私は以前、病院に勤務していました。
そして、その病院の職員寮に住んでいました。
初めて入った部屋は4畳半一間でした。悲しい事にその部屋だけ真北を向いており、日光が射さないのはもちろんの事、風さえもほとんど入らないひどい部屋でした。入寮して約半年後、私の部屋の向かい、南向きの8畳の部屋に急遽移れる事になりました。当初は非常に嬉しかったのですが、その部屋では色々不思議な事が日常的に起こりました。やがて慣れてしまうのですが、途中精神的にもやられて無気力な状態に追い込まれてしまいました。


 それでは、急遽部屋を移ることになった経緯から説明します。

 同じ職場の先輩に少し変った人がいました。
非常に物静かな人でしたが、かなり癖があり、私は普段殆ど会話をしませんでした。
その先輩が後に私が入る事になった部屋に10年位住んでいました。

 ある日の夜、その先輩は何を思ったのか隣の部屋のベランダに干してあった洗濯物にライターで火を点けました。隣の住人は同じ職場の同僚で、普段からあまり仲は良くなかったのですが、放火するほどの諍いがあった事はありません。幸い大事に至る前に気が付き、すぐに消し止められました。


 火をつけられた側は当然怒り、警察を呼びました。
制服の警察官数名と、ドラマに出てくるような刑事2人が来て、火を点けた先輩を尋問し始めました。当たり前かもしれませんがこれは「放火事件」です。放火は重罪です。しかし職場の主任が当人同士とよく話し合い、とりあえず被害届けは出さない事になり、刑事は大層不満顔でしたが、引き上げて行きました。

 そんな事件を起こしてしまっては職場に居られませんよね。
仕事は極めてまじめだったので、温情でクビではなく依願退職という形で辞めて行きました。そこで急遽部屋を移る事になったのです。


 その先輩の引越しの手伝いで始めてその部屋に入りました。
入った最初の印象は「エッ・・」でした。庭に面した大きな窓があるのですが、その窓の前には何年も開けたことが無いような分厚いカーテンが引いてあり、更にその前には箪笥が置いてありました。部屋には全く日が射しません。それから更に驚いたのは壁です。あちこちに「無数の釘」が打ち付けられていました。初めは何か掛ける為に打ってあるのかと思いましたが、それにしても釘の数が尋常ではありません。真っ直ぐだったり、折れ曲がっていたり、長いのや短いのなど様々です。非常に気味が悪いです。
それよりも参ったのが、壁だけでなく、天井から備え付けの家具にまで、部屋中びっしりと描かれた落書きです。何が描いてあるかと言うと、大きさや形など様々ですが、全て「渦巻き」です。鉛筆・ペンキ・マジック・・・。描ける物なら何でもと言った感じです。
「いやぁー・・・なんだこれ?・・・すげぇーなぁー・・・」他にも数名手伝っていたのですが、皆呆気に取られていました。


 私がその部屋に移る際、自費で壁を塗りなおしたり、部屋中の穴を塞いだりと大変でした。
壁の塗り直しは4回もしました。その都度かなり厚塗りをしたのですが、暫くすると「渦巻き」が浮き出てくるのです。本当に参りました。

