サラリーマンの危機管理

解雇、退職勧奨、出向、配転・・・
他人事だと思っていた
「人生の危機がサラリーマンを襲う
うろたえるばかりでは事態は改善しない
権利を守るための知識を身につける一方
企業と自分との距離を見直し
生き方を考えなければならない時代が来た

 突然のリストラ解雇に最後の抵抗

 「佐藤さん、大変残念ですが対象者になっています。私としましては残っていただきたいのですが、会社の方針でそのように決まりました」 そう言って部長は退職金の額を提示した。規定の退職金に600百万円上積みされた数字が記されていた。
 「まさか」と「やはり」が頭の中を行ったり来たりした。さっきまで、「カズオ」とファーストネームで呼び、親しげに話をしていた部長が、ばかに丁寧な言葉使いで話している。その声がしらじらしく聞こえる。約10分間の短いやりとりの後、「私よりほかに辞めるべき人はいくらでもいるんじゃないですか」。そう言って、席を立った。
 11月の終わりの昼下がり。まさに晴天の霹靂だった。ショックなどという生易しいものではなかった。
 首都圏在住の佐藤一雄さん(44歳)仮名は昨年末、22年勤めた準大手ゼネコンを退職した。名目上は自主退職だが、事実上の指名解雇だった。

 宴の後の人員削減

 バブルに日本中が踊った80年代の後半から90年代初め、ゼネコンは我が世の春を謳歌した。放漫経営に政治家との癒着。が、諸行無常。バブル崩壊による経営の悪化、そして追い打ちをかけた汚職の発覚。夢から覚めると、佐藤さんが勤めていた準大手ゼネコンは1兆円の負債を抱え込んでいた。
 94年初夏。会社は4200人中1700人の社員の人員整理計画を打ち出した。ゼネコンでは最大規模のリストラ計画。「40歳以上の社員を対象に希望退職者を募る。年齢に応じ、退職割増金を支給する」と発表があった。表現以上に厳しい内容であることは察しがついた。
 リストラ計画の発表があった日、佐藤さんは「会社がたいへんなんだ」と妻に話した。クビになるかもしれない、とは言わなかったが、それとなく会社の状況は伝えておいた。 「自分だけは大丈夫だと自信を持っていた同僚はいなかったと思う」
 そう振り返るが、自身で「のん気な性格」という佐藤さんは、少し不安を感じながらも、自分に関係のあることだとは想像しなかった。周りの同僚の中には深刻になっている人も多かったが、自分が対象になるとは思えなかったという。
 課長補佐だった佐藤さんは建築技師。2年前から現場を指導する支店の管理部門に移っていたが、それまでは20年間現場一筋で、ビル建設の前線を支えてきた。飯場から飯場へ、旅人のような人生。独身時代は飯場に寝泊まりが当然だった。結婚後も仕事中心の生活。長男の顔を最初に見た時には、生後一週間が過ぎていた。「誰よりも一生懸命にやってきた」という自負があった。
 10月。毎日、机を並べて仕事をしている部長が「カズオ、資格はあるのか」と言った。酒席での何気ない言葉。気にはなったが、深刻な話とは思わなかった。
 社内ではさまざまなうわさが走っていた。組合を通して、社員全員を対象にした面接を行うという情報もあった。40歳以上の社員には面接で退職金が提示されるという話も聞いた。が、面接はなかなか始まらない。
 部長からそれとなく聞いて、リストラ対象者の基準がわかったのは11月に入ってから。「資格がない」「仕事の能力が劣る」「無断欠勤など、勤務態度に問題がある」「上司との折り合いが悪い」。 
 資格というのは建築技師の場合、一級建築士か施工管理技師の資格をいう。現場一筋で残業に明け暮れてきた佐藤さんは、二級建築士の免許しか持っていなかった。
 「もしかして・・・」
 漠然とした不安が、現実味を帯びてきた。それでも、資格のない同僚は案外多い。仕事に熱心でない人や見るからに能力の劣る人も、ほかに大勢いるようにみえた。
 それに、たとえ対象者になったとしても、退職は拒否できると思った。計画はあくまで自主的な希望退職者の募集であって、強制力のある解雇ではない。拒否すればいいだけのこと、と考えていた。.

