柿沢勇記 2

負傷と死去


・23日宇都宮城
後門既に砲聲起り、我哨兵退て城中に入る、先鋒伝習第一大隊、桑名士官隊等直ちに之を守る、表門は伝習第二大隊七連隊之を守る、本営裏の竹林会津農兵草風隊士官隊之を守る、五半時敵軍四面均く榴弾を発つて烈く攻撃す、薩、長、大垣の兵後門を攻る最急なり、我兵大いに苦戦す、表門の兵百人を分つて救わ令め猛烈に発射したり(中略・この間昼食あり)午半に至て敵兵又来て攻撃す、後門本営後の二ケ所に迫つて厳く攻る、●に至りて吾兵一つに合して之を防く(中略)敵兵盡く本営の後に集合し、竹林の中を標として無数の霰弾を発す、吾兵死傷最多し、長官本多幸七郎肩上に重創を被り、参謀垣澤勇記両足を打ち貫かる」(浅田惟季/北戦日誌)

・「傷者 土方歳三(足指を傷く) 本多幸七(背を横に打たる)
  会人垣沢某
両股を打ぬかる) 佐久間悌二(胸を打ぬかる)」(南柯紀行)

・「4月23日 宇都宮にて重傷、同27日、日光和泉屋金右衛門方にて絶命
  会津藩士 大鳥隊参謀 柿沢勇記重任(別名、三之丞) 三十六 日光市観音寺」
                   (宇都宮藩を中心とする戊辰戦史/小林友雄)

・「二十八日 昨日垣沢没せり。三浦木村に頼み鉢石町の上なる寺院に埋葬せり」(南柯紀行)

・「四月二十七日柿澤勇記没す享年三十六。鉢石町某寺に葬る。大鳥深く痛惜す」(会津戊辰戦史)

・「勇助父・士 四月廿五日日光 柿沢勇記 三十六」(戦死者名籍/山川浩・杉浦佐伯・樋口光 明治24年)

・「歩兵大隊長 四月廿三日宇都宮負傷 
廿五日日光
               柿澤勇記事 森三之丞 三十六」(會津藩戦死殉難者人名録/加藤長四郎 明治44年)

・「大鳥兵参謀 森三之丞事
  四月廿三日宇、傷、同
廿七日日光  柿澤勇記 三十六」(校訂戊辰殉難名簿/山川健次郎 昭和2年)

・「次ぎの二名は當時賊軍と呼ばれた会津藩士で幕軍に属したもので観音寺の過古帳に記入せられ、何れも天神山に埋葬せられている。
四月二十日
  一、義玄忠清居士  會津藩
                   相馬孫市
                   宇都宮にて戦死
慶応四年四月二十五日  當時徳川歩兵指図役参謀
  一、泰岳院久安道顯居士  森 三之丞
    生國会津?澤性
    和泉屋金右衛門方にて死去
」(日光史)

・「宇都宮で奮戦して重傷を負ふた會津藩の垣澤勇記は今日陣没したので大鳥都督は愁然として涙を流された、士を愛する事赤子の如く、死生ともに一なるべきを期する都督の耳底に思ひも寄らぬ哀音は響いたのであった。
翌くれば二十八日、大鳥都督は三浦、木村等に命じて鉢石町の上なる寺院に葬った、勇士の霊魂(みたま)も此の大鳥都督のいと鄭重なる弔意に安らけく地下に眠ったであらう」(大鳥圭介伝/山崎有信)


・伝習第二大隊は始め表門(二之丸門?)を守っていたが、途中でその内の100人が別伝習隊らが守る後門(二之丸裏門?)に回り、昼食後は「本営裏の竹林」で銃撃戦を行ったらしい。浅田の記録によれば、柿沢はこの竹林戦で本多幸七郎とともに負傷。また、桑名兵と新選組は明神山(二荒山神社)に布陣していたが、土方は応援要請を受けた桑名一番隊と一緒に城へ戻り、同じ竹林戦で負傷したと推察されている。竹林は、城の東南にあった事が「南柯紀行」に出て来るが、宇都宮の史料によれば、城の中が丸見えにならないように西側にもあったらしい。本営を置いたと思われるのは、たぶん大手門付近。となれば、その西裏(現・一条町)で皆負傷した事になる。(土方・秋月は同じく西側の松ケ峰門付近で負傷したという記述があるが、位置からして「竹林」も「松ケ峰門付近」も同じ場所を指しているのでは)

