柿沢勇記 1

略伝


・柿沢重任称勇記、父勇八、為藩※(←「土」へんに「曼」)匠、勇記性頴敏幼好学、長与安部井茂松等、倶以才学斉名、藩命修
洋学於江戸、公為京都守護、擢為公用方吏、公東帰、勇記従大鳥圭介軍、圭介延為参謀、宇都宮之戦、銃丸貫不能起、終死于田島、年三十五、圭介深歎謀議亡人云、勇記扁其書斉、曰知足斎、水戸碩儒会津正志所命也、而遺文散佚、可惜夫(近世会藩士人偉行録并補遺)

・山本覚馬善大内流槍術、柿沢勇記修儒学、而二人偕為我藩修洋学之嚆矢(中略)勇記戊辰難従大鳥圭介、遂戦死于総野之間(同上)

・大鳥圭介の参謀、名は重任、会津藩士柿崎(沢)勇八の子、幼にして頴敏学を好む、夙に藩校日新館に入り、
安部井茂松と同じく才学を以て名あり、最も詩文に妙なり、藩の始めて洋学を設くるや、山本覚馬と偕に蘭学を修むるの嚆矢たり、後藩命を以て洋学を江戸に修む、藩主松平容保の京師に守護職たるや、擢でられて公用吏と為る、明治元年藩主の東帰するや、勇記大鳥圭介の軍に投ず、圭介延いて其参謀と為す、今市の戦、銃丸を貫き起つこと能はず、遂に田島驛に死す、年三十五、圭介深くこれを惜むと云ふ。(大日本人名辞書 1)

・名は、重任、藩士柿沢勇八の子、幼にして頴敏学を好む、藩校日新館に入り
安部井茂松と同じく才学を以て名あり、尤も詩文に妙なり、藩の始て洋学を設くるや、山本覚馬と偕に蘭学を修むるの嚆矢たり、後藩命を以て洋学を江戸に修む、藩主松平容保公の京師守護職たるや、擢でられて公用吏と為る、明治元年藩主の東帰するや勇起(記)大鳥圭介の軍に投ず、圭介延て其参謀と為す、今市の戦銃丸膝を貫き起つこと能はず、遂に田島驛に死す、年三十五、圭介深く之を惜しむと云ふ。(若松市史(下))

・天保5年(1834)、藩士柿沢勇八の家に生まれた。名は重任。幼くして頴敏、学を好み藩学日新館に入る。安部井茂松と同じく才学をもって知られ、最も詩文にすぐれていた。山本覚馬とともに、藩内では最も早く蘭学を学び、のち藩命を奉じて江戸に上り、洋学を修めた。
文久2年(1862)、藩主松平容保が京都守護職を拝命するや公用人にあげられ、慶応4年(1868)戦端が開かれるや大鳥圭介の軍に入ってその参謀となった。4月23日、今市の戦いで重傷を負い、同27日、田島駅に没した。享年36歳であった。(会津人物事典(
文人編))

・上記文献では、いずれも柿沢勇八の息子となっているが、日光の墓石には「柿沢勇八養子 森長蔵近好五男」と刻まれている。

・安部井茂松は、「若松市史」によれば『安部井聚(←帽山の事)の子。日新館官舎で生まれる。安部井家は代々藩の儒者の家柄。茂松は15才で日新館大学生となり、20才で水戸に遊学、藤田東湖に詩を贈る。のち昌平校で学ぶも不幸にして早世、没年24才。一藩あげてこれを惜しむ』。16才で小学を卒業できるのは年に2〜3人という厳しい日新館で15才で大学に進んだ人と、柿沢は同列に扱われている。帽山の養子は仲八(俊)で、その養子が、明治2年に矢不来で戦死する安部井政治(宗恂)。


・「若松市史」の記述は「大日本人名辞書」がモトになっているらしいが、その大モトは「近世会藩士人偉行録并補遺」(明治39年 沖津醇)であろう。こちらでは「大日本〜」にある
蘭学という言葉は出て来ず、柿沢は儒学と洋学を修めたとある。水戸藩の大儒家‘会津正志’というのは‘会澤正志斎’の事と思われ、柿沢には、この人の命によるところの何らかの著書(?)があった模様。