 面談に戦々恐々

 が、実際はそうではなかった。
 面接が始まると、全社員を対象とした希望退職者募集というのは建前とわかった。若い社員はグループで雑談程度の面談があっただけ。40歳以上の社員でも、会社の現状報告を聞いただけの者もいた。一方で、退職金を提示された同僚がいる。水面下では幹部によって「クビ切り」対象者が選抜されていたのだ。
 そして、いよいよ、その日がきた。
 「何で俺が。資格がないというだけで、こんなに一生懸命働いてきたのに・・・」対象者ですと宣告された佐藤さんは拳を握りしめた。理由を聞くと、資格がないことと、支店には余剰人員が発生していると本社から指摘があった、と告げられた。
 が、一方で、拒否し続ければ会社に残れると信じていた。いざとなれば組合もある。結局、相談はしなかったが、当然組合は退職の強要は許さない方針だった。
 この日、帰宅した佐藤さんは、すぐに妻に事情を話した。心配症の妻に突然解雇されたなどと言ったらたいへん。状況は同時進行で説明するつもりでいた。
 小学校五年生の長男は、難関私立中学をめぎして週に六回、電車で40分もかかる進学塾に通っている。二男は3歳になったばかり。ここで会社を辞めるわけにはいかない。二人で話し合って、何としても会社に残ることに決めた。
 一週間後、また、部長に呼ばれた。前と同じ会議室で向き合った部長は、この時だけまた言葉使いを変えた。
 「考えていただけましたか」
 佐藤さんはきっばりと言った。「家族と相談した結果、それはできません。子供の教育のこともあるので、会社に残して下さい」
 しかし、部長の表情は硬かった。「そこを何とかお願いします。会社の方針ですので」
 会議室の中と外で全く表情を変える部長。普段は退職の話などないかのように時間が過ぎていく。それがかえって会社の決意の固さを示しているように思えた。「辞めません」とまた席を立ったものの、拒否し続けることば難しいと、この時思った。
 三日後、三度目の面接を告げられた。退職金割増制度適用の期限は迫っていた。この時は、人事部から再就職先を斡旋する資料が届いていた。佐藤さんにはクビの宣告に聞こえた。「前向きに考えましょう」
 そんな言葉を吐いてしまった。部長は「お願いします」 と言って、頭を下げた。
 妻も覚悟はできたようだった。「あんまり拒否すると印象が悪くなって、次の就職に響くかも」と、先を心配し始めた。だが、会社に尽くした22年を思えば、簡単に引き下がりたくなかった。辞めるにしても、最後の最後まで抵抗したい、という気持ちもあった。決心はつかなかった。
 三日後。また、呼び出しがあった。これで四度目の退職勧告。また、引き延ばしてやろうか。だが、面接以外の時はこれまでと全く変わらず自分に接している部長が哀れに思え、「このあたりが潮時」と妥協した。
 あっけない最後 「検討していただけましたでしょうか」と尋ねる部長に、「わかりました。退職金の増額支給を受けられるならそれでいいです」と答えた。これで22年間勤めた会社からの退職が決まった。その場ですぐ、希望退職の届けと人材バンク登録の書類を渡された。あっけない最後。手元に1400万円の退職金が残った。
 事実上の指名解雇。終身雇用が当然と思い、会社のため身を粉にして働いてきたサラリーマンにとってはまさに寝耳に水。が、佐藤さんは「別に、何も考え方は変わりませんよ」と言う。会社に対する恨みもない、と言い切る。
 「辞める方もたいへんだけど、残るのもたいへん。これだけ人間が辞めたらどれだけ忙しくなるか想條がつくから」 なぜ、そんなに平静でいられるのか。
 「根が楽天家だし、過ぎてしまったことをくよくよしても仕方ないからね。それに、ショックを受けている暇なんかなかったよ。家族を食べさせるために次の仕事を探すので必死だったから」
 幸い、退職から一カ月足らずで再就職が決まった。「会社の世話にはなりたくない」との意地で、自分で探した人材バンク五社に登録。生まれて初めて職業安定所にも通った。
 今度の会社は社員20人あまりの小所帯。現場の切り盛りだけをすればよかったゼネコン時代と違って、営業から、計画立案、予算の折衝と何でもこなさなくてはならないが、やりがいはある。年収も前とほとんど変わらない。
 新しい職場に慣れた佐藤さんに、元同僚らの動静が聞こえてくる。最後まで退職を拒否して残った友人は、役職を剥奪され、給料は減額、昨冬のボーナスは3分の1になったと聞いた。また、別の一人は、配転された。職場には机が一つ。「何もしなくていいから、ここにいろ」と言われて、5カ月が過ぎた。今も仕事はないという。

