地下ゲームについて

序論

事物を語るとき、その発生と定義はおおよそ同等な事柄として捉えられる。 自然界のほとんどにおいて、発生要因が定義であるからだ。 このコンピュータ社会においてもそれは例外ではない。 試行錯誤より発生した規格・約束が一般的になることにより、それらが標準となる。 逆に、定義から発生した人工物は、言うまでもなくある種の理想である。 生物においても、発生時点においてそれが生命であったのか、有機物であったのか、または無機物であったのかは、その歴史や潮流を詳しく探らないと解明できない。 今の我々や地球上の物体は、生物/無生物とはっきりと区分けされている。 しかし、初期の段階においては、その区分・定義が明確ではないのである。

すなわち、定義から物事が起こるのではなく、物事を一つの集合にまとめ、要素の共通点を洗い出すという作業が、「定義する」ということである。

アンダーグラウンド <地下性>

インターネットという巨大な情報網では、社会表面には出現し得ない情報の流通経路が確立できる。 世界の同時刻性や無国境化という様々な現象を起こしている。 インターネットとはTCP/IPとかいうプロトコルで成り立っていて、様々な情報の流通、共有、供給が行われている。 ようするに、電気信号を送って、それを回路的に変換して、0/1のディジタル情報にして、そのディジタル情報をさらに文字コード・画像・音楽・映像など、人間が認識できる情報にする「システム」である。 情報は様々な媒体によって発信される。 我々の身の回りで存在するのは、新聞・ラジオ・テレビ・書籍・映画などである。 そのいずれも、視覚・聴覚を必要とする媒体であることがわかる。 現在の技術では人間が認識可能な五感のうち、視覚と聴覚を刺激する情報のみが送信可能である。 嗅覚情報を送る技術もあるが、これは今のところ普及していない。

一部ゲーム機器には、コントローラを通じて振動を伝える機種も存在する。 後述するが、多くの業務用ゲーム特にレーシングなどのゲームは、画面に合わせてシートが動くものもある。 さらに、家庭用ゲーム機器においては、任天堂の「ニンテンドウ64」には振動パックという附属品によって、 ゲーム画面と一致した振動を手に伝えることができる。 同じく任天堂のドルフィン、すなわち「ニンテンドウゲームキューブ」は振動パック着脱の頻雑さから、振動部分をコントローラに内臓している。 それより時代は前になるが、ソニーの「プレイステーション」は振動部品内臓のコントローラを作成している。

さて、これら文字、画像、音楽といった情報の「アンダーグラウンド <地下性>」とはなんであろうか。 大きく分けると、犯罪に抵触する情報、あるいはモラルの低い情報である。 これより実例をあげて、その二点を深く掘り下げてみよう。

犯罪への抵触

ネット上での大きな問題の一つは、性的情報の氾濫である。 問題となるのは、ペドなどといわれる、幼児、低年齢者を目的とした性的情報である。 これはありとあらゆるメディアで報道され、児童ポルノ法案などにも見るようにある程度の改善が見られる。 しかし依然として地下的な活動が盛んであり、取り締まりも今後厳しくなると予想される。 また、ごく一般の性的情報・サイトなどに関しては、日本では風俗営業の法律を当てはめることが出来る。 その法律を守りさえすれば「ネット上での性風俗」が営業できるのである。

もうひとつの大きな問題は、著作物の著作権についてである。 これは、おもに音楽情報において問題となっている。 音楽市場がCDというディジタルメディアを販売していることと、音楽はディジタルと非常に親和性が強い、という自己矛盾を発端としている。 さて、人間音声の発生周波数領域はおよそ1[kHz]であり、人間の可聴周波数領域はせいぜい20[kHz]である。 これは、CDのサンプリング周波数(サンプリングレート、あるいはナイキスト周波数/標本化周波数)を40[kHz]程度にすれば、遜色ない音楽情報が提供できることを示す。 衆知のように、現在のCDの規格は直径12cm、サンプリングレート44.1[kHz]、16bitであり、CD一枚の情報量は700M[Byte]である。

いまや伝説となっているが、「CDには交響曲一曲が収まるだけの大きさが欲しい」という会話より直径、すなわち情報量が決定された。 ネット上での音楽の繁栄は、人間にとっての音楽の重要性を解き明かさなくてはならないが、その論点は保留としておこう。 ただ現状として、音楽はいまや工業的に大量生産され、その作り手は世界各国どこにでも存在し、聞き手の方はその何十倍もいて、安価で上質な音楽を絶えず望んでいる、という事実の上で話を進めなくてはならない。


