はじめに
2001年、北海道大学から博士(地球環境科学)の学位を取得した。その後、紆余曲折を経て、現在は国立環境研究所で研究をしている。名刺には博士(地球環境科学)と書いてあるので、「地球環境科学って何ですか?」とよく聞かれる。最初は何て答えれば良いのか分からなかったが、これから一生つき合っていかなければいけない肩書きなので、最近では「地球環境問題に関する学問です」と答えるようにしている。自分の勝手な解釈だが、もう少し詳しく書くと「地球環境問題」とは「人間活動による地球規模の環境変化」であり、「地球環境科学」とは「その変化の現状と仕組を理解し、地球規模での急激な変化を引き起こさないように対策なり技術を考えること」だと思う。
私は「現状と仕組」を理解することに興味がある。しかし、「対策と技術」まで考えないとダメだと力説する人も結構いる。確かに研究予算を申請するときは、そこまで書く必要があるかもしれないが、あくまで私の動機は「現状と仕組」の理解であり、「対策と技術」は派生的なものでしかない。こういうふうに言うと、原子爆弾の開発に利用された物理学者のことが引合いに出され、おまえの趣味のために多額の税金を使うなんて許されないと説教される。大抵こういうことを言う人たちは工学系か役人である。彼らのバックグランドを考えると致し方ないかもしれないが、今の日本で力を持っているのは、このような人達なのだ。
少し前に「地球環境問題とは、人間活動による地球規模の環境変化である」と書いたが、この定義からすると「農業」も「地球環境問題」ということになる。しかし、大抵の人は「農業」による「環境変化」を「問題」とは考えていない。なぜなら、「農業」は「人間」にとって「有益」であるからだ。「人間」の住みやすいように「環境」を作りかえることは「善」であるという暗黙の了解が、そこにはある。そして、意図しない方向に「環境」が変化することを「環境問題」と定義し、「環境」を意図したように作りかえることを「環境科学」の究極の目的として、それを地球規模にまで広げたのが「地球環境科学」ということにしているのかもしれない。
私は、現在の「地球環境」(大気圏、水圏、地圏)を維持している「生物圏」の役割を中心に研究していくうちに、そのシステムの複雑さや合理性を肌で感じるようになってきた。 そして、人間がこのシステムをすべて理解し、意図したように作りかえることは、無謀なことではないかと考えるようになった。私達は、現在のこの住みやすい地球環境に生かされているのだと、もっと謙虚になった方が良いだろう。だから、私は「人間が意図したように作りかえることを目的とした地球環境科学」ではなく、「生物圏との共生を目的にした地球環境科学」を強調したい。もう1つ強調したいことは、「地球環境」は人間活動の影響がなくても、「急激に変化するものである」ということだ。逆に言うと、現在のこの複雑で合理的なシステムが構築されたのは、この「地球規模の急激な環境変化」のおかげかもしれない。
作者の勉強不足で間違ったことを書くかもしれないので、気付いたら伝言板やメール等で指摘して欲しい。
-> 経歴
関連文
荒波節(2005年9月10日) 研究成果の公表(2005年9月10日) 2ちゃんねる(2005年7月20日) 個人情報の垂れ流し?(2005年9月13日) 掲示板での扱われ方(2005年9月13日) 思考の海(2005年9月19日) 裸の王様(2005年9月24日) 反省(2005年9月24日) ゆらぎ(2005年10月29日) 訂正(2005年12月28日) 問い掛け(2006年1月15日) 個人情報の開示(2006年1月19日) フィクション(2006年1月27日) 反論(2006年2月4日)
