西区

岡野                         竹内八十吉氏
一入り江であった保土ヶ谷方面の海辺は保土ヶ谷の住
人であり、土地の有力者岡野良親氏によって埋め立てら
れた。もちろん当時のことでありますから埋め立て地にし
ようとか、繁華街をつくろうなどという考えはなく、ただ田
や畑に使う程度の目的にすぎなかったのです。埋め立て
が終わってからもそこには塩田あり、ハス池あり、海に
通ずる大沼ありで不毛荒涼の地でありました。そんなわ
けでこの地に名をつけるだけの勇気もなかったとみえ、
埋め立て人岡野氏の姓をとって橘樹郡岡野新田と呼ば
れたのです。
その後1886年東海道線が開通し、※平沼駅が新設さ
れてからは岡野家は土地の将来を期待し、ここに理想
郷を実現して横浜の模範地区をつくろうと教育、衛生、
住宅建設のためたちあがったのです。
まず県当局と折衝して学校誘致に乗り出し、学校敷地に
要する土地全部を県に寄付して建てられたのが※県立
高等女学校(今の平沼高校)であります。当時横浜には
ミッションの女学校があるだけで公立の女学校がなかっ
たものですから施設が完備したどう校はたちまち全国最
優秀の女学校として評判になり、同校出身者には知名
人が続出し、羨望の的でした。
 また岡野小学校(現岡野中学校)は女学校と前後して創
設され、これまた模範校でした。

※現在の相模鉄道、平沼橋駅付近にあった。
1901年10月10日営業開始。(乗客・貨物)
※1900年10月創立
←平沼高校旧校舎
一方、衛生面では済生会神奈川病院の誘致に成功しま
した。戦後同病院は神奈川区に移りましたが、代わって
同病院近くに育生会経営の※横浜病院が開院し今なお
栄えています。
 横浜の模範住宅地を築き上げようと決心した岡野氏は
住宅建設業者に対し建築法に準ずる制限を設け建築す
る場合は設計の内容を地主に説明し、その承認をうるこ
と、隣接建物とは必ず十分な間隔を置くことなどを条件と
して貸地し、範を示すため県立女学校に約5千坪の土地
と池を利用し別荘地のような設備を
整えました。
 建物は洋館と和風造りの両様で4千坪もある大池には
数カ所に小島をつくり、島と島の間には雅趣豊かな木橋
をかけ、島には老松を配し、池畔には蒲田の梅林やしょ
うぶ園、杉田の梅林から取り寄せた名樹を移植し、さら
に池中にボラ、アイナメ、ウナギなどの魚族や水鳥を放っ
たり小舟を浮かべてこの大池を一般に公開し行人を楽し
ませたものでした。
 県立高等女学校の付属施設として設けられた洋館や
日本館はその後岡野欣之氏の娘婿に当たる当時警視
総監や内務次官をやっていた堀田貢氏住宅にし、一方
女学校から道路隔てた一郭千坪の地に純和風の千種園
をつくり、園内には茶室あり、セセラギの音豊かな小川や
花壇などもあって優雅そのものといってよいような美しい
庭園でした。女学校の生徒達はここを写生場とし、植物
勉強の資料を集めたりしてい
ました。
※育生会横浜病院は移転して現在は宗教法人の施設と
なっている。
←平沼高校(02.2.13撮影)
このように岡野氏の模範住宅地の理想は着々実現し、
岡野町の中心地は判検事、弁護士、高級社員、芸術家
といったような知識階級の者が多く住むようになって岡
野家待望の住宅街が生まれたのです。しかしそのまま
続いていけば理想郷も誕生したのでしたが、1923年
(大正12年)の関東大震災によって岡野町は大きく変わ
っていったのです。
 岡野町は大震災で全町の建物が倒れ焼けました。さら
に岡野家も没落して岡野町の姿は一変しました。
 そのうえ、横浜駅西口付近一帯の土地が外国商社の
所有であった関係から長らく荒廃のまま放置されたこと
も影響してこの町がさびれていく姿は私どもにとってさび
しい限りでした。
さらに1945年戦災を受けてからはまったくみる影もなく
なり今の岡野町、まったく変わった岡野町が出現したの
です。pp.96-99
淵野修編、横浜今昔、1957年、毎日新聞横浜支局