出向4回の重い教訓

 昼下がり。東京のオフィス街のロシア料理店。

 「もう一本」
 彼はビールを追加した。すでに時計の針は午後3時を回ろうとしている。昼休みなら、ということで応じてくれた取材がだいぶ長引いてしまった。しかし、彼は一向に気にしていない。
 周囲のテーブルからはサラリーマンやOLの姿はとっくに消えている。
 「時間はかまいません。どうせやることばないし、私は『企業内失業者』 みたいなものですから」。その言葉に彼の現在と、これまで歩んできたサラリーマン人生が凝縮されている。
 木川啓二郎さん=仮名=、46歳。数次にわたる会社の合理化や合併の大波にさらされ、出向に次ぐ出向の辛酸をなめながら、それでもしぶとく生き残ってきた。その軌跡と、木川さんなりの危機管理の哲学を追ってみる。
 木川さんが早稲田大学を卒業して、東証一部上場の大手海運会社に入社したのは1971年。社員は3800人近かった。最初の赴任地は大阪支店。北米、南米などの定期航路部門の営業担当だった。
 2年後、東京本社に戻り、コンテナ船のターミナル運営部門や、燃料の仕入れを担当する購買セクションを経て、不定期船の営業に配属された。東南アジア地域の担当である。
 33歳、最初の出向 だが、全くそれと同じ仕事をしている子会社があった。身内で競争するのは効率が良くない。親会社の仕事を子会社に移管して一本化しようということになり、最初の出向を命じられた。33歳になろうとしていた。この時は半年で戻った。
 「若かったし、あの時は出向しても戻れると思っていた。ただ、業務の一本化というのは、実は子会社つぶしであるとわかりました。本社の余剰人員を送り込み、その分、子会社の人間を減らすわけです」
 この4年ほど前から会社は深刻な経営危機に陥り、合理化を繰り返していたのである。
 木川さんは本社に戻った後、しばらくして今度はこれまで全く経験したことのない経理部へ移った。
 そして89年、会社は同業他社との合併を発表した。合併に伴い多くの社員がまた会社を去った。去ったというより去らざるを得なかったといった方がいいだろう。
 合併後の社員数は1200人。18年前に入社したときの3分の1にも満たない。木川さんは新会社になっても経理事務を続けた。移行に伴う種々の引き継ぎ業務や体制づくりがあった。
 しかし、それが一段落した2年後、業界で組織する、ある協会に出向を言い渡される。協会といっても木川さんと他社から来た年輩社員の2人だけ。仕事は何もなかった。
 「初めは当然断りました。本社に戻っても課長のコースがなくなっているだろうという不安があり、悩みました。小さいことだと思うかもしれませんがサラリーマンにとっては非常に大きな問題です」
 ほかに人がいない、考え直してくれと説得され、結局応じた。
 「断り続けても、今度は他の出向先を提示してくるだけです。合併に伴うスリム化やリストラを早くやるというのが会社の大命題なのですから。そして、2年で戻りましたが、案の定、課長のイスはなかった」
 それどころか、待っていたのは次の出向であった。船舶のメンテナンスの会社だ。社員は100人。といっても90人が現場の作業スタッフだから、日常オフィスにいるのはたった10人だ。
 「君はもうここ(本社)ではおしまいだ」とはっきり言われた。何やかやといっても、年功序列的体質が残っている日本企業だが、すでに木川さんより後輩から課長が出ていた。社内は相変わらず合併の後遺症が渦巻いていた。
 「合併は日本の土壌には合わないと痛切に感じました。表面的には円満でも、裏の駆け引きや派閥、罪のなすり合いが横行する。それに巻き込まれない方がいいと思った。それに44歳になって、バブル崩壊後のこのご時世では辞めても就職口はないと判断しました」
 木川さんは三たび、出向を受け入れる。移って2週間、その会社もまた合併のごたごたを背負っていることがわかった。

