秋月登之助 2

土方の刀


・平成16(2004)年4月3日〜5月23日、江戸東京博物館で開催の「新選組!」展で『土方歳三所用 刀 銘 大和守源秀国』(個人蔵)として展示されていた刀身。そこに、秋月の名が刻まれていた。

 表  大和守源秀國 秋月種明懇望帯之
  
 裏    幕府侍土方義豊戦刀
   
 慶応二年八月日 秋月君譲請高橋忠守帯之
   
     
(↑刻まれた縦書きの文字を横にすると、こんな配置&サイズ)

・土方と関わりのあった人物で「秋月種明」という名の持ち主については、今の所一人しか知らない。「会津戊辰戦争史料集」の『辰之日記草稿』に1ケ所だけ諱が出て来る秋月登之助である。同書の5月11〜12日の所に「当隊長は秋月登之助種明なりしが、此節病を患いて出歩せず」とある。土方の刀に刻まれた種明がこの秋月の事を指すのかどうかは定かでないが、可能性は高いのではなかろうか(江上家は、諱に種の字が付くようである)。

・秀国は会津藩お抱え刀工。赤文字部分は後から刻まれたものらしいが、「幕府侍土方〜」の一文は、先に刻まれた青文字部分と同様にやや文字が大きい。刃長は77.5cmと書いてあった。

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宇都宮後


・「圭介等三王峠を越て会津の山川大蔵に会し、兵を談じて共に田島に赴きけり。是より先、秋月登之助等別に脱兵を率いて、
板室三斗小屋に戦て利あらず。閏四月二日、大田原城を襲ふて抜きたりしに、城主大田原銓丸は、既に逃走の後なりけり。東軍城を得たれども、敵中に在るの孤城にして、寡兵の守り得べきならねば、城に火して退きけり」(七年史/北原雅長)

・板室布陣から会津若松召還に関する事として
「秋月登之助と板室の名主・室井家(一井屋旅館)の娘の
恋愛物語が地元に語り伝えられているが、これも悲恋に終ったわけである」(明治百年野州外史/下野新聞社)

・8月21日母成峠にて、己が率いる伝習第一大隊にいた弟が戦死。
秋月新三郎 第一大隊 差図役 廿一日 勝軍山 秋月登之助弟 元会津藩士」(救え会津〜来援の勇者たち〜/会津武家屋敷)

・板室(三斗小屋)は閏4月、大田原は5月。「七年史」で「閏四月二日」となっているのは、5月2日の誤り。
この後秋月は、「辰之日記草稿」(会津戊辰戦争史料集)によれば
に臥し、第一大隊は竹中春山の指揮で猪苗代方面に出張するも、13日に兵300余人が「頭取等と不熟合なる故に」瓦解、秋月はこれを忍び難く「病をおして」長沼に出掛けて行った。「谷口四郎兵衛日記」には、閏4月〜6月頃にかけて、秋月が「病気」で若松城下へ行った事や、「秋月病中不調あり兵隊不平」だった事等が3ケ所出て来る。

また、「谷口日記」には閏4月、秋月が病気の為田島から若松・七日町へ行って休息した際、「これまでの戦死者を調べ、東山天寧寺山中に葬る」とあるが、現在の天寧寺にはそれらしき墓所はないと思う。一体誰を葬ったのか。

・「明治百年野州外史」は今から40年近く前に出たものであり、現在でも「恋愛物語」の語り伝えが残っているかどうかは不明だが、一井屋はかつての本陣。秋月がここにいた証しとして興味深い。

・秋月新三郎の名は、「旧幕府」の『函館脱走海陸軍惣人名』(宮氏岩太郎)には「8月21日奥州将軍山に於て戦死 (伝習第一大隊)指図役 秋月新三郎」とあり。一方、会津戦後の高田で謹慎中(明治2年)に没した藩士の中にも、「十一月廿一日 病死 秋月新三郎」と同姓同名がある模様。

・「谷口四郎兵衛日記」の7月には、秋月附属として『秋月信三郎』という人あり。大砲方指図役頭取で、22日に十六橋で討死している。

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8月22日 戸ノ口原戦

・「会津勢先鋒に進む隊長は
秋月登之助、小勢ながら砲隊を三手に分けて陣につく」

・「はや滝沢坂下の軍務もととのえ、
秋月登之助どのは紺地秋の名月明らかにあらわれたる旗印押立、早馬にて夜に入り強清水村先わが陣屋まで駆け付けらる」(ともに慶応戊辰見聞誌-「戸ノ口原の戦い」)

