人工知能の実現は、対象となる系が知性を内包するか否かにかかっている。知性の内包、あるいは格納という現象は、その系自身が内部において外界からの刺激を処理できるかという問題や、刺激の処理を自己が認識できるかどうかという問題、あるいは系自身の分離性という雑多な問題を含んでいる。これら全ての疑問を解消すれば、知性や知能を持った系が構成できるかといえば、それはまだ未知の領域に属する。
あるいは、その系に時間的な記憶領域が存在し、現在・過去・未来を時系列に沿って認識・分別し、時系列で得られた情報により自己を拡張できるかも、やはり知性に関係ある。下等な生物のごとく、何らかの刺激、物質的な作用が相まってそれらしく動く生物は、知性があるとはいいにくい。吸血生物の一種は、外界からの視覚情報を処理して吸血に該当する生物を認識するのではなく、生物から発せられるかすかな赤外線に群がるだけである。この行動には形状認識、あるいは形状認識からの時系列的な学習・試行錯誤は存在しない。赤外線に寄せられるだけなら、機械的な動作で充分に説明できるのであり、その種の吸血動物は真の知性を持つとは言い難い。
また、画一的な処理機構をもった系が複数存在すれば、それはごく一般の知性とは遠くかけ離れている。一定の処理のみを保有し、生命のような多様性、特殊性、個体差が存在しないのならば、それはやはり生命とは言えない。
人間のような知的処理機構を保有する系は、一般的なコンピュータとは明らかに異なる情報処理機構を持つ。それは情報処理のメタ処理、高次処理である。例えば視覚情報について、人間には刺激による視覚情報の大量記憶を持ち、曖昧に形状を判定し、ある一般的な形状についての鋳型を持つことが出来る。そして、鋳型が完成して形状認識のためにストックされた大量の記憶は、不要となって忘却可能となる。コンピュータのような堅い処理系では、その鋳型をどの様に処理するか、あるいはどの様な視覚刺激を与えれば良いのかが、すでに決定されているのである。ここで注目すべきは、コンピュータの行う形状認識処理が、人間のそれとおそらく似通っている点である。ある一つの事柄に関する認識の処理は人間もコンピュータも違わない。しかし、人間と機械が決定的に異なる点は、形状認識のための鋳型を作るための、メタ処理が可能かどうかに存在する。なにをどの様な鋳型に沿って認識させ当てはめるかを処理する機構は、コンピュータのような堅い処理系にはまだ存在しない。
具体的に、ここに一個の三角フラスコを考えてみる。これは名前の示すとおり、三角形のような形状を伴っている。ここに最早、人間の形状認識能力の一端を垣間見ることが出来る。まず、我々がすべからく保有している「三角形」という鋳型に三角フラスコのような三次元物体の投影図を当てはめ、フラスコの首を認識からカットして「三角形」という認識を得ている。おそらく、三角を認識させる処理系に三角フラスコの画像を与えれば、それは「三角である」との回答を得るであろう。しかし、人間の認識はそれだけにとどまらない。もし花の入った三角フラスコが置いてあれば、それは人間の通常の認識に沿って考えられ、常識や風景との一致から、「花瓶である」との認識を行うであろう。もしくは、実験室に三角フラスコが存在し、何らかの薬品に満たされ、それを白衣を着た人間が持っていれば、三角フラスコの「三角」がとれ、普通の「フラスコ」として認識されるか、あるいはもっと高度に「実験器具」などと認識されるであろう。さらには、そのフラスコが使用不可能までに割れていれば、それは「廃棄物」などと認識されるであろう。ごく少数の芸術家には、割れたフラスコは高次の前衛芸術オブジェのように認識できる。例えばデュシャンのような。
このように人間の知的活動の一端を垣間見てみれば、かなり曖昧であり、一個の形状に対して広範囲の認識を持つことが出来る。認識の集合の重なりあいが多く、それは三次元かさらに高次元のベン図としても表されることは明らかであろう。また、前衛芸術に限定されず、全ての芸術やある種の図柄は、人間の認識能力に対する挑戦である。抽象能力に対する、能力の拡大といっても差し支えない。錯視図形などはその典型である。錯視図形には二通りの種類がある。一つは人間の視覚機構、盲点や目というレンズの湾曲に直接関わるものである。もう一つは、人間の蓄積したある鋳型と、もう一つの鋳型の境界線を示す図柄である。前者・後者ともに多くの錯視図形が存在し、我々はその認識に困難を伴うことが多い。これが人間の視覚による形状認識の限界を示している。
