我々人類が今直面しているのは、高度抽象化概念における特殊性ならびに一般性の問題である。これがもしも破綻すれば、意味論場がその字句のもつ意味からかけ離れ、全く無力になる。また、これまで築かれてきた哲学という白亜の塔が、脆くも崩壊するという危険をも孕んでいる。これらは、我々の実在あるいは存在にまで、負の影響を及ぼすことは明らかである。誠に由々しき事態である。それを打破する為に、この意味論場の保護を目的とした、超越的な思索がなされなければならない。
今から述べるのは、意味論場の形成、分析、そして展開についてである。これは、いかなる哲学作業においても、全く前例の無い仕事であろう。歴史的な偉業である。また、高度抽象化概念の特殊性と一般性の特徴についても論を進める。これで、我々が今まさに直面している問題に、完全な終止符が打たれるであろう。
まず、高度抽象化概念を説明するには、次の語句を簡単に説明しなければならない。それは、概念の推移、変遷、変容、変化、変貌、流動性、可念化、ならびに脱化現象である。これらの説明こそが、抽象化概念を形成している部品でもあるし、高度抽象化概念を容易に理解する方法でもある。よって今から、これら八つの語句を詳細に説明する。
概念の推移とは、それが遡上するはずの場において、局所的なノーム化を見せる、唯一の現象である。このように定義された現象が、普遍的に我々の思考においての第一場を占有している。よって、ノーム化された思念と抽象は、ことごとく内的要因によって、それが明確な論議として定義することが出来るのである。我々の使う主語・述語のみならず、いかなる言語的束縛に囚われない、一種の概念の形態でもある。また、ノーム化された両方の思念・抽象は、一次的鏡像操作により展開可能な系である。このことを利用すれば、我々は、より複雑なノーム化思念・抽象の全てを記号化し、記述することが可能となる。
概念の変遷とは、それが持つ本来の意味を隔てて、意味論的集合場の一部となっている。これは誠に嘆かわしいことであり、この現状を見ただけでも、今日の数理哲学の廃頽を伺うことが可能である。そもそも意味論的集合場を提唱したのは、十九世紀フランスの数学者パッセルである。彼の主張は、「全て言語とその内包物は、すべからく単一の場に集約されるべきである。従って、現在における意味を持つ唯存場となりうるのは、私が提唱する意味論的集合場のみである」となっている。この論は一見、誠実・完璧の様相を保ってはいる。しかし実のところ、意味論場を形骸化した一つの墓場に他ならない。
概念の変容は、概念の変遷と強い結び付きを持っている。それは、意味論場の第一人者ラッセラントが、彼の博士論文「意味論場の荷重化演算の一般性について」で明らかにしたとおりである。ラッセラントの主張は、「意味論場は完璧に荷重化することが可能であり、それは五次のベクトルで表記され、ある写像操作の元での変換においては、それがノームと一致する」、という遠大な内容である。ここで看過してはならないのは、その主張の最重要な部分、すなわち五次ベクトルである。我々がもしこの巨大な五次ベクトルを意味論場にそのまま当てはめるならば、それは人間が一生かかっても不可能な計算となるであろう。また、現存するいかなる計算機械を以ってしても、やはり不可能であろう。従って、その五次ベクトルの使用という条件は実は、その命題が実証不可能なことを示している。ここにもノーム化された一般平面が、計算困難性を伴って出現するのである。
概念の変化とは、我々の一般存在上に出現する、一種の特異点のような現象である。これもまた、ノームを用いて説明することが可能である。即ち、ここに一個の特殊ノーム――まだ一般化されていない、真白なノーム――を想定する。そのノームは、何者にもなりうる可能性がある。しかし一般化という位相の観点から見ると、我々の一般存在上において、それは簡単に特殊性を失うのである。これが、概念の変化である。
概念の変貌とは、五世紀の哲学者ボミティウスの論を待つまでも無く、意味論場の破壊、あるいはコーパス空間における二次展開の表出である。これは、我々にとっては二つの概念の間における意味的破壊――いわゆるボミット――を示している。ここから示唆されるのは、意味論場においてボミットされた概念というものは存在せず、それ自身が集合を形成してまた新しい、第二の意味論場を形成する、という事実である。よって、ボミティウスの主張とも一致することであるが、我々はなんと、無限の意味論場を解析、あるいは分析しなくてはならなくなる。これを抑制する為の措置が、よく知られた「ボミットの剃刀」である。この概念を用いれば、我々は、無限の意味論場を扱う必要が無くなるのである。