・戸ノ口原の戦闘は、22日夕方に十六橋が破られると共に開始。23日早朝に激戦となるも、主力部隊がほとんど国境に出払っており、寄せ集め集団でしかなかった会津軍は敗退した。同史料では、この時の戸ノ口原周辺の布陣の中に「公兵」=幕兵がいくつか登場、「公兵第一大隊三方に並び、歩兵農兵加勢として進む。この手の旗印は東照大権現と書きたる旗」「笹山村へ詰めている隊は青龍の正隊と公兵の早(草)風隊、戸ノ口原にて戦争が始まれば横合いより砲発の手はずで、夜に入り人知れず山の半ばに陣を取る」「東照大権現と白地に墨痕あざやかな大旗を押立てて強清水村に備えているのは、江戸脱走旗本隊並びに歩兵組。強清水下の村へ詰め掛けているのは、長岡の隊と桑名隊の合体である」等とある。

・また、同書によれば、この時秋月隊から斥候を出したところ、敵がものすごい人数である事が判明。700名位の現在の軍では防ぎきれない為、秋月は後の軍事を小隊頭に任せ、自分は500名の兵を集めるべく城下へ疾駆。しかし、「七日町下宿にあり
公兵歩兵諸藩の兵隊、頭分に自身に参り、この度の大変については味方小勢ゆえ、何分にも砲戦難儀なり。各の隊砲兵を強清水村まで進軍候よう」頼んだが、どの部隊も聞いてくれず、「秋月どのには何分にも致し方なく、今朝石筵引き揚げの人数、瀧澤町へ繰込み下宿致し居り候人数段、進軍致させ候との使いを立てられ、瀧澤町下宿に居候砲兵はようやく百五十人ばかり、七日町下宿の人数は凡そ弐百人ほど、合三百五十人は衆議一決せり。此砲兵は弾薬の用意を致し、強清水原まで進軍と相なる」。さらに秋月は問屋場へ使いを立て、今日集まる予定の人足2千6百人の内、千人に竹槍を持たせて戸ノ口原へ回すよう指示。よって問屋場は大騒ぎになったという。

「辰之日記草稿」の22日には、『城中へは早飛を以て告げ追々散兵駆来て切迫の事勢を告れば、軍監君言を受け有逢兵士新撰の兵卒を促し、戸口日橋の要所へ向られたり。予輩は直に
七日町伝習隊下陣へ往くに〜』とある。

・「慶応見聞誌」の該当部分→コチラ
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8月23日 鶴ケ城


・鶴ケ城籠城が始まる時、秋月は二ノ丸(廊下橋付近)で目撃されている。
「此所にて秋月登之介(助)
馬上にてぬき身をふり廻し、君恩を奉じたてまつるは此時成べし、婦人共は内へ入り、男子は出て戦うべし、と、大音声にかけ廻り申候。此秋月は池(江)上又八倅なり、是は八月廿三日事成」(戊辰後雑記/間瀬みつ―会津戊辰戦争史料集)

・「お城のお廊下橋までまいりますと、入城者が沢山集まってをります門の前には、武士が抜刀で、『たとひお女中たりとも卑怯な事は許しませぬぞ』と声高く叫んでをります」(男装して会津城に入りたる当時の苦心/新島八重子―同上)

・新島八重子の記述にある「武士」は秋月であったと解説されている。母成も戸ノ口原も守り切れず城下に敵を入れてしまった事で、相当ブチ切れていたのだろう。文字通り、死に物狂いだったんじゃなかろうか。
この二ノ丸での秋月は、宇都宮城を攻め落とした事よりも何よりも有名である。


(↑桜の向こうに廊下橋)

・23日以降の秋月に関しては、「谷口四郎兵衛日記」に『秋月登之介、廿三日以後高橋巳之介に分れ籠城し、後逢て第一敗走を集めて川添誠之介へ長の代りとし、秋月登之介籠城の後、第一残兵川添小野寺其外共尽力して直に出発す』という記述があり、兵と別れて籠城した事がわかるが、その後は不明。「天極記」には、西郷頼母が城を出る際、秋月が150両を渡したという話がある。

