江戸残留藩士一覧

前歴・役職等の時期はマチマチです。参考までにという事で。

江戸残留藩士

・「会津戊辰戦史」にある、慶応4年2月〜3月会津総引き上げの際の江戸残留藩士30名+α
は、石黒恒松の手記にある、脱藩して第七聯隊附となった7名。
藩士名
前歴・役職等
残留後の動向他
斗南藩
梶原平馬(景雄) 京都
家老
千石
鈴木多門等と共に横浜へ行き、スネル弟から小銃800挺+付属の諸具・弾薬・器械等を買い付け、船に積込んで新潟へ(長岡藩・河井継之助、桑名藩主・松平定敬等と同乗。長岡藩が手配したスネルの持ち船)→3月26日新潟着→会津へ。帰藩後は、庄内藩との攻守同盟を締結、また、仙台・米澤両藩を動かし、奥羽列藩同盟結成を導く。明治22年3月24日没。昭和63年に根室で墓が発見されたばかり。家老・内藤介右衛門信順の次男(長男は家老の介右衛門信節 二千二百石)、梶原健之助の養子。 上市川村(明治3年)
鈴木多門 京都
御供番?+公用人仮役
二百石
梶原に同行。鈴木と佐瀬八太夫は幕府勘定奉行から金を借り、これも船に積んだ。鈴木は「慶応年間人名録」では『御蔵入奉行』にも名あり。京都では大砲奉行添役助勤もあり。
佐瀬八太夫(恒) 最初は梶原に同行かと思われるが、この人は5月上旬に調達品を「外国船に積んで横浜港抜錨」し、新潟に行ったようなので、梶原等に続く第2陣だったのかも。
田口治八 御用所密事頭取
国産奉行兼
百三十石
会津戊辰戦史によれば、田口は「精敏にして吏材あり、尤も経済に長ず」で、「国事を憂い(江戸に)留まりて潜匿し、経営惨憺財貨を収めて軍費を補い、兵器等を購い」の後、西軍に目を付けられて「捜索急なるに及び川越に至り、姓名を変じて商買と為る」が、10月12日捕えられて投獄。11月15日釈放されるも、同24日に江戸で病没(または毒殺 60才)。別史料では、この人と鈴木満太郎(国産方役人)・二瓶勝介(同)・大須賀喜兵衛(御用達)・渡辺定次郎(武具役所鉄砲職人)・南部瑞慎(医師)は、一度会津に帰国した後江戸に戻って潜伏、御用達・中島屋忠治郎方他数ケ所に潜み、江戸&横浜で軍用金調達・兵器軍需品の買入・軍装仕立師の雇入れ等を行ったとされる。二瓶勝介+αは、佐瀬八太夫と共に横浜を出た模様。
一柳幾馬 京都
番頭組々頭+御普請奉行
二百五十石
藩が、江戸にいた女性達を2月18日から3月1日にかけて漸次若松へ帰還させた時、これを監督したのが一柳。その後幕府から品川砲台の大砲・弾薬・諸機械を借り、幕府の汽船・順動丸に積んで箱館へ→箱館砲台の大砲・弾薬も借りて新潟に送る→4月11日新潟着。順動丸船長・近藤倉三郎の手記によれば、江戸から乗った会津藩士は、留守居役と重役各一人を含む計7名。
その後、「艱難実録」によれば、明治2年1月中旬頃に『会藩一柳幾馬横浜より(箱館へ)参り候、同人儀、昨年スネルと共
上海へ参候由』。箱館では、板倉勝静や小笠原壱岐守の進退に関してあれこれ世話をし、両公の洋行の補佐の為、明治2年4月24日頃に同じ船で箱館脱出(「一柳儀は、両公より御頼にて御連に相成候事」とある)、5月20日頃に浦賀に着いたが、板倉等は洋行せずに降伏した。
神尾鐵之丞 京都&江戸
御聞番・江戸留守居役
百八十石
一柳幾馬と共に、江戸で武器類の調達?その後、月日不詳だが、「艱難実録」の仙台で名が出てくる。
明治3年より函館へ全戸寄留。
戸来村/開拓使函館寄留
池上岩次郎 一柳幾馬と共に、江戸で武器類の調達?
