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【会津藩庁記録4】
以手紙申達候(中略)小池帯刀倅周吾義兼て人柄文武之芸共宜相嗜相応成者に相見候間被仰付可然依之周吾義八両四人扶持被下内壹両御役料被下御小姓被召出可然哉吟味評議之上可被申越候答之趣を以達御聴取計にて可有之候〜※
※元治元年4月19日付けの、京都→江戸→会津の文書。小池の御小姓勤めが決定される時のものらしい。
【鳥羽へ御使並大坂引揚の一件】(浅羽忠之助)
(一月)十五日午時頃にもこれあるべく、江戸へ着、和田倉御屋敷へ罷り出候処、果して簗瀬克吉、小池周吾着し到し居り、相馬、河原善左衛門の両人奥番仮役仰せ付けられ外に平番三、四人仮役仰せ付けられ罷り在り候。
簗瀬克吉、小池周吾は如何様の都合にて早速下り候哉、承り候処、大坂御城中にて御立退の趣承り追々世間も騒がしく相成り、御家老方よりも加様に相成り候ては面々に於ても尚又見込の者は申出候様申し聞かされ候へども、敢て能き評議もこれなく、仲間に於ても誠に因襲論にて、敵が奈良へ廻るか、或は彼へ廻るなどと色々浮説に動じ、右に付ては御本隊は一同になり、御供番御徒なども後になり先になり更番して打払通るより外これなしなどと一向に引立てこれなし。斯く御一騎立にて御起ちと申すなれば、君側の任に於て斯く安んじ一統と同様に致し居り候ては寸刻も安んじ難し。尤も目的遺居り、見込申立て候とて行われべき見通しもこれなく、却って思立の障に相成る儀と存じ候。
去れども尚人探り見るに、何れも同意の様子これなし。依て決心致し、内々原直鉄へは話し下宿迄参り候と申す、それより直ぐ様出起、奈良へかかり罷下り、奉行所へ立寄り候処、至って丁寧の取扱いにてこれある由申し候。(会津戊辰戦争史料集/新人物往来社)
【男爵山川先生遺稿】
純義隊 隊頭 小池周吾 本隊は主として旧幕府の歩兵より成る。只士官は概ね本藩士なりと云う。
周吾本姓は佐久、小池氏に養わる。戊辰の年変名して渡部(←渡邊)綱之助と称す。
大垣史談會編纂『奥羽征討史』下巻、八月二十六日桂林寺口進撃の事を記載し、「上略 此戦争中一人の賊兵大砲の硝煙を潜り、臺場へ進み、其脇より忍び出で、垣(大垣藩)の大砲の車臺を潜りて突然と顕われ、吾は渡邊綱之助なりと名乗り、砲手藤田彦三郎へ切り掛る、突然のこととて身をかわせしも、刀を抜く暇もなく、刀疵を被むりしかば、傍らに居りし長州兵小銃を打つ、其丸胸板に中り死したりけり。懐紙に●衣着て帰るや四方の錦時 芝蘭 右懐中に秘し、又名札も所持せり。
(中略)今日の渡邊綱之助と閏四月二十三日野州下油井村にて打ち死にの渡邊綱之助とあり。何れが正しきか不明なり」とあり。下油井村の戦争とは野際口より大田原攻撃の戦を云う。此の時渡邊綱之助戦死の風聞ありしこと「征討史」に在り、八月二十六日周吾が戦死せざりしは勿論なるが、敵中に飛び入りし風流の勇士は、何人なるか今知る可ならず。『征討史』所説より見れば、綱之助の名は相応に敵中に知れ渡り居りしものの如し。※
※閏4月の油井(板室)戦における「死 渡邊綱之助」と、8月の桂林寺口における「會兵渡邊綱之助戦死」の記事は、大垣藩関係者の手によるらしき「東山新聞」にあり。桂林寺口では「切り合いになったが相手はなかなかの手錬で、味方一人負傷。その時長州兵が銃を撃ったところ、胸板に当って死んだ。あまりに潔い振舞いだったので、懐中を探ってみたら腐敗した懐紙があり、読みづらい中にようやく「●衣(つづれ)着て帰るや四方(よも)乃錦時 芝蘭」という句をみつけた。年は廿八才とあった。この人は文武の道の志清く、あっぱれ名誉の者である」等とし、その覚悟と句について長々と讃辞を送っている。この「渡邊綱之助」と名乗った人が誰だったのかは不明。
同新聞の最終号は鶴ケ城の引渡しについてで、著者はここでも「会津藩は士卒・老人・婦女子に至るまで命を惜しむ者がなかった」と、その武勇を讃えている。
尚、長州藩・楢崎頼三「提兵日録」の8月27日に、「雨 薄暮前両度少々襲来、三番守衛の場所へ賊隊長渡辺恒之助携槍来り、台場内に来り斃る。無間大沼二郎と申賊携槍突来、台場前三四歩の地迄来り斃る」とあり。‘恒之助’は‘綱之助’事か。
【鶏肋短篇 戊辰実歴記】(石黒恒松)
既にして報あり曰く、會藩士小池周吾(江戸常詰小池帯刀の養子 佐久簑太郎二男)なる者あり、瀧川右京と変名し脱走兵五六十名を糾合し船橋八幡辺に徘徊すと。佐川(←佐川主殿)氏曰く、脱兵を誘惑して各自に小分立するは索の得たるものに非ず、懇談復帰せしめ協力一團たるに及かず、自ら行て説くべしと。
