秋月登之助 1

概略


・秋月登之助
種明本名・江上太郎江上又八大蔵種順(16石3人/ 田島代官→南山御蔵入奉行)の子。
会津若松市史ビジュアル編CD-ROMの地図によれば、江上家は現在の城東町にあった。鶴ケ城の北東にある県立総合病院のほぼ正面、通りから少し南に入ったあたり(江上又八100石とあるが、何だろうこれは…?)。

・「秋月は背高く色白く巨眼好箇の偉丈夫なり。濃紺の上着に緋絨のズボンをはき、胸間に紐長く呼笛をつりたらし、殊に容姿を顕著にせり。後に総野地方にて大鳥圭介の幕軍伝習兵第一大隊長となり、土方歳三はその副長たり。土方は京都以来つとに英名あり秋月の下につくべき者にあらずと雖も、土方はこれ一箇の人傑にして常に謙譲秋月を翼賛せり」(会津会会報大正10年第18号/石黒恒松―史実会津白虎隊/早川貴代次)

・「つねに勇志に富み将の器であった。江戸にあっては広く幕府や他藩の用人と親交を結び、会津藩の回復に努めたが事成らず幕府の七連隊に転入し、幕軍の大鳥圭介らとはかって江戸城に立てこもり、義兵を挙げて西軍を江戸から追い払おうと計画したが、志と違い、そのうち大鳥圭介が幕軍二千余名を率いて会津へ向け北上しようとしたとき、推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三は彼の下に参謀役を勤めてくれた」(史実会津白虎隊/早川喜代次)

・「秋月登之助は會藩の士にして、尤も文武に達す。藩主朝敵となられてより、一藩の士を挙て官軍に当らんとせし時に、登之助は大隊長となりて、本国を発し、加藤・今見の人々と共に野州に出張し、官兵佐土原・彦根・藤堂・土州の兵等と今市駅に戦い、之れを破り、尚諸々に転戦して能く兵を指揮す。又白川及び二本松の戦いにも屡々奮闘血戦に及んで、大いに其名を知られたり」(徳川義臣伝/岡田霞船編)

・江上太郎が秋月登之助を名乗るのは、慶応4年から。脱藩して幕府陸軍に入る時、同志7名全員名前を変えた。

・秋月の肖像は「写真で見る会津戦争」(早川喜代次・宮崎長八/新人物往来社)に掲載あり。会津若松・白虎隊記念館蔵。

・「史実会津白虎隊」が引用している石黒恒松の「鶏肋短編〜戊辰実歴記事〜」は、石黒が晩年になってから、当時の日記を元に会津会会報に寄稿したもの。元文には、秋月が歩兵の人望を得るために「奇計」を用いた事が出てくる↓

【秋月の奇計。秋月登之助(元御先備甲士江上太郎)、丈け高く色白し、巨眼方面好箇の偉丈夫なり。七連隊に入るに及び、制定の服を用いざる時は、濃紺の上衣(制定服)緋絨のズボンを穿ち、胸間に紐長く呼笛を釣垂し、殊に容姿を顕著にして威名を歩兵隊中に鼓吹し、人望を博得せんとす。

伝習歩兵は当時熟練の名あるものなり。日々我が七連隊に来り、秋月に面謁を請う者多し。秋月これを歓待するも、多く語らず。その実語ると能わざるなり。威儀を粧い輙ち曰く、卿等の来訪を辱うするも、軍律の在るありて懇談を許さざるを遺憾とす。両国橋頭水辺の某飲食店は、予の識る所なり。行て少しく隊中の労を慰せよと、切符一葉を与う。この符は一飯三肴酒二合に相当す。
この計は頗る妙を得て、伝習隊中秋月登之助の英姿を知らざるを以て羞恥と為すに至れり。隊兵或いは他の誘惑に迷い逃走せんとするあるも、その去らんとするに当り忽ち改心して曰く、秋月隊長には背くべからずと、遂に止る。これ予の同隊に在りて実見する所なり。総野の地において投籤故あるなり。宇都宮攻城に秋月引率の伝習兵一大隊、勇奮善戦せりという(浅田某伝説)】