あとは映像と文字であるが、これは今のところ問題ではない。 映画などのメディアについては、情報量の巨大さゆえにネット上での流通を今は免れている。


書籍で供給される情報については、これは完全なディジタル化が可能である。 文字と文字コードの完全な一対一対応を取れば、どのような文字情報もディジタル化が可能であるからだ。 しかし、書籍のネット上での流出を阻む要素はいくつかある。 書籍からのディジタル化の作業は「タイピング」や「OCR」といった手間のかかる方法である。 また、画面上の文字を読むのと、紙メディアでの情報を読むのでは、まだ人間は心理的な違和感を感じるようである。 書籍というメディアは、ワープロといった機器でディジタル情報として作成されているにも関わらず、それをいちいちアナログ情報として流通させる奇特なメディアである。 これらの観点から、書籍の著作権はそれほど問題になっていないといえる。

モラル・政治的社会的な不穏さ

地下文書という、文学の一派がある。 政治に対する誹謗中傷、政府に対する闘争方法・組織論、情報源不明の情報、軍隊の指導書、薬物の合成方法などがそれにあたる。 日本における地下文書は、最近は日米安保時に反乱したものである。 腹腹時計、栄養分析表など、敵対勢力に対する論理武装、組織結成方法、地下潜伏の仕方、具体的闘争・市街戦・武器の情報が掲載された反政府的文書と定義できる。 これは、ネットが出来上がる前から<アンダーグラウンド>であり、<コンピュータウィルス>のように全く同じ性質をもつ。 反政府的・反権力的・対国家的な思想をまとめたものが、地下文書である。

秘密結社

秘密結社の内容については、秘密結社が秘密結社である所以、全く公開がなされていない。 現在公的に認められている秘密結社は、国会議員と宗教法人である。 あからさまに秘密結社的であるこの二団体が、あらゆる国家で占める地位が高いということは、人間社会の<地下性>を強く想起させる。 かつて秘密結社とは、誠に宗教的で、国家・支配体制から見ると明らかな弾圧の対象であった。 その弾圧対象とは主に言論活動である。 日本においても秘密結社的存在は見受けられるし、その弾圧も存在する。 秘密結社が登場して反国家的活動を始めるのは、権力の崩壊期あるいは発足期いずれかである。 歴史の表面にぽっとでてくるもの、この時期である。

ゲーム性

パソコンという半導体技術の結晶において媒介されるゲームとは、いかなる形態をとるのだろうか。 高度に発展した機械文明の中において、パーソナル・コンピュータは徐々にその存在を拡大させ、地位も向上させている。 それにはコンピュータの歴史や、それに関する社会の流れ、あるいは人物について語らなくてはならないだろうが、ここでは割愛させてもらう。 ここで問題とするのは、ゲームの本質、つまり「いかなるゲームがおもしろいか」である。 おもしろくない事柄には必ず理由が存在する、しかしおもしろいゲームには定石は無いのであり、定石を破ることがおもしろさなのだ。 ゲームにおける分類、定石、パタン、それら固定要素から脱却したゲームは、たいてい成功を収めている。 このことは重要なので頭の片隅に記憶しておいて貰いたい。

さて、用意が出来たところでそろそろゲーム性の解析に移る。 提起される問題は、その範疇が狭ければ狭いほど解析が楽になり、問題点も明確、回答までの時間は往々にして短縮されるものだ。 私が提起する問題は、「ゲームのおもしろさの要素には、どのような種類があるのか」である。 これを解明するのには、大雑把にゲームを分析することが必要である。

まず、「ゲーム」という概念を探ってみよう。 現在、ゲームという用語から想起されるのは、一般的なTVゲームやコンピュータゲーム、あるいはスポーツ、賭博、などである。 ゲームの起源というのがスポーツや賭博だといのは、当然予想がつく。 それを定式化し、モデル化させたものが大部分の「ゲーム」である。