広澤富次郎(安任) 京都
公用人→御用所密事役
七両四人
十八石四人
藩命により、「敵軍の動静を視察して、江戸表と若松表と気脈を通じて事情の貫通する計画」で残留するも、閏4月26日 or 29日投獄(出獄は翌年)。広澤と同じ任務を帯びた者は、水島純の懐旧談では外島機兵衛柏崎才一浮州七郎小出鐵之助南寅次郎小川徳次郎水島純志賀宗像松川となっている→詳細コチラ
広沢は、安政4年に昌平校に入学。斗南移住後は牧畜業に生涯をかけるが、明治24年2月に東京で病没(62才)。三沢市の「斗南藩観光記念村」(道の駅みさわ)が、広沢牧場の跡地の一部。
少参事
外島機兵衛 京都
御聞番・公用人
二百石
京都公用局の主役級。3月7日、江戸で病没(43才)。会津藩預りだった新選組の管轄部署は公用局であり、初期の担当者はこの外島と広沢安任・大野英馬、後に手代木直右衛門という。
柏崎才一 京都&江戸
御供番・御聞番・公用局
江戸留守居役
二百石
6月6日時も江戸滞留。のち、小野権之丞・諏訪常吉(ともに公用人)等と仙台領にいる時に会津藩が降伏、帰参できなくなって箱館へ。会計方調役・会津遊撃隊頭取(隊長は諏訪)→降伏で彦根藩預り。諏訪は明治2年4月29日の矢不来戦で負傷、5月16日没(37才)。小野は箱館病院掛頭取→降伏で古河藩預り、明治22年4月2日死去(72才)。 七戸村/東京府寄留
南寅次郎(保) 京都
公用人仮役
6月6日の柏崎の手紙に名が出てくるので、この時までは彼と一緒にいたようだが、その後、武川信臣等と一緒に捕えられた模様。古屋佐久左衛門の塾で、洋学修行をしていた事がある。 青森町/東京府寄留(明治9年7月)
水島辨治(純) 江戸
昌平校の学生
江戸大砲隊
広沢等と残留後、柿沢勇記の後を継ぐようにして大鳥軍参謀。「南柯紀行」では4月25日の日光で浮州七郎とともに参謀にされているが、「北戦日誌」では閏4月3日、山川・浮州とともに田島で合流した事になっている(前書では、幕軍が会津領に入るのを拒否された時、水島が萱野権兵衛を説得している)。戊辰後、娘子軍の一人として会津戦に名を残した依田菊子と結婚。陸軍に進み、昭和6年9月7日に88歳で逝去。水島庫(百三十石)の次男。
「松の落葉抄録」によれば、鳥羽伏見戦時に江戸で学校奉行・町田伝八により集められ参戦した‘江戸大砲隊’の一人。
権大属
庶務掛
浮州七郎 江戸
昌平校の学生
京都藩校で素読所勤仮役あり
江戸大砲隊
広沢等と残留したようだが、箱根で西軍と決戦しようと画策したともいう。のち、水島辨治とともに大鳥軍参謀。「七年史」には『浮州七郎、水島純、柿沢勇記等に代わりて参謀たり』、「会津戊辰戦史」には『大鳥軍には江上太郎、内田衛守、牧原文吾、小池綱之助等を始めとし、我が藩人少なからず。而して総督の本営の要路に一人の我が藩人なし。故に我が藩人と総督との間に時に意志の疎通を欠くことなきにあらず』の為、大鳥は水島・浮州・小出を参謀としたとある。閏4月21日、今市の戦いで胸部貫通傷、山川大蔵の介錯で没(31才)。和尚塚に葬られたという。会津若松・大窪山墓地に墓あり浮州庄之助(百石・御代官)の弟。
水島純・米澤昌平等と共に、江戸大砲隊として鳥羽伏見戦に参戦。江戸潜伏中「
奴僕に身を扮し五助と称し」ていた事が、「孤忠録」の高木友之進の項に出てくる。
