不定期連載
笹野的映画感想記
僕が見た映画の感想を書く場です。
上映中に限らず、過去に見た作品も機会があれば書こうかな、と思ってます。
第十四回:「初恋のきた道」&「Yamakasi」&「千と千尋の神隠し」
・初恋のきた道(2000年 監督:チャン・イーモウ 主演:チャン・ツィイー スン・ホンレイ他)
見終わって思ったこと「やられた!」&「映画館で良かった。一人で部屋で見てたら号泣するとこだった(いいんだけどね)」。
前からちょっと気になっていた映画でした。特別宣伝はされてなかったけど、やたら評判の良さは耳に入ってきてたから(ウンナンもTVで言ってたしね)。
内容的には中国のある村で一人の老教師が死に、その息子が村に帰ってくるところから始まり、かたくなに亡夫を昔のしきたりに倣った形での葬儀にこだわる老いた妻の様子から、かつて若き日の夫婦の馴れ初めが回想されて…ていう感じなんですが、若き日の妻を演じるチャン・ツィイーが可愛い!(でも以前紹介した「グリーンディスティニー」に出てきた少女と同一人物とは気づかなかった(汗))少女の一途でまっすぐな思いがストレートに伝わってくるんですよ。それは時に切ないまでに強さとなり、はにかむまでにいじらしく。たとえ、距離が離れても自分を愛する人を信じ、果てしなく続く道の向こうを見据える姿が静かに見る人の心の中にくさびを打ち込んでくれる。素朴で美しい風景が優しさと厳しさを描き出す。
聡明な映画だと思いました。そしてそれを描きまとめるのは一人の女性の一途な愛、それも永遠に限りなく近い。それがラスト間近からの流れに繋がるんだけど、その思いは狂おしく愛おしい大きなうねりになっていたんだなぁと。純粋な思いとそれを受け止める思い。泣けました。
この映画に描かれた道は大切な何かを探すための道、そしてそれを見つけた者が為すべき道なんだろうと思います。それは生きている限りは歩まなければいけない長い道だと思うから。
・Yamakasi(2001年 監督:アリエル・ゼドゥン 脚本:リュック・ベッソン他 主演:“YAMAKASI” 他)
最初、この映画に出てくるYAMAKASIが実在のチームである事、そして、この映画に出演してるのがその当人達だと言うことを知りませんでした。
だって、実際映画の中で出てくるそのパフォーマンスの高さ!これがスタントでも何でもなくて彼らが普段から経験してる事を披露してるに過ぎないなんて…凄すぎる。
見た人でしたら判ると思いますが、彼らのパフォーマンスはその空間を支配してしまうかのようにどんな場所でも争覇(或いは踏破)してしまう。それは彼らが提唱するようにまさに芸術的だと思いました。
で、映画のストーリーもそんな彼らを活かした感じに仕上がっていて、そこら辺は「TAXI」「ダンサー」を経験してきたベッソンのマジックだと思いました。とは言っても、そんなに頭を津逢うタイプの映画ではないのでこれから見る人は構えずに楽しんでみることをお勧めします。音楽も最高にカッコイイしね。
最後に。実際パリの街は彼らの活動を街として黙認しているそうです。彼らが健全な若者へのメッセージを送ることを忘れない姿勢を評価してのことらしいですが、それにしても凄いことだよね。向こうの人の良い意味での寛容さが出てる話だと思うし。
・千と千尋の神隠し(2001年 原作・脚本・監督:宮崎駿 音楽:久石護 声の主演:柊瑠美、入野自由、夏木マリ他)
ようやく見に行けました(笑)。いや、ただ、タイミングの問題だったんだけど。
もう上映されてから結構経ってるから内容的には僕が今更触れる必要が殆どないと思うので、ここでは僕が思ったこと、感じたことを。