会澤正志斎は天明2年(1782)生まれ。名は安、字は伯民、通称は恒蔵。10歳で
藤田幽石に入門。史館総裁、弘道館総裁、彰考館総裁等を勤めつつ、「新論」他多くの著書を残す。「藤田東湖、会澤正志斎の水戸学大成は、直接幽石に負うところが多く、幽石の考え方は東湖によって一層広められ、且つ天下を動かすべき学説もほぼできたと云えるが、これを一層拡大し、強調し、鼓吹したのは、正志斎だった」「正志斎の思想は、国体主義のもとに尊王の大義を高唱し、神道精神を発揚すると同時に、支那哲学により日本の政道および道徳を補い、且つ完成してゆこうとするにあった。それと併行して、外に向かっては攘夷の考えを断行し、国勢新たに興るのを待って、おもむろに海外文化を、厳正批判の下に採取しようとしたのである」という。文久3年7月、82歳で没。会澤の門弟は全国に及ぶといい、久留米の真木和泉守もその一人。彼は弘化元年7月に1週間ほど水戸に遊学し、4度会澤に面会してその教えを受け、子弟の契りを結んだという。嘉永4年には吉田松陰も会澤を訪ねている。
(参考:名越時正「水戸学の達成と展開」、高須芳次郎「会澤正志斎集」、野史台維新史料叢書13内「贈正四位会澤恒蔵畧傳」)

柿沢も水戸へ遊学し、会澤に師事した事があったのだろうか。
(「孤忠録」によれば、広沢安任と伊東図書は安政元年または2年の5月に共に水戸へ遊歴し、藤田東湖・豊田典膳を訪問。この遊歴は、師である宗川茂の奨めによったものであるという。柿沢は広沢や伊東と同じく宗川の門弟であり、彼も師匠の奨めで水戸へ行ったのかもしれない)

山本覚馬は嘉永3年(1850年 22才)に江戸に出、武田斐三郎・勝海舟らと共に佐久間象山の塾に入門。一度帰藩し、同6年(1853年 25才)の時、大砲奉行の林権助に随行して2度目の江戸遊学に出、3年後に会津へ帰るまで大木衷域(衷城?)の元で蘭学を学ぶ。また、江川坦庵(←この時は英龍)・佐久間象山・勝海舟を訪ね、洋式砲術の研究を深めた(参考「闇はわれを阻まず」/鈴木由起子)。覚馬は帰藩後、日新館に蘭学所を開設し自らも砲術を教授。砲術部門はその後、1860年に蘭学所から独立する。
柿沢が洋学を修めたという場所が、江戸のどこなのか不明。覚馬とともに「蘭学を修むるの嚆矢」だったというのは、真偽不明。

・「父」とされている柿沢勇八は「※(←土+曼)匠」とあるが、この二文字には「カベヌリ」という振り仮名あり。漢和辞典によれば、「※」は『かべのかざり』という意味あり。勇八は職人だったようだ。

・「今市で負傷、田島で没」は明らかに誤り。「天保5年」の生年も、没年36才から逆算すると天保3年でないとおかしい。
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公用局書記官


・「勇記は
剛邁の士なり、業を藩の鴻儒宗川茂に受く。忠誠公の守護職に補せらるるや、家老横山常徳一藩有為の士を集めて公用局を組織す。勇記も亦挙げられて其の物書〈書記なり〉と為る。征長の時戦況視察し我が藩の出兵建言するも用いられず」(会津戊辰戦史)

・「先に守護職の命を蒙り玉える時、田中土佐をして上京し公に先ちて命を待たしめ、野村左兵衛、外嶋機兵衛も亦公用を以て先つ登り、柴秀治、大庭恭平、平向熊吉、柿沢勇記、宗像震(←真)太郎等も亦従いて登り、他の藩と交を為すを命せらる」(鞅掌録/広沢安任―会津藩庁記録3)