 「外圧」で辞めるな

 そして最近、そこからさらに社員20人の子会社に4度目の出向を命じられたのである。東南アジア関係の仕事が多いところだ。肩書きは次長。
 かつて若いころ、子会社つぶしで出向したように、今度は自分たちが子会社ごとつぶされてしまうかもしれない、という不安が頭をよぎることがある。
 何しろ、全く同じような子会社がもう一つあるのだ。規模もそれほど変わらず、営業地域も重複している。なぜ、こんなことが起きるのか。前にも述べたように、これも合併の後遺症である。両社とも合併前から、それぞれの子会社として存在しており、種々の思惑がからんで合併後も一体化することができないのだ。
 しかし、今後ますます合理化やリストラがスピードアップしたら、どうなるか分からない。はなはだ不安定な立場にいるのである。
 はっきりいって仕事はない。「朝、出勤すると、もう5時になるのが待ち遠しい。ワープロの前に座って営業成績の表をゆっくりつくったりして時間をつぶしていますよ」と言う木川さん。だが、その「社内サバイバル」、すなわちサラリーマンの危機管理に対する考え方や哲学には一つひとつ説得力がある。
 何しろ、合併も含む数次にわたる大合理化の嵐に翻弄され、流され、出向に次ぐ出向を続けながらもここまで生き延びてきたのだから、並ではない。出向や配転を拒否して、ひどい仕打ちを受けたケースなどが取り上げられがちだが、実は木川さんのようなケースこそ、サラリ−マンにとっては、より現実的で重く、そして示唆に富んでいるのである。
 ちなみに木川さんの大卒同期入社20人のうち、現在まで勤め続けているのは木川さんも含めてわずか5人。木川さんのように多くの出向を経験した者はもちろん皆無だが、現在では、1人を除いて4人が子会社へ出向している。
 木川さんは言う。 「自分で会社に見切りをつけた時以外は辞めないこと。辞めてくれ、と言われて腹を立てたり、一時の感情でそれに応じては絶対いけない。必ず後悔します。
 本当に倒産しそうな会社の場合は、逆に、自分から辞めるという判噺を下さなければダメです。辞めろと肩を叩かれてから辞めるのでは、もう遅すぎる。
 しかし、現実には、大企業はそうそう簡単に倒産しない。それなら、会社がある限り、残るべきです。自分から辞めると言わない限り、会社は辞めさせることはできない。そのことを肝に銘じておく必要があります」
 実際、木川さんの同僚にこんな人がいた。上司から辞めたらどうかと言われたが、断り続けた。結局、現在でも彼は在籍しており、退職を迫ったかつての上司たちは、逆に仕事ができないと言われ、辞めていってしまったのだという。
 また木川さんは「合理化を自分で受け入れる、つまり、肩を叩かれる形で辞めていった人たちは、なかなか前と同レベルの生活はできない。辞めるたびに生活レベルが下がるというのが、残念ながら一般的です」とも言う。
 そんな例を間近に数え切れないほど見てきた。「昔の会社は良かった。君は辞めるなよ。いいカネがもらえるのは、例えば、不動産業などのハイリスク・ハイリターンの業界だけだ」とかつての同僚たちは木川さんに忠告した。
 皆、合理化で会社を去っていった仲間だが、生活の苦しさがにじんでいた。木川さんもまた出向の連続だったが、辞めようと思ったことはなかった。

劣化するサラリーマン

 さらに木川さんは「経年劣化」という言葉をよく口にした。 「船は年数がたつにつれて性能や材質が劣化してくる。サラリーマンも同じです。長い間、会社生活を続けていると知らず知らずのうちに、心も休も劣化することがある。それに気がつかなくてはいけない。感情的になって辞めるというのは簡単だし、格好がいいかもしれないが、それはサラリーマンの経年劣化を理解していないんです」というのである。
 木川さん自身も、今後、何年この子会社にいることになるのかわからない。本社に戻ることはまずないといっていいだろう。またいくつかの子会社を回るのだろうか。
 しかし、どんな事態になろうとも、木川さんは自らが望まない限り、辞めるとは言わない。一見、会社の命じるままに流されてきたようだが、実は木川さんこそしっかりと会社というものを見つめ、冷静に対処しているのかもしれない。