人間の言語処理機構は、人間の表面的な思考を顕著に表す指標である。人間も言述した吸血生物のような下等生物から進化したのだから、低次の処理機構と高次の処理機構を同時に内包する。それは機械的な反応といえる本能的な行動から、思考と記憶から得られた、推測による行動とに分布している。
その広範囲にわたる活動の中で、限りない抽象性をもつ人間の言語処理機構は傑作である。その処理が処理機構内部でとどまるにあらず、それを具体的な行動に置き換えあるいはさらなる思考と推測が可能だからである。言語の最小単位である単語は、その内部に人間のみが認識できる「意味」を内包している。これは我々が接することが可能な表面上の形状や動物に可能な行動、さらには表面には現れないはずの感情と呼ばれる思考までもを表現できる。この高次の情報処理・情報出力により、人間は時間を認識することも可能なのである。
ここで、人間の言語処理能力は次のように大別される。一つは、文字記号を視覚・聴覚・触覚などにより認識すること。一つは文字記号を発話・筆記などにより表現すること。もう一つは、記号を連結させ思考することである。
一つ目の文字記号認識は、もっぱら人間の五感のうち三つを用いて行われる。それは、犬などに比べて普通の人間は、嗅覚と味覚の認識が鈍いからである。もちろん、それが鋭ければ普通の文字記号として匂いや味を用いることも可能である。
一番汎用的な文字認識は視覚と聴覚によって完遂される。ここで視覚は通常の形状認識である。聴覚による文字認識は、視覚による形状認識とは大いに異なる。その認識にはいまだに解明されていない部分が多い。視覚との顕著な違いは、起伏があるいかないかである。表記されている文字記号は音声によらず、発話時間・発声強度という物理量が平坦である。逆に音声はそれに起伏が生じており、しかもそれは個体差が大きい。逆を言えば、感情による諸々の物理量の変化は個人特有であり、それらの鋳型は各個人専用となる。この問題が音声による感情認識を難しくしている。が、一般的な傾向を見れば、ある一つの感情に伴う外見的な発露は時代で一定であり、それに沿えば音声処理も楽となるかも知れない。
視覚による文字認識は、表面的な部分ではごく一般の形状認識である。どの様な書体でもおおかたの記号認識が出来る。これは人間のみならず、コンピュータでも可能である。が、認識した文字記号を連結させてそれを思考や行動に変換するという機構は、人間特有である。地球上のほかの生命体では、その機構はいまだに発見されていない。注意すべきは、会話を行う生物は地球上でごく普通に存在するという事実である。文字認識で困難な部分は、ただの形状である文字がどのように連結され、意味を持つかという処理である。
二つ目の言語処理能力である発話・筆記などによる文字記号表現は、表層的にはさほど困難を伴わない。人間の文字記号表現機構の前段に設けられたバッファに、状況などに合致した文字列を与えて、表現すればいいだけである。それは、筆記においては平坦な文字列であり、発話においては表現の鋳型を伴った起伏のある文字列である。音楽の例を挙げるなら、平坦な文字列はバッハ、起伏のある文字列はロマン派のように強弱・テンポの指定がついた楽譜である。
問題は、その文字列がどのように形成させているのか、あるいは、感情の鋳型を文字列の何処に付加するかという処理である。文字列の形成には、時系列によって作成される感情の鋳型の判別が不可欠である。もともと、その鋳型というのは状況の時間的変化を伴っている。形状認識はあくまで静的である。感情認識はその場の状況からもたらされ、時間的に動的である。これらの処理には人間による時間の認識はもちろん必要であり、より多くの物語的な記憶が必要となる。状況認識と感情表現はこのような困難を多大に伴っている。