・「公先づ家老田中玄清及び公用人野村直臣〈左兵衛〉小室當節〈金吾〉外嶋義直、其他柴太一郎〈當時秀次〉大庭機〈恭平〉柿澤重任〈勇記〉宗像靖共〈直太郎〉等を京師に遣わし、在任の準備をなし、且は目下京師の情勢を視察せしむ」(京都守護職始末/山川浩)

・「忠誠公守護職の命を蒙り上京せらるゝに当り、公務の重大にして且つ繁多なる少数の留守居役、殊に門地により採用せられたるものにのみ之を委すべきにあらざるを以て、新たに
公用局を設け、人材を抜擢して之に任ぜられたり。即ち小森久太郎・野村左兵衛・外島機兵衛は留守居役より入りて公用人と為り、大薮俊蔵は用人を以て、丹羽寛次郎は御書簡役を以て、小野権之丞・小室金五左衛門は奥番を以て、原政之進は刀番を以て、大江仁吾左ヱ門・伊東図書・田州房之進・荒井良助は用所役を以て之を兼勤したり。又、大野英馬・河原善左ヱ門・松坂三内・柴秀次・秋月悌次郎・廣澤富次郎は同局員として専ら外藩諸士と折衝し、且つ国家の利害を講究し、其書記役としては柿澤勇記・大庭恭平・平向熊吉・宗像眞太郎等、皆有為の人物を以て之に充つ」(孤忠録/広沢安宅)

・文久2年9月11日「会津藩・外島喜(機)兵衛へ面会」
 同26日「会津人
柿澤・宗方(宗像)両人来る」
 10月1日「三條殿にて会津の野村へ面会」
 同7日「會藩大庭氏・丹羽来る」(武市瑞山在京日記)

・会津藩  目附 外島権(機)兵衛
       油小路通 野村佐(左)兵衛
       
竹屋町上る 柿澤勇記
       西側中程三つ井宅 宗方(像)眞太郎

会津   宗方(像)眞太郎
      
柿澤 某
目附役 勘定方兼 ○外島機兵衛

会津用人   野村左兵衛
     正義 横山力之助(←たぶん主税) (武市瑞山在京日記)

・元治元年2月13日付文書(京都御用所発)
「以手紙申遣候、
薩州様衆西村六右衛門鬼塚荘助と申者より柿沢勇記方へ書状遣、同人帰国に候わゞ赤岡大輔服部錠次郎両人にて開封候様申遣候に付開封仕候処、銅地金一條之儀に有之、素より不相弁儀に付国元へ申遣可及答旨返書申遣可然哉之旨御勘定頭添書を以て申出候に付、達之通取計候様及指図候(中略)去年中銅地金四万両御用立銅にて四ケ年に御返済之筈御談致候趣長崎出張之者より申遣候処、三万両は追て差立一万両此節差立可申候間、先づ夫丈け銅にて被遣被下候様御対談致度、態々長崎迄罷越候処、小森久太郎始引拂に付爰元へ罷出候旨申事に候処、元来右銅之義は国元仕出之義に付爰元にて兎角之御挨拶に難及義に有之、畢竟久太郎勇記罷下候義も文通にては辨し兼候に付罷下候義に有之定て吟味中に可有之候処、猶又急速国元へ申遣可及答旨挨拶致候処〜」(会津藩庁記録4)

・慶応元年5月21日
「京都守護職松平容保、藩士
宗川熊四郎・同柿澤勇記広島及び岩国に遣し、萩藩の状況を探索せしむ。是日、萩藩支族吉川経幹、家老今田靱負〔靖之〕、用人森脇一郎右衛門〔方寛〕を宗藩に遣し、之が措置を議せしむ。尋で二十五日経幹、用人塩谷県助〔處〕を広島に遣し、熊四郎等と会見せしむ〔吉川経幹周旋記・鹽谷県助日記〕」(維新史料網要 巻6)

・「杉浦藤八、伊与田図書、井関門十郎義探索之上聢と(しかと)不相分、木野源八郎、戸田伊三郎、米野庫、服部錠次郎義金談御用任し居、大竹作右衛門、柿沢勇記公用方物書に而他藩付合等も致居御咎被仰付候様之者共に付、右之趣言上致候義に候」(幕末会津藩往復文書 下「一柳盛之允、佐藤玄龍、龍造寺国太郎、吉川常五郎、小原忠次郎、仁科源太郎芸者と馴染不慎之所行有之候こと」)