小出鐵之助(光照) ? 広沢等と残留後、山川大蔵と共に日光口にあり。会津戊辰戦史では、水島・浮州と共に日光で大鳥軍参謀になったとされている。後年、山川の妹・操と結婚。明治7年2月18日、佐賀の乱で戦死(30才?)。台東区・谷中霊園に墓。南寅次郎と共に、古屋佐久左衛門の塾で洋学修行あり。 大属
司民掛
小川徳次郎(渉) 江戸
昌平校の学生
天保14年生まれ。慶応元年10月、昌平校に入学。残留後については、小伝に「幕府陸軍奉行より大砲及び弾薬を受け、汽船順道(動)丸に搭載して越後新潟に赴く」ともあるので、一柳幾馬等と行動したのかも。後年、「会津藩教育考」「志ぐれ草子」を遺す。明治40年2月5日死去(65才)。 試補官
庶務掛
小池帯刀 江戸&京都
御普請奉行
百三十石
会津戊辰戦史には「我が藩小池帯刀安部井政治安部井壽太郎山口伊佐美、築城研究の命を受け龍の口門外旧幕府作事方に移る」という文と、「初め我が藩小池帯刀、安部井政治、安部井壽太郎、山口伊左美等は徳川氏の命により、旗下の士と共に江戸城の要衝に胸壁を築きて防備を修む」という文がある。彼ら4人は自藩の兵器が乏しい事を聞き、相議して幕府に請い、ミニエー及びゲベール銃若干挺、付属の諸具・弾薬・品川砲台の弾薬を借りて会津へ発送。のち、大鳥軍で土工兵とされるが、小池は工兵隊長として閏4月17日、三斗小屋口へ向かう第一大隊等と共に松川村に宿泊しているものの、5月には会津藩の土工兵頭として大平口(原田対馬が総督)に布陣。「戊辰白河口戦争記」では、同29日に雷神山にいる。会津戦後、高田の謹慎所を脱走、11月17日斬首(48才)。蛤御門の変時は大砲奉行添役助勤・郡奉行格で、山本覚馬等と共に鷹司邸&天王山へ行っている。学校奉行添役勤もあり。
安部井政治 京都&江戸
国事掛
百五十石
京都藩校で漢籍指導

江戸に戻って洋式築城学の研究
会津戊辰戦史では土工兵として大鳥軍にいるが、別史料では「独り江戸に留り、西軍の物色を避くるがため医師に変装し、或は漁船に潜み、彼の動静を探れり」の後、「わずかに虎口を逃れて帰藩」した。のち、箱館で会津遊撃隊差図役→榎本武揚の失言に激憤し矢不来で戦死(34才)。「艱難実録」によれば、安部井は仙台〜塩釜の頃、板倉勝静の近くにいた模様。
元治元年、水戸天狗党が日光に進出した際、状況把握の為に宇都宮藩・縣勇記に面談した人(往復文書・藩庁記録5)。香坂順吾の次男で、安部井仲八(百五十石・儒者・帽山の養子)の養子。文久元年に昌平校に入学。仲八は8月23日、戸の口原で戦死(51才)。
安部井壽太郎(武雄) 原田対馬組
与力支配兼務
八人
大鳥軍。土工兵。会津戊辰戦史にある本人談は、「余の率いたる築城兵即ち土工兵は、江戸の鳶・石工・左官・土方等を以て組織したるものにて、新門辰五郎と小梅岩吉の子分の者なりき」で、同書によれば前軍に所属。また、同書は「案ずるに工兵隊を率いたるは壽太郎一人にあらず、安部井政治小池帯刀山口伊左美など同隊に在りしものゝ如し」としているが、詳細不明。寿太郎は、会津戦では土工隊指図役として越後方面に出陣。名は「ひさたろう」。 ?
山口伊(亥)左美 京都
小奉行并割之者兼務仮役
十一石二人
大鳥軍?土工兵
高田謹慎者名簿の「本誓寺」にある「山口伊左己(巳?)」はこの人であろう。
尚、小池・安部井・山口らの会津‘工兵隊’が、箱館まで行った幕臣・小菅辰之助(智淵。後に陸軍工兵大佐)や小宮山金蔵(昌壽。後に陸軍工兵少佐)の‘工兵隊’に属していたのか、それとも別モノだったのかは不明。
?