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叔父殿

「大砲白井隊士
 正月五日鳥、傷、紀州  
又八弟 江上四郎 四十二」(明治戊辰殉難名簿/会津弔霊義会)

←京都・金戒光明寺の会津藩墓地に建つ、鳥羽伏見戦での戦死者慰霊碑。左から2番目にある江上又四郎というのがたぶん叔父殿。この碑には、佐川官兵衛の下の弟・又四郎の名も刻まれている。

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・秋月の叔父にあたる江上四郎は、鳥羽伏見の戦いで傷を負い、その後亡くなった。江上四郎が大砲奉行・白井五郎太夫の隊の甲士であった事は、「会津藩大砲隊戊辰戦記」(会津戊辰戦争史料集)等に記されている。

・「明治元年正月 会津藩大阪脱出経緯資料」(提供:和歌山県警資料編纂室)によれば、江上四郎の墓は和歌山市紀三井寺の普門院というお寺にある。「江上四良」と刻まれた墓石と、「江上四郎」の過去帳の様子は次の通り。

墓石正面:会津藩中 江上四良之墓
正面右側:慶応四辰正月一三日
正面左側:去五日城州鳥羽○○之為
       砲丸負疵経時日没

過去帳:正月一三日
      実心院貞室光山居士
      奥州会津藩士 江上四郎
      伏見戦争ニ負傷 正月七日当院ニ入リ一三日没

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墓所 会津若松市 臨済宗 興徳寺


法名:大心院義翁宗鉄居士

・墓誌は次の通り。
三原酉五郎 明治32年1月6日 行年62才
妻ナミ(旧姓江上) 大正7年11月7日
秋月登之助 明治18年1月6日 行年44才
秋月清種 明治40年4月2日
(この後三原姓が4人続く 明治34〜45年没)
江上又八大蔵種順 行年59才
江上又八妻清齋藤早人娘 行歳36才

(更に三原姓が4人続く 昭和7〜26年没)


「要略 諸士系譜」にある、江上家の替紋『十六符裏菊』。定紋は『鬼菱』。
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・原田・秋月・三原家の合祀。「原田家は幕末会津藩家老職である」と案内柱にあったが、詳細は調べていないのでわからない。が、江上家を遡ると、秋月から数えて5代前に原田政信という人がいる。江上家の系図は(たぶん)下記の通り。

江上又四郎家種→江上隼人種勝→江上隼人種弼→江上隼人種孝→原田政信→江上市左衛門種央→江上織之進種重→江上又八種徳(種穂?)→江上又八種順(秋月の父)

原田政信は3代種弼の弟。4代種孝の病死後、直系がなかったことからこの人が跡目を継いだと「悲劇の会津人」にある。また、「会津藩教育考」によれば下記の通り。宝蔵院流の鎗は、十文字鎗。

「父は江上隼人諱は種弼、母は龍造寺氏。政信少うして本多侯忠義の臣、龍造寺主膳の後を嗣ぎ龍造寺氏を●す。政信性慈仁にして禅学を修む。また心を武術に委ね、吉田流の射術一刀流の剣術に長じ、また馬術に達す。龍造寺氏を●すに及びて、高田吉治四世の後竹内勝辰に従
宝蔵院流高田派槍術を学ぶ。延宝年中侯家断絶せしかば、政信四方を遊歴して会津に帰る。寔に元文元年なり。是より原田氏を称す。江上氏は漢の劉氏の餘裔にして原田氏と同族なるを以てなり。政信諸士のために槍術指南す。即ち我が藩高田派の祖なり」

・会津弔霊義会の「戊辰殉難名簿」に、
     朱四士町野隊半隊頭
原田主馬弟
            9月15日堰、花坂  
秋月新十郎(22)
という記載がある。原田主馬(原田対馬/800石の息子)は大田原城攻めで秋月と共に戦った人。秋月の従弟らしい。(「野史台維新史料叢書」の『会津藩戦争日記 朱雀四番士中組戦争調書』によれば、同じ日に秋月新六郎という人が負傷している。誰だろう…)

・秋月は戊辰戦争時は26才前後。母はずいぶん早くに亡くなっている。

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父・江上又八


【御蔵入奉行
江上又八仁政御憐愍之事】(「大略会津降伏軍記録」/田島町史)