概念の流動性とは、字句のごとく、概念が他者を伝わるのちに変質し、全く意味を成さなくなることである。これは危惧すべき問題である。この大問題を回避すべく、我々は手を打たねばならない。しかし都合のよいことに、これにも先人の知恵が既に注がれている。それは、やはり五世紀の哲学者、ボミティウスである。彼は著書「観念と実在」において、次のように語る。「我々は実在を意識しなくとも、すべからく全ての実在を肯定している。従って、我々が最も気にかけなくてはならないのは、非実在の方である」この言を採るならば、我々はこの流動性という問題を見過ごしてもよいのである。
概念の可念化は、ともすると一番難しい問題であろう。我々が意味論場として捕らえているこの実世界において、可念化は無視できない誤差を与えるからである。その誤差とは、無論摘出可能な数値ではない。誤差は往々にして存在し、それが意味論場学者の頭を常に悩ませているのである。
誤差は、我々が意味論場をつぶさに観測したときに、必ず発生する。それを「可念化」と命名したのは、前述のラッセラントである。「もし我々が意味論場というものに干渉したならば、その意味論場は唯一の存在ではなくなり、必ず観測者の影響を受ける」、という意味の論である。この論の大意は、すなわち意味論場が静的な概念ではなく、動的な枝を持つ一個の生命体のように振舞う、ということである。従って、意味論場をそのまま観測することは不可能である。しかも、可念化という概念すらをその範疇に収める意味論場にとって、我々人類は成すすべは無いのかも知れない。
概念の脱化現象は、字句の通り、概念がその意味論場から遠ざかり、最終的には「概念を捨てた概念」として振舞うことを意味する。これは一種のパラドックスであり、その位置が意味論場のどこに当てはまるのか、我々研究者の間でも多くの論がある。ここで我々は、その位置を一義的に決定する為の操作を行わなければならない。それは、やはりノーム演算における多元の一次写像である。ベクトルに変換された「概念を捨てた概念」は特異的な位置を示すので、それをノーム演算において固定された位置に戻せばよいわけである。この結論に達するまで、人類は五世紀を要したが、それもこの脱化現象が、いかに難しい問題であったかを示す好例であるだろう。
最後に、これらを統合すると、前述の「高度抽象化概念」の意味がはっきりと見えてくるはずである。このように、高度抽象化概念はそれ自身が様々な問題や矛盾を内在した語句であるので、注意して取り扱うことが不可欠である。また、高度抽象化概念を専門とする学徒諸君は、このことを忘れないでほしい――いかなるときも、意味論場の背後にひそむのは高度抽象化概念である――と。
次に、高度抽象化概念の分析を行う。これには偉大な先人、17世紀のドイツの哲学者にヴェーゲンハイデンがいる。高度抽象化概念は、実世界存在と切り離せない語句である。また、意味論場と高度抽象化概念の二次的結合は、前述の通りである。よって、高度抽象化概念の分析という作業の大部分は、彼、ヴェーゲンハイデンによって成されたと言っても過言ではない。ここで、実世界存在は、ヴェーゲンハイデンの大著「哲学体系」において、次のように論述されている。
「実在とは無の反面である。実世界と呼ばれる存在空間において唯一定義可能なのは、それがある程度の普遍性を獲得した場合のみである。よって、この理由から論を進めるにあたり、可能な限りの普遍性を列挙する必要がある。それは概念を伴った、人間存在に可能な思考の道筋を辿る、という実例から示さねばならない。ここに一つの例を挙げるとするならば、それは言語の行間に隠された、人間の認知能力の有無について論じる必要がある。シルシュ化した実体とそうでない実体を区別する要因は、それが『心情』を持つか否かである。この『心情』は動的であり、時間の許す限りの変貌を遂げる。よってその推移を認知できるかどうかに全てが懸かっている。
シルシュ化した実体にはいくつか特徴がある。それは自動性と他動性の二面である。我々は、この内の自動性を、簡略な方法を用いて観測することが可能である。すなわち、刻々と変化を遂げる『心情』とは、すべからく認知可能なのである。ここで人間の持つ能力、とりわけ認識下における実体の事象と、それに伴う思考の変位が重要視される。また、レゾネーエフの論文によれば、それは可能な限り周辺事項としての機能をもち、従って様々な観点要素を含む巨大な思念となる。この例を挙げたので、我々はシルシュ化した実態を区別することが可能となるのである」