 配転ショックで二度の辞表

 「化学オタク」を自認する乾正一さん(37歳)仮名は、「好きな仕事」 にこだわって、三つの会社を渡り歩いてきた。といっても、理想高く、より良い環境を求めて職場を変えてきたわけではない。「配転」が乾さんの人生を波乱に満ちたものにした。会社から化学を取り上げられそうになるたび、彼は新しい職場を探してきた。
 希望に満ちあふれているはずの日に、乾さんはがっくりと肩を落とした。
 新卒で就職した会社に入社したその日、自分が希望する事業部門が他社に売却され、すでになくなっていたことを聞かされたのだ。
 乾さんの専門は化学。高校時代、化学の実験で試験管の中の液体が、ほんの少しの薬品に反応して、一瞬のうちに色を変えた。その不思議さに惹かれて化学の虜になった。都内の有名私立大学に進学。化学を専攻し、サークルも化学部に入った。研究室と部室で薬品を入れたフラスコを振っているうちに、4年が過ぎていった。そういう大学生活を送った。
 就職も、もちろん、化学会社が希望だったが、折あしく、第二次オイルショックと重なった。化学関連の会社は不況で求人熱が冷めた。上場企業をいくつも受験したが、どこからも合格通知はもらえなかった。
 就職が決まったのは電子部品メーカー。希望の化学系とは違ったが、会社は半導体を製造していた。「半導体なら実験段階でも、製造段階でも化学薬品を使う。ここなら専攻が仕事に生かせる」。そう考えて受験した。
 入社面接の時にも「半導体なら化学の知識が生かせると思う」と面接官に話した。化学系の会社をいくつも受験したことを打ち明け、「化学の仕事がしたい」と強く訴えもした。そして、もらった合格通知。
 なのに、入社するとあこがれの半導体部門がないというのだ。工場ごとそっくり売却されてしまっていた。キツネにつままれたような感じ、そしてショック。乾さんは、電子部品の生産技術部に配属され、製品のテストとクレーム処理を担当した。化学とはまったく関係ない仕事。が、我慢して働いた。希望と違うとはいえ上場企業。当時で資本金23億円、社員700人の会社だ。そう簡単に辞めるわけに
もいかない。

 耳を疑う配転命令

 しかし、化学への思いは断ち切れなかった。会社から与えられた仕事がいやでいやで仕方なかったという事情もある。入社2年目の秋。乾さんは退職を決意する。 「切れちゃったんですよ」 当時を振り返り、乾さんは笑う。「仕事は見よう見まねでこなせましたけど、面白くないんです。僕はフラスコ振ってるのが楽しくて仕方ない人間なんですから」
 25歳。次の就職の当てもなく、会社に辞表を提出した。
 「いま考えると、会社の探し方が悪かった。大学の就職課は上場企業の求人票しか積極的には紹介しませんから。それだけで探したのが間違いでした。上場企業じゃなくたって良かったんです」
 次に就職したのは、金属関係の会社だった。人材バンクに登録して巡り合った会社。化学系ではなかったが、化学の仕事をするという約束で、部署指定で入社した。
 年収は前の会社とあまり変わらなかったが、株式は非公開、資本金3億円、社員は170人。規模は比べるまでもない。社会的信用、中高年になってからの待遇などを考えると、条件は落ちる。だが、満足だった。
 金属粉の表面の化学処理法の研究が仕事。ビデオテープやカセットテープの磁気記録材料に使う金属粉などの表面処理を研究した。
 仕事に打ち込み、退社時間が10時を過ぎることも珍しくなかった。それでも、毎日が楽しかった。 「配転」。上司の声に耳を疑ったのは、転職から10年が過ぎた年の秋だった。人事部長に呼ばれ、「超電導をやってくれ」 とだけ言い渡された。不採算部門のリストラ。残りたいと言っても部署自体がなくなる。外にはバブル崩壊の嵐。
 「超電導をやるなら前の会社は辞めてなかった」「化学の仕事をする約束で来たのに」。そんな思いが頭をかすめた。口をついて出てきた言葉に自分でも驚いた。
 「金属粉の仕事を研究するために来たんですから、この部署がなくなったら私にできる仕事はありません」