 そんな部屋でも慣れてしまえば、日当たり、風通し共に最高で、非常に快適でした。暫くは・・・・。


 最初の「異変?」「虫」でした。
1階の部屋だったので、少しくらい虫がいても別におかしくもないのですが、大変な事がありました。
 
  ある日、仕事から帰ってきてドアを開けると部屋全体が黒いのです。そして天井から壁までが動いています。「何だ?」と思い電気を点けて息を呑みました。「部屋中1面の虫!」です。全て「羽虫」でした。ゾゾゾッーと鳥肌ものです。一度部屋を出て廊下で少し考えましたが、何とかしないと寝るところもありません。思い切って部屋に入り全て掃除機で吸い取りました。一度には吸い取りきれず、中身を外で空けて逃がし、全て吸い取るのにもう一度満杯になるほどでした。掃除機の中を開けた時、いやぁーほんとに思い出したくもないのですが、モゾモゾ動く黒い塊ですよ!参りました。何処からこんなに沸いてきたのか不思議でした。一段落した後、隣の住人を訪ねました。同じように窓は開いていたそうですが、アリ一匹入って来ていないとの事です。二人して首を傾げてしまいました。
ここまで酷いのは一度だけでしたが、「天井一面」は日常茶飯事です。羽虫だけでなく、何だか良く分からない虫や蛾の類も多かったです。しかし、たかが虫です。これにも慣れてしまいました。


 大変不思議だったのは、「雀」です。何処にでもいる鳥の雀。
休日の昼間、天気が良かったので窓を開けてのんびりとテレビを観ていました。
すると、その窓から突然雀が一羽飛び込んできて、壁にぶつかりテレビの後ろに落っこちてしまいました。びっくりしましたが、怪我をしたかもしれないので助けてあげようと、慌ててテレビの裏を覗き込みました。「あれ?」いません。テレビの裏には特に何も無く、隠れるところなど無いのに雀は見当たりません。テレビを移動させたりして1時間程探したのですが、何処にもいませんでした。「確かに飛び込んできたよな?」「すぐに探したよな?」「窓から逃げてないよな?」頭の中は「???????」です。暫くあれこれ考えたのですが、何だかアホらしくなって外出してしまいました。本当に雀は何処いったんだ?

 慣れるのに時間がかかったのは「音」でした。
音、どの様な音かと言いますと、「バリバリバリッとかピキッー」と部屋の中で突然に鳴る音です。
朝と言わず昼でも夜でも、特に決まっている訳ではないのですが、突然鳴るのです。
初めはただびっくりするだけでしたが、あまりにも何度も鳴るので、ある日、何処から音が鳴るのか突き止めようとじっと待っていました。それで分かった事は、何処でと言うより、空中でした。とにかく何も無い空間で突然音がしていました。「これってもしかしてよく言われるラップ音?」と思いましたが、何だったのでしょう。とにかく、この音に慣れるまでは、かなり精神的にやられてしまいました。

 しかし、慣れとは怖いもので、あれほどビクビクして過ごしていたのが、暫くすると突然鳴る音も怖くなくなり、逆に腹立たしくなりました。音が鳴った時などは「うるせーからどっか行け!このバカ!」と怒鳴り返すようになっていました。気にせず相手にしなくなると、この変な音はぴたりと無くなりました。

  それからこんな事もありました。ある日の夜、壁に枕をつけて寝ていると「コンコン・・コンコン」とノックの様な音がして目を覚ましました。「あれっ?誰か来たのかな?」時計を見ると明け方4時になろうかと言う時間です。しかし、玄関のドアを叩いているようではありません。「うーん?何処で音がしたのかな?」暫く寝ぼけていたのですが、それ以上聞えては来ず、そのまま寝てしまいました。次の日もまたノックの様な音で目覚めました。「コンコン・・コンコン・・コンコン」。玄関からではありません。頭の後ろの壁からです。私の部屋は廊下の突き当たりにあります。つまり一番奥の角部屋。壁の向こうは外です。幾ら何でも、小さいながらもコンクリートの鉄筋3階建てです。外壁の厚さを考えたら、外から叩いてもはっきりとした音は部屋の中まで響きませんよね。きっと壁の中に配管でもあってそれが音を出しているのだろうと思い寝てしまいました。


 その次の日、総務部に用事があり、ついでに配管の音がうるさくて目が覚めてしまうと苦情を出してみました。早速調べてもらったのですが、意外な事に私の部屋に面している壁の中には配管の類など無いとの事です。そんな事を言われても現に音はしています。では何の音だろうと思いましたが、その時は特に気にしませんでした。しかし、それ以降、頻繁に音がするようになりました。毎日ではないのですが、週に2〜3回はありました。
 さすがに眠っているところを起こされるので、いい加減に頭にきていました。休日の前夜、音の原因を確かめようと、いつものように布団に入りはしましたが、寝ないで音がするのを待っていました。
 