・儒者・宗川義八郎茂(しげし)は、宗川勇之進茂弘(二十六石四人)の異母弟。郭外の新町に塾を開き、門弟には秋月悌次郎広沢安任伊東図書・安部井政治・浮州七郎米澤昌平・永岡久茂・小出光照・高木友之進等もいた。

「会津藩教育考」によれば、宗川は「茂が学専ら朱説を奉ぜしが、後西洋の理学渡来し、人の智覚は全く悩裏に存するを悟り、且つ諸国中には四季の別なき所あるを聞き、朱説の仁義礼智信を陰陽五行若くは四季に配せしは全く一方の偏見なることを看破し、晩年一家の説を立てり」「茂
和歌を善くし、最も手著(テニヲハ)を窮む。当時詠歌を以て鳴りし野矢常方、柴繁陰が如きも手著に至ては三舎を避けしという。茂著書に於て最も功夫を費せしは、考経則、孫子墨、性天問答、訓點考、詞手著、しのぶる種、左傳訳等にして、他に周易、詩経等の筆記数種あり。皆一家の識見を立るにあり」。文久2年8月14日病没(57才)。

「経に明かに史に通ず一世の碩儒と称せらる」だった伊東図書は、文久3年冬に会津へ帰国。既に宗川亡く、安部井政治・永岡久茂・浮州七郎・米澤昌平・高木友之進らは、伊東を慕ってその教えを受けたという。明治4年3月、東京で病没。享年47歳。(孤忠録)

・文久2年閏8月にともに上京した藩士の内、同3年2月の等持院・足利3代木像梟首事件に関わった大庭恭平と、宗像真太郎・平向熊吉の3人は、「藩庁記録」によれば「一同隠密御用被仰付置候者共」(1巻)で、宗像は御聞番物書仮役も兼務→元治元年から公用局書記(4巻)。平向(「慶応年間人名録」の中屋敷に「徒士」として名あり)は、同じく公用局員の松坂三内(150石)と共に文久3年9月、天誅組の乱の探索の為に行った大和郡山藩の城下で天誅組と誤認され、郡山兵に殺害された(この時の郡山藩の責任者は薮田極人。憤った松坂の二人の弟と息子は4年後、薮田に対し仇討を遂げた)。公用人筆頭だった野村左兵衛(500石)は、慶応3年5月に京都で病没(53歳)。広沢安任は「鞅掌録」で、「松坂は着実にして能勤む」「野村左兵衛は温和にして怜悧、能く人と応接し能く盡言を容る」と評した。

大庭恭平に関しては、野村同様に公用人だった柴太一郎(秀治)が後年、「(大庭は)公用方附属下級書記でございまして、大分読書もあり慷慨の者で、高山彦九郎の人と為りなどを慕って居るもので〜」と語っている(史談会速記録 合本18/第115号「會津藩京都守護職中足利三代の木像の首を斬り三條蹟に梟せし事」)。また、大庭が越後の北蒲原郡で坂本平弥という幕臣を刺殺してしまった話は、同速記録(合本40)第307輯で本多晋が語っている。

・京へ入った翌月の9月26日、柿沢と宗像は一緒に土佐勤王党の領袖・武市瑞山(半平太)を訪問。同日、宇都宮藩の縣勇記も武市を訪ねていた。武市の日記は文久2年8月〜10月だが、最後の方は在京時に面会した人物一覧か?というようなメモになっている。「油小路」や「竹屋町上る」は、当時の彼等の居住地を表しているのだろうか。
武市瑞山(諱は小楯)は文久3年に投獄、慶応元年に藩から切腹を命じられ、36歳で世を去った。

・「藩庁記録」の銅地金の一件は、関連文書がこの後二つ三つ続くものの、何だかよくわからない。が、薩摩藩士からの手紙が届いたこの頃は、柿沢は江戸 or 会津へ「帰国」していた模様。小森久太郎は公用人。二人は前年に長崎に行ったんだろうか?(赤岡大輔は大阪蔵屋敷守、服部錠次郎は京都常詰廻米役人御勘定所小役人御借金方金銭受払役人兼務→御勘定改役+御借金掛として名あり)