ここで問題となるゲームの手法は、モデル化という作業である。 モデル化とは、複雑で広範にわたる出来事を、数値・記号を用いて出来事を置き換える作業である。 ゲームにおけるモデル化とは、まずスポーツゲームに対して行われる。 サッカーは、世界中どこでも通用するスポーツであり、四年に一度ワールドカップが開催される。 単一のスポーツにおいて、世界規模で大会が開催されることは少ない、ということから、サッカーの浸透ぶりが伺える。 その人気に乗じて、市場には数多くのサッカーゲームがで出回る事となるのだ。

モデル化というのは多くの頭脳を使うゲームにも適応される。 AIとの対戦を楽しむチェス・将棋等のボードゲーム、あるいは麻雀、カードゲームなどがそれである。 これはある一定の数学的ルールに基づいて遊ばれるため、非常にプログラミングしやすい、つまり数式によりモデル化しやすいという利点が挙げられる。

シューティングやシミュレーションも、やはりモデル化されている。 シューティングはどちらかといえば事実的なものが多く含まれるが、シミュレーションは実際の戦争に使うようなゲームである。 つまり、モデル化の度合いから言えば、シューティングは敵弾を交わし敵を落とすということをモデル化し、シミュレーションは数値で戦局をモデル化したものである。

ロールプレイングは、古くはD&Dなどのテキストベースのゲームであった。 これは、モデルとしたのは古来からある伝説や活劇である。 冒険を主として自己を主人公とし、その架空世界の中で活躍するゲームである。 あるいは、現在は日常をRPGするなどというゲームもあり、一概にRPGがモデル化のゲームとは言えない。 しかし、RPGで常に主体となるのは人間感情の動きである事を忘れてはならない。

次に、非モデル的なゲームである。 この非モデル的なゲームは現実世界にその原型をもたないゲームである。 あまりにも漠然としているため、我々はその内容をつかめない気がするが、ここで例をあげてみよう。 テトリスというゲームがある。これは落下物を空間に充填するいわゆる「落ちゲー」であり、ロシアのゲームである。 落下という概念は我々の世界にも存在するが、テトリスのように空間を充填し、一列が充填完了されたならばそれが消滅する、ということは起こりえない。 つまり、落下物を空間に充填させ、そしてその充填の効率のよさ、図形空間認識を試すために開発されたというテトリスは、「非モデル的」なのである。 モデルが無いということは、その源流は全て個人や集団の発想に拠っている。

以上のことから、ゲームを次のように分類する。

  1. 現実の行動をモデル化したゲーム
  2. 数学的にモデル化が容易なゲーム

また、冷戦中に、割と新しい学問である「ゲーム理論」が出現した。 これは囚人のジレンマに代表されるようなゲームである。 囚人のジレンマで高得点を挙げることの出来るプログラムは「しっぺ返し」だと言うことも、衆知の事実である。 冷戦という、複雑な状況をモデル化し、簡略化したところにゲーム理論の醍醐味がある。 あらゆる状況が解き明かされ、シミュレートされればそれはゲームにも通じるところがあるだろう。

あるいは現在日本のパソコンゲーム業界を見てみよう。 現代のパソゲーは、合法と違法、18禁と非18禁、同人などというカテゴリに区分されている。 ネットワークを通じて、ありとあらゆる種類のゲームが模索され、淘汰されていった。 その激烈な中で生き残っているゲームの遺伝子が、上のようなカテゴリなのである。 これからのネットワーク広域化にむけて、ネット対戦が可能なゲームも続々と発売されるので、これらのネットゲーム=不特定多数と世界を共有するというゲームは、淘汰の時期に入る。

パソコンの普及は、ゲームの供給されている場所も変えた。 コンピュータ以前は、ボードゲーム・カードゲーム・賭博・スポーツを現実で行うしかなかった。 しかし、コンピュータが大学等の研究室に納品されると、そこでコンピュータゲームが発生したのである。 研究室をそのネットワークを介して発生したコンピュータゲームが市場を作るまで、そんなに時間はかからなかった。 ゲームの多くは家庭用と業務用とに区分され、業務用は「アーケード」などと呼称された。 アメリカでの家庭用ゲームの始祖は、言うまでもなくアタリであり、アタリショックの後は日本企業「任天堂」が進出した。 家庭用ゲームはそれ固有のハードウェアで楽しむものである。 そこに次第に隙が出てくる。パソコンの家庭への普及だ。 汎用コンピュータの用途は、汎用らしく広い。ビジネスにも教育にも、そしてゲームにもその活動を広げていった。 日本ではパソゲー専用機として長らくPC98という「古き良き時代」というものが続いた。 そこでWin95が登場し、ゲーム業界はさらに変動を続けるのである。