私がウェブサイトを立ち上げたのは、大学院博士課程2年の冬、JAMSTECの海洋地球観測船「みらい」の航海(MR98-K01)と極地研の北極海航海に参加した直後だったと思う。その時は、HTMLに様々なJavaScriptを組み込んで、外観にかなりの技巧を凝らしていた。公開していたコンテンツは、自己紹介、自分の研究、400字週間レポートだった。400字週間レポートとは、指導教官であった角皆静男教授が学生に課した3大義務(残りの2つは、朝9時に登校すること、輪講教材の英文和訳をすること)の1つで、毎週月曜に起承転結などで整えた400字の文章を提出するというものであった。このサイトは、札幌を去る2002年春まで公開していた(更新は2001年夏まで)。
再びウェブサイトを立ち上げたのは、渡英中の2004年夏だった。実質3年間のブランクがあったわけだが、学部時代の旧友から「荒波節が健在で安心した」というメールがあった。自己分析するならば、「荒波節」とは表現ではなく内容にあると思う。なぜなら、私が文章を書く時に気をつけていることは、誤解されるような曖昧な表現をしない、出来る限り平易で字数の少ない表現にする、表現ではなく内容にオリジナリティーを持たせる、ということだからだ。「健在で安心した」という部分には、相変わらず青臭いことを言っているというような皮肉の意味が込められているかもしれないが、まあ褒め言葉としておこう。
自分の気持ちを自分の言葉で表現する。これは簡単なことのようで意外に難しい。実際に、他人の言葉や文章、過去の偉人達の名句名言を引き合いに出して、自分の気持ちを代弁させる人も多い。私も10年くらい前は、このような名句名言に普遍性を感じ、引用している時期があった。しかし、研究という世界に入った時、自分の考えを自分の言葉で書かなければいけないと考え方を改め、表現よりも内容にこだわろうと決心した(実は当時の私の頭の中には、英訳するということが前提としてあったわけだが)。
而して、「荒波節」は出来上がった。
私にとって、ウェブサイトやウェブログを書くことは、学会発表や論文発表と同様に、研究成果を公表する手段だと考えている。同僚の研究者達に対するものか、一般の人達に対するものかの違いだけである。税金を使って研究をしているのだから、むしろ一般の人達に対する公表に力を入れるべきだと私は思っている。
(注)ウェブサイトは、自己紹介がメインのいわゆるホームページ。ウェブログ(ブログ)は、日々の雑感がメインの日記(週間レポート)
私のウェブサイトの内容が、「2ちゃんねる」で話題になることがあるらしい。チラッと読んでみると、匿名で言いたいこと言ってくれるなと思う。私の文章に異論や反論があるなら、名前かメールアドレスを明記した上で、コメントを残しておいて欲しい。それに対して、それなりの返答は必ずするつもりだ。「考えがあまい」とか「身のほど知らず」と言われても結構だが、その場合には私が納得するだけの根拠と自分なりの意見を必ず提示しておいて欲しい。
「2ちゃんねる」に限らず、匿名で誹謗中傷している人達は、なかなか報われない自分の状況にストレスを感じ、誰か適当な人を誹謗中傷することで、その鬱屈したストレスを発散しているように感じる。それに比べ、自分の体験から自分の意見を提示している人達は、現在(or 過去)の報われない状況に対しても、自分なりの建設的な意見を導いているように思う。誰でもストレスを感じて生きている。そのストレスを解消するには、他者を誹謗中傷することで自分を正当化するか、自分を見つめる(自省する)ことで自分の考えを見つけ出す(確立する)かの大きく2通りの方法がある。しかし、後者よりも前者の方が安易なので、このような人達が「2ちゃんねる」のようなサイトに集まってくるのだろう。