見終わって、この映画で伝えようとしたことが何なのか?考えてみました。僕が感じたことは二つ、「大人が思う以上に子供は考えてるし頑張ってるんだよ」ということと、「大人は“大人”になる努力をしなければいけない」という点です。同じ事なのかも知れないけど。
子供は常に上を見続けることを本能的に求めたがる。大人が過保護なまでに管理するまでもなく、一人で何かしなきゃいけないとき大人が思っている以上にしっかりやったり出来るし、また考える。それはどんな子供でもそうだと思う。そんな強さを感じたし、また、子供達にそう言う強さがあることを伝えようとしてるように感じました。
今の大人はどこか悪い意味で子供なのかも知れない。責任感を持たず感情的に動き伝えることの大切さを忘れかけてるような気がする。勿論それが全てではないけど。人ならざる者達の世界が皮肉にもそんな今を映し出してるように見えたりする。伝えることは大切なことだと思う。映画の中でも名前を奪われることで支配される様子が描かれてますが、言葉を伝えることはまさに“言霊”という言葉の通り“命”を伝える大切なモノだと思うから。そしてそれを伝えていくのが大人の役目何じゃないかな、と感じました。
今更ここで触れるまでもなく、映像や音楽のすばらしさも流石だったし、完成度的にも宮崎作品のトップクラスに入ると思います。
あと、北海道の人限定の話題ですが…。大泉さんの“声演”はなかなかはまり役でしたよ。あと、ヤスケンこと安田顕さんの声も一応確認できました。でも、シゲこと佐藤重幸さんの声はちょっと確認できなかったなぁ(笑)。
第十三回:「キス・オブ・ザ・ドラゴン」
・キス・オブ・ザ・ドラゴン(2001年 監督:クリス・ナオン 製作:リュック・ベッソン、ジェット・リー他
脚本:リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン 主演:ジェット・リー、ブリジット・フォンダ他)
個人的にジェット・リーの魅力は「一途さ」を感じさせるところにあると思っている。
五年連続で少林寺拳法の王者に若くして輝いた才能を支えた努力、誰からも愛される誠実さなどは、彼が精神の芯の部分で愚直なまでに信じる道へ歩み続けることをもいとわないピュアな一途さを持ってるからだと僕なんかは勝手に想像してしまう。
実はそれはリュック・ベッソンが今までに描いてきた主人公達にも共通している部分だと思う。レオン、ニキータ、ジャック、フレッドetc。彼らは自分の信じる“何か”のために、時には破滅的な結末を迎えようともまっすぐに突き進む人物達だ(「ダンサー」や「TAXI」もそうだ)。人間力とも言えるそのエネルギーをリュック・ベッソンは映画を作ることで、また、ジェット・リーは己の肉体で表現してきた。
この映画を「ジェット・リー版レオン或いはニキータ」という見方をする人は多いと思う。その見方も間違いでないと思うし、そう言う見方でも充分面白い作品だと思う。
でも、僕がこの映画に感じた事は、今までのベッソン作品の主人公は人の温もり(愛)を作品の中で思い出す、或いは再確認していくけど、リーが演じたリュウというキャラクターはジェシカ(ブリジット・フォンダ)にそれらを教えられたのじゃないかと感じた。それは、とりもなおさず、少なくとも今まで任務の中で突っ走っていった男が立ち止まることによって感じた風の優しさだったのかも知れない。終盤で見せた彼の笑みはそれを感じたことによって出てきた柔らかい笑みだと感じた(孤独な主人公にそんな優しい笑みを浮かばせるのに説得力があるのはジェット・リーならでは、と思う。ホントに優しさが伝わるもん)。そんな事を考えるとベッソン作品としては異色だと思う(僕なんかが言う言葉ではないけど)。
リーのアクションはさすがの一言でした。速く、強く、美しく、そしてシリアスさを感じさせるそのアクションにSFXは必要無い。そのものが説得力があるのだから。面白いのはポイントポイントで鍼が使われていたところでした。実はタイトルともちょっと関係してたりして。