  夜中の3時をまわった頃、眠くてあきらめかけた時、「コンコン・・・コンコン」といつもの音が。今回は起きていたので、初めてはっきりと聞きました。
「これは・・・」今まで壁の中か外の音が何らかの反響で聞こえてくるのだとばかり思っていたのですが、違いました。問題の壁を部屋の中から、私の頭のすぐ上を誰かが叩いている音でした。まるで「起きろ」と言わんばかりに・・・。
「誰かいる!」私は全身鳥肌状態で、凍りついたようになってしまいました。
頭のすぐ上の壁を叩いていると言う事は、私の顔の横辺りに立っている事になりますよね。
姿は見えないのですが、気配の様なものはガンガンに感じます。
「うわーどうしよう!困ったなー・・ 」暫くじっとしていたのですが、2回目の「コンコン・・・コンコン」が。
「これはダメだ!どうしよう・・・」「でも・・・このまま怖がっていてもどうしようもないし」何故か段々腹が立ってきて、「このままではコイツはもっと調子に乗って何をするか分からないな・・・」と思い、一気に布団を跳ね除け起き上がりました。すばやく明かりを点けたのですが誰もいません。気配も無くなっていました。無性に腹が立って、からかわれたと思うと体がワナワナ震えるほど怒り心頭でした。

 いい加減この部屋から出たいなぁーと思い始めた頃、笑われるのを覚悟で、職場の上司に今までの部屋での出来事を話し、相談してみました。その上司は笑うどころか、段々真剣な顔をして熱心に聴いてくれました。全て話し終わった時、徐に上司が言いました。
「実はな・・・お前がいる寮は、3つある寮の中でも一番古く、今までも色々な事があったんだ・・・」ここでは詳しく書けませんが、数人の職員が自殺しているとの事でした。「お前の他にも、今まで数人おかしな事が起こると言って、寮を出たのがいた。だから、お前の話は信じるよ。」との事。本当は心の何処かで「何バカなこと言ってんだ!」と笑ってほしいと思っていたのかもしれません。今まで知らなかった嫌な話を聞かされて、尚且つ真剣な顔で「信じるよ」って言われたものだから、あの部屋にいるのが本当に嫌になってしまいました。


 それから一ヶ月後、後にも先にもこれ一回、生まれて初めて金縛りに遭いました。低い声でウーウー苦しんでいる声が、私の耳元で延々と唸っていました。その上、私は何故か息が苦しくて苦しくて本当に死んでしまうかと思いました。非常に怖かったです。

 金縛りに遭った翌日から、仕事から帰ってきて部屋のドアを開けようとすると、誰もいないはずの部屋の中から、小さい声なのですが、数人の話し声が聞こえるようになりました。漫画に出てくるような、小人が甲高い声で話しているような感じです。
「ゲッ!」となりましたが、思い切ってドアを開けると当然ですが誰もいません。
そんな事が毎日のように続き、一度などは非常に楽しそうな笑い声がしてきて、大変盛り上がっている様子でした。

ここ辺りから「もう限界だぁー・・・」と思うようになり、たまたま友達から別の仕事の誘いもあり、思い切って仕事を辞めてしまいました。


 私の部屋でいったい何があったのか知りませんが、とんでもない部屋でした。
前の住人の先輩は、よく10年も住んでいられたなと思いましたが、引越しの時に見た部屋の様子や、辞めていった理由を考えてみれば、ひょっとしてこの部屋の出来事のせいで、段々おかしくなってしまったのかなと思いました。


 ちなみに、この病院は板橋区にあり、その寮は今でも使われています。