JSPS特別研究員には、研究者番号が無い。研究所のウェブサイトにも名前が無い。研究開発支援総合ディレクトリReaDにも登録できない。したがって、個人のウェブサイトやウェブログでしか、自分の研究を紹介できない。また、この社会は、今の若者(若手研究者)の社会的待遇に関する理解が不足している(おそらく団塊世代の自己保身、つまり既得権益の確保に走りすぎている)ので、私はそのような現状を何らかの形で紹介したいと思っている。
そのために、私は現実性(Reality)と普遍性(Universality)を追求している。自分自身のことは包み隠さず書いているし、知人のことは伏せ字にするが出来る限り具体的に書いている。多くの詳細な具体例を提示することで、現実性と普遍性を醸し出すのが狙いだ。知人のことを伏せ字で書くのは、個人のプライバシーに配慮すると同時に、任意のY氏という意味もある。
この件に関しては、今まで何人かの知人から苦情があった。具体的に書きすぎていて、個人を特定できるというのだ。私の書く文章から、Y氏が誰かを特定して誹謗中傷するような暇人がいるかどうかは知らないが、私は特定の個人の話題を取り上げているつもりは毛頭無い。個人的な具体例から、より一般的な普遍性を引き出そうとしている。
私の文章のスタイルは、まず取り上げる対象を具体的客観的に詳細に記述してから、そこに潜む普遍性を追求してゆく。これは、自然科学論文の一般的な記述法である。私の文章を読む人は、このような弁明を読まなくても、私の文章から直接それを汲み取って欲しい。
苦情のメールを私に送ってきた人によると、以前私が非難のネタにした人が掲示板で取り上げられて非難されていたらしい(周囲に似たような人が大勢いるから、私のネタが取り上げられたのだろう)。だから、私自身に害が無くても、ネタとして取り上げられた人が迷惑だという(しかし、これまでに私が非難のネタにした人は一人だけであるし、彼のような人(任意)は非難されて当然だろう)。
掲示板での扱われかた(訂正)(2005年9月14日の日記)
昨日のメールに関して、某掲示板の批判記事は、私個人を攻撃するものだったらしい。他人の意見に対して異論や反論を抱くのは健全であるし、むしろ私は同意する人の意見よりも反論する人の意見を聞きたいと思っている。だから、私の目の届かない場所に書くのではなく、直接私にコメントして欲しい。
言葉は、自分(一人称)と相手(二人称)に対する意思伝達の手段であり、思考の海にダイブするためのツールである。思考の海へは一気に沈潜できない。徐々に沈潜するしかない。そのために、バディー(相手)やダイビング器材(言葉)の存在は重要である。
最近は、思考の海の表層で泳いでいる人が多く、思考の海の深層に潜る人が少ない。表層で泳いでいる人にとって、言葉はBGMだ。好きか、嫌いか、ただそれだけである。一方、沈潜する人にとって、言葉は命綱である。生きるか、死ぬか、自分の命がかかっている。
言葉は思考を鍛える。人は言葉を通して思考するからだ。携帯メールの言葉、掲示板の言葉、文学の言葉、哲学の言葉、数学の言葉、英語の言葉、等々、用いる言葉によって、意識が沈潜していく場所、そして景観が異なる。
もし、誰の耳にも心地良く聞こえる癒し系BGMのような文章が良いのであれば、私の文章は不協和音のする悪い文章だろう。しかし、意識の海の未知の場所へと沈潜するための試行錯誤と考えて、多少のぎこちなさは勘弁して欲しい。
言葉をBGMのように聞き流す。情報が溢れるIT化時代のせいか。日本語や教養を軽視してきたツケか。言葉のライブ感を大事にするのは良いが、ただ受け入れて聞き流すだけで、よく咀嚼して自分で考えていない。そういう人が団塊世代や団塊Jr.世代に多いと感じるのは、私の気のせいだろうか?