柿沢勇記
[森三之丞]
京都
公用局書記
五石二人
大鳥軍。伝習第二大隊参謀。4月23日宇都宮戦で負傷、25日日光で没(36才)。儒学を修め、江戸で洋学(+蘭学?)を学ぶ。水戸藩の儒者・会澤正志斎の命による何らかの編書があった模様。森長蔵近好の五男、柿沢勇八の養子。諱は重任。
米澤昌平
[井上誠之進]
江戸
昌平校の学生
京都藩校で素読所仮勤役あり

江戸大砲隊
大鳥軍。伝習第一大隊(参謀か)、十番小隊を率いる。4月22日安塚で戦死(29才)。下妻&下館での談判役の一人に名がある。変名は「南柯紀行」では天沢姓だが、たぶん井上が正しい。誠之進のセイの字は「精」等ともあり、正誤不明。文久元年に昌平校に入学。浮州七郎の友人。父は、宗川茂(儒者)と並んで優れた教育者であったらしき、米澤淳八。
鳥羽伏見戦時に江戸大砲隊として出陣、紀州落ちの途中では『よのつねの旅路なりせはふりすてゝ ゆかれむものか磯の松原』と詠んでいる。
柳田勝太郎(理記) 京都
御先備甲士
別選組佐川隊
百五十石
古屋隊(後の衝鉾隊軍監。3月9日梁田戦で負傷し自刎(34才)。足利市・崇聖寺に墓碑あり柳田小右衛門の長男。弟(三男)の虎松は5月1日の白河で負傷、9月14日に鶴ケ城で没(20才)。別の弟・茂次郎(次男)は京都で病死したらしい。
柳田小右衛門は、高田謹慎者名簿で「兵糧方」として東本願寺にあり。
佐川主殿
[佐々主殿?]
京都
御先備甲士
尹宮の警護
同地藩校で弓術師範補
あり
佐川官兵衛(会津戦中に家老・千石)の弟、初名・又三郎。3月22日、日本橋料亭で第七連隊の同士討ちに遭い没(34才)。その弟の又四郎も御先備甲士で、京都藩校で槍術師範補あり。又四郎は慶応3年12月11日、京都で巡邏中に闘死。官兵衛は明治10年3月18日、西南戦争で没(45才)。
主殿は、在京時は長期間尹宮(朝彦親王)の警護をしており、親王の日記に何度も名が登場する→詳細コチラ
内田衛守
[工藤衛守]
京都
御先備甲士
尹宮の警護
同地藩校で剣術〆り方
あり
大鳥軍。別伝習隊長再編第一大隊参謀。初名は恒治。御用所密事頭取・内田武八(百八十石)の弟。武八は、蛤御門の変時に御役地郡奉行。その息子の藤八は御小姓で、原・簗瀬・小池の同僚。武八は「感慨録」の著者。
衛守は在京時、佐川と共に尹宮の警護をしていた→詳細同上

明治6年11月9日、福島県下上窪村・鈴木又三郎方へ寄留。
三戸町/福島県寄留。工藤姓。
石黒恒松(則賢)
[上村恒二]
京都
御先備甲士
佐川と共に同士討ちに遭い重傷。加療の後海路若松へ直行し、8月19日着。同23日、天神口進撃隊の副頭として奮戦し負傷(この時28才)。上田伝治(御聞番+公用局 二百石)の弟。
明治26年12月の松平容保の葬儀の際、その葬列に「先駆騎馬」で名あり。
試補官
司民掛開拓課
江上太郎
[秋月登之助]
京都
御先備甲士
大鳥軍。伝習第一大隊長(前軍を率いる)。再編第一大隊長。明治18年1月6日死去(44才)。戊辰時は単純計算で26才。江上又八種順(田島代官→南山御蔵入奉行)の長男。諱は種明。 ?
牧原文吾
[松井九郎]
京都
御先備
十石三人
大鳥軍。別伝習隊参謀とされるが、「別伝習書記」を見る限り、内田と共に隊長格。再編第一大隊参謀。「慶応年間人名録」及び「戦死殉難人名録」では、牧原源六郎(三百石)の弟で父は一郎(御供番頭)。文吾は8月23日、戸の口原で戦死(34才)。一郎は同日、甲賀町の自邸前で没(65才)。文吾のもう一人の兄らしき源次郎(二男・京都で大砲組御雇)も、同日戸の口原で戦死(37才)。しかし「殉難名簿」では、文吾は牧原勘太夫の弟で、戦死地は戸の口原または大野原とされ、源次郎は戦死日も戦死地も異なる(牧原一郎の三男は源蔵で、源次郎と共に京都で大砲組御雇あり)。
一方、宮氏岩太郎「函館脱走海陸軍惣人名」では、牧原文吾は8月24日に若松城下で戦死。「天極記」でも、七日町で戦死したように読める記事がある。
原直鐵 京都
