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◆石川七之助は、慶応年間藩士名簿の「上屋敷ノ内向屋敷」に足軽として名あり。同所には伊花七之助という足軽もいるが、こちらは白河九番町口戦争における戦死者の中にその名があるらしい。また、殉難名簿には「矢島七之助」という名があり、石川が重複記載されたものとあるが、矢島七之助は4月8日の藤原村宿泊名簿に記載されている事から、別人と思われる。墓は栃木市一乗院で、正面に「健満霊位」、側面に「旧会津藩士 柴健介 江花七之助之墓」と彫られている(殉難名簿には「江花」姓は無い)。
柴謙助は柴五郎の兄。五郎は毎年のようにこの墓に詣でたとの事。
◆野出政之進(蔵主・造主)は、「會津藩戦死殉難者人名簿」によれば没日は3月10日。「那須の戊辰戦争」には、『3月頃大田原城下に忍び入り、城下の様子を探った。仲町で大田原藩の者に見つかり、切り合いとなって殺された。不退寺住職の桑原弁海は哀れに思い、不退寺内に小さな墓を建てた』とあるが、別史料では、野出は歩兵200余名と帰国途中で、大田原で昼食をとり、一度越堀宿(こえぼり宿/奥州街道・大田原宿と白河宿の間)まで北上したが、野出は何かを紛失したらしく、大田原へ引き返してきた。その後(同日夜)、再び越堀宿へ行くべく宿駕籠人足を調達しようと問屋場に行ったが、金銭交渉がこじれてその場で刀を抜き、出役中の代官と斬り合いになって負傷→問屋場から逃走したが追討されて没。大田原藩の役人による検分には、近くに泊まっていたらしき会津藩士の樋口久吾・小櫃与十郎(小目付)・庄司某(徒士目付)が立ち合った、という。戒名「辨阿義頓居士」。「慶応年間会津藩士人名録」では『大砲組』に名あり。京都時代の蛤御門の変では、『御門内に而敵間近く進来、賊共友崩致引退候節、鎗を入敵を突付候働有之候由』(幕末会津藩往復文書)で、褒賞あり。「佐川官兵衛舎密修業を止む」(会津会々報17号)で、佐川の胸ぐらを掴み刀に手をかけた柳田勝太郎を、押し止めた人(この時も大砲組とある)。

「健満霊位」。
栃木市一乗院。 |

野出蔵主の墓。
大田原市不退寺。 |
◆23日に宇都宮で戦った砲兵隊は、日向隊の内の大沼城之介・遠山寅次郎を頭とする2分隊。3〜4月の藤原村宿泊名簿から戦死した10名の所属隊を探ったが、井関・横山・桜井らの名はあらず。変名で載っているのかも。
◆沖長三郎は、「塩原町誌」では会津藩・小山田伝四郎隊とされているが、「小柴重稷殉節の始末」からすると草風隊が正しい。この人が会津藩士である事を示す史料は見た事がないが、塩原・妙雲寺にある墓は‘会津藩士 沖長三郎’と紹介されている。
◆※印の青四足&青二寄の隊士等は、野際口(会津領)で戦死とされているが、三斗小屋戦から撤収した人々と思われるので、ここに含める。
◆「身分・所属」の青文字は、明治44年の「会津藩戦死殉難人名録」による記述。昭和2年以後の各「殉難名簿」では、いずれも黒文字の記述。
参考:「宇都宮藩を中心とする戊辰戦争」「那須の戊辰戦争」「戊辰殉難名簿」「会津藩戦死殉難者人名録」「北関東戊辰戦争」「藤原町史」「大田原 人見家文書(慶応四年四月御用留・大田原史年表)」他
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