我々の研究分野で、個人のサイトやブログを通して、自分の意見を発信している人をあまり見かけない。大学や研究所にあるサイトは、あくまで研究の紹介であり、研究者個人の意見とは言えない。
先日、匿名でなく自分の意見を垂れ流しにしていると非難された。私にとって、これは理解し難い言葉である。逆に言えば、匿名なら自分の意見を言っても良いことになる。また、自分の意見を言って何が悪いという気持ちもある。この民主主義社会で、賛成なのか、反対なのか、別の意見があるのか、そういうことを言わない人の方がおかしい。いわんや研究の世界で生きる人をやである。
「目立ちたくない」「目を付けられたくない」と、長い物に巻かれ付和雷同する研究者が結構いる。裏では「王様の耳はロバの耳」と匿名で掲示板に書きながら、表では「裸の王様」を誉めまくる。友人Mに言わせると「虫のような奴等」ということになるだろう。
このような組織やコミュニティーは、いずれ内部崩壊する可能性が高い。我々の研究分野は、そうあって欲しくないものだ。
私も少し意地悪な面があるので、真面目に話したり書いたりしながら、わざと相手をサラッと扱き下ろすことがある。実はその反応を見て楽しんでいるのだが、真に受けて傷付く人も多い。でも本当のことだから、私は謝ったりしない。頭がハッピーでおめでたい人達に、現実の厳しさを教えてやっているつもりなので、むしろ感謝されたいくらいだと思っている。
自分としては軽いジョークのつもりが、予想以上に波及してしまうことがある。ITは個人の発言を予想以上に波及させる。これで過去に何度かひどい目に会ったが、個人サイト内の「博士課程在籍者の行方」も少しやりすぎたかなと反省している。この部分はアクセス数を増やすために、わざと大袈裟に書いた。つまり撒き餌である。この思惑は的中したが、少しやりすぎた。これでは、オオカミ環境学者と変わりない。私が読んで欲しいのは、(書きかけの部分も多いが)本当は別の部分である。それを誤解しないで欲しい。
文章の書き方には、大きく分けて2通りある。文章を書きながら結論を考えるタイプと、結論を考えてから文章を書くタイプである。前者は、結論よりも過程を、後者は、過程よりも結論を重視する。どちらかと言うと、科学者は後者のタイプである。もちろん科学者にとってプロセスは大事であるが、論文を書くたびに、結論が両極にゆらぐような書き方はしない。なるべく、首尾一貫した主張をするように心がける。そして、本来の思考プロセスがゆらいでいるにしても、結論へと最短プロセスで導かなければいけない。
しかし、両極を行ったり来たり、大きくゆらぎながら展開する文章にも、独特の味わい、思考プロセスのライブ感がある。しかも、単に行き来しているだけではなく、らせん階段のようにステップアップしてゆくのだ。風の旅人 編集便りを読むと、そういうことを感じる。
このブログの文章に、どれだけ影響力があり、どれだけ厳密に記述すべきか、私には判断できないが、最近の文章で誤解を招く点を訂正したい。
「海洋への二酸化炭素吸収〜森林との比較〜」で、「白亜紀以降、規則的に氷期と間氷期が繰り返されており、氷期に二酸化炭素濃度が低いのは、氷期に海への吸収が増えたからである」は、簡潔表現であり、正確ではない。正確には、これは白亜紀(約6500万年前)以降ではなく、新生代後期(3500万年前)以降の氷河時代における氷期・間氷期サイクルについての記述であり、さらに言うと大陸形成(30億年前)以降の大きな気候変動(サイクル)についての記述ではない。大陸形成後には数回の氷河期があり、大陸氷床の発達と関連付けて議論されている。その氷河期は、24〜22億年前(3回)、7億5000万〜6億年前(2回)、4億6000万〜4億2000万年前、3億3000万〜2億6000万年前、3500万年前〜現在であり、6億年以前の氷河期には赤道域まで氷床が発達していたと考えられている(雪玉地球仮説)。一般に、この気候サイクルは、火山活動(CO2供給)と化学風化・有機物埋没(CO2除去)というフィードバックで説明される。
「人口の自然減少」で、「少子高齢と言うより、少産多死である」に続けて、最後に社会モラルの低下を示唆した下り「子供や女性が殺される。子が親に親が子に殺される。騙し騙され生きて行く。そして、狂って死んで行く。」は、論理のレトリックである。
「少産多死」と言っても、現在は出生数と死亡数が釣り合っている状態であり、今後「多死」が進んでも、それは老人が多いから仕方がない。しかも、現在の世界の人口は多すぎるので、化石燃料を使い切った人類が平和に生活するためにも、人口減少は望ましい。社会モラルの低下は事実であるが、それが「多死」をもたらしているかどうかは判らない。しかし、文脈では負け組の自殺を示唆している。