最近は色々あって暗い世の中だけど、自分の中にある人間力みたいのを信じて頑張ってみようかな、なんて思った観賞後でした。
第十二回:「式日」&「A.I.」
・式日(2000年 監督・脚本:庵野秀明 原作・主演:藤谷文子 主演:岩井俊二、大竹しのぶ他)
庵野監督作品では二作目の実写映画は「愛情への飢え」「劣等感」「苦しみからの逃避」「痛いまでの現実」というキーワードが浮かんでくるような内容だった。
主人公の「男(或いは監督)」(岩井俊二)が故郷で出会った一人の「少女」(藤谷文子)。映画の中で「少女」は思うように親からの愛情を受けられなかったことと、姉への劣等感から「少女」は現実から遠ざかるような生活をしている。「明日はワタシの誕生日だから」と言う言葉、朝の刹那的な「儀式」。紅く彩られた服と品々…。
でも、彼女は「特別」じゃないと思った。
これは、今の時代の僕達なのじゃないかと思った。
今、僕達はこの混沌とした時代の中で自分だけの木の幹に捕まり「これは悪い夢だから、何時か醒める夢だから」と呟いているだけなのかも知れない。辛い現実に向き合おうとせず、うずくまるだけの。それは、政治状況だけの話ではなく、身近な家族や仲間とのことでも言えることで、何か問題があったときに僕らは相手と本当の意味で向かい合っているのだろうか?
この映画を見ていて、ふと考えたことがある。それは、僕の今は亡き、母方の祖父のことだ。
僕は俗に言う家庭の事情ってヤツで父親というモノをほとんど経験して無く、母も仕事か病に伏せるかだったので、祖父母にほとんど育てられてきた。大正生まれの人だったから古い考え(別にそれが悪いとは思わない。念のため)を持っている人だったし、怖い祖父だった。お酒を飲んでいるときはなおさらで、酒乱とか暴れるわけではないけど、語気が荒くなるから近寄りがたい人だったと言う印象が強い。逆に祖母は優しい人だった。お節介に感じ入るくらい優しい人だった印象がある。僕が地元を離れ札幌へ行くと決まったときは、内心祖父の元を離れることにほっとしていた。育てて貰って身勝手だと知りつつも。
札幌で暮らしてから三年目の冬に祖父が危篤になり、そして天に召された。悲しかった、が、何故か涙がこみ上げてこなかった。
その数年後に今度は祖母も還らぬ人となった。そのときはこらえてはいたが、こらえきれずに人の目に付かない形で涙を流した。その時の止めどない涙の感覚は未だに残ってる。
何故そんな祖父母の事を考えたのかというと、その涙の意味だったのかも知れない。祖母には比較的向かい合って話が出来たと思う。だからこそ時には祖母を木津付けるような言動も取ったときもあるしその逆もあった。でも、祖父に対しては反発することがあってもそれをぶつけずどこかで心を閉ざしていたように思う。僕は祖父が死んだときに「涙がこぼれるほど彼と向き合っていない」事に今頃になって気づいたのだ。悲しすぎて涙が出ないケースがあることも知ってはいるが、この場合、それに当てはまらない。その事に悲しくなってしまった。
話がそれてしまって申し訳ないけど、この映画はそんな気持ちにさせられた映画だった。エンタテイメントとして正しいかどうかは言えないけど、少なくともそう言う何かを感じさせてくれた映画だったと思う。
・A.I.(2001年 原案:スタンリー・キューブリック 監督・脚本:スティーブン・スピルバーグ
主演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、ジュード・ロウ他)
この映画が本当に言いたいことは「『愛する』事が貴方は出来てますか?」と言う問いかけだと思いました。