石黒は秋月らと一緒に脱藩したが、江戸にいる間に同士討ちに遭い負傷、若松へ直行した。宇都宮における第一大隊の奮戦を伝えたらしき、「浅田某」というのは誰だろう。
尚、「鶏肋短編〜戊辰実歴記事〜」には、秋月らの脱藩時の話や、同士討ちで命を落とした佐川主殿(官兵衛の弟)の話などもある。
コチラ


・「徳川義臣伝」の内容はかなり「?」だが、秋月の評判はよろしい。近代デジタルライブラリで閲覧可能。



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御先備甲士から幕府歩兵隊へ


・「我が公の京都守護職を命ぜらるるや、藩士の二三男以下にして弓馬槍刀の四術の免許を有する者、若くは四術を究めざるも一術に堪能なる者約二十五名を選抜し、京都常詰先備と称し扈従せしむ、後人員六十餘人となり、其の一部を割き一隊を編成せり、是伏見鳥羽にて奮戦せる佐川官兵衛別選組なり、又甲士とは諸隊に在る士分を云ふ」(会津戊辰戦史)

・「先備というのは会津藩における名誉ある選抜隊で、容保が京都守護職を命ぜられた時、藩士の二、三男以下の者で、弓馬槍刀の四芸の免許を有する者、もしくは四芸を究めてはいないとしても一芸に秀でた者を二十五名ほど選りすぐって、
京都常詰先備と称して扈従させたもので、のちには人員六十余人となった。このうちの一部を割いて編成したのが、伏見の戦いの時も絶対不敗を誇った、佐川官兵衛の率いる別選組であった。甲士というのは諸隊にいる士分(将校)である」(戊辰落日・上/綱淵謙錠)

・「以手紙申達候 御先備甲士勤之義儀、重き御主意を以被仰付、格別在勤並之御取扱に有之、欠目等有之節は早速本役被仰付候に付、格別に引立罷在候所、此節に至候ては、賀陽宮様二條様へ御被遣残居候本勤之者拾三人外無之、其余は不残介添之子弟仮役被仰付置、定不定之介添にては引立可励様も無之、御用心筋之儀は次第々々に御手置に相成、一統安心不仕、此節於御警衛大切之者共気向不引立様にては、甚以御為ならざる事に有之、尤此度壱番部下交代被仰付候わゞ、別に被差替候子弟も有御座間敷、且御近衛別而大切成事に御座候間、先達て申達置候人別之者、多分戦争以来永々仮役をも被仰付被下度旨御供番頭申出候、右人備之儀に付ては度々演達も有之候得共、先づ以見合置候所、追々申出候趣も有之、尹宮様(←賀陽宮)二條様へ御被遣候者共も大に御用弁致居、御先約御引戻与申都合にも相至兼、既に此間御東下之儀被仰出候節も、右之者共御警衛随一之組に候間、御供被仰付候様歎願申出候得共、御先方之御都合も有之、御供被仰付都合にて、いつ御返に相成候与申見詰も無之儀に候間、夫々被仰付候外有之間敷哉、依て是迄御貸被遣候者共丈け人員は多く相成候様には候得共、追て御返しに相成候わゞ欠捨に被仰付候、其筋より申出候別紙人別之者共、文武之芸相嗜永々仮役をも被仰付置、御警衛繁多之所出精宜相勤格別成者之由に候間、可相成は右之者共本勤に被仰付可然哉、尤右人数之内嫡子之噂有之候得共、是迄之振相も有之候間、於其表子弟内壱人被及吟味可然哉に申相談〜」(幕末会津藩往復文書)

・「京都日新館にまなぶ学生たちより、十七、八歳以上二十二、三歳までの者百人を選んで、『諸生組』と命名。さらに士分の者の介添その他として上京しているそれ以上の年齢の者たちの中から、弓馬刀槍のうち少なくとも二芸に免許を得ている者を選抜してひと組を編成することにしたのである」(鬼官兵衛烈風録[別選組誕生]/中村彰彦)

