本論は作品個別の批評・論評ではない。ここでは、抽象的かつ広範囲にわたる文学論を展開する。それは、「物語の幻視性」と「サンプリングとしての文学」と「文学における図と地」などである。執筆時の著者の無意識の働き、世界の構築、あるいはプロットどうしの連携などの作業が、どのように行われているか、どうして実行可能なのかを推測する。
幻視済みの世界と夢を見ながらの世界を区別し、無意識の働きについて略的ながら説明する。断るまでも無く、ここではフィクション(架空)の話を扱う。
| 現在形 | 過去形 | |
| 一人称 | 書きながら世界を見ている。体験しつつ書いている。 | あなたが登場人物となりその世界に迷い込んだ。そして、戻ってきた後に綴っている。体験済みの世界。 |
| 三人称 | あなたは神となり、その世界を作っている。 | 神であるあなたは世界を製作し、そこで何らかの出来事が発生した。今あなたは、回想録のようなものを書いている。 |
端的に言えば、「物語を幻視しながら綴る」という行為は、筆者の知的興奮を呼び起こす。なぜなら、その世界を垣間見ているのは世界にただ一人、筆者しかいないからである。物語世界を構築せずにそのまま幻視すると言う行為、すなわち「現在形かつ一人称」での描写は、筆者がその脳内世界を執筆と同時にリアルタイムで「体験」しているのと同義なのである。
さて、プラトンの「饗宴」(Plato, "Symposion", BC 383-385 成立) は、今でいう「小説」の形式に最も近い。「饗宴」での解説は「二重の間接話法」というややこしい説明がなされているものの、これは俗に言う小説形式である。もっとも、"symposion"をよりくだけた表現にすれば「飲み会」である。飲み会で酔っ払ったのちに猥談に突入する、これは人間の最も基本的な性質らしい。その人間の機敏を読み取って描かれたのが「饗宴」であり、語られているのはエロス(eros)そのものである。結論は過激で、「美男は美女を孕ませるべき」という一点に集約される。

この結論は現代ではあまりにも当たり前すぎる。しかし古代ギリシャ人は、エロの源が生殖であることを知らなかった可能性がある。とすれば、「エロすなわちセックス」という図式を見つけ出し、それを上手に表現したのが「饗宴」という著作である。あるいは、人間が持つ性的な劣情に「エロ」という確固たる名称を与えたのは、やはりこの「饗宴」という著作である。であるからして、やはりプラトンは偉大である。
さて、「二重の間接話法」とは何か。まず第一段階のメタ構造として、作中の人物アポロドロスが物語を(文字通り)語る、という点がある。次に、アポロドロスのその語りの内部で、ソクラテスとディオティマの対話が組み込まれる。ちなみに、ディオティマは女性でしかも妙齢の美人らしい。ただし、邦訳ではたんに「婦人」と書かれているだけであるが。古代ギリシャの美人はどんなものかは知らないが、とにかく美人である。プラトンの美的感覚であれば、「舞台の上には不細工なし」ということになろう。
もしこの二重の対話部分を現代風に呼ぶのなら、あるいは「饗宴」という台本を上演するのであれば、ソクラテスとディオティマの対話は「劇中劇」であろう。この作品は、当たり前であるが、舞台で演じることが出来るのである。それが、古代ギリシャ文学がもつ「演劇性」「台本性」である。「オイディプス王」というギリシャ悲劇の傑作が成立したのは紀元前430年であるからして、物語を作ることはすなわち舞台での上演、という思考が成り立つのである。ここには、虚構を人間が演じることとしての台本、その上位概念としての文学、という二本の背骨が組み込まれている。
ここに、文学の発展を読み取る事ができる。すなわち、「事実を書き記した記録としての文書」から、情景描写や心理描写を含む文節の集合体としての文章へと発展したのである。物語の表し方としては、単に人間のセリフを綴っただけのシナリオ、戯曲形式から、「他者が観察したその人の心理的動向」という描写が加わったのである。
ここに、図と地の問題が加わる。この視点と時制においては、図はどれで地はどれか、という問題である。一番望ましいのは、それらが渾然一体となった文章である。
また、劇中劇を用いる事は、困難である。「プッシュ(押し込み)」「ポップ(取り出し)」というスタック(stack)状の「物語の動的なメタ性」に加え、物語内部における物語を二重に幻視しなくてはならないからである。さらにそれが上位物語との緊密な関連が無ければならないので、非常に脳を使う。なお、劇中劇が成功すれば、下位概念と上位概念の区別を無くす事ができ、「現実構築の否定」という一大作業を読者に与えることが可能である。劇中劇を用いた作品は枚挙に暇が無い。児童文学ではミヒャエル・エンデ (Michael Ende, 1929-1955, Deutsch)の「はてしない物語 (Die unendliche Geschichte, The Neverending Story)」(1979)が、劇中劇を用いた「取り込み」の好例である。