余も同行を望み、隊長の許可を得て下士一人を随い中川を渡り(中略)新宿市川を経て船橋に至り瀧川に面会を申込むも来らず。下士四條其外一人(二人共藩の徒士)来る。佐川氏小分立の不可にして期する所は一なるを以て小異を捐て大局に鑑み、協同一團たるべきことを以す。彼等合議の上復答すべきを約して立去る。待つこと約半時間再び来りて曰く、御説には賛同すと雖も、亦他に見る所もありて今遽に大城に復帰し難し、然れども時宜を察し合同すべきは論を竢たずと直に辞し去る。
余等此に一宿す、小酌中佐川氏評して曰く、彼等偏執にして大局を無視す、目下未だ敵に接近せざるに先ち合同し實力を養わずんば何を以て回復の功を奏せんと。余曰く、彼右京は余等より七八年の少者にして共に相識なり、何ぞ速かに来り将来を謀議せざるや、實践経験に乏しく只傲岸にして来たらず、途上彼が風貌を里人に聞くに、馬上に烏帽の長きを戴き長絹を服し意気昂然たりと、今みだりに邊幅を飾る、知るべし奴輩共に語るに足らざることを、再び力説するを用いずと※。
下士甲乙人等は右京に比し有為なるが如し。余は六月二十六日幕臣池田大隈春日左衛門率ゆる歩兵約二百計と江戸を脱し、品海より和船に乗り込む、風濤便ならず。七月十四日岩城領江綱と云う漁村に上陸、前日平城守を失う、此時瀧川等に邂逅す、彼等戦闘の本線たる日光白川口方面に在らずして何の故に強敵もなき支線たる濱街道にありしや、徒らに邊幅を飾るの前言を證するに似たり。同隊の下士曰く、瀧川は平落城の時烈しき砲声に戦慄驚愕し、落馬して衆の嗤笑する所となりしと云う※(上陸の時伝聞)。
※石黒の小池評は、彼の説得の為に船橋に出向いた帰路、日本橋で同士討ちに遭い佐川を失う事になったせいもあってか、かなり厳しい(というか、個人的憎悪が強いような気がする…)。
【仙台戊辰史】
(9月)十七日には誠意隊大久保七郎左衛門外四十名・伝習隊高橋随太郎外百十三人・新遊撃隊近藤隼雄外三十九人・敬身隊邊見謙作外六人・赤心隊森四郎外二人を宮床より、一連隊六人・新遊撃隊廿三人・伝習隊廿二人・敬身隊七人・赤心隊三人・誠意隊卅九人を松山より、會藩武田虎太郎・同帯刀等六人をも同所より引連来りて長州藩伊川大助に引渡し、翌十八日は新遊撃隊・開陽丸乗組扱兵方・伝習隊・彰義隊頭・彰義隊・結義隊総計三十五人、純義隊・陸軍隊・神青龍隊・伝習隊・衝鋒隊総計百三十人(中略)を集めて引渡せり、十九日には衝鋒隊百四十三人の降伏あり総計七百人に及べり。廿二日純義隊渡邊綱之助外六十名※、陸軍隊森川木一郎外十七名、新(神)青龍隊八橋半之丞外二人、伝習隊の某等死一等を宥められ東京へ登すべき命あり、其外結義隊以下も死一等を宥められたり。
【総督府日誌】(林忠崇私記)
私共儀、当四月江戸開城徳川家一時滅却の姿に相成、且主人には朝敵の蒙名、於臣子之分には何共申様無之、不堪悲歎痛心罷在候、折柄奥羽諸侯為天下同心協力の御決約有之候趣及承候間、同志の者共申合江戸表出立、尤途中戦争に及候儀も有之候得共、右者全く主家回復仕度、一図の迷心無據場合より起り候事にて、奉對天朝候ては素より御敵對可奉申上所存は毛頭無御座、道路困難相凌漸当表迄罷越候處、今日の形勢に至り奥羽一體降伏謝罪被成御願候旨御布告、且主家の儀も夫々御所置相済候由、左候えば最早強訴可仕次第更に無御座、宿望殆爰に尽果悔悟発明仕候上は、百事奉恐入候間、偏に謝罪奉願候他無他事、因ては一旦御当家へ御依頼仕候私共の儀に候得ば、此上浮沈共御差図を可願こそ当然の本理と奉存候、則随命令薬師坊中に謹慎罷在候儀に御坐候間、御品宜被立寛典の御處置御坐候様御執成の程偏に奉願候、以上。
純義隊頭 渡邊綱之介(判)
信純
外に士官九十八人 兵卒二百二十一人※
※純義隊は、林忠崇や諸隊と共に9月に仙台で降伏。「復古記」第13冊(平潟口戦記)等には、小池の名で出された謝罪文書と士官名簿がある。
【復古記 平潟口戦記】(10月14日)
長門藩は神青龍隊分隊 赤心隊・敬身隊及新遊撃隊、誠意隊、伝習隊・第一大隊分隊、一連隊、因旛藩は純義隊・渡辺綱之介及佐賀包八郎以下、安芸藩は純義隊・岩城大和以下及水戸脱兵を(東京へ)護送せり。※
※「総督府日誌」によれば、純義隊の降伏士官は渡辺綱之助以下41人、佐賀包八郎以下35人、岩城大和以下22人で計98人。水戸藩兵は村上源次郎以下39人。伝習第一大隊には、秋山主殿介を頭とする「義勇隊」という名の町兵隊が附属していた模様。
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