その他の藩士 1

相馬孫市 (諸生組頭)


【素哉日記】(相馬直登幸胤)

一、同年壬四月朔日、長男孫市(当時大目付日向隊附属)義、去月廿三日宇都宮戦争の節討死候由申来、不便の至り思召され此旨家老へ可被申聞候 以上(諸生組隊長たり。子恒彦当時二歳)

一、同年壬四月廿二日、孫市
宇都宮表戦争の砌、奮戦致討死候段
宰相様被聞思召、家族の者嘸(さぞ)可致愁傷、依て御香奠として銀子拾枚外に思召を以て菓子一折下され候
殿様被聞思召深く御悼被思召、家族の者嘸可致愁傷、依て御香奠として金四拾貳枚被下候
 右御使者御供番・新妻藤吾を以て下し被置候事
(鶴ケ城 松の滴会津精神/相馬敬止)

孫市戦死にまつわる父・相馬直登(御用所密事頭取・220石)の日記。父の元に凶報が届いたのは閏4月1日で、同22日に容保父子から香典が下されている。孫市は4月23日に宇都宮で戦死となっているが、同書にある恒彦の義弟・相馬敬止(孫市の甥)の一文では、「孫市は戊辰の役の際諸生組の隊長として宇都宮に進撃し、弾丸に当って重傷を負い、今市附近に来て討死した」とあり、葬られたらしき日光・観音寺の過去帳では没日は22日とされている。同寺での戒名は義玄忠清居士。

(敬止の母は直登の三女で孫市の妹・あぐり=後にマサ(戊辰時14才)。孫市の長男・恒彦が2才の幼児だった為にマサが婿(大原英治)を取って相馬家を継ぎ、恒彦を長男として育てた。マサと婿の間に生まれたのが敬止で恒彦はイトコに当るが、戸籍上は兄弟)

孫市率いる諸生組が日向隊に附属していたという話は「会津藩大砲隊戊辰戦記」等には出て来ないが、宇都宮の六道辻の戦死墓に埋葬されたとされる会津藩士の内、姓名が判明している23日の日向隊殉難者の中には、砲兵隊士に混ざって「諸生組頭 相馬孫一(←市)」とある。諸生組の人数や孫市以外の戦死者等は不明(「戊辰殉難名簿」に『諸生組 相馬孫市隊』として載っているのは、8月22日に勝軍山で戦死した柿田又三郎ただ一人)。
また、「会津戊辰戦史」の3〜4月には、『今市付近の村落に分屯す』の会津藩隊の中に、
日向隊他と共に『相馬孫市の諸生隊』と記され、同閏4月には、『此の頃南口に在りたる我が軍隊は、田中蔵人の士中朱雀二番隊、日向内記砲兵一番隊諸生組〔相馬孫市戦死後より此の比隊長なし〕、原平太夫の足軽朱雀二番隊等なりしが〜』とある。

父・直登の妹トイ(40才)は8月23日、米代三の丁の自邸で自刃、娘=左金吾の姉妹は25日大曲で被弾して死去。殉難名簿によれば、直登家来の木村直衛という人が6月12日に白河で戦死している(41才)。直登の墓は、喜多方市の安勝寺にあり。

【会津会々報76号 「百一歳の相馬恒彦翁」より抜粋】

翁の父孫市は、相馬(←恒彦)さんの記録によれば「慶応二年十二月江川太郎左衛門の塾に入り歩兵運動修業を仰付けられ、翌三年七月、成業帰国。同四年諸生組々頭仰付けられ宇都宮に出陣、四月二十三日同城に於て戦死。宰相様より銀子十枚、菓子一折、殿様より金四両二分下さる」とあるから、相馬さんが二才の時お父さんが戦死してしまった。それで父の妹(叔母)相馬マサの養子となって育てられた。

昭和42年時に101才で存命だった恒彦(慶応3年1月15日生まれ)を取り上げた会津会々報の記事。孫市が慶応3年7月に帰国してから翌4年4月に戦死するまでの動向は不明。

米澤昌平


【幕末会津志士傅 一名孤忠録】(広沢安宅)

米澤昌平、人と為り品行方正にして自ら省みて疚(やま)しからざるを以て己の本分となす。少壮より篤学を以て擢でられ、江戸に遊学す。慶応二年、藩老内藤介右衛門の上京するや、顧問の士を物色す。昌平其の選に当り共に上京す。昌平屡々(るる)説く所あるも、介右衛門用いる能わず、数月ならざるに昌平辞して江戸に回る。三年冬政局一変、京師其の急を告ぐ。昌平書巻を抛(なげうっ)て之に赴く。時に慶応四年正月五日、大阪に至れば則ち我敗兵陸続として来る。因て八幡の関門に止まり、浮州七郎永岡久茂等と共に防御策を講せしも、士気沮喪して戦意なく僅かに新鋭の兵を率いて防戦す。然るに山崎に陣せる藤堂藩変心して我が後を砲撃す。我軍乱れて支持する能わず、遂に退却せり。