御小姓(平番以下)
八両四人
歩兵指図役頭取と称して幕府脱兵を率い、小山・宇都宮・日光・高徳・今市と野州を転戦→5月始めに大鳥軍に至り、自兵を引き渡して帰藩したというが、詳細不明。のち、‘雲井竜雄事件’に連座とされ、明治3年12月28日斬罪(23才)。弟に直次郎・直三郎あり。父の隼太(三百六十石・御家老附組頭)は9月15日一の堰で傷、26日面川で没(37才)。「結草録」には白虎寄合隊長とある。
簗瀬克吉 京都
御小姓(平番以下)
百五十石
大鳥軍?(所属部隊不明)。原と共に‘雲井竜雄事件’に連座とされ、同じ日に斬罪(26才)。「鳥羽へ御使並大坂引揚の一件」(浅羽忠之助)によれば、簗瀬は容保らが大阪城を立退いた後、右往左往するばかりの仲間を見切り、小池周吾とともに先に江戸へ帰った。この時、原直鐵には内々に話して行ったらしい。
小池周吾
[渡邊綱之助]

[滝川右京]
京都
御小姓(平番以下)
八両四人
純義隊長。容保の大阪城立退き後、簗瀬克吉と共に先に江戸へ帰ったが、脱藩して七連隊へ入った簗瀬らとは別に、小池は独自に幕兵と行動。佐川・石黒が団結を促そうとしたが応じなかった(小池説得の為に船橋まで出向いた二人は、その帰路日本橋で七連隊の同士討ちに遭い、佐川が没する)。後、仙台で降伏。佐久簑太郎の次男、小池帯刀の養子。
齋藤友記 江戸中屋敷
大砲方与力雇or与力
江戸大砲隊
四石五斗二人扶持
純義隊差図役。4月20日、関宿岩井村で戦死(21才)。斉藤幸之助(国産方付人)の次男。鳥羽伏見戦時、江戸大砲隊として大坂に行った一人。
斗南藩名簿に「清水村/明治9年7月より東京府下大井村御休町1丁目へ寄留」として「斎藤友記」の名があるが、同姓同名の別人なんだろうか?
服部武太郎
[西東軍司]
江戸上屋敷
与力雇
江戸大砲隊
純義隊差図役。岩井戦に敗れ、小池と共に敗走。降伏も小池と一緒の模様(「平潟口総督日誌」には、純義隊として他に唐木一・高畠友之助・早川精一郎という名があるが、会津藩士かどうか不明)。齋藤友記と共に、江戸大砲隊として鳥羽伏見戦に行った人。
「斗南藩史 未定稿」にある高田謹慎人名簿では、「服部武太郎事 半沢清蔵」が正学院で謹慎。同一人物?
?
秋山寅四郎 江戸中屋敷&京都
与力雇
江戸大砲隊
純義隊差図役。4月20又は21日、関宿岩井村で戦死(27才)。京都では「大砲隊附与力当座御雇」あり。父は吉左衛門(五石二人・与力)。齋藤友記・服部武太郎同様、江戸大砲隊の一人。
栃木大学 京都
?+大砲方?
→江戸

百石
江戸で手兵を募り頽勢挽回を画策するも事ならず。自ら西軍に身を晒して縛され、明治4年9月8日、小塚原の刑場にて斬られる(35才)。戒名「紹照居士」。京都での役職がよくわからないが、蛤御門の変時は、鈴木多門等と共に淀〜天王山方面に行っている(本業は御聞番や御使番?)。豪放大胆な性格の一方、「書を読み和歌を詠し、書を能くせり。和歌は巧みにして、当時北原雅長に優れり。京都より帰り江戸に来りては、翻訳を為しつつありと」いう。江戸潜伏中の詳細は不明だが、「覚王院日記」の5月15日(?)にある「隊士報夜四更官兵圍山會士栃木某大塚某亦在座躍然引満曰快哉〜」の、栃木某が弟の辰次郎、大塚某が大学らしい↓
栃木辰次郎 ? 栃木大学の弟。兄とともに江戸潜伏。↑の「覚王院日記」を引用した「会津戊辰戦史」では、「時に彰義隊士報じて曰く、今夜四更西兵本山を囲むと。時に栃木辰次郎大塚某〔是我が藩士栃木大学にして辰次郎が兄なり〕も坐に在り躍然満を引いて曰く、快なる哉と献酬して三更に至る」となっている。辰次郎は戊辰後判事となるも、明治4年に横浜で病死(31才)。文久2年に昌平校に入学した人だが、その後横浜での洋学修行に移り、英国留学の話もあった模様(辰次郎の前には、兄も留学の話があったようだ)。兄弟の友人である山川浩・小出光照・永岡久茂等は二人を尊敬し、山川は兄の大学を、小出・永岡は辰次郎を「偉」としたという。 ?