どうしてもクローズアップされるのは「モノ」が人間を愛することが出来るのか?と言う見方ですが、そもそも、愛情を注ぐと言うことは同種族(人や他の生物)同士でのことに限ったことではないと思いませんか?家族同然にペットを可愛がることも、庭の植物を丁寧に手入れすることも、思い出深い品をずっと大切に使い続けることも大きな意味での「アイスルコト」と言えるのじゃないでしょうか。この映画はそんな事を問い掛けているように感じました。「貴方は本当の意味でアイスルコトが出来ていますか?アイスルコトをはき違えてませんか?」と。
主人公デイビット(H・J・オスメント)は愛情プログラムをインプットされた後に聞かせて貰ったピノキオの話を望みに人間となって人間の母親に愛されたいと願うのですが、その彼の姿が僕には星の王子さまにも見えました。目に見えない大切な何かを心の中に常に持っていた王子さまの姿が主人公の一途さと重なって見えたのです。
…実はあまり個人的には話に触れたくないんですね。こういう映画はやはり実際に予備知識を入れずに見た方がいいに決まってるから。ただ、敢えて一つ触れるとしたら、主人公が人間になるために探してる何か…それがどういうモノか、それが現れるかどうか、その結果を見たときグッと来ましたね、正直。ただ、その後エンディングまでのナレーションはちょっと蛇足かなって。判りやすくはなるけど、無くても成立したんじゃないかな、と思います。
スイマセン、中途半端な感想かも知れませんけど、ここでごちゃごちゃ書くよりやっぱりコレは見た方が…(ひでぇ(苦笑))。
第十一回:「メトロポリス」&「ロスト・ソウルズ」
・メトロポリス(2001年 原作:手塚治虫 監督:りんたろう 脚本:大友克洋 主演(声):井本由香、小林桂、岡田浩暉他)
実はこの連載が始まって以来、初めてのアニメ作品の感想記です(自分でも意外でした)。
泣けた!それが見終わっての感想です。
最初の数分間の映像でメトロポリスそのものに目を奪われました。今の僕らが恐らく描いてる、近未来の文明の結晶のようなその街は、そこに重なる群衆でなくても夢を描く世界。でも、その底辺にはその代償である歪み。ロボット世界の発展は人々の仕事の機会を奪い、貧困で不満が渦巻き、またロボットにも決して自由があるわけではない。そんな中、物語は一体の人造人間・ティマを巡り動いてゆく…。そのティマが美しく、無垢で魅力的なんですよ。勿論、主人公のケンイチを始め、他のキャラクター達も(手塚先生の作品の全てに共通していますが)個性があって魅力的なんですね。そしてそれらのキャラクターがCGで製作された街の中を違和感無く動き回るんです。キャラ自体は手塚先生の初期の頃のタッチで再現されているのにも関わらず違和感無いのだからスタッフの苦労が忍ばれます。手塚ファンの方にはおなじみのキャラをいくつ発見できるかって二次的楽しみもありますしね(ヒョウタンツギも出てきます。ちらっとね)。バックには全編にジャズのしらべが流れるのですが、それが未来の世界なのに何処か懐かしささえ感じさせる映像世界に深みを与えています。ストーリー自体は監督と脚本の二人の意向で手が加えられてますが、それでもコレが五十年以上前に描かれた漫画だとは思えないくらい新鮮で凄い!改めて手塚先生の凄さに唸る思いです(勿論、監督のりんたろうさんや脚本の大友克洋さんの凄さにも)。僕ね、りんたろうさんの作品に共通して感じる(脚本家が別であろうと)物語作りが凄い好きで、それが何かはストーリーのネタばらしになりかねないから書きませんが、今回もそれがあって、もうクライマックスからエピローグに至ってはマジで泣けました。
あまり絶賛口調で書くと嘘臭く思われてしまうかも知れないけど、僕は機会があれば是非見て欲しいと思います。僕自身、出来ればまた見に行きたいし、DVDが出たら買いたいです。