←平沼高校(02.2.13撮影)
平沼高校
2002年度の入学者数236名
女子181名
男子 55名
クラスは30人編成
混合クラス4組
女子クラス4組

卒業生
紅沢葉子(1901年生まれ、大正活映の女優)
南美江(1915年生まれ)宝塚音楽歌劇学校、舞台女優として有名
岸恵子(1932年生まれ)
小園蓉子(1932年生まれ)
日比野恵子(1933年生まれ)
※岸恵子、小園蓉子、日比野恵子は平沼高校の同級生
草笛光子(1933年生まれ、中退)

市民グラフ ヨコハマ bS8、横浜市広報課広報センター、1984年
西平沼の塩田                  平沼亮三氏             1957年10月
 おそらくそれは当時横浜における埋め立ての先鞭に近いものと思うが、私が生れる以前、今の西平
沼のある付近はすでに私の父九兵衛によって埋め立てが着手されていた。そして約6万坪の土地が竣
工し、その一部が塩田となって私の代に引き継がれ、盛んに製塩業が営まれた。ちょうど今東京ガスや
※古河電工横浜工場のあたりで、全く今昔の感が深い。
 塩田は海水を引き入れた幅五尺ほどの溝で,ところどころ長方形に仕切られ、たえず塩田の砂地で
こされた濃い塩水が太い竹の管を通って数町も離れた母屋にある大釜に送られ、それを煮詰めて塩が
造られる。造られた塩はすぐ塩の専売会社に送られるというわけである。
 現在繁華な商店街や住宅の櫛比(しっぴ)する平沼町付近一帯の土地もやはり父の在世時に、塩田
との境界に堤防などをきずき、約2,3万坪の埋め立てを完成して私の代に及んだものである。
 横浜には埋め立て地が実に多い。吉田新田、岡野新田、鶴屋新田、尾張屋新田、太田屋新田、鶴
見、神奈川の京浜工業地帯など、、、。横浜が発展するにつれ、埋め立てられ、埋め立て地はいつか
町となり、工場となって横浜は発展してきた。そして今また大黒町や根岸湾の臨海工業地帯を埋め立て
しようとしている。何か父祖につながるものを感じさせられる。
『横浜今昔』序
淵野修編、横浜今昔、1957年、毎日新聞横浜支局

※古河電工は千葉県に移転し、現在は住宅展示場になっている。
西平沼、岡野一帯には塩田があった。
西区と埋め立て
@
埋立件名、高島町海面(鉄道用地)
着工年、1870年〜1871年
出願人、請負人、高島嘉衛門
属する町名、高島町

A
埋立件名、平沼先海面
着工年、1874年〜1876年
出願人、平沼九兵衛ら
属する町名、仲町、材木町(未確定)
B
埋立件名、南幸町、北幸町(内海)
着工年、1895年
出願人、請負人、茂木六兵衛ら
属する町名、南幸町、北幸町
神中坂、H・I・Jのこと (藤棚1、2丁目付近)     長谷川泰
野毛山に向かう水道道は、ここ藤棚で急な登りとなる。この坂が神中坂と呼ばれるのは、戦前この上に
神奈川県立第一中学校、略して「神中」があったことによる。明治30年開校という県下きっての名門校
だが、戦後学制改革で希望ヶ丘に移り希望ヶ丘高校と変わった。跡地は集合住宅のはしりとも云われ
る県営藤棚団地として今日に至っている。
ところで、多くの俊英を輩出した神中だけに生徒たちはエリートをもって自他共に許していたようで、県
内中学生憧憬の第一高女(平沼高女)のイニシャルのHと、神中のJの間をI(笑)で結ぶなどと気障なこ
とを云ってわれわれ他校生徒に地団駄ふませたことであった。
広報よこはま 西区版 No.60 2002,10


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