高度抽象化概念を見事に捕らえた、素晴らしい分析である。ここで示唆されるのは、シルシュ化された実体という概念の取り扱いについてである。シルシュ化することにより、意味論場ひいては高度抽象概念が一応の解決を見るのである。しかしこの論は、現在では、三つの矛盾点を抱えていると指摘されている。
一つは、実体においてシルシュ化とは何を指すのか。二つ目は、自動性の概略において、外挿の問題点と内部問題が異なるのではないか。三つ目は、シルシュ化に対するコーパスの間隙を、どのように説明するのか、である。これらの矛盾を内包していても、ヴェーゲンハイデンの仕事は素晴らしいものである。しかし、現在の我々は、これらの矛盾に対して明快な回答をしなければならない。
まず、実体におけるシルシュ化である。シルシュ化は意味論場操作において便利である反面、その扱い方が非常に難しい。もし間違えた用法を取ると、その意味論場を破壊するという、全く持って矛盾した結果を生み出す。その矛盾を取り除く為に、ここに実体における高度抽象を持ち出す。それは、五次ベクトルのη変換における写像の結果と定義することが出来る。これにより、一つ目の矛盾点は取り除くことが出来る。
次に、自動性の概略の問題である。外挿された問題点と内部問題の差異は、次のように説明可能である。外挿問題における一次変換であるロゼッタ変換は、その結果においてシルシュ化している。すなわち、未知の領域である言語野一般意味論場において、負の領域を示すのである。これが、外挿問題と内部問題の抱える矛盾を解決した、明瞭な回答である。
最後に、シルシュ化に対するコーパスの間隙の問題である。この矛盾を解決するのは容易である。すなわち、自動化されたη変換における動的場の問題として、コーパスの間隙を捉えればいいだけの話である。この矛盾点にはヴェーゲンハイデンも早くから気づいていたらしく、動的場の問題として解決するようなことを示唆する記述を、多々残している。
これをもって、高度抽象化概念の分析が終了した。すなわちシルシュ化に対するη変換、あるいはロゼッタ変換の問題として、高度抽象概念は分析されるのである。それは図らずも迂遠な問題となるが、意味論場にとっては非常に重要な課題となるので、見過ごすことは不可能である。また、一般化された言語野においての意味論は、高次のロゼッタ変換を含むので、それはまたの機会に論述したい。
まず、概念と呼ばれる一般的思考能力の発露については、論を重ねる必要がある。「概念」という一般的な命題に対して、我々人類が採択すべき回答は、実のところ一つしかない。それは大勢の学者の指摘を受けるまでも無く、「推移する心情」と名づけられた概念である。これは、高度抽象化概念の展開にとって、大きな役割を果たす。なぜならば、実世界の存在と無存在についての簡略な実証と反証が、それに含まれているからである。そして、意味論場の同時性と単一性という問題をも包括する、一種の記号として扱われるからである。我々は、その点について詳しく作業を進めなければならないだろう。
まず、概念の定義を行う。実用心理学者ハーネスの言によれば、概念とは、「ある瞬間におけるノーム化された現実の、η変換の結果である。よって、我々人類は共通の意味論場を持つことが可能であり、それを通して普遍的なコミュニケーションをとっている」、と言われている。これには多くの学者が賛同しており、我々も同意せざるを得ない。なぜならば、これに対する反証がまだ見つかっていないからである。いわゆるひとつの転回点を待つことでも無く、この論は今後百年間は学会で通用する理論となりそうだ。
次に、高度抽象化概念の展開についてである。この展開作業には研究者の間での通称を用いる。いわゆる、ローゼル=ハース展開 (R=H展開) である。実用心理学者であるハーネスは、シルシュ化されたノームにおいて、このR=H展開を用いて、実に簡潔に展開を実行している。
その詳細とは、まず概念や意味を五次のベクトル場と仮定する。そしてしかる後にそのベクトルに対してη変換を行う。ここで五次のベクトルは大幅に削減され、四次のベクトルとなる。すると、ある一つの転回点が見つかる。連続回に渡るη変換を施せば、ベクトルは直ちに一次のベクトルとなり、その位数を研究するだけで高度抽象化概念が解決できるのではないか、と。その実例が示された記念碑的な論文が発表されたのは1977年であるので、もうずいぶん昔のことである。多くの研究者がこの理論を用いて研究し、それはことごとく成功を収めてきた。すなわち、この理論はおおかた正しいのである。
よって、今から述べるのはこの位数に関するものである。位数はゼロと自然数から成り、実在においては、それ以外の値はとらないことが証明されている。また、位数がゼロ、1、無限大の場合は、非常に特異的な現象を起こすものとして知られている。よって、これから位数の四つの場合について述べたいと思う。位数がゼロ、1、2以上、無限大の四つである。
