|
・「我が公の京都守護職を命ぜらるるや、藩士の二三男以下にして弓馬槍刀の四術の免許を有する者、若くは四術を究めざるも一術に堪能なる者約二十五名を選抜し、京都常詰先備と称し扈従せしむ、後人員六十餘人となり、其の一部を割き一隊を編成せり、是伏見鳥羽にて奮戦せる佐川官兵衛の別選組なり、又甲士とは諸隊に在る士分を云ふ」(会津戊辰戦史)
・「先備というのは会津藩における名誉ある選抜隊で、容保が京都守護職を命ぜられた時、藩士の二、三男以下の者で、弓馬槍刀の四芸の免許を有する者、もしくは四芸を究めてはいないとしても一芸に秀でた者を二十五名ほど選りすぐって、京都常詰先備と称して扈従させたもので、のちには人員六十余人となった。このうちの一部を割いて編成したのが、伏見の戦いの時も絶対不敗を誇った、佐川官兵衛の率いる別選組であった。甲士というのは諸隊にいる士分(将校)である」(戊辰落日・上/綱淵謙錠)
・「以手紙申達候 御先備甲士勤之義儀、重き御主意を以被仰付、格別在勤並之御取扱に有之、欠目等有之節は早速本役被仰付候に付、格別に引立罷在候所、此節に至候ては、賀陽宮様、二條様へ御貸被遣残居候本勤之者拾三人外無之、其余は不残介添之子弟仮役被仰付置、定不定之介添にては引立可励様も無之、御用心筋之儀は次第々々に御手置に相成、一統安心不仕、此節於御警衛大切之者共気向不引立様にては、甚以御為ならざる事に有之、尤此度壱番部下交代被仰付候わゞ、別に被差替候子弟も有御座間敷、且御近衛別而大切成事に御座候間、先達て申達置候人別之者、多分戦争以来永々仮役をも被仰付被下度旨御供番頭申出候、右人備之儀に付ては度々演達も有之候得共、先づ以見合置候所、追々申出候趣も有之、尹宮様(←賀陽宮)、二條様へ御貸被遣候者共も大に御用弁致居、御先約御引戻与申都合にも相至兼、既に此間御東下之儀被仰出候節も、右之者共御警衛随一之組に候間、御供被仰付候様歎願申出候得共、御先方之御都合も有之、御供不被仰付都合にて、いつ御返に相成候与申見詰も無之儀に候間、夫々被仰付候外有之間敷哉、依て是迄御貸被遣候者共丈け人員は多く相成候様には候得共、追て御返しに相成候わゞ欠捨に被仰付候、其筋より申出候別紙人別之者共、文武之芸相嗜永々仮役をも被仰付置、御警衛繁多之所出精宜相勤格別成者之由に候間、可相成は右之者共本勤に被仰付可然哉、尤右人数之内嫡子之噂有之候得共、是迄之振相も有之候間、於其表子弟内壱人被及吟味可然哉に申相談〜」(幕末会津藩往復文書)
・「京都日新館にまなぶ学生たちより、十七、八歳以上二十二、三歳までの者百人を選んで、『諸生組』と命名。さらに士分の者の介添その他として上京しているそれ以上の年齢の者たちの中から、弓馬刀槍のうち少なくとも二芸に免許を得ている者を選抜してひと組を編成することにしたのである」(鬼官兵衛烈風録[別選組誕生]/中村彰彦)
・「元治元年長州の藩兵京師に襲来せし以来、攘夷討幕を唱うるもの益多きを加え、天下騒然将に大乱の起らんとするものゝ如し、殊に京師再び騒擾の巷とならんとす、守護の職を尽すは元も至難たり。是に於て藩士の子弟にして弓馬槍刀の内二芸の免許を得たるものを選んで別選隊と號す。公(←容保)隊長其人を獲るに苦しむ、宰臣皆曰官兵衛武を好みて胆略あり用ゆべきなり、公乃ち君(←佐川官兵衛)をして之に長たらしめ学校奉行故の如し、公外出の時或は隊士を以て供奉列外の警衛に当らしむ。又学校書生を編成して書生組と称し、以て緩急に備う。公又君をして之を統率せしむ。(中略)君、洋式練兵の法を好まず、隊士も亦た固有の武術を研究し、洋式に做うことを厭う」(佐川官兵衛君之伝/高木盛之助供述・佐川直諒筆記)
・(鳥羽伏見戦)「別選組の編成次の如し、隊長番頭格兼学校奉行佐川官兵衛、組頭二名、依田源治、小櫃守左衛門、甲士凡そ四十名、外に変を聞いて登京せし江戸の書生三十名、計七十餘名なり、此の隊は鉄砲を有せる者甚だ少く多くは槍を携へたるのみなりき」(会津戊辰戦史)
・(鳥羽伏見戦)「正月五日黎明に京軍淀城を攻む。東軍淀橋を隔て防戦す。京軍河岸より砲撃す。瀧川充太郎、大川庄次郎引率の伝習隊能く戦う。此時陸軍奉行竹中丹後守の号令全隊に行渡らず諸隊共指図役頭取の見込にて攻撃防禦を為す。此の戦争中會藩の一隊に鎗刀組と云あり。切込隊にして隊長は佐川官兵衛なり(中略)東軍の一隊凡三丁程も退くとき、會藩の切込隊左右より顕われ京軍の中央に突入り、右往左往に切り立て突き立て其働き電光の閃めくが如し。京軍大に辟易し隊伍を乱す。其挙に乗じ東軍の一隊は正面より返し烈しく銃撃す。會藩の砲隊は左翼より砲撃し、京軍は大敗し、桃山の方に逃走す。此時會藩の鎗先にかかりし者実に無数なり。鎗隊の者は重なる敵士の首二三個ずつを鎗に貫き、敵の迯るを尾撃して進行したり」(戊辰の夢―旧幕府)
・「千両松でも激戦が展開された。別選組は芦の茂みに潜んで狙撃戦を行った後、槍をふるって突撃に移った。しかしここでも次第に銃砲対刀槍の差があらわれた。鬼官兵衛も右眼を負傷し、別選組の大半は戦死してしまう」(新選組全史/中村彰彦)
・(1月6日、鳥羽伏見に敗れて大阪城に戻った日)
「此の日橋本の戦ひ利あらず、全軍守口に退くや大阪城中大に騒擾す、且幕兵萎靡して振はず、是に於て幕府佐川官兵衛を歩兵頭竝雇に、望月新平、井口源五等四五人を歩兵指図役頭取竝雇に、其の他別選組士を歩兵指図役竝雇に命ず」(会津戊辰戦史)
「然るに幕兵共は気臆し一向振わず。依って幕府より佐川官兵衛歩兵頭並に御雇、望月新平・井口源吾・金田百太郎等四五人歩兵指図役頭取並々御雇、其他別撰組之者とも歩兵指図役並に御雇仰せ付けられる」(鳥羽へ御使並大坂引揚の一件/浅羽忠之助)
・「我が藩の先備甲士勤佐川主殿、同石黒恒松、内田(工藤)衛守、江上太郎、昌平校の学生米澤昌平、小姓簗瀬克吉、同原直鐵等七人藩庁の諒解を得て脱藩の形式を取り、如何なる手蔓にてか西丸に於て歩兵指図役竝に任ぜられ歩兵第七聯隊附を命ぜらる。聯隊長は朝比奈一にして歩兵頭・米田桂次郎之が副たり。営所は我が藩の和田倉内の旧邸なれども、市中取締を命ぜられたるにより、分屯所を呉服橋外堀端の空商店に設けたり」(会津戊辰戦史)
|