電灯がついたのはこれがはじめてでそれま
ではランプを使っていた人々からももてはやされ珍しがられた。
pp.120-122
淵野修編、横浜今昔、1957年、毎日新聞横浜支局
□
※1901.1.25市会編入市域新町名決定(本牧、根岸、中村、
青木、神奈川町等)とするものもある。二つの町の合併の部分
が不明である。
←1989年、築地橋より撮影
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帷子川右岸(MM21地区)には、ヤマダ電機、日産自動車、セガ
などの本社移転計画がある。
04/8/27追記 |
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坂田武雄
1913年坂田農園を開設し植木類いっさいを扱っていたが,第一次世界大戦((1914−1918)で植
木の輸入がストップしたため種に転換、坂田商会を経て1942年末、坂田種苗会社を設立しサカタのタ
ネで知られている。
本社神奈川区桐畑5
○鉄砲百合
1882年横浜から百合がアメリカ、カナダ,欧州向けに輸出されだすと、フランス原産のマドンナ・リリー
に代わって日本の鉄砲百合が珍重される。
特に日本の鉄砲百合は花と葉、草丈の対照がよく、イースター・デーにはほとんどこれを用いるようにな
ったので以来日本の鉄砲百合はイースター・リリーの名称をもって欧米人の間に愛好されるようになっ
た。
こうしてわが国の鉄砲百合は教会での結婚式、花嫁の花束,宴会でのテーブル・デコレーション、葬式
場の花環などには熱帯性の蘭のカトレアなどとともに重んぜられるのだった。
こんなわけでわが国の欧米への鉄砲百合の輸出は増加の一途をたどり、1937年には、輸出の最盛
期を築き上げた。
しかし戦争で輸出がストップし、外国市場から締め出しをくってから、ついに日本の鉄砲百合に代わる
百合の改良品種が現れ、戦後はすっかり鉄砲百合は衰えて昔日の面影なしといった現状だ。
pp.313-315
淵野修編、横浜今昔、1957年、毎日新聞横浜支局
□
サカタのタネ本社は下記へ移転
〒224-0041 横浜市都筑区仲町台2-7-1
TEL 045-945-8800(代表) |
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佐伯藤之助氏は「今の横浜駅のうら側、鶴屋町付近はまだ入り江になっていて台
町の崖下まで潮が押し寄せていた。」と書いた。
1912年青木町先海面埋め立て竣工、鶴屋町と命名したので今年は鶴屋町誕生
90周年に当たる。(2002年記) |
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