まず、位数がゼロの場合である。このとき、意味論場は崩壊し、言語野は混乱の窮地に陥る。意味論的数学一般について言えば、最も現出しやすい特異点である。この現象が起こるとき、ある個人の内部では意味論場は崩壊している。それは簡略にα-β崩壊と名づけられている。このα-β崩壊が進行すると、個人によっては思考能力の剥奪、人格の崩壊、ならびに脳内部の廃化などの現象が起こりうる。このような現象が起これば、個人は即刻廃人となるであろう。その状態から救出する方法は、今のところ発見されていないのであるから。
次に、位数が1の場合である。これは位数ゼロの場合と違って悲劇的な点は少ないが、それでもやはり危険なことには違いない。なぜならば、前述したハーネスはR=H変換の過程観測という実験で、実に五十六人の被験者を集めて実用真理実験を行ったからである。その実験の結果は誠に惨憺たるもので、被験者五十六人のうち、実に四十三人が一時的記憶喪失に陥った。ハーネスはこの実験により、ウォルシュ心理学賞を受賞した。人間に対するR=H変換の変位のうち、極めて危険なものは位数がゼロと1の場合のみ、という結論である。また、この崩壊はβ-γ崩壊と命名されている。
続いて、位数が2以上の場合である。これはその偶奇性によって、個人心理に与える影響が異なってくる。すなわち、パリティの問題である。活発な心理活動が見られるのは、もっぱら位数が奇数となるときである。逆に偶数の場合は、その個人の固有心理状態値は常に負の値を示したままで、R=H変換の過程も見受けることは出来ない。これらの偶奇性の観点から言うと、生存とは確実のどちらかの部類に入るものであり、実世界におけるコーパス、もしくは意味論空間、意味論場における極の偏在という問題が解決されるのである。
最後に、位数が無限大の場合である。この位数をもつ意味論場については、我々研究者の間でも論議が重ねられているところである。なぜなら、これまでの実験において、無限大の位数をもつ被験者は未だに見つかっていないからである。とある神学者は、R=H変換における無限大の位数をもつ存在こそ神である、と擬似科学的な発言をして非難された。しかし我々意味論場研究者にとって、高度抽象概念の捕獲に関する、位数無限大の存在は確固たるものとなっている。
このように、高度抽象概念は四つの場合に分類されることが判明した。よって、これから次なる課題を探すことも容易である。すなわち、ノーム化された一般概念の抽象度の測定、という実に実用的な問題である。これについては詳細に説明された論文があるので、是非そちらの方を参考にしてほしい。
前章で高度抽象概念の位数による分類を行ったが、次のようにも考えられる。ゼロと自然数を含む位数が抽象概念の一般性であれば、負の値をもつ位数こそ、特殊化されたノームのR=H変換ではなかろうか、と。この問題に気づいた読者は鋭い。これこそ、今研究の最前線に位置する、高度抽象概念の特殊性の問題である。これは、位数が無限大の場合と同様、負の値のものがあるか否かを決定する、一つの意味論場を形成しているのである。また、機械計算機哲学における変則オートマトンの位数の発現として、位数が負数になるとの突飛な報告もある。もしも負の位数をもつ独立計算機械や個人が出現したならば、我々は実用心理学ならびに意味空間場の実体を根本から考え直さなくてはならない。
我々の科学は行き着くところまで行っているが、それでも未知の領域が多分に残されている。この負の位数という問題は、後世が考えるべき問題であろう。ここで一つ予言をするが、負の位数を持つ存在こそが意味論場の支配者ではなかろうか。すなわち、ノーム化された五次ベクトルの背後の存在である。よって、我々は未知の発見をするべく、日々努力を重ねるものであろう。
以上の議論によって、高度抽象化概念の一般的な危機は去った、と断言できる。我々は実用心理学者の手を煩わすことなく、個々の意味論場について思索を巡らせることが可能となったのである。これはまさに、革新的な発見である。それに至るまでは、前人の研究、すなわちノーム化された意味論場の収束などの大きな発見があったからこそである。ここに我々は、意味論場の一般的な収束を用いた概念の統合として、実用心理数学者である E. R. ベッセラントの言を借りる所存である。それはすなわち、「個々の存在において、一般的な意味論場を用いた解析は実用心理数学の観点から見ても可能と証明されており、これは人類の栄光と繁栄を約束するものである」、と。