 初心貫き二度目の辞表

 二週間後、「そう言わずに、やってくれないか」という人事部長の慰留の声を振り切り、二度目の辞表を書いた。35歳。
 「独身じゃなかったら、できなかったかもしれませんね」
 そう自分でも思うほど、他人の目には無謀としか映らない決断だった。
 乾さんがいま勤めているのは、社員数50人の小さな化粧品会社だ。入社当時の資本金は500万円。技術を担当する理科系出身の社員は乾さんのほかに工場長1人しかいない。そんな小さな会社。それでも、乾さんが慎重に選び抜いた会社だ。
 二度目の退職から9カ月。その間、20社を超える会社から資料を取り寄せ、10数社の面接を受けた。会社に選ばれるだけではない、乾さんが会社を選んだ。化学の知識を生かした仕事がずっとできること。それを何よりの条件とした。
 不満もある。研究職といっても、研究室で試験管とにらめっこしていればいいわけではない。いまは笑って話せるが、最初に工場長が工場の草むしりをしているのを見た時には驚いた。乾さんも荷物運びなどの雑用から、原材料、試験薬の発注など「何から何まで自分でやらなきゃいけない」。
 収入は大きく変わらないが、福利厚生はゼロに近い。それに、明日も会社がある保証はない。のんびりと定年まで勤められるというわけではないのだ。
 入社して1年半。振り返って乾さんは「後悔はない」と言い切った。
 「化学の仕事、それしか自分にはないですから」
 続けた言葉からは、専門職への愛着と自負がにじみ出る。一貫して「化学」にこだわり続けた乾さんの半生。が、それは一方で「配転」に振り回され、会社を渡り歩いた半生でもあった。
 「サラリーマン? 正直いって、まだ何だかよくわかりませんよ。自分の決断が正しかったかどうかもわかりません。死ぬ前に良かったと思えればいいと考えているんです」

震災でクビ、失業給付も「払えない」

 阪神・淡路方面を襲った大地震。命、家族、家、仕事・・・。震災は人々から多くのものを奪った。パチンコ店で働いていた大前英志さん(30歳)は職を失った。
 アルバイトだったため、「雇用保険の失業給付金は支給できない」と言われ、途方にくれた。月収40万円。毎日の残業は4時間。新人社員の教育。これがアルバイト社員の実態だった。職業安定所とパチンコ店を相手に、失業給付支給を求める闘いが始まった。
 95年1月17日早朝。大前さん一家の目覚めは早かった。3日間休みをとって、一年ぶりの家族旅行。温泉に出発するはずだった。
 突然、ぐらっと床が揺れた。妻は二人の子供をかばい、大前さんは水槽を夢中で押さえた。
 自宅は被災中心地から少し離れた大阪市東成区のマンション。激しい揺れに見舞われたものの、被害はなかった。「たいしたことはない」と思って予定通り出発したほど。この地震で自分が失業することになるとは夢にも思わなかった。


 倒壊した勤務先

 連休が終わり、震災後4日目に尼崎駅前の店に出た。五階建てのビルの窓という窓はすべて大破していた。「もう、あかん」と思った。店の前で震えながら金庫番をしていた班長が言った。
 「君も次の仕事探さんとあかんで」大前さんは、それも仕方ないと考えた。目の前には、がれきに埋もれた街が広がっていたのだ。
 その4日後、大前さんは未払い分の賃金を受け取った。封筒を手渡した会社の幹部は終始無言。雇用関係などの説明は一切なかった。震災のどさくさに紛れ、一言の説明もないままクビを切られた。雇用保険の失業給付を受けるために必要な離職票も、もらえなかった。
 きっかけは新聞のベタ記事だった。小さな記事だったが、はっきり「失業給付はパートでも可」とあった。
 パートがいいならアルバイトにも当然給付されるはず。そう思って早速、自宅近くの職業安定所に行ったが、窓口の職員は「会社が雇用保険に加入していないからダメ」と取りつく島もない。記事を見せても相手にされない。職場のあった尼崎の職安に問い合わせても大同小異だった。
 大前さんは、被災者の雇用相談を始めていた「被災労働者ユニオン」の戸をたたいた。被災労働者ユニオンは、震災後の被災労働者の諸権利確保のため、2月上旬から尼崎と神戸で活動を始めていた。母体は、個人加入の地域コミュニティー労働組合で、大手スーパーのパート大量解雇問題、失業したパート社員の失業給付金獲得などに取り組んでいた。
 アルバイトといっても大前さんの月収は40万円を超える。もともと派遣会社からの派遣で、業界でのキャリアは4年を超えるベテラン。派遣期間終了後、実力を見込まれ直接採用された経緯があった。
 週5日、1日12時間の労働で、新人教習も担当する。実態は社員と全く変わらなかった。もちろん、雇用保険の失業給付を受ける資格もある。法的に雇用保険強制加入だ。したがって、理屈では未加入の会社や労働者はいない。失業給付の申請があれば事業主は過去にさかのぼって保険料を支払わなければならず、失業者は給付を受けることができる。