最後に。エンディングに流れる主題歌(これがまたいい曲!CMでもその一端が聴けますが)ですが、もしパンフレットを買う余裕があったら是非買ってみてその詞の意味を読んでみて欲しいですね(勿論、映画見終わってから。英語のヒアリングが得意な人は別に必要無いけど)。監督曰く「ティマのケンイチに対する気持ち」が書かれてるのですが、僕はそれを読んでまた泣きそうになってしまいました。憎いぜ、畜生。
・ロスト・ソウルズ(2001年 監督:ヤヌス・カミンスキー 主演:ウィノナ・ライダー、ベン・チャップリン、ジョン・ハート他)
「ウィノナ・ライダーを見に行きたかったんでしょ?」と知り合いに言われそうですね(苦笑)。正直それもあります(笑)。でも、必ずそれだけじゃないですけどね。テーマのエクソシストと悪魔のせめぎ合いみたいな部分に惹かれたところもあるし、ウィノナ・ライダーが出てるから必ず見に行くわけでもないから(現に「オータム・イン・ニューヨーク」は見に行かなかったし。テーマ的に僕が見に行くようなタイプの映画でなかったし(恋愛モノはあまり見ないんですよ)、ぶっちゃけた話、リチャード・ギアって俳優がどちらかというと嫌いなタイプの俳優だからと言うのもあったし)。
ストーリー的には過去に自身も悪魔に憑かれた事があり、悪魔払いの儀式を受けて助かった経験のある、エクソシストの助手をやっている女性・サラ(ウィノナ・ライダー)が、悪魔払いに行った先で見つけた暗号から、ある男性が近い内にその体を悪魔の復活の為に乗っ取られてしまうことを発見するけど、その男性は著名な作家で、しかも筋金入りの無神論者・ケルソン(ベン・チャップリン)だった。しかも、教会からもその事実を信じて貰えず、彼女は孤独な戦いを強いられることになる…、って感じです。
こう書くとなんか特殊効果多用したスペクタクルなホラームービーを想像するかも知れません。でもそう言う視覚的にはっきりと判る特殊な処理はああまり使われていないんです。特に序盤ではサラ自身には彼女をあざ笑うかのようなシーンが一度登場するのですが、ケルソン自身には、異変はあるのですが、それは日常から少しはずれた程度の異変しか起こらないのです。例えばサラから渡されて聞いてみた悪魔払いの収められたテープに何も聞こえなかったり(実際にはある異変が周囲で起こってる)、隣人の突然の変死、謎の夢、そして謎の記号“X・E・S”…でもそれが直ぐに悪魔を彼自身には連想させないのです。これははからずも、無神論者の彼自身が異変に気づかない事で異変を感じるサラとのギャップを生じさせ、彼女を異常だと思わせる悪魔の高度な精神的攻撃と感じさせるのです。ここら辺の組立は感心しました。そしてやがて彼自身もその異変に徐々に気づきサラに近づいてゆくのですが、そこで判明してゆく彼の出生の秘密は悪魔が乗っ取るための条件を満たしてるモノなのです。自分が悪魔の復活のために仕組まれて生まれた事実を知るということはなんと残酷な事か。
ストレートに感じた観賞後の感想は「正義を貫くことは多くの痛みを伴い、悪は自らの犠牲の代償に多くのモノを奪ってゆく悲しい事実」です。僕は無神論者ではなく、かといって、特定の宗教へ深い思い入れを持っている訳でもありません。ただ、ここで描かれていることを見方を変えてゆけば、何事にも常に誘惑と言う名の落とし穴が待っていると思うんです。何か自分のやるべき事を貫くとはたやすいことではなく、自分自身への問いかけであり、戦いだと思います。ただ、正解なんて一つではないし、それが総じては“生きること”なのかな、て。