・「元治元年長州の藩兵京師に襲来せし以来、攘夷討幕を唱うるもの益多きを加え、天下騒然将に大乱の起らんとするものゝ如し、殊に京師再び騒擾の巷とならんとす、守護の職を尽すは元も至難たり。是に於て藩士の子弟にして弓馬槍刀の内二芸の免許を得たるものを選んで別選隊と號す。公(←容保)隊長其人を獲るに苦しむ、宰臣皆曰官兵衛武を好みて胆略あり用ゆべきなり、公乃ち君(←佐川官兵衛)をして之に長たらしめ学校奉行故の如し、公外出の時或は隊士を以て供奉列外の警衛に当らしむ。又学校書生を編成して書生組と称し、以て緩急に備う。公又君をして之を統率せしむ。(中略)君、洋式練兵の法を好まず、隊士も亦た固有の武術を研究し、洋式に做うことを厭う」(佐川官兵衛君之伝/高木盛之助供述・佐川直諒筆記)

・(鳥羽伏見戦)「別選組の編成次の如し、隊長番頭格兼学校奉行佐川官兵衛、組頭二名、依田源治小櫃守左衛門甲士凡そ四十名、外に変を聞いて登京せし江戸の書生三十名、計七十餘名なり、此の隊は鉄砲を有せる者甚だ少く多くはを携へたるのみなりき」(会津戊辰戦史)

・(鳥羽伏見戦)「正月五日黎明に京軍淀城を攻む。東軍淀橋を隔て防戦す。京軍河岸より砲撃す。瀧川充太郎、大川庄次郎引率の伝習隊能く戦う。此時陸軍奉行竹中丹後守の号令全隊に行渡らず諸隊共指図役頭取の見込にて攻撃防禦を為す。此の戦争中會藩の一隊に鎗刀組と云あり。切込隊にして隊長は佐川官兵衛なり(中略)東軍の一隊凡三丁程も退くとき、會藩の切込隊左右より顕われ京軍の中央に突入り、右往左往に切り立て突き立て其働き電光の閃めくが如し。京軍大に辟易し隊伍を乱す。其挙に乗じ東軍の一隊は正面より返し烈しく銃撃す。會藩の砲隊は左翼より砲撃し、京軍は大敗し、桃山の方に逃走す。此時會藩の鎗先にかかりし者実に無数なり。鎗隊の者は重なる敵士の首二三個ずつを鎗に貫き、敵の迯るを尾撃して進行したり」(戊辰の夢―旧幕府)

・「千両松でも激戦が展開された。別選組は芦の茂みに潜んで狙撃戦を行った後、槍をふるって突撃に移った。しかしここでも次第に銃砲対刀槍の差があらわれた。鬼官兵衛も右眼を負傷し、別選組の大半は戦死してしまう」(新選組全史/中村彰彦)

・(1月6日、鳥羽伏見に敗れて大阪城に戻った日)
「此の日橋本の戦ひ利あらず、全軍守口に退くや大阪城中大に騒擾す、且幕兵萎靡して振はず、是に於て
幕府佐川官兵衛を歩兵頭竝雇に、望月新平、井口源五等四五人を歩兵指図役頭取竝雇に、其の他別選組士を歩兵指図役竝雇に命ず」(会津戊辰戦史)

「然るに幕兵共は気臆し一向振わず。依って幕府より佐川官兵衛歩兵頭並に御雇、望月新平・井口源吾・金田百太郎等四五人歩兵指図役頭取並々御雇、其他別撰組之者とも歩兵指図役並に御雇仰せ付けられる」(鳥羽へ御使並大坂引揚の一件/浅羽忠之助)

・「我が藩の
先備甲士勤佐川主殿、同石黒恒松、内田(工藤)衛守、江上太郎、昌平校の学生米澤昌平、小姓簗瀬克吉、同原直鐵等七人藩庁の諒解を得て脱藩の形式を取り、如何なる手蔓にてか西丸に於て歩兵指図役竝に任ぜられ歩兵第七聯隊附を命ぜらる。聯隊長は朝比奈一にして歩兵頭・米田桂次郎之が副たり。営所は我が藩の和田倉内の旧邸なれども、市中取締を命ぜられたるにより、分屯所を呉服橋外堀端の空商店に設けたり」(会津戊辰戦史)

・「会津戊辰戦史」の文面だと御先備甲士は長男は除外という事になり、「江上又八嫡男」と伝えられている秋月の出生がナゾになってしまうが、石黒恒松の手記によれば、先備は二、三男云々ではなく「藩士目見以上の嫡子を除きたる子弟にして」とだけある。ここで言う「目見」とは、「独礼御目見(どくれいおめみえ)=藩主と一人で謁見することができる班席」の事か?(でも、『諸氏系譜』では江上家は独礼以上だったような?)