「バイトには払えない」

 ユニオンで受給資格があると説明を受けた大前さんは尼崎の職業安定所を訪ねた。電話では相手にしてくれなかったのに、「ユニオン」の名前を出すと対応が変わった。手続き書類を用意し、会社で印鑑をもらってくるように指示を受けた。
 しかし、これで一件落着とはいかなかった。会社に行くと、専務のほか居合わせた会社幹部は、職安でそろえてきた書類を回覧した上、「君らは雇用保険などないただのバイト。保険料を払うつもりはないレと取り合ってくれなかった。
 再び、職安に足を選んだ。今度はユニオンの幹部も同席。すると、職員の対応はさらに丁寧になり、大前さんらは所長室に通され、お茶まで出された。職員は「事業主が保険加入を拒否した場合は、職権で離職票を発行し、給付が受けられるよう処理する」と約束。被災の日から半年間、月収の七割が支給されることになった。あっけない幕切れだった。
 元パチンコ店店員の大前さんにはもう一つの顔ある。日本レオポルド・ストコフスキー協会代表だ。ストコフスキーは映画「オーケスラの少女」などで著名な指揮者。中学時代から研究を始め、高校生の時には代表になっていた大学入学後も研究を続け、3年間休学してヨーロッパで研究活動に従事した。国際研究組織の役員も勤める。
 89年、大学8年目の年、ストコフスキー編曲の「展覧会の絵」の楽譜を取り寄せ、日本初演奏プロデュース。CDも製作した。が、興行的には失敗し、600万円の借金を抱えた。大学を卒業後、派遣でパチンコの業界に飛び込んだのも、この借金を返すため。時はバブル。時給ほ2500円を超えていた。
 この半年を振り返って大前さんは「自分のためには良かった」と言う。
 「別の仕事をしたいと思っていたから、踏ん切りがつきました」
 雇用保険騒動でいろんなことが勉強できた。権利は知らないと、ないに等しいこと。役所は相手を見て対応を変えること。そして、結局は弱い者が虐げられること。
 大前さんはいま、簿記の学校に通っている。職安通いで資格の必要を痛感したからだ。元パチンコ店員というだけで、ずいぶん不利な扱いを受けた。それから、簿記の次は社会保険労務士の資格をとろうと思う。
 「素人じゃあかんて思ったんですよ。職安は弱い人にはひどい対応をすることがわかったから。勉強して、今度は因ってる人を助けてあげようと思ったんです」
 被災労働者ユニオンや大前さんらの地道な請求活動で、職安の対応は柔軟になった。それが、せめてもの救いだ。