以上のことから、プラトンは確かに事実を基にして「饗宴」を書いたが、それは非常に曖昧である。その曖昧さとは、現実と虚構の境界にある。プラトンは飲み会の場を幻視し、さらにはソクラテスとディオティマの対話も幻視して、物語を構築したのである。それも、三人称の視点で。プラトンの「饗宴」はただの無味乾燥な哲学書ではなく、小説技巧の教科書・参考書として捉えたほうが良い。
どのような文芸作品も、視点に関わらず、映像化あるいは舞台化されると、視点は三人称になる。一人称視点での文芸作品を一人称のまま視覚化できるのは、今のところ一人称視点シューティング・ゲーム (First Person Shooter) しかない。ゲームでは、一人称を保持したまま映像化が可能なのである。しかし、FPSは「Shooter」が示すように、現在では暴力性の高い戦争ゲーム・銃撃ゲームにしか用いられていない。

では、一人称でしか成り立たない文芸作品はあるのか。三人称でしか成り立たない文芸作品はあるのか。その人称であることでのみ成り立つ小説はあるのか。どんな小説においても、読者にとっては「筆者の視点」という純三人称的な視点が介在してくるのではなかろうか。あるいは、どのような人称を用いていても感情移入が可能であれば、視点の問題は解決されるのである。
文学とは、事実から意味を汲み取る作業である。一見無味乾燥に見える事実の羅列を再構成し物語となし、事実の羅列を有意義なものと捉える作業である。図に、物語生成過程のモデルを示した。この生成過程は千差万別、十人十色であり、誰もがこのようなモデルで執筆しているとは限らないことを注記しておく。
さらに、この図では人間の無意識を十全に活用する場面がある。すなわち、どこまでを脳内で自動的に行うか、である。脳の自動営業はいまだ未知である。脳内で全ての作業が終わっていれば、あとは執筆するだけである。
執筆にも様々ある。タイプライターでの執筆は、意識的な作業ではない。タイプライターでの打鍵は、夢に半分浸りながらでもできる。これは、英語のアルファベット性によるものである。目を瞑っていても、手さえ動かしていれば物語を綴る事が出来るのである。

それに対して日本語では、ワープロでの作業はどうしても意識的になる。「変換」という作業があるためである。そのためどうしても視覚を通じて意識が覚醒して居ねばならず、夢に浸りきることが出来ない。
すなわち、自動書記としての文学である。デルフォイの巫女が炭酸ソーダを用いてトランスして予言を行うように、タイプライターを用いればトランス状態に入ることが容易である。
ここには、事実を再構成して物語にし、事実に意味や意義を持たせようという働きが加わっている。これは、「人間の人生が無意味・無意義であるはずが無い」という人間の欲求から来る。脊髄反射的に生きている人間、人間の真似をする人間、無意識を活用していない人間、これらは擬似的な生物である。現実の要素に対しての反応は、意識的か否か。それが、文学と密接な関連を持っている。
「図と地」とは、エッシャーのリトグラフにおける「図と地」を前提にしている。文学、文章、文書などにおける図とは、ここでは文字をさす。地とは、行間を指す。一般的に「地の文」とは「発話文以外の文章」を指すが、ここではそうは呼ばない。なお、図は"figure"、地は"ground"と訳される。


すなわち、図から想起される地こそが行間であり、人間のもつ記憶で勝手に生成される部分である。これは無意識の働きとして構成される物語である。
文学の文学性とは、図ではなく地の豊富さにある。人間の記憶をより刺激するような、感性の高い文章が文学である。逆に、図である文章において、読解の方法が一意的であれば、その作品の文学性は低い。
では、人間は図である「文章」を読んで、地をも想起しているのか? それは非常に難しい質問である。文芸作品には、他の物語形態とは違って図が小さく地が大きい。つまり、与えられる情報が非常に少ないのである。
文芸においては、誘導された思考が「地」である。文学においては、図と地の区別が明確である。ルビンの壷よりも明確である。書いてあることが図であり、書いてないことが地である。さらに文学では、書いていないことも想像しなくてはならない。行間を埋めるという作業を前提にして、文学が成り立つのである。これは人間の言語的記憶を十分に生かした、高度な作業である。