・「維新史料網要 巻6」にある「萩藩の状況を探索」の記事が、「会津戊辰戦史」の「征長の時戦況を視察し」に相応すると思われる。宗川と柿沢は、長州の支藩である岩国藩の塩谷県助と会談しており、内容は「吉川経幹周旋記 3」(日本史籍協会叢書70)に8ページ弱に渡って掲載され、『宗川熊四郎〔近習番頭之由〕、柿澤勇記〔公用方之由〕』『熊四郎上席なれ共、本躰之応接は勇記也』とある。
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・「征長の時出兵を建言」云々については、特に名はあがっていないものの、「幕末会津藩往復文書」にある会津御用所→京都&江戸御用所の手紙
にも、下記のようにある。「長州藩と、これ以上こじれてはいかん」として、会津藩が出兵する事はなかったが、柿沢以外にも「出兵すべきだ」という意見を持つ人はいたのだろう。

「此度長州御征伐に付而者、御家之儀右御征伐御人数之内へ被差加、彼地へ被遣候様被致度、御含之御大名方も有之哉之由、且又
公用方之内にも、右之論へ同意之者も有之哉之由相聞候処〜」

宗川熊四郎茂友は御供番(二十六石四人)。天保元年生まれ。宗川勇之進茂弘の長男で、宝蔵院流の槍の名手。戊辰戦時は、息子・虎次の追憶談(会津史談会誌16号)では「父熊四郎は年四十で京都勤番から帰国し、朱雀半隊頭に任ぜられ、出陣の際には、少年時代から武者修行して宝蔵院の槍を以て固めた身であるからとて鉄砲を担がず、太く短い一本の槍を提げ、山川大蔵殿と日光に赴き、幕臣大鳥等圭介諸氏と共に防戦し、後、中地口」へ。「慶応兵謀秘録」では、8月19日の原宿で「宗川は會津藩にして、当時三番隊(←幕軍の第三大隊)之頭分」。また、河原勝治によれば、「私の叔父・原惣五郎は宗川熊四郎の砲兵隊に属し、三の丸にて負傷」。宗川は砲兵二番頭となり、四百石を与えられたという。
戦後、北海道移住の藩士団600余名の団長を勤め、明治11〜12年に会津へ帰郷。明治37年3月8日に没(74才)。
 宗川が北海道へ渡る際に容保が贈った歌
     「我はまだ蝦夷地知らねども蝦夷が島 寒しと聞けば心して住め」

・「往復文書」にある一文は、前後の文脈からすると「芸者を孕ませたり、茶屋の舞子に迷い毎日通って大金を遣い、甲冑等まで質入れしたりという風俗よろしからざる輩がいるが、ココに書いた者どもは職務で金策したり他藩士と付合ったりしている‘お咎め無き者’であるから、そこんとこよろしく」という意味であろう。差出人は西郷勇左衛門・北原采女・田中土佐、宛先は高橋外記・神保内蔵助・山崎小助・一瀬要人・一瀬勘兵衛。手紙の日付は、慶応元年 or 慶応2年と思われる「四月晦日」。
一緒に名がある同職の
大竹作右衛門は、「御聞番所物書」だった人。後に箱館で会計調方→彦根藩預り。斗南藩職員録では、「準官 会計掛」にあり。

元治元年 or 慶応元年の公用局員他

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伝習第二大隊参謀 森三之丞


・「浮州七郎、水島純(辨治)、
柿澤勇記等に代りて参謀たり」(七年史/北原雅長)
・「伝習第一大隊の長秋月登之助並内藤隼太(人)者手負につき、日光山へ差送り、第二伝習隊参謀森三之丞者戦死に依而、伝習歩兵心くじけ、忿撃突戦の勢なく」(慶応兵謀秘録/田中恵親)