「幕末会津藩往復文書」の手紙は、御先備甲士の不足問題。何人かずつ尹宮と二条関白の元へ警護に貸し出され、13人しか残っていない為、それまで仮役だった者を本勤務にして増員したいが、どうやら長男が混ざっているらしいので相談したい―という内容だと思う。差出人は西郷勇左衛門・北原采女・神保内蔵助・田中土佐、宛名は高橋外記・一瀬要人・萱野権兵衛等8人で、別紙が6通あった模様。
長男と二・三男については、別文書の中に「御上京以来
子弟二三男之類御先備甲士勤或は大砲組御雇勤等被仰付、夫々御引立被下候儀に候得共、爰元に罷在候嫡子之分は為差御用をも不被仰付と申にては、一統励を失兼々御世話有之候士気更張之道にも相至兼候儀に付、人柄芸術相嗜往々御用にも可相立者、稀々には相応御場所へ被召仕候わゞ、自然士気更張人柄を被為得候ためにも可然哉之吟味候処〜」とある。これは代官見習に関する文書だが、御先備も、次第に長男でも任命されるようになったのではなかろうか。

・「慶応年間会津藩士人名録」にある、最初の25人と思われる先備甲士名簿に入っているのは、佐川主殿(又三郎)と内田(←名簿にある内田勝守というのは、衛守の間違いだと思う)。二人とも、尹宮の警護に貸し出されていた。

・佐川官兵衛が率いた別選組メンバーについては、詳細不明。星亮一氏は歴史群像シリーズ39「会津戦争」で、佐川・石黒・内田・江上を‘別選隊に所属’としているが、石黒の手記に「別選組」という言葉はどこにも無い。彼らが別選組だったとすれば、鳥羽伏見戦時から幕府歩兵隊とはつながりができていた事になるのだけれど―。
尚、「稽徴録」には『(1月)二日 丸山(鉄之丞)・町田(伝八)隊・
御先備甲士御雇・同御徒御雇は、大阪薩邸打払候手配を以〜』、「会津戊辰戦史」には『三日の夜半、幕将天野加賀守及び塙健次郎・吉田直次郎等歩兵を率い、大砲二門を曳かしめ薩邸に向う。我が陣将家老上田学太夫・丸山鎮之丞・江戸学校奉行町田傳八、隊兵を率いて従う』、「会津松平家譜」には『(4日)内府、天野加賀守及び我藩士に命じて、大坂の薩邸を討たしむ』とある。幕府撒兵頭・天野加賀守(後の草風隊長)は、この時撒兵9小隊を率いていた。塙・吉田は幕府砲兵隊の指揮官らしい。
御先備関係者と別選組佐川隊で名前がわかる人は→コチラ

・伝習第一大隊参謀の米澤昌平と、日光口から合流する浮州七郎は共に昌平校の学生で友人。浮州は「吾に益者三友あり。永岡久茂の智、米澤昌平の直、高木友之進の勇、是れなり。吾、平生之を慕ふて及ぶ能はず」と、常に言っていた(孤忠録)。永岡も昌平校にいた人。浮州と米沢は、慶応2年に一度上京。「幕末会津藩往復文書」の『鞍馬口御屋敷学校新規創業御引立之者被賞候こと』の中に、「素読所勤仮役」として名が並んでいる。