武川信臣(三彦)
[武川兵部]
残留後彰義隊に加わり、信意隊(幡随院分屯)隊長となる。家老・内藤介右衛門信順の三男で、長兄の介右衛門信節・次兄の梶原平馬も家老(藩相)である事から、信臣は彰義隊内で藩相と呼ばれたという。上野戦争に敗れた後、南寅次郎・桑名藩の川村兼四郎等と新たに兵を集め北上しようとしていた時、因州藩兵に捕えられ投獄。拷問の末、10月9日斬首(24才)。江戸に潜伏して武器調達を行っていた田口治八等は閏4月時、「信意隊隊長」信臣の依頼で、鉄砲弾薬及び軍用金を供給した。名の三彦は「かずひこ」。
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その他の幕軍関係者
鈴木源之助 鈴木丹下(二百五十石・京都詰目付→帰国後御蔵入奉行・公事奉行)分限。所属部隊不明だが、「大鳥圭介部下(または大鳥兵) 4月17日下野小山」にて戦死(44才)とある。この日小山にいたのは伝習第二大隊・御料兵・七連隊・草風(天野)隊と、たぶん貫義隊の一部。
源之助の弟・三郎は朱雀士中一番隊、5月1日白河で戦死(23才)。鈴木丹下は、軍事方(軍事奉行並?)として8月29日の長命寺戦で負傷、城で没(30才)。「維新史料綱要データベース」の慶応3年12月30日に、『会津藩の使者
鈴木丹下等、二本松藩に至り、上国の形勢測るべからざるを以て、互に救援せんことを約す』とある。
鳥居熊之助 殉難名簿に「大鳥圭介歩兵軍目」とあるが、詳細不明。8月21日勝軍山で戦死(21才)。
田中左内 京都
御供番・公用人
二百石
「会津戊辰戦史」によれば、3月17日頃から井深恒五郎等と兵を率いて古河に滞在。22日小山に行き、25日、結城藩主・水野日向守および彰義隊士60名と共に、西軍派家老等がいる結城城を攻撃。「北関東戊辰戦争」によれば、田中の隊は30人だったらしい。「会津〜」では、4月5日に結城城が奪還されるにおよび「我が軍は7日今市へ」とあるが、これが田中隊だったのかどうか詳細不明。
田中は前年12月、蛤御門&唐御門の番所引き渡しの件で、手代木直右衛門と共に土佐藩に談判。鳥羽伏見戦から江戸に戻る際は、負傷した藩兵を軍艦に乗せろと幕府役人に訴え、認めさせた。8月29日の長命寺戦時に第一砲兵隊頭となり出撃、9月5日の住吉河原戦で難あり6日免職。会津降伏後は原田対馬・町野源之助・林房之助・吉川尚記等と共に若松に居残り、藩士を取締る役目を担った模様。
井深恒五郎 田中左内と共に兵を率いて結城城攻撃。
吉川尚記
(直記?尚喜?)
京都御先備の「宮原一学弟 宮原直記」がこの人と思われる
伝習第一大隊(小隊長か?)と思われる。4月、水街道〜下妻附近で会幕軍に生け捕られ、殺されそうになった黒羽藩の16才の少年・藤田丑之助を助けて自分の側に置き、8月に共に籠城。藤田は、老齢になっても吉川への恩義を忘れなかった(藤田の話によれば、吉川は当時28才。宮原一学の弟)。大田原戦後の「谷口日記」に出て来る『吉川直記』もこの人であろう。会津降伏後は田中左内と同様若松に居残り、藩士を取締る役目を担った。
「宮原尚記」は、田中左内・井深恒五郎と共に
結城攻撃の模様。結城城に武器が少なかった事から、宮原が真岡代官・山内源七郎に交渉しに行き、銃300挺を借り受けた。
「安政五年調 会津藩士人名辞典」の新川一番丁に‘宮原小学’という人がいる。名前からするとこの人も縁者か?
明治4年10月の北海道歌棄(うたすつ)郡への移住願届書に「
吉川尚喜 家族共3人」とあるが、翌年5月の頃は既に同地にいない気配。歌棄への移住者メモ→コチラ
北海道/歌棄郡?