田島御陣屋詰合御蔵入奉行江上又八と申御方は、先年は田島御代官を御勤被成、夫より御立身御役替ありて、御勘定頭を御勤被成、又々御役替にて御蔵入奉行として永々田島御陣屋詰御勤被成候処、三月以来国元騒々敷相成候後は、御蔵入境所々口々へ御固めの御人数御繰出しに相成候い付ても、諸事御差配被成候て、何廉(かと)御心配被成候段、中々言語にも難渋筆紙にも尽しがたき御心労被成候処、

八月廿二三日頃、官軍勢大人数にて押寄せ、石むしろ口討破れ、官軍勢会津若松へ切入候取沙汰相聞え候に付、御蔵入より他邦境高原口・栗山口・塩原口・桧枝岐口・三斗小屋口何れも引取りに相成候に付、藤原より高原通り上三依迄は、不残焼払に相成候由、塩原辺も焼払の様子に相聞え候に付、

田島辺迚(とて)も御引取に相成候節は、定て焼払に可相成と覚悟いたし、力を落し居候処、最早高原口よりも官軍勢大人数にて繰込に相成候取沙汰相聞へ候に付、同廿二三日頃より御引取の御人数絶間なく御通り被成候に付、田島の義は別而御休泊も多く、御継立の人馬にも差支旁々困入候処、御人数の御宿いたし居候得ば、家々の諸道具取片附候事もならずに今にも焼払に相成候はゞ、何壱つ無残焼払に可相成と歎居候処、

江上又八様被仰候には、決而当村抔兵火の気遣等無之候間、折角御引取の御人数を大切に、御継立可致旨被仰候得共、何となく兵火の愁気遣敷、手廻し能き家々にては、段々近村又は山合抔へ小屋を掛取片附候処、官軍勢間近く繰込、横川口も相破れ候様に相成候に付、皆々家々にても取片附、彌横川口も御引取に相成候時、

又々
江上様被仰候には、春中以来村役人共始、戸前末々に至迄臨時の御用情々いたし相勤候に付ては厚く手当も可致筈之処、其義に不能、嘸々(さぞさぞ)無本意思可申候得共、此形勢に相成候ては如何様にも致方無之候間、最早横川口も相破れ、御人数御引取にも相成候はゞ、我々始詰合の役人共陣屋に残防戦いたし候はゞ、官軍方より陣屋へ火をかけ申間敷ものにもあらず、

左候はゞ村方迚も焼失いたし候様に相成候哉も難計候に付、我々も会津の人数大勢固め居候処迄引取候積りに候間、今にも官軍勢御繰込に相成候はゞ、御叮嚀に御取扱申候て、聊(いささか)御不礼等無之様、小前末々迄心を附候様、
涙を流し御教解(誡)被成候こそ、誠に難有御上意なりと皆々涙にくれにけり。

此節、江上又八様御陣屋御詰合に無御座候はゞ、田島抔は無残も焼失いたすべき処、江上様何廉御心配被成下候故、兵火の大難をのがれしと、心ある人々は江上様御仁政の御取扱を難有事どもなりとぞ申けり。

八月廿六日には、三斗小屋口よりも官軍勢繰込候取沙汰有之、野際・杉の沢辺も焼失し、彌横川口も討破れ、横川村も不残焼払、山王茶屋・氏山辺は焼払に相成候得共、糸沢より川島・田島、夫より大内迄は焼払にも不成して、何れも是を悦びけり。
八月廿七日・廿八日頃迄に、口々御固めの御人数も御引取に相成候に付、田島御陣屋御詰合の御役人様方も、八月廿九日の朝迄に
名残おしげに泣々も御立退に相成しは、何にたとえん様もなく哀なりける事どもなり。

・秋月の父である江上又八は「田島代官」とされるが、その後「勘定頭」→「御蔵入奉行」となった模様。(江戸時代、田島を含む南山御蔵入領=幕府領は、幕府の直支配と、会津藩による預り支配を交互に4度繰返したが、その合計220年間中の175年間は、会津藩の預り支配という)
↑の「大略会津降伏軍記録」には、何かと田島の人々を気遣った江上奉行の、8月末の‘御仁政’が記録されており、その人柄が忍ばれる。田島を戦火から守り若松へ撤収した江上は鶴ケ城籠城戦で負傷し、降伏後は南御山村(間瀬みつ「戊辰後雑記」によれば、同村肝入の小林藤吾宅)で療養したという。


(田島陣屋跡)


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