・「(4月13日)歩兵頭瀧川充太郎軍監をして我第二大隊に附属す。會津藩
柿澤勇記参謀たり」
「(15日)拂暁、船方を発し午前二連(←仁連)駅に抵る。農兵百人餘竹槍を携、或は火縄銃を携えて街外を固めたり。我斥候直ちに抵る。其寡兵なるを見て驕る状あり。既にして我中軍の先鋒接す。
柿澤勇記其長に問て曰、尓ら何の故を以て兵器を携え此処に集る、長対して曰、官軍の命を受け悪徒を鎮撫せん為にす、柿澤叱て曰く、尓等戦争を欲るか又和平を欲るか、若し我軍を遮らば直ちに尓が首を斬て軍神を祭らん。長恐怖して面色青黒く、兵器を地上に投捨て跪き謝して曰く、願わくば幕兵を佐けて粮食を捧げんと」
「(23日)吾兵死傷最多し、長官本多幸七郎肩上に重創を被り、参謀垣澤勇記両足を打ち貫かる」
「(25日)
参謀柿澤勇記、重創瘉えずして終に死す。此人性頴悟、文学を能し時務に通ず。惜む可き人物なり」(北戦日誌/浅田惟季)

・北原の「七年史」の執筆開始は明治29年。同36年に脱稿し、翌37年に刊行された。大鳥圭介の「南柯紀行」は明治30年から断続的な連載の形でこの世に出たものであり、「七年史」のこの部分は、内容の酷似性や大鳥の『六方越』の漢詩が載っている事からして、かなり「南柯紀行」を見て書いたものと思われる。が、大鳥が「南柯紀行」で‘参謀’と書いた会津藩士は、柿沢の死の直前の日光での「会人浮州(七郎)、水島(辨治)を参謀となせり」や、山川大蔵と合流してからの「第一大隊参謀 松井(九郎=牧原文吾)・工藤(内田衛守)」だけであって、柿沢が参謀だったという明記はない。そのかわり、伝習第二大隊の浅田惟季や、彼ら中軍と行動を共にした御料兵隊の指図役・田中雅楽助恵親が、柿沢が伝習第二大隊の参謀であった事をはっきり書き残した。

「七年史」の、『柿沢等』の『等』が誰を指すのかは不明。「会津戊辰戦史」は、『大鳥は我が藩人水島辨治、浮州七郎、小出鐡之助を挙げて軍の参謀とせり』と書いた後に、柿沢が没した事を述べているだけで、「柿沢等に代わって」云々の記述は無い。

・田中恵親が土方を「内藤」と書いた後に柿沢を「森三之丞」としたという事は、紛れもなく当時この名を名乗っていたのだろう。日光観音寺の過去帳の写しと思われる記述にも、「当時徳川歩兵指図役参謀 森三之丞」とある。柿沢は秋月や内田(工藤)等のように脱藩はしていない(と思う)が、彼等同様、幕軍に入る時に名を変えたのだろう。

・「旧幕府」の『函館脱走海陸軍惣人名』(宮氏岩太郎/伝習第一大隊士)では、‘4月22日安塚宇都宮戦’の戦死者として「第二大隊参謀 森三之丞」とある。他に井上誠之進(←米澤昌平)=第一大隊軍目・4月22日下野板室戦で戦死(←間違い)、松井九郎(←牧原文吾)=第一大隊軍目・8月24日会津若松城下(←?)で戦死の記述あり。

・「會津藩戦死殉難者人名録」(加藤長四郎 明治44年)では、柿沢は「歩兵大隊長」となっているが、たぶんこれは違うでしょう…。

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「南柯紀行」/大鳥圭介


・「幕人 土方歳三、吉沢勇四郎、小菅辰之助、山瀬司馬、天野電四郎、鈴木蕃之助。
  会人 垣沢勇記、天沢精之進、秋月登之助、松井、工藤、等。
  桑人 辰見勘三郎、松浦秀人、馬場三九郎、等。」

・「余は会藩垣沢幵に三谷、木村其他一同食後市川を立出中軍と共に松戸の方へ至れり」
・「元来今日山崎村泊の積なれども前件の為に大に時を費やし途中の農家に宿せり。予も村長の家に垣沢、三谷抔と同宿せり」

