|
【幕末会津志士傅 一名孤忠録】(広沢安宅)
米澤昌平、人と為り品行方正にして自ら省みて疚(やま)しからざるを以て己の本分となす。少壮より篤学を以て擢でられ、江戸に遊学す※。慶応二年、藩老内藤介右衛門の上京するや、顧問の士を物色す。昌平其の選に当り共に上京す。昌平屡々(るる)説く所あるも、介右衛門用いる能わず、数月ならざるに昌平辞して江戸に回る。三年冬政局一変、京師其の急を告ぐ。昌平書巻を抛(なげうっ)て之に赴く。時に慶応四年正月五日、大阪に至れば則ち我敗兵陸続として来る。因て八幡の関門に止まり、浮州七郎及永岡久茂等と共に防御策を講せしも、士気沮喪して戦意なく僅かに新鋭の兵を率いて防戦す。然るに山崎に陣せる藤堂藩変心して我が後を砲撃す。我軍乱れて支持する能わず、遂に退却せり。
昌平は恨を呑んで江戸に帰り、有志と共に大に幕兵を鼓舞し再挙せんと欲せしが、勝安房等の非戦論に妨げられ意を果さず。昌平大に憤慨し、彼らを斬て士気を奮興せんと欲し、若し当時広沢安任氏の昌平を抑制する微かりせば、安房の安危科るべからざりしなり。後、大鳥圭介に招かれ其の幕僚となる。四月廿三日、野州安塚に戦いて利あらず。昌平独り留まり敵営に火せんとして果さず、敵の狙撃に逢て死す。行年二十有九。
著者曰く、嘗て昌平の談によれば、勝安房を訪い国事を談せんと欲すれども、彼れ真意を語らざるのみならず、窃かに疑を西軍に通ずるものあるが如し、依て先ず此の売国奴を除かずんばあるべからずと思惟したり。然れども広沢安任先生は彼としばしば会合し居るが故に、先ず其の意を問わんと欲し訪て之を語る。先生曰く、彼は決して売国奴に非ず、誤り害(そこな)うが如き事あるべからずと。是に依て一時中止したりと云う。
※文久元年、昌平校に入学。京都鞍馬口屋敷に学校を新設する際には「素読所勤仮役」で、「一瀬伝五郎組 軍治分限 淳八倅 米沢昌平」とある(米沢軍治の息子は軍吉。京都で大砲組当座御雇に名あり)。「会津藩教育考」の『市村学事』によれば、淳八は宗川茂(儀八郎/儒者)と並び、すぐれた教育者であった模様↓
「内師と称いしものあり。勤務あるものその余暇他の嘱托に応じ教授せしなり。近世に至て学問は杉原外之助、三橋作之進、書学は藤沢内蔵丞、山本常治が如きこれにして、また部屋住にて教授せし米澤淳八、宗川義八郎の如き徒弟最も多く、その功績もまた偉大なるものなりき」
「教授者にして教授上大なる功績あるものは賞誉せらるゝあり。即ち米澤淳八が二口俸を賜わりしが如きなり」
父の名は、明治44年の加藤長四郎編「会津藩戦死殉難者人名録」にも『淳八男 米沢昌平 二九』とあるが、昭和2年の山川健次郎編「校訂戊辰殉難名簿」では削除され、以後、同12年佐瀬剛編、同53年会津弔霊義会編でも書かれていない。
【松の落葉(抄)】(松田精介の随筆)
京師のいくさ破れて、一行紀州落のとき、泉州の海辺をとおりしに、白沙青松画がくがごとく、ちぬの海淡路絵島紀の海までも見えたり見えたりと謡曲の文句のごとくにして、其風景の絶佳なる筆にも尽しがたき処なりき。一行中、米澤昌平・浮州七郎・北原雅長の諸先輩うち集い歎賞のおり、米澤氏が
よのつねの旅路なりせはふりすてゝ ゆかれむものか磯の松原
実にこのとおりにて夢寐に髣髴たり、歌はとも角実況にこそ。
【東征記】(片岡健吉旧蔵)
(安塚戦)激戦十時頃に至る。刀を揮て賊を斬る者亦多し、賊遂に潰ゆ。我兵閧して之を逐う。因の河田佐久間も兵を率い来り、我兵と共に追撃、幕田に至る。時に一賊あり、我追兵に混し、大石俐左衛門が近づくを顧みて発射す。俐左衛門重傷を得たり。第二番隊小畑五郎之を見、刀を揮い馳て之を斃す。賊西川田を放火して遁去る。
徳久時治遊学せし此会藩米沢舛平なるものを知る。今其面貌頗る類すと雖ども、嘗て見しときは元服なりしに、今総髪なるは不審なり。懐中に姓名有やと問へば、五郎日閲せずして棄り、此を距る数十歩偶雨甚して行を果さず。故に信否知るべからず。出会せしは前年十月此なり。※
※米澤の事らしき土佐藩の記録。これが本当に米澤だとしたら、彼は撃たれたのではなく斬られて死んだ事になる。
|