神山繁樹 「会津斗南藩と函館開拓使」によれば、別伝習隊の一員として宇都宮・壬生・日光を転戦し会津に戻る。赤岡大輔の息子。斗南移住後、赤岡が息子の姓を妻・マサの旧姓(神山姓)に改めたというので、別伝習隊にいる時は‘赤岡繁樹’であろう。明治16年6月中に、秋田県秋田市亀ノ町54番地へ全戸寄留。
赤岡大輔は文武両道の人(中野竹子の指導者でもあった)で、京都藩校では「在勤之節長剣術師範」、勤めは「大坂蔵屋敷守」として名あり。明治11年9月に55歳で逝去。
田名部村/秋田県寄留
片岡範三郎 所属部隊不明ながら、4月22日の安塚戦で戦死(17才)。地元民が幕田の西川原に遺棄された戦死者17人の遺体を集めた時、懐中に「親に貰うた腕脛を 御国の為に尽す此時 会津若松藩士 片岡範三郎 年十七才」という辞世があったと、「河内郡誌」にある。殉難名簿には名なし。
永岡刑部
[春野緑]
「史談会速記録 第70輯」にある旧松本藩士の『野州安塚戦争顛末』によれば、安塚戦で西軍に生捕りにされた‘會藩の長’(所属部隊不明)。西軍から安塚戦での幕軍死傷者の数を質問され、「およそ200名」と答えたという。その後江戸へ送られて斬られた可能性があるというが、丸毛利恒「広沢安任の小伝」(明治24年2月 毎日新聞掲載)に、広沢と同じ獄にいた元彰義隊士が同囚20人程の人々に書画を書いてもらった際、筆者の中に「春野緑」が含まれていた事が出てくる。
今井半次
[筒井半蔵または半三]
「同方会報告」第8号(明治31年6月20日発行)の「大鳥圭介君獄中日誌2」への補注として丸毛利恒が挟んだ一文によれば、今井は会津藩士で純義隊副長。日光の地元記録には、東照宮の御神体が会津へ動座された事を怒り、引き戻そうとして追いかけた事が出て来る。函館に入り筒井半蔵と改名。後、彰義隊に属す。丸毛に「数多くかけし川辺の丸木橋 ひとつはのこせさみだれのそら」という一首を示したという。「函館脱走海陸軍惣人名」(旧幕府)の大彰義隊指図役に名があり、同‘被生捕之者’に含まれているが、「遊撃隊起終録」内の降伏者の人名録(戊辰戦争全史)では、‘秋田家御預け’の彰義隊の中に名がある。明治3年11月「元会津藩士筒井半蔵等五人を松代藩に御預と為す」(維新史料綱要10)。
森 某 純義隊戦記」によれば、岩井戦の際に大砲方で、「胸を討れても猶屈せず、気を励まし三四回砲発して遂に死す」。他に姓名不明の会津藩士で、大砲方の捕手か?と思われる人もあり。こちらは「敵の飛弾胸中を三発一度に貫かれ、残念なりと罵りて我刀を抜き、自ら首をかき切て死せり」。
原五郎 純義隊戦記」によれば、岩井戦で負傷。その後、会津戦の話の中に「原五郎の母並びに姉妹三人は白装束と為り、長刀を振て敵中へ斬り入り、終に姉は討死せしも数多の敵を切る。是れ誠に天下の英婦、実に感ずべし」とある。
松本鶴吉 「南柯紀行」に元純義隊として出て来る。「(明治2年8月29日)元会津純義隊にて見国隊に入り、函館に在りし歩兵、松本鶴吉降伏。芝増上寺に来り、軍務局に引渡されし所、贋金二両二歩吉原にて遣いし咎により入牢す」。会津人か?