昌平は恨を呑んで江戸に帰り、有志と共に大に幕兵を鼓舞し再挙せんと欲せしが、勝安房等の非戦論に妨げられ意を果さず。昌平大に憤慨し、彼らを斬て士気を奮興せんと欲し、若し当時広沢安任氏の昌平を抑制する微かりせば、安房の安危科るべからざりしなり。後、大鳥圭介に招かれ其の幕僚となる。四月廿三日、野州安塚に戦いて利あらず。昌平独り留まり敵営に火せんとして果さず、敵の狙撃に逢て死す。行年二十有九。

著者曰く、嘗て昌平の談によれば、勝安房を訪い国事を談せんと欲すれども、彼れ真意を語らざるのみならず、窃かに疑を西軍に通ずるものあるが如し、依て先ず此の売国奴を除かずんばあるべからずと思惟したり。然れども広沢安任先生は彼としばしば会合し居るが故に、先ず其の意を問わんと欲し訪て之を語る。先生曰く、彼は決して売国奴に非ず、誤り害(そこな)うが如き事あるべからずと。是に依て一時中止したりと云う。

文久元年、昌平校に入学。京都鞍馬口屋敷に学校を新設する際には「素読所勤仮役」で、「一瀬伝五郎組 軍治分限 淳八倅 米沢昌平」とある(米沢軍治の息子は軍吉。京都で大砲組当座御雇に名あり)。「会津藩教育考」の『市村学事』によれば、淳八は宗川茂(儀八郎/儒者)と並び、すぐれた教育者であった模様↓

「内師と称いしものあり。勤務あるものその余暇他の嘱托に応じ教授せしなり。近世に至て学問は杉原外之助、三橋作之進、書学は藤沢内蔵丞、山本常治が如きこれにして、また部屋住にて教授せし米澤淳八、宗川義八郎の如き徒弟最も多く、その功績もまた偉大なるものなりき」
「教授者にして教授上大なる功績あるものは賞誉せらるゝあり。即ち米澤淳八が二口俸を賜わりしが如きなり」

父の名は、明治44年の加藤長四郎編「会津藩戦死殉難者人名録」にも『淳八男 米沢昌平 二九』とあるが、昭和2年の山川健次郎編「校訂戊辰殉難名簿」では削除され、以後、同12年佐瀬剛編、同53年会津弔霊義会編でも書かれていない。

【松の落葉(抄)】(松田精介の随筆)

京師のいくさ破れて、一行紀州落のとき、泉州の海辺をとおりしに、白沙青松画がくがごとく、ちぬの海淡路絵島紀の海までも見えたり見えたりと謡曲の文句のごとくにして、其風景の絶佳なる筆にも尽しがたき処なりき。一行中、
米澤昌平浮州七郎・北原雅長の諸先輩うち集い歎賞のおり、米澤氏が
  よのつねの旅路なりせはふりすてゝ ゆかれむものか磯の松原
実にこのとおりにて夢寐に髣髴たり、歌はとも角実況にこそ。


【東征記】(片岡健吉旧蔵)

(安塚戦)激戦十時頃に至る。刀を揮て賊を斬る者亦多し、賊遂に潰ゆ。我兵閧して之を逐う。因の河田佐久間も兵を率い来り、我兵と共に追撃、幕田に至る。時に一賊あり、我追兵に混し、大石俐左衛門が近づくを顧みて発射す。俐左衛門重傷を得たり。第二番隊小畑五郎之を見、を揮い馳て之を斃す。賊西川田を放火して遁去る。

徳久時治遊学せし此会藩米沢舛平なるものを知る。今其面貌頗る類すと雖ども、嘗て見しときは元服なりしに、今総髪なるは不審なり。懐中に姓名有やと問へば、五郎日閲せずして棄り、此を距る数十歩偶雨甚して行を果さず。故に信否知るべからず。出会せしは前年十月此なり。

米澤の事らしき土佐藩の記録。これが本当に米澤だとしたら、彼は撃たれたのではなく斬られて死んだ事になる。

浮州七郎


【幕末会津志士傅 一名孤忠録】(広沢安宅)