つまり、一つ一つの記述は間違っていないが、文脈で誤解を生じさせる。それが、論理のレトリックであり、マスコミ等の文系がよく使う方法である。さらに、文系は表現のレトリックも使うので、大袈裟で嘘っぽくなる。実は、私の文章も韻を踏ませることで、韻文的な表現のレトリックを使っている。
私もヒトという生き物なので、その日の気分によって、悲観的になったり、楽観的になったりする。それが、その日の文章に反映されることもあるし、ここに書いてあることに対して、社会的権威のような責任を持つ気はない。しかし、他者を傷付けるような誤解を招く表現があれば、指摘して欲しい。
基本的にここは、徒然なるままに心に映りゆく由無し事を書き尽くす場であることを理解して頂きたい。
私が「ぼやき」とか「悪口」を書いていると勘違いする人がいる。しかし、私自身はあくまで「こうすれば今の状況よりも良くなるかも知れない」という建設的意見が存在しそうな領域に関する「問い掛け」をしているつもりである。おそらく、その「問い掛け」に対して、はっきりとした自分の「答え」を出さないことが多いので、勘違いする人が出てくるのだろう。しかし、適切な「答え」とは、その人の置かれた状況によって何通りも存在すると思うので、結局その「答え」は自分自身で探すしかない。それは、将棋や囲碁で、各々の局面に応じた最善手を探すことと似ている。
「独創性」のある研究とは、「答え(結果)」の善し悪しではなく、「問い掛け(問題設定)」の善し悪しである場合が多い。つまり、研究者の重要な資質の一つは、如何に良質の問題を設定できるか否かにある。これは、普遍性を見抜く研究者の「眼力」とでも言えるだろう。ここに書いてあることの一部は、「ぼやき」や「悪口」などではなく、その「眼力」を養うための「問い掛け」の訓練だとでも思って欲しい。
昨年の9月末、研究開発支援総合ディレクトリ(ReaD)への登録を依頼された。それに対して私は、個人情報の開示を許可していた。数日前、そのIDとパスワードが届いた。もう遅いかも知れないが、取り敢えず詳細を記入した(日本語、英語)。
私見ではあるが、一般的に公務員は情報開示を嫌う。都合の悪いことは隠蔽して、なるべく公に出さないようにする。私は、自分の立場が公務員なのか自営業なのか判らないが、研究者として個人として何らかの評価が欲しいので、個人情報を開示して、できる限り多くの人に、私の研究と私自身を知って貰いたいと思っている。
このブログは、量的にも質的にも自身の精神的内圧を高めることと、誰かにそれを知って貰いたいということの、その二つの側面があるのかも知れない。
時折、「このブログに書いてある人物は、自分ではないか?そうであれば、この部分は違う」などと文句を言ってくる人がいる。その時、私は「あなたのことを題材にしたかも知れないが、あなたのことを書いている訳ではない」と答える。なぜなら、自分の主張を明確に表現するために、かなりの部分を脚色している(大袈裟に表現している)からである。だから、「…という人がいる」や「A, B ,C ...」というような表現で一般化(フィクション化)している。もし、その一般化された人物が自分と重なるのであれば、そこに記述されたような危険性があることを暗に示しているのだ。
多くの人は、相手の意見を理解できないという理由で反対する。しかし、科学者は、相手の意見を理解しないと反論できない。だから、科学の世界では、主張している人よりも反論している人の方が、その内容をよく理解していることが多い。
相手の意見を理解できないのは、その相手がバカだからという風潮を作ったのは、養老孟司さんの「バカの壁」かも知れない。彼自身はそのような考え方ではないだろうが、きっと多くの読者にそのような誤解を与えただろう。小泉首相もブッシュ大統領も、相手の意見を理解できないのは、その相手がバカだからで、自分の意見は常に正しく、それを理解できない相手はやっぱりバカだという感じである。
意見が対立することは、別に悪いことではない。議論を通して、互いの意見を理解できれば良いのだから。私の場合、議論の8割は相手の意見を理解することで、残りの2割が自分の意見を主張することである。相手に自分の意見を理解させるためにも、相手の意見を理解しなければいけないし、自分の意見は事前に熟考して理解しているわけだから、議論の時は相手の意見を理解する方にエネルギーを費やした方が良いと思うからだ。