・「栃木の日光街道」(下野新聞社)にある幕末〜明治初期の復元図によれば、「和泉屋(田村)金右衛門」は下鉢石にあった。鉢石は宿場町であり、且つ隣近所が皆屋号を掲げている事からして、和泉屋も当然旅籠だったであろう。場所は、柿沢が葬られた観音寺を降り、東照宮を背にして少し下った左側。現在は違う名前の割烹が建っている。

戊辰当時に大鳥が宿泊した「旅館」の名は不明だが、彼は後年、日光を訪れた際に当時を回顧した漢詩を作り置いて行った。所蔵は(たぶん)下鉢石町の本陣だった高野家。高野家は和泉屋の並びで、東照宮方向に6軒目にあった。
漢詩は「明治百年野州外史」によれば次の通り(原文不明)。黒髪山は、男体山の事。

シン(←髟の下に眞と書く)髪(しんぱつ=黒髪)山南鬼怒ノ源
郊原時ニ見ル戦場ノ存スルヲ
鬱慈タル洛畔両行ノ樹
老幹猶留ドム弾劈痕

・観音寺の過去帳に柿沢と並記されている相馬孫市(28才)の命日は、昭和12年刊の「日光史」では20日になっているが、その後の「宇都宮藩を中心とする戊辰戦争」(小林友雄)や「日光山麓の戦」(田辺昇吉)等では22日。後者の写し書きが正しいと思われる。天神山の相馬の墓は現存しないらしい。

・柿沢の命日を27日とするのは大鳥の「南柯紀行」によるものだろうが、大鳥は宇都宮から一日日付けを間違えて書いている事が判明している為、実際の没日は遅くても4月26日。観音寺の過去帳および観音寺&真龍寺の両墓石が25日としている事と、「復古記」には引用されていない部分の「北戦日誌」に、『廿五日 参謀柿澤勇記、重創瘉えずして終に死す』と記されている事からすれば、命日は25日が正しいであろう。

会津藩の殉難名簿における没日は、明治24年の山川浩・杉浦佐伯・樋口光による「戦死者名籍」と、明治44年の加藤長四郎編では25日だが、昭和2年の山川健次郎編では27日。以後、昭和12年の佐瀬剛編、昭和53年の会津弔霊義会編でも27日。山川健次郎編が出た頃は「会津戊辰戦史」の編集中であり、同書に使われた「南柯紀行」の「27日」がそのまま‘正しい’没日として訂正されてしまったものと思われる。

(伝習第二大隊の大川正次郎「函館戦争記」によれば、宇都宮で『會 森三之丞』が戦死(正しくは負傷)、同じく宇都宮で『
同家来 二人』も負傷。この二人が誰なのかまったくわからないが、日光までは主人と一緒だったかもしれない)

・明治24年「戦死者名籍」によれば、息子の名は「勇助」。
「斗南藩史未定稿」(相田泰三)等にある、猪苗代謹慎→東京からの斗南移住者名簿(明治3年)の「秋起海行」に、『柿沢勇助』と出てくるのがこの息子さんと思われるが、詳細不明。

・山崎有信「大鳥圭介伝」の『士を愛する事赤子の如く、死生ともに一なるべきを期する督の耳底に〜』の部分は、↓の「大鳥圭介野州落」という新聞連載小説にもある。発行・掲載は後者の方が先のようだが、著者同志は知り合い(前者で山崎が「知人」と書いている)であり、単なるパクリなのか何なのかわからない。

・三浦さん・木村さんてのは、伝習隊の人ですか?