もう一度、スタニスワフ・レムの「完全な真空」を思い出して欲しい。これは二重の図と地からなる作品である。

視覚的実像にて表出している「書評本文 (図)」すなわち「完全な真空」という本は、さらに複雑な経路を辿って創作されている。「事実、出来事、プロット、物語」という通常の作劇方法に加え、さらなるサンプリングとして「書評」を行っているからである。普通であれば「物語」という部分で表出するはずの物語を、「書評」という手間を加えてさらに上位的な概念にしているのである。この作業には、著者の、自分の作品に対する絶対的な客観性が必要となる。普通の著者は事実を評し物語を構成するが、「完全な真空」では物語を評して、図としての原物語を現出させているのである。
ここでの「成り代わり」とは、ルビンの壷に見るように図と地が反転することを意味する。写真におけるネガとポジのように、互いに補完しあって実像を形成しているのである。しかも、成り代わるということはネガとポジの反転を示すので、そのどちらも同じものを指しているのである。この作品では「書評本文 (図)」を読んで、「行間」と「本文」という経路を辿った後、「全体 (地)」という核心に迫ることが出来るのである。
図からの刺激により、我々は勝手に、あるいは自動的に、地を連想しているのである。この作業の源泉は、やはり人間の脳がもつ無意識である。もしくは、脳に蓄積された状況的・言語的記憶が、ありもしない地を生み出しているのである。
文書からの状況想起としての「地」と、事実に対する論理的な「地」がある。
状況想起としての地は、二点が考えられる。物語の背後で活動している登場人物の動きを想像する。あるいは、物語の背後で動いている世界の状況を想像する。この二つである。この二点が、図すなわち文章から想起される地である。
論理的な地とは、「もし〜ならば」という想像としての地である。。これは論理学による三つの分岐、「逆、裏、対偶」である。とある一点の事実に対して、例えば「台風が来たから海が荒れて、船が転覆した」に対しての地である。これは、図である文章を機械的に解体し、合理的に地を作ることである。しかもこれは、物語の内部では決して現出しない場面なので、これだけで二重の想像を要する地となるのである。
現実は無数に分岐したはずだが、現実では一つの現実しか辿ることができない。その対抗としての文学という物語集積という概念が発生する。
シェイクスピアの作品は戯曲である。状況描写にあたる文章、つまり対話以外の文章はト書きのみである。そして、あたりまえであるが、ト書きの部分は非常に少ない。これは、文芸作品が「図」として対話しかもっていなくても、その文芸作品は物語として成り立つということを示す。

まず、戯曲には一般的に言う「地の文」が無い。つまり、地の文が無くても物語は脳内で想起可能である。物語とは人間の感情の変遷だとすれば、言葉によるその変遷の表出だけでも、物語は成り立つのである。脳内での補完作業が、自動的に地を作り出すのである。これは、先ほどのルビンの壷と同じ原理である。ただ、視覚であるか否かの違いである。
「地」の見地から「ハムレット (Hamlet)」を再解釈したのが、トム・ストッパード「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」である (Sir Tom Stoppard (1937-), "Rosencrantz and Guildenstern are Dead", 1966)。これは、動的な図が持つ、やはり動的な地としての作品である。固定的な図が躍動し、我々の前に万華鏡の輝きを示しているのである。
上の図は、図のもつ表層によってのみ躍動する錯視である。地を描くための図として捉えなくとも、自動的に地が表出しているのである。ここで、図の躍動を演出し我々に幻視させているのは、視覚的刺激による無意識である。このような単純な視覚情報のみでも、図の別の側面を自動的に構築できるのである。錯視図形では、それが顕著である。
では、文学における錯視を見てみる。
この図は有名な図であり、文字としての図と地が見事に表されている。まず、物語を解釈する前に、図としての文字を発見しなくてはならない。我々は、当たり前であるが、紙の上の印刷物から視覚的に図としての文字を見出しているのである。

我々は記憶が持つ、形としての文字を地から判別し、それを脳内で再構成して物語を楽しんでいるのである。この構築の二重性が、文学のもつ多義性である。本質的には、文学における文字読解語の地と、錯視における錯覚という地は同質の部類であり、この両者には差異は無い。進んで地を見ようとする意欲が、図の中から地を浮かび上がらせるのである。
そもそも、「物語を綴りたい」という動機はなぜ発生するのか。
無意識の表出として、物語が発生する。物語でなければ記号群でもよい。自己の無意識の働き、脳の働きの観察者としての自分が居る。その自分が、無意識の働きを意識的に綴る。これは文芸作品に限らず、様々な形態を伴って現れる。さらには芸術作品に限らず、数学などの論理的思考にも反映される。芸術的・学術的なことに留まらず、日常においても無意識の働きを客観的に観察することができる。どれだけ無意識=意識的に働かせていない部分が巨大化であるか、その尺度が一個の作品や論となり現れるのである。
なぜかは知らないが自分の意識に表れた記号を連ねる、その作業の一つが文学である。人間は無意識のうちに、脳内に物語を構築している。これは、現実の予行練習の別形態である。人間はこれまでの記憶に基づき、現実場面においてどのように対処を行えばよいか、無意識の内にシミュレートしている。そのシミュレートが自分で意識できるようになり、さらにはそれが発展すると、文芸作品として脳内から浮上する。
ありとあらゆる創造的活動が、無意識の恩恵であることを読み取った。ここではその一例として、文学を示した。文学の純粋性、すなわち小説や娯楽物と純文学との境界は、人間の活動の源としての無意識、脳にあるということを示す為の指標である。本論では実存としての人間の実態に迫ることは無かった。これは困難を伴う作業であり、それにはさらなる研究・討論・文明進歩が必要であろう。