ゲーセンの発生は、喫茶店でのインベーダーや麻雀にさかのぼる。 インベーダーゲームやパックマンなどはゲームの古典であるが、それはゲーセンという新しい消費の場を生むに至った。 日本でアーケードゲームが爆発したのは、ストリートファイターという2D「格ゲー」の登場と、それに続く3Dのバーチャファイターである。

いま日本の格ゲーは、このいずれかの遺伝子を受け継いでいるのだ。 ストIIとバーチャを主軸としたゲーセンは、DDR・BMなどの「音ゲー」の登場を境に、消えてゆく。 これは、ゲーセンで成しえたハイスペックが、家庭用ゲーム機でも実現可能となってしまったからである。 DDR当時はペンティアムのスペックが1GHzを越えるか否かであり、家庭用ゲーム機はPS、サターン、N64である。 PSはソフトの多さから任天堂のサードパーティーを奪ってゆき生き残り、N64はポケモン人気に支えられる形となって生き残った。

悲劇の会社セガのハードは「売れない・買わない・流行らない」などの伝説を無数に有するが、サターンもドリキャスも類にもれなかった。 が、セガのソフト開発力は任天堂・スクウェアなどに匹敵し、業務用の知名度もやはり高い。 ドリキャスのオンラインゲームである「PSO」は、時代を見越した新しいネットゲームとしての地位を得ているし、家庭用ゲームでは初のネット機能を取り付けた強みともいえる。 PS2やXbox、それにGCという先端をゆくハードは、それに追いつくような形で展開を始めるものと想われる。 ここで複合的に、パソコンでは家庭用ゲームとほぼ同じ環境でゲーム性を競うこととなるのだ。 ネットワークという利点、処理速度という長所も家庭用ゲームと同等となり、あとはパソコン自体の汎用性でゲーム市場の拡大を狙うしかないのだろう。 前記の家庭用3ハードは、無論互換性が無い(2002年2月時点)。これは、各社の利益などがからんで消費者を無視した行動ともとれなくは無いが、しょうがないのである。 ただしXboxはwindowsネットワークに簡単に接続できそうな予感がするし、そうでなくてはマイクロソフトである意味が無い。

不謹慎ゲーム又はアングラゲーム

ここでは、アングラ性とはなにか、違法性とはなにか、そして何よりも重要なゲーム性と、ゲームの歴史を駆け足で眺めてきた。 ゲームというからにはゲームとしての面白さが無くてはならず、アングラというからには暗部を秘めていなくてはならない。 そして、アングラゲームはどのような地位を占めているのか、そういう歴史的背景も述べた。 これらから総合して、不謹慎ゲームまたはアングラゲームと呼ばれるものは、次の特徴を備えている。

  1. 実際の事件・事故を題材としている
  2. 題材となった事件・事故発生直後に製作される
  3. 題材となるのは、社会的波紋を引き起こした事件・事故である
  4. 事件・事故に関連した画像・音声・映像を使用している

非常に残念なことであるが、これらのゲームでは被害者は愚弄・嘲笑され、犠牲者の遺族の心情をなどは全く無視されている。 これはモラル的に言えば反社会的なソフトウェアといえるだろう。 また、題材とされる事件・事故は実際に起こったものばかりであり、実際の写真のみならず音声までも使用されている場合もある。 これは法律的に行って著作権や肖像権に引っかかる。 それにもまして特徴的なのは、アングラゲームのメッセージ性の強さである。 事件の風化を防ぐため、わざと悪く描いているとした思えない内容のゲームがほとんどである。 特に、自治体単位の組織の失態や不手際などは風化を忘れないために内容がきつくなっていたり、誇張されていたりもする。 社会批判という観点からも、アングラゲームとその実体は社会の影や暗部を如実に表しているのである。

これからのページでは、主だった不謹慎ゲームを幾種類か挙げ、その発生や社会的背景、当事者の今などを取り交えて社会批判を行う。 取り立てて主張するまでも無いが、決してモラル的に低水準である不謹慎ゲームを崇拝する内容ではない。

back to index page.
© 2003 Bubble Child Laboratory