最後の言語処理能力である、記号の連結による思考は、それらの困難の集大成であり、言語処理能力の基幹といってよい。この処理能力は、言語記号のほかに多くの記号を含む。それは数学であったり、音楽であったりする。科学と呼ばれる思考の源泉は間違いなく数学であり、論理的に実証可能な仮説を提供するのが数学の役割である。これは言語のもつ抽象性をもっとも多用した記号である。この処理は初等から高等という、やはり広範囲の難しさを伴うが、初等的な算数などは低年齢の人間にでさえ可能である。これは、前述したとおり、言語の抽象性と密接に関係するからである。数学の手順としては、四則演算が基本であり、これは我々の住まう三次元世界と係わり合い、形状認識とも関連するので本質がつかみやすいのであろう。一方の音楽は、聴覚が鋭敏であるか否かによって記号の扱いが大きく変化する。その聴覚能力とは、音符をみてその周波数の音を再現できるかどうかということである。これは普通、絶対音感と呼ばれ、積年の鍛錬が必要となる。もっとも、その鍛錬は言語波形においても同様であり、絶対音感は特殊と言えるので万人が行っていないだけである。
これら二つの記号を例としてあげたのは、数学は言語の論理的側面を表し、音楽は感情的側面を表しているからである。言語のもつ能力を分離させた双生児といっても過言ではない。
さて、ごく普通の文字記号に話を戻す。文字列の形成とは、系の意識、あるいは自己の一部を投影するために行われる活動である。そして形成された文字列に個体差が生じているのは、意識に個体差があることの表れに他ならない。この個体差とは、よりミクロに見ればそれは脳細胞の有機的な連結など、化学的・電気的な差に他ならない。これら神経などの活動はあくまで機械的であり、感情やら意識やらは関係なく、あくまで普遍的に生じる。文字列形成で問題となるのは、文字をどの様に人間が記憶しているかという機構である。文字列が意味だけを抽出され、その抽出物、いわゆる論理的・感情的思考を元に文字列が形成されるのか、あるいは文字列の形状的な認識の鋳型が存在し、それに沿って文字列が出来るのかは、いまだ不明である。両方という場合ももちろん考えられる。この文字列形成の手順の複雑さは、文字記号が視覚と聴覚の両方で、ほぼ同等に認識できることに起因する。表記された文字列がもつ形状と、その表記された文字列を朗読した場合の音波が、人間の認識にかかると同等の意味を持つからである。これには、両方の表現技法によらない認識機構が人間の処理系に存在することを意味する。形状と音波の両面から、表現された文字列に隠れたメタの意味を認知する機構である。もしその二つが分離されているならば、人間の処理機構はより複雑にならざるを得ないであろう。これが、文字列が物理的な意味のみならず、高次のメタ的な意味を持っている、と推論される所以である。もしかすると視覚と聴覚による文字処理機構は分離されているかも知れないが、それでもやはり文字列の形成とうい行為の複雑さ、その源泉の不明さは変わらない。
以上の議論を拡張し、知覚障害者における記号認知の例を挙げる。ここでいう知覚障害とは視覚・聴覚という障害である。視覚障害を持った人間が文字列を認識するには、普通点字により、触覚を介して文字の判別を行う。聴覚障害を持った人間では、手話による文字認識を行う。これは点字・手話と文字記号を一対一対応させる方法である。ここで時系列を含めて見れば、手話のほうがより認識が動的であり、複雑な感情をなぜか表現できる。が、最も基本的な表現はやはり一対一の対応である。
最も有名な例を挙げれば、それはやはりヘレン・ケラーであろう。彼女とサリバン先生の物語からは、生きることに対する情熱や確固たる意思を学ぶことが出来、人間存在の崇高さを、時を越えて我々に語りかけてくる。たゆまぬ努力と不屈の精神によって、いかなる困難にでさえ人間は打ち勝つことが出来る、という実例を示している。が、ここで問題とするのは、ヘレン・ケラーの文字認識の機構である。彼女はごく幼少の頃、文字記号の認識機構が完成しないときに、三重苦となった。見えない、聞けない、話せない、である。一般的に見ればこういう人間は他者とのコミュニケーションが隔絶されており、自己を投影するすべを持たず、系の内部にのみ自己が存在する。まことに幸せなことに、彼女の残った感覚、嗅覚・味覚・触覚は正常であった。そして彼女は、主に触覚の存在によって文字を認識したのである。ここで二つの点が問題となる。触覚によって得られた手話記号が、ごく普通の人間と同等の認識を得たということ。二つは、そもそも彼女が文字列を認識したという事実である。
