「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」は、男性にとっては、三つの要素を同時に楽しむことが可能な物語である。
以上三人の内、ジャック・スパロウとウィル・ターナーが主人公である。ここで、主人公が二人以上いることを「複主人公」と呼ぶ。複主人公という作劇方法を用いることで、この物語は面白くなっている。
ジャック・スパロウというキャラクターは「ピーターパン」のフック船長を超えるために造形されたキャラクターである。
「ディズニー映画の海賊の船長」から即座に連想するのはフック船長である。そして、フック船長によって典型的な海賊像というものが出来上がっていた。ジャック・スパロウにおける典型的海賊像との違い、あるいはキャラクターの新規性とは、「海賊の船長」という属性と「永遠の子供」という属性を掛け合わせたことにある。永遠の子供とはピーターパンを指す。
「ピーターパン」では、大人の代表としてフック船長を、子供の代表としてピーターパンを登場させた。なぜなら、「ピーターパン」という小説を成立させる為には、まず、「大人と子供」という属性を完全に分離する必要があった。さらに、それらの属性を持たせた全く別の人物を提示しなければならなかった。
ディズニー作品として「ピーターパン」という前例がある以上、フック船長というキャラクターは絶対に超えねばならなかった。その解答がジャック・スパロウである。
また、ジャック・スパロウはトリックスターである。トリックスターは神話から脈々と続く古典的な役柄である。かつ、トリックスターは子供っぽさの象徴でもある。この映画においても、ジャック・スパロウはトリックスター性を遺憾なく発揮している。あるいは、「大人と子供」という属性を掛け合わせると、必然的にトリックスターのような属性になる。
ウィル・ターナーの物語は、無資格者が古典的資格者に転ずる過程である。
ウィル・ターナーは伝説的な海賊、ブーツストラップ・ターナーの一人息子である。その徴として、北アメリカ原住民の金貨をネックレスにしていた。が、その徴が一時的に剥奪され、自分の身分や血統を知らずに鍛冶屋として生きてきた。通常、鍛冶屋は古典的資格を持っていない。鍛冶屋に甘んじていた人間が冒険を行うには、それなりの資質が必要である。その資質の片鱗は映画序盤で提示される。ジャック・スパロウとの殺陣である。ただの鍛冶屋ならば、海賊の船長という古典的資格者と互角に戦うことは出来ない。この殺陣により、視聴者は、ウィル・ターナーには古典的資格がありそうだと判断するのである。
さて、ウィル・ターナーの物語は以下の通りである。東インド会社のスワン総督の一人娘、かつ幼馴染であるエリザベス・スワンを救うため旅に出て、最後には彼女の愛を手に入れる。その過程において、自らが伝説的海賊の一人息子である、と自覚した瞬間、古典的資格を手に入れることができた。
女性を救うための旅に出て、旅の過程で自らの資格を自覚しあるいは教えられ、何らかの悪を討ち破り、恋人を得る。ウィル・ターナーに関する筋書きは、非常に古典的である。古典的であるということは既知すぎて面白みに欠ける一方、物語に揺るぎない安定感をもたらす。ここでバランスが重要になってくる。あまり古典的寄りではダメ、一方、斬新過ぎても観客が付いてくるかどうか解らない。そのため、物語にジャック・スパロウというカンフル剤を打ち込んだのである。そして、「パイレーツ・オブ・カリビアン」が三作目まで製作されたところを見ると、その試みは成功したと言える。
バルロッサ船長は、悪役の現状を体現しているキャラクターである。
男性は悪役にも憧れる。あるいは、「男性の悪役」という典型が歴史において示され、蓄積されてきたことを示す。英雄の歴史とは、裏を返せば、相対的悪の歴史である。通常、古典的物語における悪役は、作品が始まった時点で既に古典的資格者である。
一番重要なのは、バルロッサ船長の復活である。死んだと思われたバルロッサ船長は、「デッドマンズ・チェスト」のラストシーンにおいて、林檎を齧りながら登場する。
「生きながら死んでいる→死ぬ→復活」という過程は、悪役という役割の現状を暗示している。つまり、「悪役・悪の親玉・悪の頭目・悪の頭領」という役割は、現在 (2007年) においては、生きながら死んでいる状態である。バルロッサ船長のように、肉が無く骨だけという悲惨な状態である。その状況を打破する為、あるいは悪の復権の為、バルロッサ船長の復活が描かれたのである。