この映画がそこまで良い映画かどうかは僕自身はどうとも言えません。そんな大した映画ではないかも知れません。ただ(少し脱線しますが)単純に作品を楽しむのも良いことだと思うけど、どんな媒体でも作品をきっかけに何かを考える事って大切なことだと思います。僕がこうやって公の場で感想記を書くのは自分自身そういう機会をつくりたいというのがあるからです。だから、あまり映画を見に行く際の参考になるかと言うと必ずしもそうじゃないと思います。ごめんなさいね。でも、そう言う糸の感想記があっても良いですよね?批評をやりたくて書いてるわけじゃないですから。勿論、つまらなかったらつまらないと書きますけど(でもどっかかんかに面白さを探しちゃう方だからなぁ、俺)。ま、こんなので良かったらお付き合い下さい。以上、脱線でした。
第十回:「スターリングラード」
・スターリングラード(2001年 監督:ジャン=ジャック・アノー 主演:ジュード・ロウ、ジョセフ・ファインズ他)
この映画がどんな映画か説明せよ、と問われたら「第二次世界大戦のときに実在したソ連の伝説的な狙撃手が主人公の作品」と短く済んでしまう。
ではこの映画は戦争の最中に輝いた英雄の物語なのか?と問われるとそれも違う。映画の中で登場する主人公ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)はロシアの片田舎に住んでいた素朴な男だ。そしてそれはおそらく実際のヴァシリもそうであっただろう。彼は狙撃手としての腕があることをたまたま広報係だった将校に見初められ、国威昂揚のため英雄視された。彼は実際に活躍したし、多少なりとも国のために戦ってもいただろう。でも、現実として彼は生きるために、生き続けるためだけに銃をとり続けたのだと思う。幼い頃の狩りのごとく、生きるという本能のために。
近年の戦争映画がそうであるように、この映画の中でも戦争という倫理観無き殺人ゲームが繰り広げられる。駆り出される下の者達にとってはハイリスクでノーリターンな世界だ。前に出れば水知らない他人の群れに蹂躙され、それを拒めば“味方陣営”の人間に殺されていく。生きるしかない。勝ったとしても賞賛の保証のない戦いを。ヴァシリは本能的にそれを感覚として理解できていたんだと思う。彼の目は冷徹で本能という油が注がれ続ける生への執着と、そして目の前の戦いに何処かむなしさを覚えている矛盾した輝きに溢れているように感じた。兵器として動く体とそれでも人でいたいと願う心の二つを映し出す鏡のように。だが戦争を動かす人間にとって理想的な人間は心まで兵器と割り切れる人材なのだ。映画の中にでてくるドイツ軍の将校スナイパーのケーニッヒ少佐(エド・ハリス)のように。
映画としてみると、長い作品だが緊張感が良い意味で張られ見応えのある作品だった。役者陣も素晴らしい演技で作品をより輝かせていて、特にジュード・ロウの演技は素晴らしかったと思う。
映画の中でヴァシリが言った「僕は賢い羊になれるのかな?」(というような台詞だったと思う)と言う言葉に彼なりの言葉での戦争というモノ(もっと言えば人として生きること)の一つの真実(或いは現実)が表れていたように感じ、胸が締め付けられた。
第九回:「ハンニバル」
・ハンニバル(2001年 監督:リドリー・スコット 主演:アンソニー・ホプキンス、ジュリアン・ムーア他)
前回に続き、またきっついのを見に行ってしまいました(苦笑)。
まず、見終わった感想を一言で言うなら、「暗く澱んだ世界観の中でもがくクラリス捜査官(ジュリアン・ムーア)とそれらをより悪趣味にかき回すレクター博士(アンソニー・ホプキンス)がなんか凄かった」。クラリスとレクターの関係ってある意味太陽と月の関係で、太陽が黄昏て行くと月が妖しく輝く。二つの距離は時に縮まり、また、対極に位置しちゃう。月は表の存在ではないけど、実は影響を与えるのは月の方で(あくまでもこの話での関係で)、月の存在に、時には太陽すら生かされてるんだな、て。
