アナロジーの推移学

我々は明確な回答を得ている。それは、「コンピュータは道具である」という一句である。このたわいもない一文には今日現代社会の様々な学問が抱える全ての問題がない交ぜにされて詰め込まれているといっても過言ではない。そもそも、我々社会の末端にまでコンピュータのような高度電子情報機器がいきわたろうとは、おそらく電子社会初期の人物たちいわゆる先駆者たちは全く予想だにしなかった、驚異的で進歩的で、そしてもっとも意地悪く形容するならば、悪魔的な事実であろう。

我々が一つの事柄を表すとき、それは往々にして言葉によって成される。言葉の名詞や動詞を基本として、一つの事柄が「表現」されるのである。そもそも表現しようとする対象がその言語文化の範疇に含まれるか、類似した事物が範疇と重なるときにのみ、表現が可能になるのである。

ところで、コンピュータなるものは、おそらく紀元1年程度には存在しなかったと思われる。計算の道具、そろばん程度は人類は手にしていただろうが、ここまで広範囲の計算を行え、かつ大量の情報を扱える道具など、人間は手にしていなかっただろう。パスカルが計算機を木製、歯車で構成しようとしたが精度の悪さから失敗、ちなみにライプニッツは二進数になにか巨大な意味を感じ取ったという、古い記録も現在の我々人類には残されている。これらから見て取れるように、コンピュータは「歩く」とか「喋る」とか、「太陽」や「朝」などとは違い、かなり最近になって考え出された概念である。余談ではあるが、奴隷の概念は旧約聖書の時代から存在した。

ここで、コンピュータのアナロジーを考える。われわれは未知のものを説明しようとするとき、得てしてメタファーを行う。なぞらえる、見立てる、言い換える、たとえる、比喩。これら人間に必須の言語行動すなわち思考活動を行い、現存する全てを、あるいは現存を行ってきたのである。

我々がコンピュータを言い表すとき、どのように説明すればよいだろうか。真空管の親玉であろうか?シリコンの塊だろうか?配線のスパゲッティだろうか?これらは皆、器質的で表層的な説明にとどまる。全てを説明しているが、何も説明していないといえる。我々が簡易な説明に求めるのは、その装置が何から構成されそれがどのような外観を持ち、そして内部がどんな風に稼動するかではない。ブラックボックスの操り方と入出力だけに、我々は説明への興味を持つのである。

では、コンピュータはなにができるのであろうか?おそらく、人間の知的活動なら全て行うことができるであろう。なぜなら、そういう風に作られ拡張され今も発展している道具がコンピュータであるからだ。こういう風に言うと、コンピュータは「原稿用紙と鉛筆の代わりだ」とか、「電子的なキャンバスだ」などと表現することが難しくなってくる。世の中には様々な汎用電子機器があり、その一端を担い一番強力であり脆弱でもあり、世界に氾濫しているのが、このように実体が無く言及が困難なコンピュータなのだから。

人間の知能は、現在は現存するありとあらゆるコンピュータを凌駕している。ここでいかにももったいぶって限定した表現であるのは、もしかすると昔、そういう類の装置が人間を遥かに凌いでいたかも知れず、もしくは地球以外にそんな高性能で完璧に程近い電子機器が存在する可能性があるからである。さて、おそらくコンピュータには自分を表現することは不可能であろう。なぜなら、それは人間の領分であり、設計者である(今のところは)人間が、それを許さないからである。ここで、このコンピュータ群、今もとめどなく増え続けしかも廃棄され続け、そして人間の思考によって進化しているまるで、実体のある生物のような一連の概念を表現するのに、我々は対象のあまりの広範さから、いま人間社会に存在する物体を使って、一種の隠喩を行わなければならないのは、見ての通り必然すぎるほど当然で人間発祥から奇しくも運命つけられていたかのような行為だろう。

おそらく、人間の作る道具はある一つにおいては完璧である。しかし他の領域に存在しては、その完璧性は全く無に帰するであろう。このように、一方で完璧であり、もう片方では全く無価値になるような存在の説明をする道具とは、全く自家撞着の賜物でしかない。撞着という概念を拠りよく扱えるのは、それが発生する概念体系を持って行うしかないのである。すなわち、人間という一個の装置の最終出力である言語=思考形態によって導き出されるコンピュータの隠喩表現とは、人間の存在に最も合致した、最終的な思考形態の排泄物でもあるのだ。

ここで、元の問題に戻ろう。コンピュータとは、まな板みたいなものである。コンピュータ、特に個人用機器が高度に発達した現在、その性能はどれをとってもほぼ同等である。とすればコンピュータの役割は、必要な情報を必要に応じて創出し、あるいは加工することである。しかもその創出や加工にかかる手間というのはほとんどソフトウェアで実現される。加工されるべき情報はコンピュータの性能にほとんど帰着せず、もともとの材料で価値が決まってしまうだろう。とすれば、情報創出・加工を担当するソフトウェアが包丁であり、元情報そのものは食材と比喩できる。その二点が揃ってこそ、ハードウェアとしてのコンピュータは真価を発揮するのである。付け加えるならば、食材の腐敗を常に気遣う必要もある。これはバックアップなどの保存行為に匹敵するのだ。

人間にとって、全く未知な道具の説明の難しさは、この例をとってしてもある程度理解できるだろう。その必要性とは人間の認知能力の不完全さによるものだし、比喩を生み出し類似的な思考で物事を解決するのも、また人間の能力によるのだ。この分野の仕事に関しては、まだ我々人類が錯誤を重ねる段階にあるといえよう。

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