ヘレン・ケラーが三重苦となったのは、文字記号の意味も知らない幼少の時、生後18ヶ月の時である。それ以降、サリバンが登場するまで学習を完成させることは不可能であった。この不可能というのは、文字列処理機構が不具合を生じているためではなく、人間の根気のためである。一つ目の問題である、触覚による文字記号の認識は、先ほどの聴覚/視覚による文字列の認識の議論に他ならない。視覚・聴覚のみならず、触覚による、より広範囲の文字形状認識と、文字列意味処理のメタ機構がやはり連結しているという示唆を生む。人間という系への入力の違いによらず、文字記号の意味を汲み取る処理、メタ処理というのはやはり分離されているのであろう。
二つ目の問題は、文字列認識の機構の先天性・後天性である。これは人間の発生時に、まことに化学的にその処理機構が系内部に構築されるかどうかという問題である。コンピュータでは、その処理機構は命令として構築する。人間では、おそらく脳神経の連結や処理部分の発生によってそれが行われている。文字列の使用と文字列処理の機構、どちらが先であるかは判然としないが、両者が協力して処理を行っているのは間違いない。そして、ヘレン・ケラーの例を見ればその機構が先天性であるとの推論が成り立つ。ヘレン・ケラーが文字列を初めて認識したのは「水」の触覚的刺激があったときであると、彼女の伝記は記している。さらに言えば、その瞬間は雷に撃たれたようだ、とも書いてある。不確実で文学的な表現を用いれば、本当に電流が流れたのではないだろうか。既存であり、ヘレン・ケラーが使用していなかった文字列処理・認識機構が初めて活動したのだろう。となれば、先天的に形成されていた機構が存在する、という見解が可能である。そしてサリバンの教育とは、その機構を動かす行為であったと極論しても良い。あるいは、触覚による文字認識と処理機構を直結させた行為と考えるのも可能である。
これら認識の機構の要となるのは、認識のための鋳型という存在である。これまでの論議は、物事を当てはめる鋳型の存在を大きく取り扱ってきた。これはギリシア哲学から受け継がれているイデアという概念によるものである。この古い概念は単純であり、我々の直感に鋭く共鳴する。そして、この鋳型を作り出す機構が判明すれば、人間の思考の源泉が同時に判明し、さらには人工知能の形成にもより近づくであろう。もしくは、認識の鋳型を創り出すメタな部分など無く、再帰的な認識方法を人間が採っているかも知れない。そもそも、鋳型などは存在しないかも知れない。その議論は、より高度な研究と、人間による人間自身の確実な認知によって、より進化するであろう。
人間あるいは知的生命体としての系がもつ他の特色としては、自己言及や自己複写、動力源との分離などが挙げられる。まず自己言及という行為は、自己という意識が存在して、それを知的に活用し、自己の組成を明確に述べることである。自己複写、動力源との分離という点は、地球上に存在するほとんどの生命が行っていることであり、あるいはその現象が見られる物体を生命というのかも知れない。自己複写の機構は、人間において根源的にはDNAであり、これは生命と物質の中間であるウイルスとも似通っている、堅牢な方法である。動力源との分離は、いわゆる捕食であり、植物でいう光合成であり、ミトコンドリアでは動力の合成・変換である。これらの機構は明らかに化学反応的であるが、人間がその機構を模倣するには至っていない、複雑な機構である。
一番人間的である活動は、自己言及性である。自己を自己と認識し、他者との区別を行うこと、あるいは自分自身であっても、過去の自分とは違うということを述べる能力、それは今のところの人間にしか発見されていない能力である。
これら雑多な人間の処理機構については、いまだに不明な部分が多い。研究途上である。しかし、ヒトゲノム計画が発表よりも数段早く終わった事実もある。これから、分析機器の向上や人間の知識の蓄積により、それらの処理機構が順次判明していくだろう。