・「傷人垣沢戸板に乗り遠く後れて同宿に到れり」…今市にて
・「本多幸七郎(←伝習第二大隊長・宇都宮で負傷)幵に会人垣沢も深手なれば相談相手もなく甚だ困却せり」…日光にて

・会人の5人を本名で書くと、
 「柿沢勇記、米澤昌平、江上太郎、牧原文吾、内田衛守、等」。
大鳥は‘垣沢’と書いているが、‘柿沢’が正しい(浅田惟季は垣も柿も両方使っている)。

・桑人の‘辰見勘三郎’は、後の陸軍大将・立見鑑三郎(尚文)。「立見大将伝」によれば、立見家は元々は倉田姓で伊賀に住んでいたが、松平定綱が桑名城主となった頃に、場兵衛という人が徒士として採用されたのを機に「立見」と改姓したらしい。鑑三郎は桑名藩士・町田静臥の三男で、叔父に当る立見家を継いだ。共に江戸を脱走した町田老之丞は実兄、町田鎌五郎は実弟。

立見は藩主・定敬の御小姓→京都では桑名藩公用人(又は周旋方)。「連城紀聞一」の慶応元年10月5日、御所で兵庫開港をめぐる意見収集が行われた際の回答者一覧に名あり(会津藩では野村左兵衛・大野英馬・依田源次・外島機兵衛・上田伝次・広沢富次郎・柴太一郎の名あり)。「立見大将伝」には、慶応元年12月時の京都における彼の日記が抜粋されており、野村・手代木直右衛門・外島・広沢の名が出てくる。また、立見は第一次征長の際は大目付・永井主水に随行、同書にはその時の日記も抄録されている。

松浦秀八(「南柯紀行」では秀人になっているが、秀八が正しい)も、京都で周旋方。
「戊辰戦争見聞略記」「立見大将伝」及び加太邦憲「桑名開城の顛末」によれば、立見等藩士80人は、いずれも脱藩して江戸を脱走した模様。

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壬生城攻め反対


・「衆議決せず、會藩柿澤勇記、最不可也と云、終に薄暮に至て漸く進撃の論決定す」(北戦日誌/浅田惟季)

・「参謀柿沢勇記や浅田惟季らは、
『宇都宮の地形は孤立していて防御に適しない。もし三方の大軍があって近傍の諸侯を圧倒しているなら、関東を制する要地である。しかし、わが軍は孤立していて援路も絶えており、四面敵の包囲を受けたときは、中外断絶して、一人といえども生き残ることはできない。そのうえ城郭は崩壊していて、とうてい守りきることはできない』(北戦日誌/浅田惟季)
と、強く宇都宮城防衛に反対し、更に「さいわい日光の一路が残っているのだから、速やかに軍を収めて日光に前進すべきである」と、意見を述べていた。ところが大鳥は「先んずれば人を制するのが兵法の基本である。敵の備えができないうちに一撃をあたえ、然るのちに軍をかえして日光に向っても遅くない」と、壬生城攻撃を強く主張し、柿沢勇記らの日光転進論とするどく対立していた」(北関東戊辰戦争/田辺昇吉)

・大鳥圭介は「兵法に先すれば即ち人を制し、後れば即ち人の為に制せらる。未だ彼が備を設けざるを撃ちて、後に軍を退けん」と主張したが、会津藩の柿沢勇記は強硬に反対、進撃の論に決定したのは夕暮れ時になってからであった。(壬生町史 通史編2)

・「試に兵を出せと決したり。此夜は大雨にて行く先の地理も明亮ならず、我藩は不同意なれども、総督参謀巳に決したる故、不本意ながら向んとて、市中取締に出たる兵は呼び返さず。城中に残りたる人数ばかりを引連て、後陣に打てぞ進みける」(桑名藩戦記―「新選組日誌」/新人物往来社)

・「桑名の町田(老之丞)や立見(鑑三郎)はこれに反対であった。この方面の地理にも暗く、ましてこの夜は大雨となった。この状態で兵を動かすは危険であると進言する。が、大鳥達幹部の決意は変わらなかった。資料にはないが戦術眼のある土方歳三も多分反対だったと思われる」(桑名藩戊辰戦記/郡義武)