浮州七郎は会津藩士なり。夙に藩校日新館に入りて学ぶ。篤学且つ優等たるの故を以て擢んでられて、江戸昌平校に遊学を命ぜらる。七郎資性豪宕にして旧習に拘泥せず、是を以て往々儕輩(さいはい=仲間)に忌まる(憎み避けられた)。慶応二年、藩老梶原平馬命を奉じて京都に上るに際し、其の顧問たるべき名士を物色す。七郎その選に当り、興に上京す。当時京師は長兵撃攘後にして一時小康を得たり。是に因て七郎は江戸に回り、再び学に就く。慶応四年正月、伏見の役あり。七郎會々隊士と共に上京せば、戦端は既に伏見に於て開かれ、我軍敗れ残兵八幡関門に集る。七郎其の防守作を計画したるも、士気沮喪して復た収拾すべからず。加うるに、山崎に備えし藤堂藩の敵に疑を通して背面を攻撃し来るあり、遂に退軍するの止むを得ざるに到れり。既にして大坂に到れば、慶喜公は既に遁れて在らず。

米沢昌平とともに、鞍馬口学校新設の際に「素読所仮勤役」として名あり。「諏訪尚之進組 庄之助弟」となっている。

是に於て七郎江戸に帰り、函根(箱根)を東西軍の分野として決戦せんと尽力せしも行われず、因て姑く江戸に潜伏し、後、日光に遁れ大鳥圭介の軍に投じ、其の参謀となる。時に山川大蔵、会津郡田嶋に在り。四月廿一日、共に進んで日光に籠れる西軍を撃て利あらず。時に七郎は胸に貫通傷を受け歩するを得ず、大蔵之を扶け行んと欲す。然るに敵の追撃甚だ急なり、七郎は其の身の遂に免れずして而して害の大蔵に及ばんことを恐れ、叫んで曰く、速かに我首をを斬りて携え去れ、西軍の土佐兵我を知るもの多し、若し敵手に委するが如きあらば、死後の恥なりと。大蔵は暗涙を呑て首を斬りたれども、之を携うるの遑(いとま)なかりしを、畢生の遺憾とせりと云う。

七郎時に三十歳。常に曰く、吾に益者三友あり。永岡久茂の智、米澤昌平の直、高木友之進の勇、是れなり。吾平生之を慕うて及ぶ能わず、と。七郎は将来大に為すのあるの器を抱き、未だ其の機に會せずして初の一戦に斃る。友人之を聞て歎惜せざるはなしと云う。



↑会津若松・大窪山墓地内の浮州家墓域。
七郎は、
左側の一番手前。

浮州家の墓は山の入り口から遠く、ずんずん奥へ入って右上方向。途中、ずるずる滑りながら登って行く。浮州七郎の墓は、「会津先賢者の墓石を訪ねて〜大窪山編〜」(学習社)によれば浮州源四郎との合葬墓だが、裏面の文字が殆ど読み取れず、よくわからなかった。

「戊辰殉難名簿」によれば、源四郎は浮州甚助の弟、朱雀隊二士田中隊に属し、閏4月18日栃木県大原で戦死した。没年は31才。三日後に今市で亡くなった七郎は浮州庄之助の弟で、源四郎と同い年…って、この二人、どういう関係?

水島純

【水島純君】(昭和6年12月18日発行「会津会雑誌 39号」の追悼記事)

君は会津藩士にして弘化元年若松に生る、幼にして頴悟、日新館に入り、才学衆に優ぐれ、選抜せられて大学に入り、尋いて藩命を受けて江戸に出で、昌平黌に学び経学詩文に長ず。明治戊辰の役、砲兵隊長
山川浩の幕僚と為り、日光方面に出征し、旧幕大鳥圭介軍の会津に入るや、君之に応接せり。既にして山川隊の若松に入城するや、君等之を輔け奇策を以て容易に囲城の敵軍中を通過するを得たり。爾来三旬○たる孤城を以て十萬日に新たなるの大軍に対抗し、奥羽越諸藩の同盟を将に絶えんとするに繋ぎしもの、君等参画の功與かって力あり。

開城の後猪苗代に幽閉せられ、明治三年宥されて斗南に赴き、斗南藩庁の権大属と為る。五年青森県官に転じ、七年陸軍少尉兼陸軍裁判少主理に任じ、爾来陸軍の断獄を掌り、中主理、理事に遷り、大阪師団に勤務す。二十八年征清の役に従軍して功あり、勲五等に叙す。三十七年退官、正五位勲四等に累叙す。是より閑居、読書に、文筆に、優游自適残年を送り、
昭和六年九月七日歿す、享年八十八。君天性至孝、父母の疾に侍し、衣帯を解かざりしと云う。其の人に接するや温和謹厚なりと雖も、苟も道に違う者あれば、毅然として之を容るさず。君雅號を閑鴎と云い、好んで漢詩を賦し、頗る傑作多し。夫人は藩士依田氏の女名は菊子、戊辰の役十八歳にして中野竹子等の軍に加わり、薙刀を揮って涙橋に奮闘せし女丈夫の一人なり。明治四年華燭の典を挙げ、夫君の生前に於て六十年同棲の歓を迎うるに至れり。

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