中川泰助 医者・中川左京の子。純義隊。4月20日、関宿岩井村で戦死(21才)。
野村駒三郎 悌之助分限。古屋隊(後の衝鉾隊指図役。3月9日、梁田で戦死(50才)。
加藤惣左衛門 古屋隊(後の衝鉾隊指図役。3月9日、梁田で戦死。
原勝美 「会津戊辰戦史」によれば、草風隊軍監。6月26日、藤原戦で負傷。
沖長三郎 草風隊。塩原・妙雲寺にある墓では会津藩士と紹介されているが幕臣かも?墓石によれば閏4月23日の関谷戦で戦死(または関谷で傷→塩原で没)だが、「小柴重稷殉節の始末」では、沖が撃たれた戦いは同20日とされる。
奥村伊波 草風隊。「小柴重稷殉節の始末」に、小柴(佐倉藩士)が最も懇意にした会津藩士として名が出て来る。同書によれば、奥村は戊辰時26才。
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会津戦での戦死者(殉難名簿・若松記より)
加藤左一郎 百石 純義隊 指図役(?) 5月1日白河(27才)
上遠野督 十石二人 純義隊 軍目 5月1日白河(21才)
青木庫郎 貫義隊 8月22日十六橋手前
木村(木の村?)勘六 貫義隊 8月23日大野原
庄太郎 貫義隊 8月23日大野原
五兵衛 貫義隊 8月23日大野原
長之助 貫義隊 8月23日大野原
壷田忠蔵 貫義隊 8月27日長命寺
喜助 貫義隊 8月29日長命寺
野田万太郎 貫義隊 大和町
海野順平 十石三人 朱雀士二 田中隊
附属貫義隊司官
8月29日長命寺
(殉難名簿では下町)
野田錯之進 朱雀士二 田中隊
附属貫義隊司官
8月29日長命寺
熊谷又八 草風隊 指図役 8月29日天神口で負傷、城で没(32才)


尚、「会津松平家譜」は、『二月十六日容保江戸を発し、二十二日会津に還り屏居謹慎して恩命を待つ。既にして奥羽鎮撫総督九條道孝諸藩に令して會津を討たしむとの報あり。乃ち兵を国境及び越後預所、酒屋、水原、小千谷の各地に出して不慮に備う。而して尚お恭順の意を貫かんことを希い、敢て兵を他領に出さず。但
領外に於て浪戦する者あるは、少壮の激徒多くは脱走し、旧幕の脱兵等と共に為す所にして、藩命に由るにざるなり』とし、幕軍諸隊と転戦した藩士の行動は「藩命ではない」と断言しているが、続けて

『藩士壮年
過激の徒以為へらく、我が主一国の力を尽し、職を輦下に奉ずること六年、内外多難の時に当り、鞠躬尽瘁會て一日も安居せず。幸に先帝の殊遇を蒙り、故将軍の倚頼亦篤きを以て感激已まず。誓うて京都を墳墓の地と為し、再び国に帰るを期せず。既にして前大将軍慶喜至誠の心を以て時勢を洞察し、遂に徳川三百年の政権を奉還し、努めて天下の公議を尽し、皇基を恢張せんことを計れり。然るに薩長等其の真意を沮害し、先帝の信任せられたる摂政、親王及び宿徳の公家を黜(しりぞ)け、二三の藩士等を挙用し、幼冲の至尊を挟みて聖明を●蔽し、擅に未曽有の大変革を決行す。

加之朝権を假り
威を逞くし、自ら戦端を京郊に開き以て慶喜の入京を拒み、遂に精忠至公の我が主に負わしむるに朝敵汚名を以てす。假令我が主朝廷を憚り、屏居謹慎すと雖も、之が臣たる者豈に能く忍ぶ可き所ならんや。彼尚お将に其の曲直を問わずして、猥りに兵を我に加えんとす。是れ真の王師に非ずして姦賊たり。我輩死を尽くして之を撃退せざる可からずと憤激して起つ。然れども其の甚しき暴動に至らざるは、容保の善く之を制馭するを以てなり』

と、長々とその経緯・理由を示し、彼等の行動を暗に称えている。また、かつて公用局にいた柴太一郎は後年、「
上野彰義隊及び諸藩の脱走兵が籠って居りました中にも、旧會津人は大分這行って居りました。それで會津と気脈を通し(じ)て居ったのでござります」と語っている(史談会速記録 合本18/第115号)。上野戦争に関わった会津藩士の詳細は不明だが、丸毛利恒の「彰義隊戦争実歴鈔」では、黒門の戦いの際「誰とは知らず揚言すらく、今方さに會の藩士数十敵中に突入せんとするぞ、暫し発砲止めよ、然らずんば同士討の虞(おそれ・うれえ)ありと。衆為に少しくためらふ程こそあれ、黒門危しあわれ破れんと叫ぶもの有、衆驚き動く。近藤・吹田等頻りに声を励まし、鎮制して以て防ぎ戦う。予は固より兵を率いしに非ざれば、今會藩の士突撃せんとすと聞き、二人を顧みて曰く、機失う可らず、予は直に黒門に到り、同所の士をして之を継がしめんと、馳せて土手を下りしに、黒門兵はや打破られ、散々になだれ来る」とある。武川信臣の信意隊だったのだろうか。