二人はその後江戸に戻るが、鳥羽伏見戦が勃発した際に、永岡と一緒に大阪に駆け付けている。これは、「松の落葉抄録」によれば『京師変起る、(江戸)学校奉行・町田傳八、藩邸内外の
諸生を集めて一隊を編成し、名づけて江戸大砲隊という、一行七十人。十二月十七日江戸を発し、昼夜兼行大阪に赴く。戊辰正月六日、西軍と橋本に戦う、初陣にして後殿なりしなり』で、「会津戊辰戦史」の『外に変を聞いて登京せし江戸の書生』を含むもの。隊には永岡・浮州・米澤・水島純・北原雅長等の他、後に純義隊差図役として脱走する服部武太郎・齋藤友記・秋山虎四郎もいた。
江戸大砲隊の人員は→
コチラ

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秋月VS大鳥


・宇都宮城に全軍が入城した4月20日
「前軍隊は昨日宇都宮落城被致、味方一同二里程引揚、今日城入致参する処、中軍隊不残城入致し、是に依て第一頭
秋月登之助、大鳥圭介加藤平内、右三人ニテ席順を争フ事」(野奥戦争日記)

・4月24日か25日
「此役に得所の金四万両、米穀皆捨ツ。従是前軍宇都宮城を抜き携る處の金を以、諸兵に分配せん事を、秋月登之助大鳥圭介に議す、然るに第二伝習士官者大鳥氏に云て曰、今兵士毎戦利を得、鋭勢常に有りと雖とも亦情慢の兆見ゆ、今如斯驕兵に授に、金子等を似せば、この驕兵をして猶驕を盆さしむ、此實に危謀也、於是大鳥氏分配の事を止む、
是兵士困弊離散するの基也、(中略)終に得處の金穀、却て敵の有と為し、敵の用に供するに至るは、天運不得止事なり」(慶応兵謀秘録/田中恵親)

・その後
「先任将校と雖も他隊に命令する権なく、且
大鳥は脱走軍の総督なれども我が藩兵に對して命令権あらざれば、南口(日光口)の東軍は不統一の感ありき。山川が陣将として南口に出陣するや、●外の任を受け我が藩兵を統率し、又我が藩士の脱走軍に在る者江上太郎、内田(工藤)衛守、牧原文吾の輩動もすれば大鳥を凌ぐの言動あり、因て改めて大鳥を推して総督とし、山川は副総督として大鳥を佐く」(会津戊辰戦史)

・宇都宮城で席順を争ったという秋月と大鳥、それに御料兵隊長の加藤平内(元御使番→歩兵頭または頭並。3641石の旗本)。争いの結果が書かれていないのが残念。

・秋月等の‘大鳥を凌ぐ言動’の詳細は不明だが、市川から快進撃したあげく宇都宮城を落したのだから、その自負も大きかったのだろう。御先備トリオ、血の気多そう。

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会津へ


宇都宮から会津へ敗走した際、まっすぐ会津領内へ向った秋月を、桑名藩の
町田老之丞(立見鑑三郎の兄)はその手記で
「伝習第一大隊の秋月登之助も一番に逃げ入りければ、一隊ことごとく瓦解す。只勇気不撓不屈は大鳥圭介殿一人なり」(桑名藩戊辰戦記/郡義武)
と、けなすと同時に大鳥を誉めたようだが、この時、宇都宮城を守る事は不可能だと悟った幕軍は
「大鳥と秋月と二軍に分れ、一は傷者を護し一は殿戦をして夜に入り退城す」(会津藩大砲隊戊辰戦記)。
負傷者と共に会津へ向った秋月は、田島にいる父の元で大鳥軍を迎える為の準備の他、何らかの策を巡らせていたのではないだろうか(田島までは宇都宮で負傷した土方も一緒であり、彼は「当所にて有故秋月公と別れ」(島田魁日記)会津若松へ向った)。秋月・土方と共に田島&会津若松に向った人数等の詳細ははっきりしない。

23日の秋月の負傷については、
「第一隊長秋月
大玉に横腹をかすり傷を負」(谷口四郎兵衛日記)
「分隊長秋月登之助、
破烈弾の散丸にて脇腹を創し〜」(夢之桟奥羽日記)
「秋月登之助は
西門前にて厳敷打合しに、味方次第に迯足と成て、其身も乱玉に打れて手を負」(野州奥羽戦争日記)
等とある。

↑今市の中心部で119号(日光街道)と121号(会津西街道=下野街道)が交わるところ。これのちょっと手前の道の入口には、右の案内柱が立っている。


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