映像はダーク感が強く、まぶしいまでの日の陽射しさえ影に喰われているように感じた。そんな世界観の中、クラリスの周りには様々な形で悪意が満ちあふれている。それらは見えないレクターという名の蜘蛛の巣に全て捉えられている。そんな光景は一瞬レクターをまともな人物と錯覚させるんだけど、そんな白昼夢のような思いはレクター自身の手で引き裂かれてしまう。やはり、この人の心の中のナイフは誰よりもえげつない切れ味だった。知が伴っているだけに余計タチが悪いよ。ホント。
ストーリーは良かったと思いますよ。ただ全体的にえげつないシーンが多いから、特に食事前に見ることをオススメ出来ません(笑)。食後も駄目だな。苦手な人ならもどすかも(僕の隣の年配の方が上映前に軽い食事をとってたけど、この人映画の内容理解してきてるのかなぁ?と思わず思ってしまったモノ。僕はとてもじゃないけど、テーマを知ってたから食事なんてとろうと思わなかったです)。アンソニー・ホプキンスの演技は流石でしたね。クラリス役は前回のジョディ・フォスターからジュリアン・ムーアに変わりましたが、前回からクラリスのキャリアも変わってるわけだし、二人とも共通してクラリスの清新さを持ってるから違和感は感じなかったです。
そうそう、実はこの映画にはクレジットこそでないけど、ある大物俳優が出演してます。誰がどんな役で出演してるかは書きません。実は僕は見終わった後、パンフレットを読んで初めて知りました。えー!そーだったのー!?って。でも、気づいて思い返すとあの演技は流石!!と思いました。
さて、最後に芸能マスコミに文句を一言。「上映前の映画のラストのネタ晴れになるようなこと書くんじゃねえよ!しかも続編続編言いやがって、スターウォーズみたいに続編前提で作った話と限らねえのによぉ!(見てしまったこっちにも非がないわけじゃないが)大体、映画の内容ばらしすぎるんだよ、全く…」。
第八回:「ザ・セル」
・ザ・セル(2001年 監督:ターセム 主演:ジェニファー・ロペス、ヴィンズ・ヴォーン、ヴィンセント・ドノフリオ他)
最新の機械を使って分裂症などの精神病患者の脳内に侵入し、その心を開かせることで治療を試みている心理学者(ジェニファー・ロペス)が分裂症の進行で意識不明に陥った連続誘拐殺人の犯人(ヴィンセント・ドノフリオ)の脳内へ入り込み、未だ見つかっていない人質の居場所と犯人の心の闇を探ろうとする、と言うストーリーなのですが、まず目を奪われたのは、脳内の精神世界の表現でした。その人物の深層心理に基づきながらそれをヴィジュアライズするその難解な作業を凄く上手く表現していて一種絵画的にも感じました(実際幾つかの名画をモチーフにした場面も登場する)。奥行きのありつつ、何処か閉じた世界は主人公と同様引き込まれそうな危険な魅力を感じたりしてね。監督はMTVやCMで活躍していたインド人の方なのですが、(良くも悪くも)刺激的で鮮やかな映像感覚や、精神的観念が濃い世界観にそこら辺が表れていると感じました。この監督は多分、日本のアニメとか結構見てそうな気がします。だって脳内に侵入するための機会のディスプレイとかボディスーツってエヴァみたいなんだもん。あと、印象に残ったのは「痛い」って事。犯人の異常性が現実世界でも精神世界でも遺憾なく出てて、色んな意味で「痛かった」です多分見たらその意味判ると思います)。ただ、そう追い込んだ彼の過去を考えると日本でも問題になってる虐待という罪のの重さが感じられました。
映像的にさらっと見せる分多少問題はありますが(R−15指定)、映像的な分野に興味のある方は一度見てみる価値はあると僕は思います。
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