会社の不正を指摘、懲戒解雇に

 懲戒解雇。これが、野村幸一さん(52歳)仮名が勤続25年目に会社からもらった卒業証書だった。
 94年11月。大手土木会社で現場所長を長く務めていた野村さんの手元に、一通の文書が届いた。懲戒解雇通知。自宅謹慎を命じられて3カ月、自宅待機を命じられてからは2年半の月日が流れていた。無念と怒りで、通知書を持つ手が震えた。
 この間、会社とは何度も話し合いを続けた。しかし、どんなに時間を費やしても話は平行線。野村さんの主張は会社に信じてもらえない。逆に印象を悪くするばかりだった。
 野村さんの話を基に「事件」を振り返る。
 「91年10月に、市が発注した下水道工事現場の所長として赴任したんですが、下請けさんから『野村さんは責任者じゃないと聞いてる』と言われたんです。私には何のことかわかりませんでした」
 現場に着任する前に、文書で正式な辞令をもらっていた。なのに、別の社員が来て、野村さんは責任者ではないと言ったというのだ。
 「現場担当の社員は私と事務員の2人でした。が、事務員が病気になり、私一人になりました。会社には何度も別の人をと頼んだのですが、結局、決まりませんでした。私は日曜日も休むことはできず、現場管理と事務の両方で、昼夜の別なく働きづめといった状況でした」
 指示が無視されつのる不信会、社が決めた下請け会社にも不信はあった。野村さんが現場に顔を出すと、作業員がいなくなることがたびたびあった。暴力団と関係のある会社だとのうわさも聞いた。
 納期直前の翌年3月。市による事前検査で、下水管のゆがみを指摘され、工事のやり直しを要求された。納期が迫っていたこともあり、会社は現場の応援に3人の技師と事務員一人を送り込んだ。
 「この3人が所長の私を無視して勝手なことばかりするんです。安全基準に合わない工法とか、市の設計とは違う材料を使ったりしていました。仕事はいい加減だし、ダラダラとやる。それだけでなく、私の目を盗んで、不正行為まで行っていたんです。実際はリースした資材を購入したことにして、下請けに請求書を出させていたこともありました。でも、こういうこともあるんだと思って、その時は見て見ぬ振りをしていたんです。それがいけなかった」
 工事はずさんで、再検査の時には「工事終了後、不備が出た場合には、土木会社の責任で再工事すること」との念書を書かされた。所長としては不名誉なことだった。
 工事終了後、野村さんを待っていたのは「自宅待機」の辞令だった。初めは、次の現場が決まるまでの暫定的な扱いと気にもとめなかったが、いつまでたっても、次の仕事の辞令はない。会社に問い合わせても「もう少し待つように」と言われるばかりだった。
 「工事の不備の責任をとらされたのではないか」
 疑念がつのる。ここから、野村さんの闘いが始まった。
 工事の不備の責任を転嫁されて次の職場が決まらないのではたまらない。野村さんは、下請け会社やリース会社に何度も足を運び、不正の「証拠」や工事中のさまざまな出来事についての「証言」を集めて回った。それを基に、本社に上申書を提出し、処遇の改善を訴えもした。
 この間、会社側は野村さんに「機材センター」への異動を命じた。職場は決まったが、調べるうちに潔白を証明しようと意地になった。野村さんは「不正の事実調査と社員の処分を先にするのがスジ」と譲らず、辞令を拒否した。
 会社と話し合ったが、会社の調査では野村さんが指摘するような不正はなかった。両者の主張はことごとく対立。会社は野村さんの主張は事実無根の一点張りで、気がつくと、八方ふさがりの状況に陥っていた。
 94年夏、野村さんは「謹慎休暇」を命じられた。理由は「事実無根の言説であたかも会社が不良施工を行ったかのように社内外に口外し、会社の名誉を傷つけた」「会社の幹部や管理体制を根拠なく批判し、社員としての品性に欠ける」「辞令を拒否するなど、組織適応力に欠ける」などとされた。野村さんには全く納得のいかない処分だった。

 解雇撤回求め闘う

 謹慎処分から3カ月、今度は、反省、自己改革の姿が認められないとして「懲戒解雇」を言い渡された。退職金の支払いもなく、野村さんは妻と2人、路頭に迷うことになった。
 野村さんは「工事の不備が自分の落ち度ではないことを証明したかった。そして会社を思って、会社の不名誉になることを止めさせたかった」と待機期間中の振るまいを説明する。が、会社にその気持ちは伝わっていない。表面的には、会社側が工事の不備について野村さんの責任を取り沙汰したことはない。状況として、問題の工事の後、野村さんに次の仕事が来なかったという事実があるだけだ。が、17年間、現場所長として働いてきた野村さんには、懲戒解雇の理由がほかには考えられない。
 現場初日、下請け会社から責任者とは聞いていないと言われたこと、事務社員の長期不在、下請け会社の悪いうわさ、一つひとつを考えると、自分が「嫌がらせ」を受けていたのではないかという、不信感もつのっていった。因果関係は全くわからないが、工事期間中、自宅近くに生ごみを撒かれたり、駐車場に油を撒かれたり、自宅近くを暴走族が走り回るといった出来事が続いていた。
 野村さんの主張が全面的に正しいのかどうか、判断は難しい。野村さんはやり直し工事の期間中、事務作業に追われ、肝心な不正の現場を見てはいない。事後の調査から、不正を指摘しているにすぎないのだ。
 現在、野村さんは懲戒解雇の撤回を求めて、会社と話し合いを進めている。野村さんの希望はあくまで円満復帰。復帰に伴い、解雇から復帰までの給与と慰謝料の支払いを求めている。が、いったん関係がこじれ、話し合いを持つたびに互いの不信感だけが増幅される現状では、現場復帰は難しそうだ。 勤続25年。悔やみきれない離縁」となりそうだ。

サラリーマンの危機管理
その1(突然のリストラ解雇に最後の抵抗、出向4回の思い教訓)
その2(配転ショックで2度の辞表、失業給付も払えない、会社の不正を指摘懲戒解雇に)
その3(知識ノウハウで身を守る)
その4(タフに明るく脱会社人間を指南)