・前軍が宇都宮城を落した三日後の22日、幕軍は壬生城攻めに向う。が、この壬生攻めについては幹部の間で賛否両論あって軍義がまとまらず、みすみす貴重な時間を浪費した。伝習第二大隊の浅田惟季の「北戦日誌」によれば、この時、壬生攻めを主張したのは大鳥圭介、最も反対したのは柿沢。

結局、出遅れた幕軍は壬生城攻略に失敗し、多数の死傷者を出して大雨でズブ濡れになって宇都宮に帰って来ただけだった。この戦いには大鳥は「本日は余不快にて出陣せざりし」(南柯紀行)。城攻めを主張した本人が何故戦場に立たなかったのか、立てない程の病気だったのか、実に不可解ではある。


(↑壬生城跡公園)

・田辺昇吉氏の記述は、浅田の原文とはビミョ〜な違いがある。浅田は「囲まれたら全滅だ」と心配はしていたが、「その前に討って出る!」と大鳥が進撃論を唱えた時には喜んでいた。彼がわざわざ「會藩の柿澤が最も反対した」と書いたのは、それが予想外のビックリ事だったからなんじゃなかろうか。

・大鳥の壬生進撃論を支えたのは壬生藩士・友平慎三郎の寝返りだったが、その裏には友平の義父であり、大鳥とも面識があった旧幕府砲術師範・友平栄が絡んでいるんじゃないかと睨んでいる。この人、大鳥が戦場に立たなかった理由とも関係あるのでは?(「慶応兵謀秘録」に、『友平栄という者、講武所大砲教授方にて大鳥氏と西洋術の学友たり』の一文がある。慎三郎は栄の娘婿)

野州安塚戦争之絵圖
友平栄と慎三郎

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秋月と柿沢

・「四月廿日脱走軍本営より使節来る、曰く、神官一両名来営せよと。同僚中恐怖、至るものなし。千族(ちから)意うに是れ恐るべき事に非ず、余至るべきも尚一人の同行を乞うと。下の宮の社家小泉伊豫之を諾し、相共に営所に至り、隊長
秋月登之助及び森三之丞に面接す。登之助曰く、当神社は幕府崇敬の大社なるに兵火に罹りしは恐懼惜く所を知らず、仮殿設置の費中へいささか糧米百俵を寄進せん、乞う領収せられよと」(宇都宮二荒山神社誌 資料編)

秋月&土方率いる前軍に宇都宮城が落された時、宇都宮の守神である二荒山神社(ふたあらやま神社)も戦火を被ったのだが、翌20日、焼いた幕軍から神社に対して神官の呼び出しがあった。ビクビクする同僚を置いて本営に行った神官は、中里千族(ちから)ともう一人。待っていたのは、秋月と柿沢だった。

秋月が「寄進せん」と言った米百俵は、おそらく宇都宮領民に分けたのと同じく、宇都宮城の米蔵から放出したものだったろう。自分で焼いておきながら、秋月は一体どんな顔してこのセリフを言ったのか。この日、おそらく大鳥と共に鹿沼から宇都宮に来、面接の場では秋月の隣に並んでいたであろう柿沢は、果してどんな言葉を発したのか。神官に会う前に、二人の會人の間でどんな会話があったのか。この面接は、一体何時頃の事なのか。気になる事ばかりである。

神社に対する米の寄進は、「勤王烈士 県六石の研究」(小林友雄/興亞書院)では大鳥による美談になっているが、実際の面接官はこの二人。今のところ、秋月と柿沢の名が並ぶ唯一の事象。

ちなみに、神社側ではこの米を受取って2度に分けて運搬する事にした。が、前半の58俵はちゃんと運べたが、残り42俵は奪還戦が起きてしまって運搬不可能に。その後宇都宮に入った西軍に「こんな訳なのだが、残りの米はどうしたら良いか」と尋ねたところ、「お宅が受取るのが筋だが、こちらも米不足ゆえ恵与を望む」と言われ、結局あげてしまった。


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