描かれた埋葬シーン 「大鳥圭介野州落」→

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墓所1 日光市 天台宗観音寺
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・正面:柿沢勇記藤原重任墓
・背面:
   会津藩 
    
柿沢勇八  養子
    森長蔵近好 五男 
  
            
森 萬助一好
            石堂留吉賢直
 建之
・右面:
  慶応四戊辰年
四月廿五日
  於野州宇都宮城外戦死
  行年三十六歳

・左面:
  泰岳院久安道顯居士
     日光観音寺ニ葬
  又
  厚源院釋清佑居士
     会津真龍寺ニ葬

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・観音寺は東照宮から歩いて10〜15分程。戦後、東照宮宮司を勤めた旧藩主・容保が柿沢の墓所を知っていたかどうかはわからないが、会津若松を目前にして息絶えた柿沢にとって、ごく側にいた主君が慰めであった事を祈る。
↓は、かつて御神体が会津鶴ケ城に動座された事を偲び、東照宮宮司時代に容保が詠んだ歌。
「今こゝにつかふべしとは思ひきや 此大神の御幸せし日は」(大日光 9・11)

・背面の建立者二名は、ともに会津人。慶応2年に会津若松の神明神社(神明通り沿い)に奉納された永代常夜燈に、両方の名が刻まれている↓。 常夜燈は木製で一対。神社は、戊辰当時とは位置が若干異なるらしい。

正面: 永代常夜燈
側面: 慶応二年丙寅歳三月
裏面:



石堂賢直 石堂賢●
願主 石堂賢等
石堂賢英
側面:


高瀬治重 森 一好
赤谷保永 林 光賢
矢部明英 鈴木賢?

石堂さんの名は安政五年調会津藩士人名辞典巻末の「安政四年御用金献納者人別」に
 一、五拾両  融通寺町 石堂留吉
とあり、また福島県人名辞典にも記載がある。が、呉服&織物商の大御所である石堂家は代々「留吉」を名乗っていたようで、福島県人名辞典にあるのは、安政5年に生まれ明治時代に活躍した留吉さんである。柿沢の墓に関わったのが先代なのか明治の留吉さんなのかは、どちらの史料にも諱がナイ&墓の建立時期がわからないので不明。
明治の留吉さんの詳細はコチラ

・もう一人の建立者である森さんてのは誰だろう…。

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墓所2 会津若松市 浄土真宗(西)真龍寺
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「大正六年七月二十日建立」と石の門柱に刻まれた、柿沢家の墓所。
その右端の方に勇記と奥さん(だよね?)の墓がある。

・正面
   厚源院釋清佑居士 …向って右に勇記
   遍照院釋妙佑大姉 …左に奥さん
・背面
   明治元年
四月廿五日
   柿澤勇記重任墓
   大正四年一月廿九日(この後2行判読不能)
    俗名 柿澤ムツ
       ○○七十一(?)
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・墓域には義父の柿沢勇八(元治元年七月没)の墓もあるが、柿沢家はご子孫がおらず無縁仏になりかけているのだそうで、一帯はボウボウに荒れ果て、ツタが絡まる墓石は傾いていた。(勇記の息子らしき「勇助」さんの墓が墓域にあるかどうか、未確認)

・域内にある墓で最も新しいと思われるのは、柿沢任という人の墓。判読不能な文字があってよくわからないが、この人の母=律子さんが勇記の孫(勇助さんの娘?)で、母の実家に後継ぎがいない為に柿沢姓を名乗ったという事なのだろう。墓域に入って正面がこの人の墓、その右横が勇八の墓。

 正面 柿澤任墓

 左面 大正六年八月十六日

 右面 柿澤勇記重任之曽孫而父者
     伊藤孝○次男母律子者重任
     之一孫女也實家無嗣故○其
     姓十七歳而没
     法名 放光院釋任佑居士

・勇記の戒名の文字は風化していて、所々自力で判読できず。日光・観音寺の墓石に刻まれた文字をそのまま入れた。裏面に俗名が刻まれたムツさんは、「明治27年4月 旧会津藩士族人名簿 七郡内現住者」(会津郡若松役場)の「カの行 北会津郡」の中に名がある。


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